神社とエコロジー

http://toya-manabu.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-120e.html【神社とエコロジー①】

自然に対して感謝と畏怖を忘れない神道信仰の在り方は、地球環境を守る上で多くの示唆に富むものである。神道は森を保全し、次の世代へ残していく、まさにエコロジーを体現した宗教だ。自然信仰と神社の関係をひもとく。

自然信仰から神社の誕生へ

神社の社殿はさまざまな建築様式があって、それらは日本の建築史を代表するものである。その源流となる様式は、「伊勢の神明造り」と「出雲の大社造り」の2つに絞られる。神明造りは古代の穀物倉が、大社造りは古代の住居が原型であるとされている。

こうした2系統以外の神社建築は、仏教の影響の下に生み出されたものが大半である。6世紀に仏教が伝来して日本では寺院が造られるようになった。そうした動きに対抗して、神道にも施設が必要だということになり、多くの神社が造られるようになったのである。

しかし、いずれの建築様式もたかだか千数百年の歴史に過ぎない。わが国固有の信仰形態である神道は、もっとはるかに永い歴史を持っており、これを古神道(※1)という。


https://www.nippon.com/ja/views/b05213/ 【神社とエコロジー①】より

戸矢 学 【Profile】

自然に対して感謝と畏怖を忘れない神道信仰の在り方は、地球環境を守る上で多くの示唆に富むものである。神道は森を保全し、次の世代へ残していく、まさにエコロジーを体現した宗教だ。自然信仰と神社の関係をひもとく。

自然信仰から神社の誕生へ

神社の社殿はさまざまな建築様式があって、それらは日本の建築史を代表するものである。その源流となる様式は、「伊勢の神明造り」と「出雲の大社造り」の2つに絞られる。神明造りは古代の穀物倉が、大社造りは古代の住居が原型であるとされている。

こうした2系統以外の神社建築は、仏教の影響の下に生み出されたものが大半である。6世紀に仏教が伝来して日本では寺院が造られるようになった。そうした動きに対抗して、神道にも施設が必要だということになり、多くの神社が造られるようになったのである。

しかし、いずれの建築様式もたかだか千数百年の歴史に過ぎない。わが国固有の信仰形態である神道は、もっとはるかに永い歴史を持っており、これを古神道(※1)という。

自然環境に神の遍在をみる

古神道とは一種の精霊信仰で、自然崇拝が本質である。すなわち自然なるもの全てに神の遍在を見るもので、山も海も川も神であり、太陽も月も北極星も神である。風も雷も神であり、季節も時間も神である。すなわちこの世界、この宇宙に神ならぬものはなく、神とともに在る、という思想である。そしてその原初の姿、形は以下の4種に集約される。

カンナビ (神奈備・甘南備・神名備・神隠・神名火・珂牟奈備・賀武奈備)

イワクラ (磐座・岩倉・岩鞍)

ヒモロギ (神籬・霊諸木)

ヒ (霊・靈・日・火)

これこそが神道の原型であり、本来の姿である。いずれも漢字を用いていない時代からの言葉であるから、文字は後世の、少なくとも記紀万葉の時代からの当て字だろう。

「カンナビ 」は、ひときわ秀麗な山岳を神山・霊山として信仰する。

代表的なものに富士山(浅間神社)、白山(白山神社)、立山(雄山神社、おやまじんじゃ)などがある。

雄山(おやま)神社峯本社(富山県立山町)。立山を霊山として信仰

「イワクラ 」は、特に威厳ある巨岩を神の依り代(よりしろ)として信仰する。

代表的なものにゴトビキ岩(神倉神社)、三ツ石(三ツ石神社)、磐座(花窟神社、はなのいわやじんじゃ)などがある。

花窟(はなのいわや)神社(三重県熊野市)。威厳のある巨岩を神の依り代として信仰する

「ヒモロギ 」は原生の森であり、その全体を「鎮守の森」として崇めるが、その中の特に際立つ巨樹を神木とし、神の依り代として信仰する。

代表的なものに蒲生の大クス(蒲生八幡神社)、来宮(きのみや)様の大クス(杉桙別命神社、すぎほこわけのみことじんじゃ)、龍神木(秩父今宮神社)などがある。

氣多(けた)大社(石川県羽咋市)。入らずの森を「ヒモロギ」として崇める(写真提供=氣多大社)

