https://artworks-inter.net/ebook/?p=263 【長崎の原風景(2) 丹治比一族】より
30代の頃長崎のミニコミ誌に連載していた事がある。今読み返せは、考証も雑で稚拙な文章である。ただ30代前半から、古代史にハマっていたのだ。
http://freephoto.artworks-inter.net/book/nonf/densetu/den3/index.html 【山の民 「ナガ族たちの岬」。 それが長崎だ。】より
長崎という地名の由来の2つある。一つは長崎氏の姓から来たという説。もう一つは長い岬から長崎になったという説である。人物説は、長崎氏が地元の人間である可能性が高く、名字の起こりも岬説をとっている。その岬説だが、岬というのは長く海に突き出た部分を言うのだから長いという形容詞は必要ない。もっともらしい説だが、長崎半島のイメージがダブっているだけなのだ。それでは「ながさき」という呼び名はどこから来たのであろうか。
野母崎にこんな話が残っている。7世紀半ば紀州熊野の漁師夫婦が野母に漂流した。命が助かったのは熊野さんのおかげだと、山の上に祠をたてて住み着いたが夫の方は熊野へ帰ってしまった。また、野母崎の地名は「野の母が開いた」というので野母崎となった。こんな話である。野母崎には浦祭りというのがあり「ちゅうろう」という唄がある。この中に「契ぞうすき かつらぎの神」という歌詞がある。かつらぎ(葛城)というのは 奈良県盆地の古地名である。だが、かつらぎの神というと、役小角(えんのおづの)の事を指す。役小角とは修験道の祖、つまり山伏と呼ばれる山岳修行者の事である。空海と並ぶ超能力者だといわれている。熊野というのは古代大和の本山であり霊や神のこもる場所だ。
役小角は7世紀後半の実在の人物ではあるが、不思議な伝説が多い。「日本霊異記」の中に「孔雀の呪法を修習し奇異の験術を得たり」と書いている。カラス天狗を子分としたとも言われている。野母崎の樺島に行者山という山がある。役小角にゆかりの深い修験者が、野母に流れ着いたと解釈していいだろう。更に野母の伝説と呼応する箇所が役小角にもある。役小角は雄略天皇に嫌われて、伊豆の島に流されてしまう。続日本紀では土佐に流されたが、後に復権して葛城に戻ったとある。この話の呼応性は偶然ではない。
つまり大和朝廷(熊野)から追放された、役小角ゆかりの修験者の一団が長崎半島の先端にやって来た。この一族は大陸からの渡来人集団だ。九州という大和朝廷の権力の及びにくい場所を探したのか、仲間がいたのか、もしくは大陸へ戻るための中継地点だったのか、いずれかの理由で住み着いた。野母という地名は熊野にあった地名を用いたと思われる。やがて時が過ぎ朝廷から復権をゆるされ、主要人物は、熊野へ戻り、半数以上はそのまま野母崎に住み着いたと解釈される。野母一体は残った修験者たちの集団が切り開いていった土地なのだ。
ナガ族の岬
役小角一族に関しては、こういう記述が「日本書紀」に記されている。雄略4年(460)天皇が葛城山に狩猟に出かけた際、長人(たけたかきひと)が現れ、天皇と同じような格好をし、共に狩りをしたと記述がある。他の書には天皇と同じ真似をするので天皇は怒り、征伐しようとするが、自分たちは一言主神であると述べた、とある。
長人(たけたかきひと)。これが役小角を代表とした道教系の一言主神を祭る一族なのだ。文字通り背の高い一族で、大和朝廷に反抗して破れた「長すね彦」と同じナガ族であり、ペルシャ系の渡来人集団だ。またナガ族は修験者、すなわち山伏と呼ばれ呪禁道をきわめる幻術使いでもある。
長崎氏の前の時代に長崎で繁栄していた丹治(たんじ)一族がいた。丹とは硫黄と水銀との化合したものをいうが、道教で不老不死の薬、長生の薬のことを言う。丹を治めるという名字は、ナガ族に由来するといってもいいだろう。また、金比羅山は丹を産出したといい、この山に常駐した可能性があり、この山の麓にある岬(現長崎)をナガ族の岬と呼んでいたのだろう。これがながさきの語源となったのだ。
