人を撃つ人を撃つ人春うらら

https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/5633 【ティク・ナット・ハン(釈一行)禅師 追悼 バトンはわたされた──20 世紀の苦海に降り立ったマインドフルネスの菩薩より  池田久代

】より

はじめに

 2022年1月22日午前零時、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン師がその95年の生涯を閉じられた。1966年に祖国ベトナムを後にして、52年の歳月ののち、2018年に祖国帰還が許された。

 赤と黄色の鮮やかな民族衣装の弟子たちに運ばれていく葬列は、晴れわたったベトナムの空のもとで、師が愛したフランス、ボルドー地方の修行センター・プラムヴィレッジの広大なヒマワリ畑を歩かれる師のお姿を思い出させた。師が友の死に際して綴った静かな慟哭が、私たちの胸に迫ってきた。

  人生が わたしの額にあしあとをつけた でも けさ わたしはひとりのこどもに返る

  木々や花々に見つめられて  微笑みが戻ってきて 額の皺をのばしてくれた

  雨が浜辺のあしあとを消し去るように そして 再び 生と死がめぐり始める

  わたしはいばらの道を歩いている  それでもしっかり顔をあげて

  花のなかを歩むように歩く すると爆弾や迫撃砲のなかで歌の花が咲きだし

  きのう流したなみだが雨になる わら屋根に落ちる雨音を聞いていたら

  こころが鎮まり  子ども時代が ふるさとが 私を呼んでいる

  そして 雨が絶望を溶かしてくれる わたしはまだ ここでこうして 生きている

  そして しずかに微笑むことができる  ああ 苦しみの木に実ったあまい果実

  兄弟のしかばねを抱いて  わたしは暗い稲田を渡る

  大地がきみを両腕に抱きしめてくれる 兄弟よ

  だから あした きみは花になってふたたびよみがえる

  朝の野でしずかに微笑む花になる そのとき きみはもう嘆かない 愛しい兄弟よ

  わたしたちはいっしょに長い夜をぬけたのだから けさ  草のうえにひざまずくと

  きみの気配がただよってきた こぼれるような神秘の微笑みを湛えた花々が

  しずかにわたしに語りかける メッセージ  愛と理解というメッセージが

  わたしたちのもとに届いた

 (ティク・ナット・ハン ‘Message’, Saigon, 1964.In "Call Me By My True Names”, 1993. 訳者翻訳)

 師の西欧での活動と生き様はさまざまに形容されてきたが、私にとって何よりも、師は自然の声(究極の次元)を聞く偉大なる詩人、あるいは預言者(プロフェット)であった。この地上を覆う苦しみを微笑みに変える魔法の言葉を紡ぎ続けられた。「ゆっくりと歩いて、微笑みましょう。世界は美しいものに満ちている」。白い雲、滔々と流れて海に注ぐ川、風の音、鳥たちや花や木々の声。慈孝寺での最後の日々、師は動く方の手をあげ、小さく声を発しながら何かを指し示しておられたという。「今の私を見て悲しまないで、あれを見てごらん、これを見てごらん」と。苦ではなく美しい癒しの世界を見るようにと、最後まで教え導こうとされたのかもしれない(愛弟子シスター・ チャンドックの述懐)。