山岳は最も天に近く、分け入るのに困難で生活に適していない。だから“異界”とされ、神が住まうと信じられた。そこは常に人の見上げる場所であることも、あずかっていたかも知れない。高山はしばしば雲をはらみ、そこから流れでる河川は農地を潤す恵みになる。この天然自然の力は、人知を超えて感謝の念を抱かせる。しかしまた、同じ河川が時として荒れ狂い、洪水となって人里に災厄をもたらす。これは、人に畏怖の念を抱かせる。それらの観念を総合したものが、もっとも素朴な山岳信仰であろう。

「ヒ 」は、それとは次元の異なるもので、カンナビ以下を依り代として捉えるならば、ヒは信仰の原理であり観念でもある。

ムスヒ・ムスビ (産霊・産巣日)という言葉に昇華される。

自然崇拝が神道の本来の姿

縄文時代の縄文人の信仰は、現在の日本人の信仰に直結している。しかし仏教信仰はそうではない。6世紀に朝鮮半島より伝来した仏教は、それ以前の信仰とは何のつながりもない。日本人の祖先は仏教そして寺院・仏像とは無縁であったのだ。つまり、古代より現在につながっている信仰は、上述したカンナビ、イワクラ、ヒモロギ、ヒの4種を対象としたものである。神社という宗教施設が6世紀以降に次々に建立されるが、建立された場所は、すでに太古より信仰されていた霊地・聖地なのである。

神社・神道の信仰対象は、もとは「大自然そのもの」であって、人工的な物品を神体・依り代とするのは後発のことであり、元来の信仰にはないものだ。本殿を始めとする神社建築も、それら物品の神体を納めるために造られたものであって、それより古い形式の神社には本殿がない。奈良県の大神(おおみわ)神社や埼玉県の金鑚(かなさな)神社、長野県の諏訪大社本宮などは、拝殿のみで本殿がなく、背後の神体山をそのまま参拝するようになっている。これが、神道の本来の姿である。かつての神社はすべてがその形であったのだが、その後、多くの神社が神体に依り代を据えて、その保護のために社殿(本殿)を建築した。

バナー写真:夏至の日前後、三重県伊勢市二見浦の夫婦岩の間から富士山と日の出が重なる光景を見ることができる。この朝日の光は、古来より「ヒ」として参拝されてきた。

(※1) ^ 惟神の道(かむながらのみち)等々の呼び名は古神道の時代から神社神道の時代まで通して用いられる用語なので、特に原初神道に時代を区切って呼ぶ場合は主にこれを用いる。幕末に生まれた復古神道は全く別物


https://www.nippon.com/ja/views/b05214/ 【神社とエコロジー②】より

鎮守の森に寄せる日本人の心情

多くの日本人が、懐かしく思う風景がある。小川を挟んで田畑が広がり、そこに点在する人家、そして田畑の真ん中のこんもりした森の中か、小高い山の麓には神社、すなわち鎮守の森がある。これがいわゆる「里山」の風景である。幼い頃に里山で遊んだ記憶は、いまや少数派になりつつあるのかもしれないが、依然として里山の風景は日本人の心の故郷であり、いわば原点である。

こうした里山の風景は、実は自然にできたものではない。里山は日本人が長い年月をかけてつくり上げた風景である。そしてそこに暮らす人々によって、絶え間なくメンテナンスされていればこそ、その「懐かしき姿」を保ち続けている。日本の植林はすでに縄文時代から行われており、現在確認できる日本の森は99パーセントが植林によって人為的に造られたものだ。手付かずの原生林は日本列島にはわずか1パーセントしかない。つまり、この風土は、私たちの先祖が長年かけてつくり出し維持し続けてきたものなのだ。そして里山の中心には、必ず鎮守の森、すなわち神社がある。氏神神社(※1)や産土(うぶすな)神社(※2)こそは里山の中心だ。人々の生活サイクルは神社を中心にして営まれるのが古くからの形である。

日本では自然環境と融和調和するという生活観が古くから根付いている。そしてそれが「借景」や「庵」の考え方の基本になっている。すなわち庭の彼方に望む山や森も連続する風景として取り込んでしまうし、庵は建物そのものが自然の中に同化することにその存在理由がある。この思想は民家にも生きていて、障子を開け放てば外も内も一体であるし、閉め切っても虫の声や風の音は遮らない。風土がもたらすものは温度も音色も匂いさえも日本人にとっては「恵み」なのである。日本では、「森(杜)には神が住んでいる」もしくは「神が降りてくる」とされている。これが「鎮守の森」の思想である。