現在にナガ族の痕跡が残っている箇所、それは神社である。一言主神と 事代主命は同じ呪言神であり、関係が密である。この神様を祭っている神社の一覧を地図に表記してみた。神崎神社 烏岩神社 小浦町の事代主神社 賑町の事代主神社 福田本町の事代主神社 飽の浦の恵美須神社 などである。だが残念ながら古代のナガ族の痕跡はない。
しかし、外来神信仰や、摩訶不思議な伝説。烏岩という奇岩を信仰の対象にしたり、深堀の城山に巨石文化の名残があるなど、、長人(たけたかきひと)族の文化は、山国、長崎の中に状況証拠として、いたる所に発見することが出来る。時代と共に道教は、密教に吸収され山岳文化は大きな花を咲かせていく。山の民は、海人族といつしか交わり、平地の民となった。現在、長崎人が山の斜面に家を建て続け、住みなしていくのは、ナガ族のDNAが望んでいるのかもしれない。
丹治(たんじ)一族
その時に調べたのだが、
「長崎氏の前の時代に長崎で繁栄していた丹治(たんじ)一族がいた(引用 (長崎文献社))」・・・らしい。
ziten[1]
丹とは硫黄と水銀との化合したものをいうが、道教で不老不死の薬、長生の薬のことを言う。
丹治氏というのは、書物にも載っていて、宣化天皇の曾孫、多治比彦王の後裔で、河内国丹比郡を本拠とするとある。
さらに武蔵国では丹治比氏の後裔を名乗る武士集団丹党が勢力を持つようになり、武蔵七党の一つとして力を振るった、とある。
長崎の丹治氏と武蔵国の丹治比氏にどれほどの繋がりがあるかわからないが、珍しい名前である。
一族か関係者か家来なのかも知れない。全く無関係かも知れない。
また、丹治氏の丹とは、辰砂(しんしゃ)の事も指し、硫化水銀からなる赤色の鉱物をいう。
別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱などがある。
日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。 丹は薬のイメージである。
丹土とは一般に「赤土」のことで、丹と朱は同義語で、赤色を指す。
神社の朱塗りの柱などに用いられる水銀朱は、硫黄と水銀の化合した赤土(辰砂)で、朱は、この辰砂を粉砕して、水との比重を利用して採集したものである。
赤色には、この他にも赤鉄鉱を粉砕した「ベンガラ」があり、水銀朱はきわめて貴重なものであった為、普通はベンガラが使用された。 丹土 – niftyより引用しました。
homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm
「丹」という字にはさまざまな意味がある。
仙人になれる霊薬(仙丹)の元になるという事や、神社の朱塗りの柱などに用いられる水銀朱の事から、宗教がらみの集団のような気がする。
いずれにしろ、長崎地方の在地領主で、遅くとも鎌倉初期には長崎浦の開発領主となって同地に住みついたところから、地名によって長崎氏を称したものと考えられる。とはいえ、長崎氏は丹治比氏の一族ともいわれ、永埼とも書かれ、鎌倉・南北朝期以降に長崎に改めたという。
武家家伝_長崎氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hiz_naga.html
「長崎氏は丹治比氏の一族」とある。
「江戸時代の諸書は、長崎小太郎なる人物が鎌倉から室町時代にかけてのある時期に他所から長崎に下向、土着した」 と言うのが定説だったが、 「最近発見された「福田文書」で、同人が鎌倉初期の嘉禎三年(1237)ごろの肥前出身の鎌倉御家人と判明。
つまり、これにより長崎氏は長崎が地元の丹治比の一族だったのが判明する。
丹治比氏の名前は平安時代に出てくる。「平家の時代」である。
「丹治比」は「多治比古王」と記述が有り、その子「嶋」は697年(73歳)に臣下最高位の左大臣となるなど大臣職を長く務め、当時政界の「最長老」であった。
つまり、皇族である。
しかし、政権争いで失脚していき、その子孫達は地域に拡散していった。
