Facebook清水 友邦さん投稿記事 神遊び
古代の人々は歌い踊る、神事のすべてを「遊び」といいました。
古代の人々は、神が顕現する場所にしめ縄をはり供え物をして感謝の祈りを捧げました。
神楽も神様を迎える場所に、神の依代である神籬(ひもろぎ)を立てて、そこで舞います。
以前に神楽を舞っているお年寄りから、神楽は「神遊びだ」と、聞いたことがあります。
沖縄で、山の幸や畑の豊作を祈願する、「シヌグ遊び」「海神祭(ウンジャミ)」などの行事の神踊りは、「遊びピラモト神」や「縄遊び」と呼びます。昔は単に、「あしび(遊び)」といいました。
沖縄の「あしび(遊び)」とは、祭りの場の呪術的な歌舞のことを、指しています。
沖縄本島東方海上の久高島では、12年に一度、島の三十歳以上の既婚女性が巫女になる、イザイホーとよぶ儀礼を行なっていました。
女性たちは円陣を組んで、両手を前に合わせたりおろしたりしながら、神さまに捧げる神歌を歌いながら、旋回の踊りを繰り返して、巫女になりました。
巫女の巫という字は、天と地をつなぐ中心のまわりで、踊る人を表しています。
神歌を歌いながら円陣を踊るうちに、巫女はトランス状態に入り、神になるのです。
古い巫女舞の所作は旋回運動をします。
巫女が旋回しながらシャーマン意識状態に入って、先祖の大地母神や大祖母の霊であるタマとむすんだことが、芸能の始まりだったのです。
遊びは、魂を失って病的な状態にある者に、元気を吹き込んで魂を再生させることにあります。
魂を慰め霊を弔うことが鎮魂と解釈されていますが、本来の鎮魂は「ツミ」「ケガレ(穢れ)」を払い魂を再生させることでした。
それが古代の鎮魂法だったのです。
この世は神が作ったマーヤー(幻影)であり、そこに神自身が降り立ち、遊ぶことをインド哲学は「リーラ」と呼びます。
神は、この「マーヤー」で遊ぶために、記憶をたち自分で自分が神であることを忘れました。
その記憶喪失の神が人間なのです。
困難なことがあるとつい深刻になってしまいますが、この世のすべてはリーラ(神の遊び)なのです。
歌い踊る、神事のすべてを「遊び」といいました。
鎮魂法や魂振りなどの神事はタマとむすんで全体と一つになる古代の呪術行為のことでした。
東大の臨床医矢作医師は「人は死なない」と主張します。空海も「人は死なない」と言います。
日本人は古来「あま(あの世)」と「うつしよ(この世)」を想定し 二つの世界をつなぐ「ま」を大事にしてきました。
「ま」をつり合わせる「まつり」は神事として祀られてきました。
祀り・祭り・奉り・政りとは、感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)であると言われます。
祭のお囃子、太鼓や鈴の音。神輿や踊りや香り。祭に預かるものは いつしか変性意識になり潜在意識とコンタクトする=神からの啓示=ご神託を受けとることになります。
「ま」つりを行えば「うつしよ」に居ながらにして「天」と交信できるともいえます。
「命」は「人が一を叩く」と私が解釈したことに対し、本来命という字は「令と口に分けられます。この口は祭器を表し、礼服をつけて 跪いて神の啓示を待つもの。ゆえに神の啓示を意味します。」との指摘を受けました。
然し「神の啓示を受け取れるもの」は「ひとつを体験できるもの」だと思うのですが如何でしょう?
「あま」と「うつしよ」の関係は キリスト教の直線的な時間感覚に類似しています。
あの世の中にこの世が内包され(これが五次元、形成磁場の概念なのでしょうか?)
永遠の中に今が内包されているともいえます。
永遠の象徴である「円」は 「直線」の集合であり、直線は 位置を示すことのみができる「点=0」の集合です。永遠はゼロの集合でありそれは即ちゼロであることになります。
円は永遠の今を表していることなのでしょうか?
私はキリスト教の時間観は直線的と錯覚していたのでしょうか?
ヨベルの年、最後の審判の概念が時を直線に見せていましたが 円=ゼロであり無限であれば時は循環することになります。
0コメント