Facebook今野 華都子さん投稿記事·
まるで真っ青な空に雲を探すように
「不幸には耐えられるのに、幸せに耐えられない」心癖がある。
子どもの時から身につけてしまった、幸せを手放す癖がある時に出てしまう。
自分は幸せになっちゃいけない自分にはその資格はないと思い続けた。
自分に幸せになる許可を与えた後も、幸せになり過ぎないよう、目立たぬよう心配りをしてきた。
でも、時々不安がかすめる ここは私の居場所ですか? ここに私が必要ですか?
私は役に立っていますか? 私はここにいてもいいんでしょうか?
「誰かではないあなたが必要です」と言ってもらいたい癖が頭をもたげる。
「私はここにいてもいいんでしょうか?」爆弾のように言葉を吐き出してしまう。
そして言った自分が一番深く傷つくことを繰り返してきた。
ああ〜〜あなたは何度も破壊と、修復のかけらを拾い集め、そのひび割れた心を抱えながら1人ぽちっで立て直してきたのですね。
ここがあなたの居場所です。存分に息をしてくださいね。あなたがいてくださることが幸せです。遠い約束で、神様がここにあなたを配置されました。大切なあなたへ愛と光を送ります✨ 今野華都子
Faceb00k坪内 稔典さん投稿記事
お勧めの1冊です。言葉、文法には「正しい」(こうでなければならない)ということはない、ということが著者の基本姿勢です。「文法や語法というのは、言葉をより深く考えるための「仕掛け」のようなものです。」この意見に大賛成!この本、言葉から入る俳句入門、という感じ。今、俳句入門書がいっぱい出ていますが、これがピカイチです。発行は文学通信、1900円+税です。問い合わせ電話:03-5939-9027
http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/WAC2005_Report.htm 【脳は文法を知っている】より
脳には言語の文法判断に特化して働く中枢があるという。それを実験でつきとめた酒井邦嘉さんという研究者(東京大学助教授)を、仕事で取材させてもらった。酒井さんは、チョムスキーが唱えた「普遍文法」の発想に立脚し、人間の脳は言語の基盤を生まれつき備えていると明快に述べる。今回の取材を通してこのテーマをめぐる私の考えも少し固まってきた。そのあたりをまとめてみた。
●言語がすぐにしっかり身につく謎
幼児は驚くほどスピーディーかつスムーズに言語を覚えていく。考えてみれば不思議ではないだろうか。言語という複雑な仕組みを、まだ知能の高まっていない段階で、しかもそれほど多くの正しい文例に触れるわけでもないのに、完全に身につけてしまうのだから。
やはり、言語を聞きわけ自らも話すための基盤を赤ちゃんは持って生まれてくると考えざるをえない。いや、だったら人間の能力なんてすべて生まれつきの身体が基盤じゃないか、と言うことにもなる。しかし、言語をたとえば水泳やピアノと比較すると、そこに一線が引けそうだと気づく。赤ちゃんを水の中に放り込んでも泳ぎはしないだろう。ピアノをひとりでに弾きこなすこともないだろう。ところが言語だけは、ほとんどの子供が特別な訓練なしにしかも同一の水準にまで間違いなく達する。言語はまっさらな頭で一から学習していくのではない。言語能力のなんらかの原型が最初から備わっているに違いない。
「…クモが巣の作り方を知っているのと同じような意味で、人間も言語の使い方を知っている」。スティーブン・ピンカーはそう書いている(『言語を生みだす本能』椋田直子訳)。鳥が教わらなくても空を飛ぶのも、また同じ。人間は「言語を話すようになる動物」と言えるだろう。
では、その生得的な言語の基盤とはどのようなものなのか。
●チョムスキーの「普遍文法」
ここにノーム・チョムスキーが登場する。ご存知のとおり、チョムスキーは「普遍文法」と呼ばれる理論を唱えた。ポイントはたぶん2つ。
1 あらゆる言語に共通する基本ルールがある
2 その基本ルールは脳に由来する
それぞれ言語学および生物学の仮説ということになるだろう。
●言語には共通の基本ルールがある
「あらゆる言語に共通する基本ルール」。チョムスキーは実際に言語を分析するなかでそれを抽出してきた。その理論は長年にわたる構築と変遷があって要約は難しい。私がだいたい分かった範囲でさっくり述べると――。
たとえば「私はリンゴを食べる」という文は、「リンゴを+食べる」という結びつきの上に「私は」を乗せた形をしている。「私は+リンゴを」と結びついたり、その上に「食べる」が乗ったりはしない。もっと複雑な文「私は台所で母とリンゴを食べる」であれば、「リンゴを+食べる」がまず結びつき、その上に「台所で」と「母と」があり、それら全体の上に「私は」が乗っている。つまり、文はただ一直線に並んでいるようで、実は枝分かれの場所と段階がきちんと決まっているわけだ。この基本ルールはあらゆる言語に共通という。