神々の森を残した南方熊楠

明治以前は、こうした里山と鎮守の森という在り方が日本の風景の標準であった。ところが明治39(1906)年、「府県社以下神社の神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進に関する件」(※3)が発令された。これがいわゆる「神社合祀(ごうし)令」とされるものである。これによって多くの神社が他社に合祀され、跡地の鎮守の森は失われていった。ヒモロギであった巨樹巨木は切り倒されて売り払われ、境内地も失われた。しかもその売り上げを担当の役人が寄ってたかって着服していたというのだからあきれるほかはない。全国でそれまで約20万社あった神社は、12万社にまで激減した。とくに甚だしかったのは三重県で、約9割が廃された。これに次ぐのが和歌山県で、それまで3700社あったものが790社にまで減らされている。

南方熊楠(写真提供=公益財団法人南方熊楠記念館)

これに歯止めを掛けたのは博物学者・南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867〜1941)であった。神社合祀反対運動に立ち上がり、長文の「神社合祀に関する意見」には激越な反対論が述べられるとともに、鎮守の森がいかなる意義を持っているのか、なぜ廃してはならないのかを、自然の生態系、人間の精神文化、地域の社会的影響などの視点から指摘している。そして、こう述べている。

「神社合祀は愛国心を損ずることおびただし。愛郷心は愛国心の基なり」

和歌山県田辺市の天神崎は、日本のナショナル・トラスト運動の発祥地として知られている。ここは熊楠の散歩道であったが、美しいがゆえにリゾート開発の餌食になりつつあった。長女の南方文枝氏によれば、驚くべきことに「将来ここを不動産業者が買って破壊するだろう」と熊楠は言っていたという。田辺から那智、新宮までの紀南を総称して熊野というが、かつて都からの参詣が絶えなかった地域である。熊野三社(本宮、速玉、那智)の御神体がそれぞれ川、巨石、滝であるように、素朴な自然信仰に発しており、鬱蒼(うっそう)たる神々の森が保持されている。この熊野の森こそが、熊楠の原点なのである。

熊楠が昭和天皇をご案内したことで知られる田辺湾・神島(かしま)の原生林は天然記念物に指定されてかろうじて守られている。昭和4年、熊楠は神島をご案内申し上げ、御進講を行なったが、その際に粘菌の標本をキャラメルの大箱に入れて贈ったエピソードは有名だ。その翌年、南方熊楠の歌を刻んだ記念碑が立てられた。

「一枝もこころして吹け沖つ風わがすめろぎのめでましし森ぞ」

神島(写真提供=公益財団法人南方熊楠記念館)

熊楠にとって、尊皇と愛国は一体であった。熊楠没後の昭和37年、再びこの地を訪れた昭和天皇は、熊楠を大いに懐かしみ「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠まれた。

この歌碑は白浜の南方熊楠記念館の前庭に建立されている。

都市部で失われていく鎮守の森

わが国屈指の鎮守の森・明治神宮が創建されるのは、大正9(1920)年である。造営は大正4年から始められるが、約70万平方メートルにも及ぶ広大な森は、そのほとんどが全国からの献木と勤労奉仕によって全く新たに造り上げられたものである。

明治神宮の鎮守の森(撮影=中野晴生)

現在、全国的に鎮守の森の現状はかなり厳しいと言わざるを得ない。とりわけ都市部では、地価の高騰による土地の活用という名目で、社殿が裸同然にされているところが少なくない。本殿の背後は駐車場に化け、境内にも参集殿と称するビルが犇(ひし)めいている。森を喪失した「裸の神社」は、残念ながら人々に尊崇の念を起こさせない。

社殿がなくとも、森さえあれば人々の心は寄り添うことができるのだ。それが、日本古来の信仰の形である。明治神宮のあの豊かな森を数十年で生み出したことを思えば、各社の鎮守の森を復活させるのは不可能ではないだろう。

バナー写真:大都会東京に残された貴重な明治神宮の森(写真提供=明治神宮)

(※1) ^ 氏神とは、文字通り「氏の神」である。すなわち、同族の祖先神であり、同じ祖先を持つ一族が崇敬する神、もしくはその祖先神である。その神を祀る神社を氏神神社と呼ぶ。ただ、現在では、神社の祭祀区域に居住する者を氏子(うじこ)と呼び、氏子にとってはその地域の神社を氏神神社とも呼ぶようになっている。

(※2) ^ 生まれた土地の神を産土神という。その人の一生を守護する神。それゆえ、初宮詣でを産土詣りとも呼ぶ。長じて他の地域へ転居すると、氏神は転居先の氏神となるが、産土神は転居とは関わりなく、生涯変わらない。

