天地自然の営みのままに、それと一体になる

Facebook矢加部 幸彦さん投稿記事

大自然、生命の不思議に触れ、何とも有り難きかな と沸き出でる心が、誠の心。。その誠の心によって、我が国は自然ながらに生まれ、その誠の心こそ、理屈を超えた、最高の道徳なり。。それが、日の本の道であり、神の道。


Facebook新田 修功さん投稿記事  芭蕉とマチス……👨‍🎨🤗💕🌸🌈

賢者の一言 松尾芭蕉

「見る処、花にあらずといふ事なし、思ふ所、月にあらずといふ事なし」

賢者の一言 アンリ・マティス

「私はずっとデッサンを続けて来ました。

まず何よりも内面的感情を表現し、魂の状態を描き出す手段として描き続けてきたのです」

「マティス 色彩の交響楽」 創元社 より

………………………………✨✨✨

日本とフランスの優れたアーティストたちの達した境地は、表現こそ違いますが、同じものだと思います😊

2人とも自分の掴んだ「ものの見方」「心の在りよう」を表現せずにはいられませんでした。

優れたアーティストとは、すべてのものに「愛」を観ることができる人であり、それを表現できる人だと思います。

私は子どもの時から絵を描くのが大好きで、高校時代に、自分のことを「さすらいのアーティスト」と呼ぶほどにアーティストに憧れていました🤣

でも、ぼんやりとですが、本物のアーティストになるには人生経験が必要だということも分かっていました。

年齢を重ねるたびに、少しずつ草木染めのように、たくさんの愛がゆっくりと魂に染み込んで来るのを感じるようになりました。

そして、還暦を過ぎた頃から、文章や物語で、なにか「青空のような清々しいもの」を表現することに挑戦しはじめました✍️👨‍🎨💕

ふと開いた心のどこかに、やさしくそよぐ風のような、雨上がりの空に偶然見つけた虹のような、そんな投稿が出来ればいいなぁ、なんて考えている今日この頃です😊✨🌈

今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕


http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda28.html 【短歌の「伝統」について、その5】より

>松尾芭蕉の紀行文「笈の小文」に、次の有名な一節がある。

西行の和哥における、宗祇の連哥における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道くわんだうする物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化ざうくわにしたがひて四時しいじを友とす。見る処ところ花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像かたち花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出いで、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。(『新編日本古典文学全集 松尾芭蕉集2』小学館刊)

>「其の貫道する物は一なり。」という言葉は、「それぞれの携わった道は別々だが、その人々の芸道の根底を貫いているのものは同一である」(全集訳)という意味である。芭蕉はこの言葉によって、すぐれた芸術家の系譜に、自分も俳諧により連なるという自負心を密かに内在させている。

>私はこの言葉に初めて触れたときに、「伝統」の本質を単純にこの言葉に仮託し、深く胸を打たれたことがある。しかし、改めてこの一節を読み直してみると、「しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。」という言葉から後の内容の方が寧ろ気になる。

>この言葉は「ところで、俳諧というものは、天地自然に則って、四季の移り変わりを友とするものである。」(全集訳)という意味であり、以下、見るものすべてが花であり、思うことすべてが月であるような生き方を実践し、「野蛮人や、鳥獣のような境涯から抜け出し、天地自然に従順になり、天地自然の根本のところに立ちかえ」(全集訳)ることを求めている。

>芭蕉の言うように俳諧が「天地自然に則って、四季の移り変わりを友とするものである」ならば、それは、和歌の精神にも合致する。また、冷泉貴実子さんが発言した、「季節感を共有するのが日本文化」であるという言葉にもリンクしよう。(本稿第27回参照)

>俳諧の「季語」はキーワードという言葉に単純化して語ることはできない。また、和歌の季節の言葉も同様であるだろう。それは、過去からの共同性と歴史性を内在化する精神性を象徴化した語彙である。

>芭蕉の言葉が図らずも語っているのは、俳諧の根本精神に、和歌の自然に対する詩性ポエジーが息づいていることではないだろうか。もちろん、それは、和歌と完全に一致するものではない。詩型の差異が自ずからもたらす、構造的な差異を勘案しなければならないものである。