その一族の末裔が、長崎に住み着いたと言える。
ちなみに「丹治比」という姓は、古代では蝮(まむし)の事を指すとある。
さてこの丹治比一族。
何をして生計を立てていたのであろうか。それも不明である。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=266 【長崎の原風景(3) 野母崎の葛城の神と土蜘蛛】
丹治比一族が長崎にいたことは事実である。
彼らは何を生業としていたのだろうか。そもそも、丹治比一族とはどんな集団であろうか。
丹治氏は古くからの名族で元をたどれば皇族にたどり着く。
現在の福島市に沢山ある姓である。丹治、丹治比などさまざまな変化があるが、大本は丹生(にゅう)つまり水銀にかかわっていたのは間違いないようだ。
純粋な武士と呼ばれている人たちの確立は、かなり昔に遡る。平清盛は武家集団国家を実現させた。
1100年代のことである。
1159年平清盛が42歳の時、「平治の乱」が起こる。その時源義朝と戦い、勝利して武士のトップに立つ。
もちろん、中心は天皇を頂点とする貴族だが、実質の支配を武士が初めて行ったという意味である。
その後、源氏が平家を破り、鎌倉幕府を開く。
武士とは、朝廷や国衙から職業的な戦士身分と認められた人びと』のことであり、武装しているからといって『武士』ではない。
公的に武装を認められて初めて『武士』なのである。
これは、拳銃を持っているからといって、ヤクザは警官ではないのと同じだ。 発展 『武士の発生』 http://www.geocities.jp/michio_nozawa/10hatten/hatten7.html
つまり武士というのは、国家権力が出来上がって、そこからの指名があって初めて「武士」が誕生するという仕組みである。
平家の支配から源氏の支配になったのだが、全日本がすべて源氏になったわけではない。
特に九州はそれ以降も平家の支配圏の名残がある地域だった。
源氏は柔軟な対応をして地元の豪族の支配権をある程度認める。
このあたりからは、記録が残っているので確実である。
御家人となった長崎の豪族達は、その役目として京都に行き、貴族の警護を務めている。
その時の記録に、長崎氏や時津氏、戸町氏は「丹治比」を本姓としている。
僕が知りたいのは「丹治比一族」までの長崎なのである。
古代の話しには壱岐対馬がメインで出てくる。平戸や五島もかなり出てくる。
しかし一番知りたいのは大陸との関係である。
山の上に祠をたてて住み着いたが夫の方は熊野へ帰ってしまった。
また、野母崎の地名は「野の母が開いた」というので野母崎となった。
また長崎市野母町の伝統行事には約1300年の歴史があるとされ、1972年に国の無形民俗文化財に指定されている。
約1300年前というと、西暦700年ということになる。
西暦700年前後は飛鳥時代、奈良時代である。
646年(大化2年) – 改新の詔を宣する。(大化の改新)
663年(天智天皇2年) – 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で大敗する。
670年(天智天皇9年) – 全国的に戸籍を作る(庚午年籍)。
701年(大宝元年) – 大宝律令の撰定完成する。
710年(和銅3年) – 平城京に遷都する。
大化の改新で、日本は大きく変わっていくが、白村江の戦いでひどい負け方も経験している。
激動の時代である。
その野母崎には浦祭りというのがある。
奉納踊りは「鉾舞(ほこまい)」「モッセー」「中老(ちゅうろう)」「トノギャン」で構成されている。
野母浦祭 『ちゅうろう』
「中老」の催馬楽(さいばら)の歌 「催馬楽」は鎌倉時代から伝わる宮廷歌謡の一つ。
その中の代表的な歌が「ちゅうろう(中老)」で、「文書き」など18種類があります。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/050729/