また、文の部分である句のレベルでもルールが見出せる。たとえば名詞句「ピカソの絵」なら、「ピカソ」についてではなく「絵」について何ごとかを述べている。「ピカソ」と「絵」とは、句のなかで役割が違うし順序も決まっている。「ピカソの絵」が「絵のピカソ」とはならない。要するに「句には重点があって後にくる」(日本語の場合)というルールだ。もっと長い句「玄関の壁のピカソの絵」でも、やはり重点は1つ「絵」であり、最後にきている。しかもこのルールは動詞句や形容詞句などにも当てはまる。たとえば動詞句「リンゴを食べる」なら「食べる」が重点で後にくる。「母と台所でリンゴを食べる」となっても、やはり重点は1つ「食べる」で最後にくる。このルールは、英語などであれば「後にくる」が「前にくる」と変化はするけれど、原則は言語を超えて成立しているとされる。
ここで想起されるのは、日本語であれ英語であれ、主語・動詞・目的語という要素が取り出せるという事実だ。もちろん日本語はSOV、英語はSVOと語順が異なるけれど、そもそもS・V・Oという区分けができること自体、またおのおのの言語で基本の順序が決まっていること自体、単純にして重大な共通ルールと言える。そうでない言語は存在しないとされている。
いずれも「当たり前じゃないかそれ」という印象だろうか。しかし普遍文法とは、それくらい原則的で抽象的な次元の話だと思われる。(正確にはチョムスキーの原著や解説書を)
●言語のルールは脳に由来する
そして、言語がこうなっているのは、ズバリ脳がそうなっているからだと、チョムスキーは主張した。
もちろん、こういう言い方もまた、どんな行動にも当てはまるだろう。人間が笑うのも人間が歩くのも、つまりは人間の脳がそうなっているからだと。しかし、「言語の普遍文法が脳に由来する」というのは、単に「言語は脳に由来する」というのとは違って、はるかに強力な主張だ。たとえ話をするなら、脳という畑では土壌や日光の作用によって記憶や感情が採れるのと同じように言語も採れる、という主張をしているだけではない。脳という畑には、土や光はもちろん作用するが、そもそも言語のために特別に作られた温室があるのだと、しかもそれはこんな装備なのだと、そこまで踏み込んだ理論をチョムスキーは示していることになる。
話はややそれるが、人間の脳は無数のニューロンが複雑なネットワークを形成することで高度な認知を可能にしていると、一般に考えられる。その仕組みを説明するモデルの1つに「コネクショニズム」というものがある。コネクショニズムのモデルでは、無数のニューロンは目指すべきネットワークの設計図を与えられていない。入力に応じてあてずっぽうのネットワークを何度も試しながら出力を調整していくうちに、やがて妥当なネットワークが自動的に形成されていく。さて、言語については、チョムスキーが考えたような生得説と、それと対照的な学習説の対立が続いてきた。言語は一から学習するのだという考えは、脳には普遍文法という設計図など存在しないという立場だ。これは言ってみれば、コネクショニズムだけで言語という認知機能すべてが形成可能と考えるのに等しいのではないか。コネクショニズムは非常に面白い発想だし、実際にニューロンはいくらかはそうした自律的なネットワークをするのだろう。しかし、言語というかなり複雑でしかもかなり特殊な機構を誰もが同じく実現してしまうのだから、やはり設計図がまったく関与しないと考えるには無理がある。
●原理とパラメータ
ところで素朴な疑問が出るだろう。普遍文法が1つなら、どうして実際に出力される言語は日本語になったり英語になったりするのかと。
これには「原理とパラメータ」という図式の説明がなされる。普遍文法の「原理」は脳のなかで万人共通であり、そこに環境から実際の文例が与えられると普遍文法の「パラメータ(媒介変数)」が決まり、そうして日本語や英語など個別の文法が出てくるというのだ。
たとえば、「S・V・Oがある」「語順がある」というのが原理なら、それが「SVO」か「SOV」かというパラメータは実際に触れた言語に応じて1つに決まるということ。句の重点が「後」になるか「前」になるかも、同じパラメータに従っているとみることもできる。
またまた私なりのたとえ話。普遍文法をギターにたとえてみる。人間の脳はギターを生まれつき持っているとしよう。弦の本数や長さ太さは誰しも同じだ(普遍文法)。そこに、あるギターのサウンドが聞こえてくる(日本語の例文)。すると、脳は自らのギターを操作し、そのサウンドに合ったチューニングや弦の押さえ方を探り当てる(日本語の文法)。だから自分も同じサウンドがすぐにしっかり出せるようになる(日本語の獲得)。聞こえてきたのが別のサウンド(英語の例文)なら、ギターの弦は同じでも、チューニングやコードを今度はそちらに合わせ、自分もそのサウンドを出せるようになる(英語の獲得)。しかし、もし脳がそもそもギターを持っていなければ、こうしたサウンドを耳にしても、それが何かが分からず、いずれのサウンドも出すことはできない。――しかしこのたとえは、酒井さんによれば、声帯が音声の出し方を決めるイメージに近く、普遍文法の説明には「?」とのこと(番組でも割愛した)。
