https://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/ten/kangiten.html 【仏に関する基礎知識:歓喜天(かんぎてん)】より
胎蔵曼荼羅 毘那夜迦(勧喜天)像歓喜天は梵名(ぼんめい)をナンデイケーシユヴァラといい、歓喜自在天・難提自在天・大聖歓喜天と訳されています。一般には、聖天(しょうてん)と呼ばれる略名で呼ばれることが多く、諸願をかなえる力も強いけれど、反面、約束を守らなかったりすると、大変恐ろしいといわれている天部の尊です。
歓喜天はもともとインド古代神話におけるガナパチ神(しん)であるといわれ、ガナパチはヒンドゥ教の三神の一つであるシヴァ神(しん)とその妃のパールヴァティの間に生まれた子で、父シヴァ神に従う大自在天軍を統帥する大将でもあったといわれています。
歓喜天の信仰は、災いから避けのがれることを祈ることがインドでは盛んで、物事を始める前に事の円満成就を歓喜天に祈りました。仏教に歓喜天がとり入れられると、仏法(ぶっぽう)を擁護し、衆生に利益を施して諸事の願いを成就させる善神として信仰されるようになりました。特に、密教において歓喜天信仰がさかんに重視されるようになり、造像もさかんとなりました。
歓喜天の姿は、頭部が象の形であらわされ、いわゆる象頭(ぞうとう)人身の姿をしています。その姿には大きく分けて単身像のものと、双身歓喜天として二尊(にそん)が抱きあう姿のものがあります。
双身勧喜天像単身像には、手の数が二臂、四臂、六臂、八臂、十二臂の五種類があります。代表的なものとしては、胎蔵曼荼羅最外院の北方に配されている歓喜天(毘那夜迦)で、左手に大根を持ち、右手に斧の様な法具を持って座っています。
次に双身像ですが、種々の異形像がみられますが、その代表的な姿を紹介しますと、象頭人身の二天が互いに相手の右肩に面を載せて相抱き正立する姿を示すもので、女天は頭に天華冠(てんかかん)を付けて男天(だんてん)との区別がなされています。この女天は観音の化身と説かれるのが一般的で、毘那夜迦(びなやか)の王である歓喜王が衆生に害を及ぼそうとした時、観音菩薩が大慈悲心をおこして毘那夜迦(びなやか)婦女の身となり、歓喜王の欲望をおこさせ、毘那夜迦婦女の身体に触れるためには、未来の世が尽きるまで仏法を守護すること、修行者達を守護すること、今後衆生に対して悪事を働かないこと等の約束を取り付けたうえで抱きあったとの物語が伝えられています。
http://www.matsuchiyama.jp/sinkou.html 【聖天様の信仰】より
聖天様鎮座のいわれ
当山は推古天皇の御世、地中から忽然湧き出た霊山で、その時、金龍が天より降って山を廻り守護したと伝えられています。
それより6年後の夏、この地方が大旱魃に見舞われたとき、十一面観世音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)の姿となってこの山に降臨されて、 苦しむ民を救いました。これが聖天様が当山に鎮座された起源であるといわれています。
聖天様の信仰
当山の聖天さまの霊験あらたかなことは、昔より広く知られております。
十一面観音菩薩を本地仏とする聖天さま(大聖歓喜天)は、仏法を守護し、 仏道を行ずる人々を守護する天部の神様でありますが、私たち衆生の迷いを救い、 願いをかなえさせてくださる大きなお力を持っておられます。
浴油祈祷
浴油祈祷は、聖天さまを供養する最高の祈祷法で、当山では毎朝欠かさず修されております。 祈祷を申し込まれますと、行者が七日間厳修いたします。
>浴油祈祷とは
大根と巾着
境内各所に印されてあります巾着や大根は、御信心をされて祈願することによって得られるその御利益を端的に表したものです。
大根は身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表しています。
巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰のご利益の大きいことを示されたものです。
境内のあちこちに大根と巾着のシンボルを見ることができます。
https://www.yoritomo-japan.com/menuma-shoden.html 【妻沼聖天山~斎藤実盛ゆかりの歓喜院~】より
妻沼聖天山(めぬましょうでんさん)は、1179年(治承3年)に斎藤実盛が守り本尊の大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立したことに始まる寺院。
1197年(建久8年)、実盛の次男実長(阿請房良応)が別当寺としての歓喜院(かんぎいん)長楽寺を開創。
『聖天山縁起』によると、実長は1192年(建久3年)に源頼朝が聖天宮に参詣した折に、歓喜院の建立のため関東八か国の勧進を許されたのだという。
その後、忍城主の成田氏や徳川家康の庇護を受けたが、1670年(寛文10年)に焼失。
現在の本殿「歓喜院聖天堂」は1760年(宝暦10年)の再建。
妻沼聖天山歓喜院
歓喜院聖天堂
2003年(平成15年)から2011年(平成23年)にかけて修復工事が行われ、豪華絢爛な姿が蘇った聖天堂は、2012年(平成24年)、国宝に指定されている。
斎藤実盛像
斎藤実盛像
斎藤実盛(さいとうさねもり)は、武蔵国長井庄を本拠とした武将。
1155年(久寿2年)、仕えていた源義賢が源義朝の子義平に討たれた際、義賢の遺児駒王丸(のちの木曽義仲)を預かり、信濃国木曽の中原兼遠に託したことで知られている。
義賢が滅んだ後は義朝に仕えたが、1159年(平治元年)の平治の乱で敗北。
長井庄は平清盛の次男宗盛の領地となるが、宗盛の家人となった実盛は別当として長井庄の管理を任せられた。
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、平維盛率いる頼朝追討軍が派遣されるが、追討軍は水鳥の羽音を夜襲と勘違いして敗走(富士川の戦い)。
これは実盛が坂東武者の勇猛さを説いていたため、その恐怖心から追討軍の士気が上がらなかったためという伝説が残されている。
ただ、実盛が追討軍に加わっていたという史実はないらしい。
1183年(寿永2年)、かつて助けた木曽義仲を追討するため平維盛に従って北陸へ出陣するが、篠原の戦いで義仲軍の有力武将・手塚光盛に討たれた。
覚悟を決めていた実盛は、老齢の武士とあなどられないよう白髪を墨で黒く染めて出陣したのだという。
そのため戦後の首実検でも実盛とはわからなかったが、樋口兼光から実盛が髪を染めているという話を聞いた義仲が、付近の池で首を洗わせると墨がおちて白髪に変わったのだという。
実盛だと気づいた義仲は、命の恩人の最期に泣き崩れたのだと伝えられている。
聖天山の実盛像は、手鏡をもって髪を染めている姿。
木曽町の歴史資料館「義仲館」には、斎藤実盛の計らいで木曽で育った義仲と、中原兼遠の娘ともいわれる巴御前の像が建てられている。
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