「催馬楽」はもともと一般庶民のあいだで歌われていた歌謡で、決められた歌詞や音律はない。
野母崎の「ちゅうろう」の中に「契ぞうすき」という文言がある。葛城の神と契りを結んでいるという内容である。
かつらぎ(葛城)というのは 奈良県盆地の古地名である。
葛城氏は、大王(のちの「天皇」)家確立後、葛城「臣」となるが、かつては大王家に対抗できる最大の豪族、あるいはもう一つの「大王家」であった。
かつらぎの神というと、大和の国(奈良県)葛城山に住むという一言主神(ひとことぬしのかみ)である。一言主神(ひとことぬしのかみ)は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と言ったとある。
これは、大和国の天皇族と対抗していた、もう一つの大王族の存在を明確に示す。 以上の内容を整理する。
1.7世紀半ば紀州熊野の漁師夫婦が野母に漂流して住み着いた。
2.現在も続いている野母崎の祭に葛城の神と契りを結んでいるという歌詞がある。
3.肥前の国には上古に天皇に恭順しなかった土豪たち「土蜘蛛」がいた。 特に有名にのが葛城山の土蜘蛛である。
上記の事から推測すれば、野母崎には葛城氏に関係ある人々が住んでいたことになる。
しかし長崎の古文書を読んでも、そんな記録は何処にもない。
そもそも、野母崎に宮廷歌謡が有ること自体不思議なのだ。
役小角
野母崎の樺島に行者山という山がある。
行者とは役小角(えん の おづの)の事をいう。役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていた。
後に島流しにされるが、葛城の神は役小角の法力によって子分扱いになっていた。
この西の果ての長崎の更に西にある野母崎半島に行者山がある。
野母漁港近くの丘に熊野神社(本拠地は紀伊の国)がある。
東長崎の鶴の尾付近には役行者(えんのぎょうしゃ)神社がある。
野母崎には鎌倉時代から伝わる宮廷歌謡が存在する。
さらに長崎半島には宮摺という地域がある。町名の由来は宮修理から来ているという。(長崎市内に宮廷関係の遺跡はない)
どうだろうか。
長崎に住み着いた反大和の葛城一族
熊野に大和大王と拮抗した一族が有り、その一族の大部分は大和王権に取り込まれていった。しかし、反大和のグループは自分たちの国を目指し、南に旅立った。
その一族がたどり着いた場所が野母崎だ。
何故野母崎かというと、大陸に一番近いからである。
そして、土蜘蛛と呼ばれている反大和の集団が大勢いたからである。
葛城の神と土蜘蛛、そして「丹治比一族」
長崎の原風景の一場面が見えてきた。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=271 【長崎の原風景(4) 航海・漁業の守護神「娘媽(ノーマ)」が野母崎の語源】より
昔の長崎に人間はどれくらいいたのだろうか。
手がかりは肥前風土記である。8世紀に書かれたらしいと推測されている。土蜘蛛の記述もこの本にある。
長崎、佐賀に関して詳しく載っているわけではないが、それなりの記述はある。
人口が少なすぎる彼杵郡(そのきぐん)
風土記は各地区の人口や集落を記述している本である。内容は福岡の太宰府から近い順に記述がある。
長崎の地域では 松浦郡・郷11里16 高来郡・郷9里21 とある。
ところが彼杵郡(長崎市の大部分)は郷4里7としか記述がない。
彼杵郡はかなり大きい。
肥前風土記の信憑性については専門の先生方に任せるが、記述がない理由として学者の方々は、その時代、長崎には人がいなかったからと解釈している。
風土記の考古学⑤肥前国風土記の巻」
風土記の考古学⑤肥前国風土記の巻」小田富士雄編の巻頭地図(色は私が加筆)
そうだろうか。
古代の彼杵郡は、現在の佐世保市一帯から大村湾を取り囲む地域、それに長崎半島に至る広い範囲であり、その中には四郷があった。すなわち彼杵郷、大村郷、浮穴郷、周賀郷である。彼杵郷は佐世保から彼杵に至る地域、大村郷は大村市一帯、浮穴、周賀の二郷は所在不明であるが、ただ周賀郷は野母崎付近とする説が有力である。