●言語は自然現象
こうした考えの根本には「言語は自然現象である」という視点がある。
脳は心を生みだす。その心の働きの1つが言語である。したがって、言語は脳という自然現象のうちにありサイエンスの対象となる。――酒井さんの立場はこのように明快だ。さらにこう述べる。言語とは何かという究極の問いに答えるためには、脳が言語をどう生みだしているのかを明らかにする必要がある、と。言われてみれば当たり前なのだが、言語はふだん社会や文化の現象として言及されることが多いせいか、かなり新鮮に響く。
この視点では、言語は、人間が作った側面はあるものの、そもそも脳によって決められた規則に従っていると考える。つまり言語は自然現象として限定されており、勝手に変えることはできない。また、そうした自然言語だからこそ自動的に話せるようになるのであり、コンピュータ言語などの人工言語であれば、幼児が訓練なしに身に付けることはないはずと、酒井さんは言う。
●文法こそ言語の本質
もうひとつ酒井さんの明快な立場は、「言語の本質は文法にある」と考える点にある。このことは以下の2つに関係する。
1つは、言語は単語に注目すると多様にしか見えないということ。単語と意味のつながりは恣意的であり、言語を超えた共通性はまったくない。これに対してチョムスキーは、言語から意味を消し去り、文の構造だけを分析することで普遍文法を見出すことになった。
もう1つは、人間の言語の特異さが文を作れる点にあること。その根拠として、チンパンジーに手のサインによる単語を教えそれを使わせたアメリカの実験が挙げられる。そのチンパンジーが使った最長のサインは、「ちょうだい、オレンジ、わたし、ちょうだい、たべる、オレンジ、わたし、たべる、オレンジ、ちょうだい、わたし、たべる、オレンジ、ちょうだい、わたし、あなた」というものだった。単語は扱えても、それを並べる規則は生みだすことも教えることもできなかったというのだ。
チンパンジーのこのような行動は、あるキーワードに対してある反応を当てはめる「連想」の能力にすぎないという。しかも連想の能力は、チンパンジーなどの類人猿だけでなく猿や犬にもある。これは人間の言語とは本質的に異なると酒井さんは考える。たしかに犬も我々の言葉に応じて行動するが、だからといって我々と同じように言語を理解しているとは言いがたい。
●言語学に挑む脳科学
というわけで、「言語がこうなっているのは、脳がそうなっているからだ」というのがチョムスキーなら、「脳はたしかにこうなっている」と実証しようというのが、酒井邦嘉さんだ。
言語学と脳科学の関係は、理論物理学と実験物理学の関係に似ていると、酒井さんは言う。言語学の理論を脳科学の実験が裏付ける。とりわけ普遍文法という理論が正しいのであれば、それは脳の活動や仕組みとして解明できるはずだと期待をかける。
また、チョムスキーが画期的だったのは、多様な言語について従来のようにただ分類したのではなく共通の法則を打ち立てたことにあると言う。それは、生物学においてダーウィンが分類だけの段階を脱して進化という法則を示したのと同じだと。しかもダーウィンの学説は、種を定める遺伝子の発想につながり、その実体はやがてDNAとして発見された。これに倣えば、普遍文法という学説に応じて何らかの実体を生物学的に見出すことが脳科学の役割ということになる。
●酒井さんの脳科学実験
こうした言語論や言語観を踏まえて、酒井さんは、人間の言語の本質というべき文法が脳の機能としてどのように実現されるのかを解明しようと、脳科学の実験に取り組んでいる。
実験では「fMRI(機能的磁気共鳴映像法)」と呼ばれる手法が主に用いられる。早い話が、脳の活動そのものを脳の外部から可視化できる優れものだ。脳は活発に活動している部位の血流が増え、それに伴って磁性がわずかに変わる。そこで、磁場を発生させる特殊な装置の中に頭部を置くことで、脳の活動(=血流の変化=磁性の変化)が測定できるという仕組み。解像度はミリ単位・秒単位という。
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酒井さんは、この手法でまず、我々が言語の文法を使った判断をしている時と、記憶を使った判断をしている時とで、脳の活動に違いがないかを調べた。(詳しくはこちら → http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/JST_Press_Report240.htm)