1 平和の道――今ここのわが家に戻る

 タイ・ナット・ハンは16歳でフエの慈孝寺で得度し、40歳で慈孝寺の法灯を伝授された(ベトナム禅宗柳館派8世、臨済正宗竹林派42世)。南北分断と対米戦争の中で「社会と関わる仏教」(Engaged Buddhism)を起こして、仏教の刷新・近代化に立ち上がった若き闘士であった。ブッダの教えに深く根ざした「生きる縁(よすが)としての仏教」、ブッダの教えをその身で生きて、苦しみ(苦)を喜び(楽)に変容していくための方法を人々に教えることが、師の仏道であった。ベトナム戦争の泥沼の攻防戦の中で、ベトナムの苦しみは、アメリカの苦しみでもある、加害者も被害者もない相互存在(インタービーイング・縁起)こそが、平和の道だと唱えられた。師の原点がここにある。「平和への道はない、平和こそが道だ」。一人ひとりが、その一歩一歩のあゆみの中に心の平和・安寧・静寂を実現することが、ブッダが教えられた「命(平和)の道」であり、ダライラマ14世とともに世界に向けて訴え続けられた地球仏教への道であった。世界的なブームを引き起こした師の「マインドフルネス」という造語は、ブッダの教えの「八正道」の「正念」の英訳だが、その内実は「今、ここを生きる」、「今ここに戻って、自己の内と外を深く見つめて理解の眼(洞察・智慧)を育てること」であり、自己と世界に平和と癒しをもたらす方法論であった。

 ナット・ハン師は言動一致の実践の人であった。その悲願は生涯を通して、大乗仏教の「衆生済度」の具体的な方法を人々に伝え、ともに実践することであった(師の平和運動や、戦争被災者・難民の救済活動については、拙訳『微笑みを生きる』(春秋社、1995年/新装版、2011年)の訳者あとがきや、同書に収録された中野民夫氏の「個人の安らぎと世界の平和はこの一歩一歩から」などでも紹介されているので、参照してほしい)。

 

2 東西の対話――イエスとブッダは兄弟

 半世紀をこえる西欧での亡命生活の初期に、パリのベトナム仏教平和代表団のアパートで、師ははじめて西洋人の弟子たちに仏教のマインドフルネスの瞑想を教えられた。『マインドフルネスの奇跡』(原書初版、1975年、邦訳『マインドフルの奇跡』壮神社、1995年、『〈気づき〉の奇跡』春秋社、2014年)は師の記念すべき手刷印刷本となって世界中で読み継がれた。

 真の対話を実現するためには、西洋の人たちにも仏教のマインドフルネスの練修が必要だった。イエスとブッダを等しくスピリチュアルな先師として、両者の教えを深く学びながら「地上の平和」を築こうとされた師のエキュメニカルな活動に対して、2015年にローマ教皇庁より「地上の平和賞(パチェム・イン・テリス賞)」が授与された。公民権運動のマーティン・ルーサー・キング牧師、マザー・テレサなどのキリスト者に次いで、師の教えと実践がはじめてキリスト教世界に届いた。「あなたが本当に幸せなクリスチャンであれば、あなたは立派な仏教徒でもあるのです」(『イエスとブッダ――いのちに帰る』原書初版、1999年、邦訳、春秋社、2016年)。アメリカでの同志リチャード・ベーカー老師の名言がある。「限りなき実在の人、人間として、仏教の大家としての矜持。もし今日、この地上に「生けるブッダ」と呼べる人がいるとすれば、その人こそ、ティク・ナット・ハン禅師である」。

3 日本への波

 1995年に日本リトリートが実施されるまでは、一般の人々にとって、師の存在も教えも未知のものだった。師と日本との関係が始まったのはベトナム戦争中の1956年以降で、当初はベトナム仏教徒の代表としての来日であった。師は5月の母の日に赤と白のカーネーションを胸につける日本の母の日の習慣を見て感動され、帰国後、『あなたの胸にバラを』(1962年)を出版された。母への愛と慈しみを表現したこの母の日の習慣は、ベトナム中で愛されるようになったという。そして、京都で開催された第1回世界宗教者平和会議(WCRP)での閉会講演(1970年)では、宗教の役割について語られた「私たちは何か新しい組織や新しい教理によって救われるのではありません。人間自身によって救われるのです。……いかにして人は己と被造物の回復をみることができるのでしょうか。これが宗教の役割です」。

 この来日から25年ののち、20世紀も終わろうとする1995年に、アメリカで師の仏教を学んだ有志によって来日が実現した。この日本縦断リトリート(大阪、京都、山梨、鎌倉、東京)で初めて、宗教者だけでなく、一般の人々がプラムヴィレッジスタイルのプラクティスを学ぶチャンスが訪れた。