(『長崎県史』古代・中世編)
そして、肥前風土記には、郡の北にある郡の浮穴(うきあな)の郷に、土蜘蛛の「浮穴沫媛」がいて、天皇に刃向かったので誅したとある。
浮穴(うきあな)の郷が何処であるか不明だが、彼杵郡である。
そして、この地に反大和勢がいたことは間違いない。
長崎の彼杵郡には反大和勢力の地域なので、調査できなかったというのが本当のようである。
しかし、神功皇后の伝説は長崎市内付近まである。神功皇后は三韓征伐をしたという女傑である。彼女の伝説は日本中にあるが、長崎の彼杵郡にも多い。
長崎の人間ならわかると思うがその伝説の場所は彼杵郡の海岸沿いなのだが、長崎半島の先の方、つまり野母崎半島にだけない。
そして神功皇后の父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)という。
ここに葛城が出てくる。
神功皇后自体が伝説といわれているので、何の確証もないのだが、野母崎半島にだけ伝説がないというのも気になる。
伝説はあったけど、なくなったのか、もともと野母崎半島に人がいなかったのか。
しかし、この章にも書いたが、野母崎には熊野から流れ着いた漁民が住み着いたとある。
これは何を意味するのだろうか。
野母崎は、ただの西の果てではな
660年、唐と新羅が連合して百済に侵攻した。百済の救援要請を受け倭国は朝鮮半島に援軍を送るが、663年「白村江の戦い」で大敗した。 唐・新羅連合軍に日本本土を侵略されないよう、対馬に防人や烽(とぶひ)を設置して侵略に備えた。
長崎名勝図絵(江戸時代初期に書かれたもの)に肥の御崎(野母崎)に警固所が有ったことが記されている。
長崎名勝図絵 巻之二下 南邊之部 164海門山(文献叢書 142~146頁 所在地 長崎市野母町) 長崎の南七里 野母浦の高山。他の山に接せず、これだけが高く聳えているので、登って見ると、周囲が果てしなく見渡せる。
権現山、日の山、火の山とも称する。山上の木立ちの中に、火山権現の祠がある。夜になると、山の頂に燈火が現れその光は尋常のものではない。人皆これを霊異とした。外国の船が入津するに当たって、この燈火を目印にした。
野母崎は、霊異の現れる場所だったのである。
野母崎の由来
「野母」という地名の由来だが
無人の野っ原に老母が住居を構え村落をなしたので、この老母の功績を後世に伝えようと、“野の母”で野母と名付けられた
と記されている。
これほど古代重要だった野母崎の由来としては、こじつけに思える。
単純に熊野の「野」が一文字、後の「母」が何かということである。
熊野の母という話しに、当てはまるものがある。
それは役行者の話しである。
役行者とは日本最強の霊能力者だ。
多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。
17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。
役小角が黙って流罪になったのは、朝廷が彼の母親を人質にしたからだ。
役小角は朝廷の言うことを聞かない「反大和」である。
役小角は伊豆島に流されたが、役小角の配下や関係者一族も朝廷に嫌われている。
山を修行の場としていた役小角(修験道)は、権力にへつらわない山の民である。
早い話、特殊な能力を持つ役小角(修験道)は大和を追い出されたのだ。
修験道は広く日本に浸透しているが、朝廷や為政者からは疎まれていた。
管理できないからである。
長崎の野母崎に流れ着いたのは漁師ではなく、役小角(修験道)一派だったのではないだろうか。
野母崎には熊野神社が二つもあり、さらに中老の葛城の言い伝えもある。
その一族が、朝廷に捕らわれている役小角の母のことを想い、熊野の母の御崎、すなわち「野母崎」と名付けたのではないだろうかと推測される。
媽祖(まそ)
しかし、違う可能性も発見した。媽祖(まそ)の話しである。
http://rekisisuki.exblog.jp/17797096/