実験の結果、文法判断をしている時には、左脳前頭葉にある赤い部分が目立って活動していることが分かった。これに対し、記憶を使った判断では、べつの緑の領域で活動が目立った。(写真は上記サイトから)
brain
この赤い領域は「ブローカ野」と呼ばれる部位だ。古くから失語症の患者の多くはブローカ野に損傷があることが知られ、この部位が言語になんらか関係すると推測されてきた。ただこれまでは、部位の特定が厳密ではなく、またブローカ野の損傷で起こるのが言語の障害なのか記憶などの障害なのかも曖昧だったという。今回の実験によって、ブローカ野が言語の中枢であること、しかも文法の中枢であることがはっきりしたと、酒井さんは考察している。
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こうして明らかになった文法とブローカ野の関係を、酒井さんは別の実験でさらに検証した。しかも今度は、言語の働きのうち文法と意味の判断を区別してブローカ野との関係を調べた。この実験では別の装置が用いられ、被験者が文法や意味の判断をしている時に、被験者のブローカ野に磁気刺激を与えてみた。つまり、文法の中枢とみられる部位の活動を促進させることで、文法の判断が変化するかどうかを確かめたわけだ。(詳しくは → http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/JST_Press_Report256.htm)
興味深い結果が現れた。文法の判断をしている時にブローカ野を適切に刺激すると、反応時間が通常より速くなったのだ。ところが、意味の判断ではブローカ野を刺激しても反応時間は変わらなかった。また、同じ文法判断でもブローカ野以外の刺激では反応時間は変わらなかった。
これによって「ブローカ野は文法中枢である」という主張が補強できたと酒井さんは考察する。また、文法と意味は脳のなかでそれぞれモジュール性を持って局在していることの証しにもなったとしている。
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ここに挙げた2つの研究成果は米国の専門雑誌『ニューロン』にそれぞれ掲載された。ブローカ野が文法中枢であることが脳科学の実験で実証されたのは世界で初めてという。
文法中枢に関する実験を酒井さんはさらに進めている。
外国語も同じ「文法中枢」
http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/JST_Press_Report21.htm
文字の習得に「文字中枢」
http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/JST_Press_Report53.htm
「文法中枢」で英語の達人判定
http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/JST_Press_Report151.htm
●番組について
番組は、こうした酒井さんの研究と見解を、インタビューや実験の再現によって構成した。
東京MXテレビ『ガリレオ チャンネル』
2月27日(日)朝8時~8時半 再放送=3月6日(日)朝8時~8時半
タイトル「脳は文法を知っている~酒井邦嘉の言語サイエンス」
http://www.web-wac.co.jp/tv/
酒井邦嘉さんのプロフィール
東京大学大学院総合文化研究科助教授。これまで、東京大学で物理学や生理学、ハーバード大学でMRI(磁気共鳴映像法)などの人体イメージング技術、マサチューセッツ工科大学で言語学、をそれぞれ研究。現在は、脳科学から言語の解明を目指している。理学博士。
http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
●あれこれ私的に思案する
言語に関して私はこれまでも驚異的な発想に出会ってきたと思う。「事物は言語という差異の体系にしたがって分節される」とみたソシュール。「語の意味とは、言語におけるその使用である」と述べたウィトゲンシュタイン。チョムスキーの「普遍文法」という考えは、それに勝るとも劣らぬ衝撃だ。しかも言語を捉える視点はまったく別のところにある。それゆえ、今回「あそうか!」と初めてはっきり認識した点は少なくない。
これまでは漠然とこう考えていた――。生物の行動や意識には、「何かを何かそのものとして」ではなく「何かを何か別のまとまりとして」受けとめる作用、つまり「ものごとを抽象化し表象として捉える」作用が、広く成立しているとみることができる。それが高度化し複雑化した形の1つが言語なのだろう。したがって、動物であれ昆虫であれ、なんらかシンボル的なものを形成し操作しているなら、それは言語の原型にちがいない。人間の脳においても、知覚・記憶・思考といった作用が純化され統合されるところに、言語は自ずと発生してくるのではないか。