 その後、個人をベースとしたサンガづくりという活動は盛り上がりを欠いていたが、細々と師の著作の翻訳は続いてきた。この間に、マインドフルネスの教えは、地球を一周して、西欧経由でアジアに戻り、2008年にはタイ国にプラムヴィレッジ修行センターが創設された。日本でも、2015年に富士山麓で大規模なリトリートが復活することになり、以後、コロナ前までは、ベトナムやタイ国在住の師の弟子たちによって、全国規模の富士山麓リトリートが実施された。そして今日まで、日本全体の瞑想会が立ち上がり、各地でのオンラインサンガの活動が広がっている。

 1995年4月末からの第1回日本リトリートは、阪神・淡路大震災とオウム真理教によるサリン事件の直後であったが、師は毅然として焦土と化した神戸に降り立たれた。2011年の第2回リトリートは3月の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故のために突然の中止を余儀なくされた。2015年の第3回目は、脳出血(2014年秋)のため師ご自身の来日は叶わなかったが、世界中からプラムヴィレッジの弟子たちが駆けつけ、素晴らしいリトリートが実現した。師の物理的不在はプラクティスに取り組む一人一人がひとりの小さなブッダ(気づきの人)となって、今ここにあるわが家に戻る練修となった。

 日本へのお迎えのたびに、未曾有の大天災が起こり、生身の師の教えが阻まれてきたが、その不在の中においてさえ、理解と愛のタネは着々と播かれていった。そして今、マインドフルネスのサンガの輪は確実に育ち始めている。

おわりに 

 敬愛するティク・ナット・ハン師は、ベトナム戦争の明日をもしれぬいのち瀬戸際で「無条件の愛のちから」に目覚め、祖国をあとにされた。そして今、ベトナムの大地からその身を解いて果てしない光の世界へと旅立たれた。その愛は何者にも傷つけられない、すべてを超越した究極の愛(空)、無常と無我を超えて生き残る愛だった。燃やされて灰になっても、その灰は愛となって大地のふところに戻って野の花を養う。憎しみかたを知らない愛。永遠の愛というメッセージを伝えるために、花や草や鳥や雲となっていのちの輪に戻っていく愛だった(『禅への道』原書初版、1998年、春秋社、2005年)。  

 師が生きて来られた95年の歳月は、この無条件の愛のちからを伝える生涯だったように思われる。「敬意が私の愛の名前」(Reverence is the name of my love)。20世紀は戦争の世紀、人類の未曾有の発展の裏に、いのちを奪いあう苦しみが存在した。どの時代にも苦しみはあったはずだが、現代という時代ほど、外なる苦しみ(戦争、暴力、人権の侵害)に加えて、内なる苦しみが増大した時代はなかったように思われる。

 ベトナム戦争という苦海の体験を通して、仏教のあるべき姿を模索し、菩薩への道を開き、外なる平和と内なる平和を不二の精神で歩まれたタイ・ティク・ナット・ハンの愛のちからは、確かに私たちのもとに届けられた。私たち一人ひとりが継承していく心の遺産として。

 「バトンはわたされた」。理解と愛を求めて「今ここのわが家」に戻ってくださいという師のメッセージをしっかりと受けとめて、私たちは永遠に消えない師の新たなる「継続」を引き継いでいきたい。姿は見えなくとも、慈愛に満ちた心で、わたしたちの帰りを待っていてくださる師がここにおられるから。「息を吸って、ほら私はここにいる!」

  わが子よ、あなたを待っています

  山も川も定まらぬはるか昔からずっと

  あなたを待っています

  なんど法螺貝が十方に鳴り響いても

  あなたは深いまどろみのなか。

  わたしはこのいにしえの山から 遥かな国々に目をこらし

  遠い道を往くあなたの足音を聞いていた。

  どこへいくのですか、わが子よ。 

(「わが子よ、あなたを待っています」第一連より、翻訳著者。

A Teacher Looking for His Student, 2000, ティク・ナット・ハン)

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