鹿児島県野間岬の野間岳、長崎県野母崎の権現山、海の女神を祀る。
娘媽神女であるニャンマとかニャンニャン、ロウマともいう。 媽祖(まそ)は、航海、漁業の神で、台湾、福健省など華南地方海岸一帯で信仰されている。 「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」などいろいろな呼び方がある。ロウマが訛って野間になったといわれる。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-1e63.html
海辺の民「蚤民族」(アタ族)が祀りすがった神が「にゃんにゃん」である。
正式には「媽祖(まそ)」または「娘媽神女」で、別名「天后」「天妃」ともいう。
この神は、海を放浪するアタ族のために、自ら海中に身を投げて航海の安全を祈ったという伝承を持ち、南は海南島からマカオ、台湾、沖縄に至るまで、広く祀られている。
この神の溺死体が漂着したところが南さつま市の野間岬である。
野間岳の中腹にある「野間神社」の由緒書きには「娘媽」の死体が野間岬に漂着し たのでこれを野間岳に祀ったと記されている。
「娘媽」は「ノーマ」または「ニャンマ」と読む。
媽祖(まそ)は、現在の長崎ではランタンフェスティバルに媽祖行列という行事が誕生している。
中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神である。
1420maso_sinzoku[1]
伝説 長崎に来航する唐船には、必ずこの媽祖が祀られており、長崎港に碇泊中は、唐船から降ろした媽祖を安置する祠堂が必要となった。
しだいに来航する唐船の数が増加して、郷幇(同郷出身者の仲間組織)が結成されると、その集会所が安置場所とされるようになった。この集会所がのちに唐寺として整備されたのである。
故に、輿福寺をはじめとする福済寺や崇福寺の創建当初は、その創建当初の形態は、媽祖を祀る道教の桐堂としての性格が強かったようである。 http://www.geocities.jp/voc1641/chinagasaki/1000rekisi/1421maso.htm
この媽祖伝説が地名の元になったのは十分考えられる。
媽祖と呼ぶのは福建方言で母親の意である。風浪危急のときは媽祖と呼べば神がざんばら神のまま駆けつけてすぐ救ってくれる。もし天妃と呼べば冠をきちんとかぶって現れるので間に合わない恐れがある。したがって船乗りは媽祖と呼ぶのが常であったとも言われる。
http://www.geocities.jp/voc1641/chinagasaki/1000rekisi/1421maso.htm
媽祖は老媽(のうま)・娘媽・菩薩(ぼさ)・天妃・媽祖菩薩、天上聖母などと、いろいろの名で呼ばれている。
媽祖に母親の意味もある。
媽祖は「ノウマ」と呼ばれている。そして媽祖は母親の意がある。
「ノウマ」の母
「野母」の地名にぴったりである。
無人の野っ原に老母が住居を構え村落をなしたので、この老母の功績を後世に伝えようと、“野の母”で野母と名付けられたという由来にもぴったり当てはまる。
間違いないだろう。
野母崎文化圏
長崎半島(野母崎半島)の殿隠山(とのがくれやま)の山裾に、和銅2年(709)、行基(ぎょうき)菩薩開祖の観音禅寺という曹洞宗の寺がある。(略) なぜ野母崎半島の先端にこんなりっぱな寺院があるのかというと、昔からこの港は重要な貿易港で中国へ渡る要地だったからだ。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0612/index1.html
野母崎に一つの文化圏があったことは間違いない。
さらに、古い時代の古墳の遺跡がある。脇岬遺跡という。
時代は 縄文時代~中世で墳墓・貝塚・遺物包含地が発掘された。
肥前風土記にはそんな記述などない。 過疎地で、土蜘蛛の里と書かれているだけである。