>しかし、その差異を勘案したとしてもそこに貫流する精神には、自然に対する感応を「詩」に昇華する創作行為において、ある共通性が見出せるのではないか。また、そうであるならば、この側面から和歌と俳諧の「伝統」という問題を立てたとき、両者の「伝統」に関して、詩型の差異という事のみを殊更に特化することは良策ではない。いや、むしろ不毛であると言ってもいいだろう。

>短歌の「伝統」の問題は、和歌と短歌だけの問題として特化すべきではなく、和歌から派生した俳諧の問題としても同時に視野に入れておく必要があるのではないか。芭蕉という存在は、特にそのような思いを強く促す俳人である。

《補足》

>上に引用した一節に関しては、『荘子』の影響が指摘されている。特に、「其の貫道する物は一なり」は、『荘子』斉物論の思想、林註に基づくものとされる。また、この一節にはさらに、宋学の理一分殊の論理も働いていると考えられている。これは、「宋学にいう形而上的絶対者である太極は、それが何かのはたらきとして特殊な形をとるときはじめて認識できるのであり、逆にいえばすべての事象は一つの太極に帰一するとの思想である。」(『総合芭蕉事典』項目執筆、野々村勝英 雄山閣刊)。

>この思考法は当時よく知られていたものであり、芭蕉は芸術家のあるべき姿として、このような「造化随順」を説いたとされる。「(前略)すべての芸術を貫く精神を宇宙の創造力に帰一するところに認め、この創造力と一体となって四季の運行変化のごとく停滞することなく自己脱皮を遂げようというのが、造化随順の考えである」(同上)。

>以上のことを踏まえると、芭蕉の言葉は広義の芸術理念と根本精神を語ったことになるが、その内奥に和歌から俳諧へと継承された「伝統」をも内包していると考えたい。


https://blog.goo.ne.jp/mayanmilk3/e/66fc05b6d8c80381c096597034feaec1 【笈の小文】より

原文

 百骸九竅(ひやくがいきゆうきよう)の中(うち)に物有(ものあり)。仮に名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠に薄物(うすもの)の風に破れやすからん事をいふにやあらむ。彼、狂句(きようく)を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦(うみ)て放擲(ほうてき)せん事を思ひ、ある時はすゝむで人に勝たむ事を誇り、是非胸中にたゝかうて、是が為に身安からず。しばらく身を立(たて)む事を願へども、これが為に障(さ)へられ、暫(しばら)く学(まなん)で愚(ぐ)を暁(さとら)ん事を思へども、是が為に破られ、遂(つい)に無能無芸にして、只(ただ)此(この)一筋に繋(つなが)る。

 西行の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其(その)貫道する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処、花にあらずといふ事なし。思ふ所、月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は、夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は、鳥獣に類(るい)す。夷狄(いてき)を出(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

現代語訳

 多くの骨と九つの穴のあるもの、つまり私の身体の中に、(曰く言い難い)ある「物」がある。それを仮に「風羅坊(ふうらぼう)」、即ち「風に吹かれる薄衣(うすぎぬ)をまとった坊主」という。まことに、薄い衣が風に吹かれてすぐに破れてしまう事を言うのだろうか。その男「風羅坊」は、長い間俳諧を好んでいた。そして生涯それと取り組むこととになってしまった。ある時はもう嫌になって投げ出そうと思い、ある時は(俳諧の道で)自ら人に勝ち誇ろうとし、どうしたものか思い悩み、落ち着いて気の休まることがなかった。ある時は(仕官して)立身出世したいと思うこともあったが、この俳諧好きのために妨げられ、また少しは修行(学問?)をして自分の愚かさを悟ろうとも思ったが、この俳諧のためにものにならなかった。そしてついに無能無芸のまま、ただ俳諧の道を一筋に歩み、今に至ることとはなった。

 西行の歌の道において、宗祇の連歌の道において、雪舟の絵の道において、利休の茶の道において、それぞれの芸道を貫いているものは一つだけである。(そしてそれはその男の俳諧の道をも貫いている)。しかも、(歌・連歌・絵・茶も含めて)俳諧という風雅の道は、天地自然の営みのままに、四季の移ろいを友とすることである。(見る目さえあるならば)見るものすべてが花はでないことがなく、思う所すべてが月ではないことがない。目に映るものが花でないとしたら、それは未開の人と同じであり、心に花(本来なら「月」のつもりか?)を思わないなら、それは鳥や獣と同類である。(風雅の道とは、)未開の人や鳥獣の境地から抜け出し、天地自然の営みのままに、それと一体になるということなのだ。