しかし、今はこう考え直しつつある――。どうやら人間だけが規則に従った言語を使える。人間だけが新しい初めての文をいくらでも生みだせる。人間の言語のエッセンスはこの点にあると言わざるをえない。言語か言語でないかの分水嶺をここにみることにも合理性がある。結局、人間の言語は他の動物の認知とは別格、人間の認知のなかでも別格とみるべきだろう。
繰り返すが、チョムスキーは語ではなく文に注目した。意味ではなく文法に注目した。それが慧眼だったと評される。単語を扱えることと文を扱えることの差がこれほど決定的であるとは、私はあまり実感していなかった。しかし、単語やシンボルの形成や操作だけでは、人間の言語の特異性や汎用性は説明できないようだ。
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「言語は本能に拠る」「言語の基盤は脳にある」といった言い方を、これまでは自明としか感じられず、それが意味することの重大さに気づいていなかった。これまた繰り返しになるが、「言語が脳にある」というのは、脳という茫漠とした砂の山が風に吹かれているうちに言語という不思議な造形がなんとなく出来ました、などとイメージするだけではとても足りない。言語という造形を自動的に形成してしまうほどの骨組みが、いわば砂粒の精緻なつながりとして最初から脳にある、ということになるだろう。
人間と動物を、あるいは人間のうちでも言語と他の認知を、地続きで捉えているかぎり、脳が言語をどう作り上げるかなんて漠然としていても気にならなかった。しかし、人間の言語だけが特異であり、その特異さとはすなわち規則に従って文を作ることであると、そこまで前提がはっきりしてくると、見きわめるべき言語の輪郭も明快になってくる。そうなると、鮮やかに輪郭づけられた人間の言語が、では脳にどのような設計図を持つのか、その探求はかなり具体性を帯びてくる。
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しかしそうなると、言語という謎は文法という謎としていっそう先鋭化してくるようでもある。
人間は言語を必ず文法という制約のなかで使う。たとえば我々がある情景を見たとき、「主語と動詞」つまり「これこれの主体があって、これこれの動き(や性質)をしている」と分析する形でしか言語を運用できないということだ。すると根本的に問いたくなるのは、それは我々の思考自体がそもそも「主体と動き」という形をとっているからなのか。それとも、思考はもっと自由だが言語がその形だから結局その形でしか結実しないのか。どっちなのだろう。思考が言語に制限されると考えるのはやっぱり誤りなのだろうか。
この疑問は私のなかではさらに膨らんでいく。環境や自己をふくめた現実のことごとくを、たとえばこうした「主体と動き」という分析へと導いてしまう力、世界をそのように受けとめる形式というのは、元来どこにあると言えばいいのだろう。言語にあるのか思考にあるのかを問うだけではすまない。人間を超えた生物全体が実はその認知形式だけは踏まえている、ということはないのだろうか。地球を超えても銀河を超えてもそうだ、ということはないのだろうか。それどころか、もしやこの宇宙は結局「主語+動詞」という言語に馴じむように最初から出来ていたのではないか……さすがにそうは思えない? そうするとさっきのところに戻って、「主体と動き」という分析の形式は、人間の言語だけにあるのか人間の思考全般にあるのか、あるいは人間だけでないならどの程度の動物にまであるのか、といった線引きが必要になってくる。
さらに。「主体+動き」よりもっと根源的に思えること。たとえば、我々の文は必ず疑問文や否定文を作れる。さあ、ではこの「疑問」や「否定」とは言語だけに特有の現象なのか。それとも思考自体に、あるいは知覚や記憶や感情といった広い範囲のなかにも「疑問」や「否定」という作用はあるのか。そうだとしたら、生物はみなその形をなんらかの実質として持つのか。それもまた地球や銀河を超えるのか…。
もちろん、「主体+動き」や「肯定・否定・疑問」といった枠は、宇宙を我々が捉えるための方便であることは間違いない。この莫とした宇宙を我々が時間や空間といった枠を当てはめて捉えるのと同じことだ。そうではあるのだが、言語を自然現象とするならば、人間の言語がこうなった必然は、その自然のどのあたりに由来するのか、という問いはありうると思う。
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