しかし、立派な寺院が有り、大和朝廷と拮抗した力を持つ葛城一族漂流伝説、宮中で歌われていた「中老」。
火の御碕という名前。
色んな状況証拠で一つの仮説が浮かび上がる。
野母崎には「反大和」の裏大和があった。
たぶん、本拠地になっていたのだろう。
肥前の土蜘蛛の女性の指導者達の謎。
それは邪馬台国へとも繋がりがあるはずだ。
なぜなら、火の御崎の神社の巫女なら、「火巫女」となる。「卑弥呼」に繋がる。
「卑弥呼」は鬼道をつかっていた。鬼道は道教である。
媽祖伝説は道教である。 修験道は仙人と深い繋がりがある。
仙人も道教である。
絡まり合った謎をほどけば、真実が見えてくるはずだ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=276 【長崎の原風景(5) 古代長崎で繁栄してい野母崎の宮廷文化】より
日本と中国大陸の関係は密接だった。
その事は歴史的史実である。
現在の日本の地理から見れば、九州、長崎は端っこにある地方だが、アジアという概念から見れば、中心にあたる。
日本と関わりがあるのは中国や朝鮮だけではない。
東シナ海を渡ると、上海があり、フィリピンがある。距離はあるが、日本へ渡れる海流がある。黒潮、対馬海流など、海の高速道路が太古から存在していたからである。
五島列島福江島、長崎、天草、鹿児島と東シナ海の沿岸部は、大昔から九州の航路があったのは事実である。
そして東シナ海沿岸部(日本も含まれる)には大和とは違った、海洋文化圏があったということである。
この説は、日本の学者の人たちも認知していることでも有り、大陸の文化に大きく関わっている。
長崎半島の野母崎で暮らしていたのは、山の民である。
山の民といっても様々だが、野母崎の伝説や状況から山伏の集団だと思われる。
野母崎には行者山という名前の山があり、行者神社がある。野母町に、熊野神社と日の山神社という2つの神社がある。
まあ山で生活する人々は山伏だけではなく、木こりや鉱山採掘者、そして狩猟を生活の糧にしている人々も当然含まれる。
また、長崎は山を降りれば海である。当然漁業を営む海人たちも大勢いる。
彼らの共通点は、その土地に縛られない集団だということだ。
つまり大和に組み込まれない集団といったほうがいいだろう。
大陸への拠点 野母崎
山人、海人たちというのは土蜘蛛であり、隼人であり、熊襲である。
野母崎にはそれらの拠点があったのだ。
縄文と呼ばれる時代から、自然発生的に集団が出来上がった。
それがベースである。
大和が完全に日本を征服するまでは、大陸との拠点としてにぎわっていたに違いない。
決定的な証拠がある。
長崎市に牧島という地域がある。
牧島は長崎半島と島原半島に囲まれた千々石湾に浮かぶ小島で、その東端には嘴状につき出た礫洲が発達しており、曲崎とよばれている。
曲崎古墳群
曲崎古墳群は、5世紀末から7世紀はじめ(古墳時代)につくられた古墳です。平成20年度末現在で、101基の積石塚と遺構約500ヶ所が確認されています。一般に見られる古墳の形状とは異なり、丸石を積み上げているのが特徴で、これが積石塚と呼ばれるものです。また、ガラス製品の玉類や、当時の人々が使用した壺や甕も発見されました。
この古墳は狭い場所にある。
その場所になんと101基の積石塚と遺構約500ヶ所がある。不思議だという人がいるが、実は不思議ではない。
それは墓地なのだ。曲崎古墳は野母崎族の墓場なのだ。
一般に見られる古墳の形状と異なるのは、大和族と違うからである。
http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/65/
石室構造には竪穴系横口式石室の特徴をもつものが見られ、 北部九州に分布する同種の石室構造をもつ古墳群と同様で、このことからこの地域が北部九州の文化圏に属していたことが判明しました。
竪穴系横口式石室は、日本では百済や伽耶の影響があり、中期初頭には北九州で築造が開始されたとある。
朝鮮半島の百済、伽耶は倭族の地域と言われている。