解説

 『笈の小文(おいのこぶみ)』は、松尾芭蕉(まつおばしよう)(1644~1694)の紀行文です。四四歳の芭蕉は、貞享四年(1687)十月に江戸を立ち、鳴海(なるみ)・熱田を経て渥美半島の伊良湖崎(いらござき)へ、そして来た道を戻り、名古屋を経て伊賀上野へ帰郷して年を越し、翌年にはさらに伊勢神宮、伊賀上野、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大坂、須磨、明石を経て、四月に京都に着くまでの六カ月間、複雑なルートの旅をしました。その後京都から信濃路を経て江戸へ戻る『更級紀行(さらしなきこう)』へと続きます。ただし『奥の細道』のように芭蕉が自分で書いた紀行文ではなく、芭蕉の遺稿を預かっていた門人川井乙州(おとくに)が、芭蕉の没後に編集したものです。

 まず芭蕉は自分自身を、風に吹かれるとすぐに破れてしまう「風羅坊(ふうらぼう)」であると、自嘲的に自己紹介をしています。「羅(ら)」とはとは、透けて見える程薄く目の粗い高級絹織物のことなのですが、芭蕉の葉からの連想でしょう。芭蕉という植物はバナナの木によく似ていて、その大きな葉は、強風に吹かれるとすぐ破れてしまいます。そして俳諧を「狂句」と、これまた自嘲的に表現しています。しかもその風羅坊は狂句を生涯の仕事にしてしまったと、これまた突き放した様に自己紹介をしています。

 次に芭蕉は「狂句」一筋に生きるまでの、紆余曲折(うよきよくせつ)を語ります。芭蕉といえども、若い頃には普通に野心もあったことでしょう。伊勢国津藩の大名である藤堂家の有力家臣に仕官しています。また京都にいた貞門派の俳人で、歌人でもある北村季吟(きぎん)に入門し、本格的に和歌や俳諧を学びました。しかし年を重ねる程に選択肢を削ぎ落とし、四十歳くらいになって、『論語』の「四十にして惑わず」という言葉の様に、ただ一筋の道を確信したわけです。ただし当時の四十歳は、現在の感覚ならば、五十~六十歳くらいでしょう。

 次いでいよいよ、風雅の道である芸術論が語られます。彼は和歌の西行、連歌の宗祇、水墨画の雪舟、佗茶の利休という様に、異なる芸道の、敬慕する先達をあげています。特に西行については、その五百年忌であることを意図して奥羽に旅行したくらいですから、憧れの存在でした。

 『幻住庵記(げんじゆうあんき)』(1690年)という芭蕉の俳文の初稿には、「凡西行・宗祇の風雅にをける、雪舟の絵に置(おけ)る、利休が茶に置る、賢愚ひとしからざれども、其貫道するものは一ならむと・・・・」と記されていて、『笈の小文』の記述とそっくりです。「賢」は四人の先達のこと、「愚」は芭蕉自身であることは文脈から明らかですから、現代語訳では、「そしてそれはその男の俳諧の道をも貫いている」と補いました。

 そして四人の先達と芭蕉自身に共通しているものは、自然の移ろいの中で、四季の風物を友として暮らすことだと言います。さらに四季の風物の代表として花と月を上げていますが、芭蕉のいう「花」はflowerではなく、「月」もmoonその物ではありません。また花鳥風月を愛でつつ生きることを説いているわけでもありません。自然の流れの中で自然に還るとき、見る物全てが美しい花に、清らかな月になるというのです。山の庵で世に背(そむ)いて生きるならば、常に目に美しい花や月その物を愛でることができます。しかし芭蕉は隠者ではありませんでした。世俗の中で旅をしながら生活をしていますが、その様な中でも自然を友として生きる時、花ではないものに花を見出し、月ではないものに月を見出すことを説いています。もともと俳諧には、面白さを狙った言葉の遊戯的な要素がありました。そのような言葉遊び的俳諧を、高尚な文芸に高めたのが芭蕉の俳諧であり、「正風俳諧」「蕉風俳諧」と呼ばれる所以なのです。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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