(※3) ^ いわゆる「神社合祀(ごうし)令」のこと。この政令によって、地方の小規模な神社は中規模以上の神社に合祀され、社殿は撤去、境内地はすべて処分された。


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40023330V10C19A1960E00/ 【熊楠エコロジーの原点 飛瀧神社周辺 原生林(もっと関西)】より

紀伊半島の熊野は古代から神秘的な聖地とされてきた。1000メートル級の尾根が連なる峻険(しゅんけん)な山地と豊かな清流は、自然そのものを信仰する文化を育んだ。その象徴的な地域といえるのが那智の滝と、滝そのものを御神体とする飛瀧(ひろう)神社周辺の原生林だ。明治から昭和にかけて活躍した博物学者、南方熊楠が魅(み)せられ、エコロジーにつながる思想を巡らせた場所でもある。

落差日本一誇る

熊野那智大社の別宮である飛瀧神社の鳥居

那智の滝は実は1つではない。一段の滝として日本一の落差(133メートル)を誇る有名な滝は「一の滝」と呼ばれ、上流には二の滝、三の滝も存在する。一の滝の上流は神域で普段は立ち入ることができない。ただ、地元の観光協会に申し込むと2~5月に入ることができる。今回は特別な許可を得て足を踏み入れた。

観光地ではないため通路は整備されていない。時には細い突起物に足をかけながら、岩伝いに進まなければならない場所もある。ただ原始の姿をとどめる樹林は神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる雰囲気に包まれ、厳かな気分になる。

修験道を修行する山伏たちも、厳しくも清澄な環境の中で信仰心を磨いたのだろう。熊野をあつく信仰した花山法皇が10世紀後半、庵(いおり)を編んで修行したと伝えられる巨岩も残る。

神社の御神体、那智の滝の周辺には照葉樹の原生林が広がる

神域を45分程歩くと、二の滝に達した。落差は約23メートル。一の滝ほどの迫力はないが水量は多く、なかなか見応えがある。さらに20分ほど進むと三の滝(落差約15メートル)に到着する。

この辺りにはシイ、カシ、タブノキなどの照葉樹が手つかずのまま残る。またユリ科の植物で絶滅危惧種であるキイジョウロウホトトギスなどの珍しい植物も見つけることができる。

那智の原生林は広さ約32万平方メートル。年間総雨量が3500ミリを超す温暖多雨の気候に恵まれ、原生林を調査した研究者の報告書には、158科1013種の植物が記載されているという。南方熊楠記念館(和歌山県白浜町)学術スタッフ、土永知子さんは「この規模で残る照葉樹の原生林は全国でも珍しい」と話す。

採取に3年没頭

「二の滝」そばの原生林。南方熊楠はこの周辺で植物やキノコ、粘菌の採取に没頭した

こうした豊かな自然に魅了されたのが南方熊楠だ。熊楠は1901年から約3年間、那智の原生林で植物やキノコ、変形菌(粘菌)などの採取に没頭した。熊楠の日記には那智での採取を終えたころのメモとして、那智周辺も含め682種という数値が書き込まれているという。

ただ熊楠の標本は、いつどこで採取したかなど細かいデータがない物も多い。また原生林での活動について論文を書いておらず、植物分類学上の業績を挙げたわけでもないようだ。では熊楠は何のために、原生林に籠もっていたのか。

熊楠作製の標本には、熊楠が那智の原生林の植物を網羅的に採取したような形跡があるという。土永さんは「熊楠は自然の中にある要素を個別に分析するのではなく、全体として捉えることで奥に潜む真理を見いだそうとした」とみる。

南方熊楠記念館の谷脇幹雄館長は「那智原生林は、万物が相関するという熊楠の思想を生み出す原点となった」と指摘。こうした思想を「現代のエコロジーの概念の先駆け」と評する。

聖地熊野の探求は、現代人の「自然との共生」を考えるヒントにもなる。

文 和歌山支局長 細川博史

写真 善家浩二

南方熊楠=南方熊楠記念館提供

南方熊楠(みなかたくまぐす) 植物学から民俗学まで幅広い分野で活躍した博物学者。1867年和歌山市生まれ。東大予備門中退後、欧米を巡りながら研究した。英科学誌「ネイチャー」に51本も論文が掲載され、粘菌などの研究成果は高く評価されている。日本で最初に自然保護運動に取り組んだとされ、人間と生態系の関わりについて深く考察したエコロジーの先駆者としても注目されつつある。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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