伝説だが神功皇后の三韓征伐、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関、任那日本府というのがあった。
さらに、任那日本府は、大和が直接関わったものではなく、大和以外の倭人達が起てたという説も近年有力である。
長崎と百済
長崎は百済と直接交流があったのである。
曲崎古墳群のすぐそばには、戸石神社というのがある。祭神はスサノウの尊だ。
戸石神社の一の鳥居
起源は不明だがその神社の1の鳥居が海に向かって建っている。
その鳥居は、かつて海中にあったという。さらに戸石神社にある御神木が光り、遭難しかけた船の目印になったといういい伝えも残っている。
つまりその神社を信じる人達は海の民たちであったという証拠だ。
野母崎にも同じ伝説がある。
曲崎古墳群のある、かつて島だった牧島と野母崎の海岸沿いには、神功皇后伝説がちりばめられている。
神功皇后が茂木に上陸したとき、「三韓の見えるところはないか」と尋ねれたとき、土地の人はこの岩に案内しました。このとき、お昼になったので、甑で飯を炊きました。山を吹き下ろす風は、飯の蒸れる匂いを麓の浦へ運びました。この飯の香りで、神功皇后が昼食をとっていることを知り、以来、この浦を「飯香の浦」といい、この岩を「甑岩」と呼ぶようになったという。
「甑岩神社」は大きな岩に埋め込まれ、海に向かって作られている。祭神はヤマトタケルだ。
牧島と野母崎の海岸沿いには古代史のスター達がずらり並んでいる。
野母崎
神功皇后、ヤマトタケル、スサノオの関係はどうであろうか。
神功皇后は14代仲哀(ちゅうあい)天皇の后で、ヤマトタケルにすれば仲哀天皇は義理の父親である。
神功皇后は卑弥呼と考えられている。卑弥呼は天照大神と推測されている。スサノウは天照大神の弟だ。
不思議だが、見事に、すべてが繋がっている。
南九州は、大和にとって征服すべき場所であった。
すなわち長崎、熊本、鹿児島は反政府族であり、その範囲は朝鮮半島の一部と東シナ海沿岸だ。 そして野母崎はその重要な港だったのである。
山の民
長崎半島の山には、鉱物が有る。
たとえば燃える石、石炭は古代から認識されていた。
長崎では端島が有名だが、石炭は地上にも露出しており、端島にも江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、露出炭を採炭していたという記録がある。
現在の女の都や三ッ山町の六枚板(小字名)辺りで、江戸時代以降に何度か金鉱の採掘が行なわれたという記録が残っている 。
山伏達の元は山の民達である。
彼らは猟をし、鉱山を探り当て生業として暮らしていた。
そしてその収穫物は、海の交通網を駆使して交易して商業圏を作っていたのだ。
山の民と海の民は兄弟の関係である。神話の海彦山彦はその関係を物語っている。
山の民の信仰は、道教のような自然神を信仰する。
長崎にある古い神社、金比羅、岩屋、甑岩などはまさに自然神を祭っており、金比羅、甑岩のご神体は巨岩である。
そして巨岩と社は一体として作られている。
肥前国
鉱物の採取を生業としている人々の中から、長崎の原風景の人々が登場してきたのだ。
長崎氏の前の時代に長崎で繁栄していた丹治(たんじ)一族である。
丹と言う字は、水銀を象徴している。長崎で水銀がとれたという記録はないが、なかったということではない。記録にないだけのことである。
丹治(たんじ)一族は長崎の民ではなく、何処からかやってきた民である。
元を正せば天皇家にもつながる一族である。その一族が長崎に住み着いた。
どこか役行者達につながる所がある。
もしかすると、彼たちはつながっていて、野母崎に宮廷文化を振りまいたかも知れない。
土蜘蛛、熊襲、隼人と呼ばれていた反大和の海人、山人たち。
何時しか、大和に飲み込まれていく。
長崎に残されている伝説や遺跡がそれを雄弁に物語っているのだ。
しかし、それらは記録に残されなかった。
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