【犬は友達・無条件の愛と信頼の持ち主】
後ろから見ると新品同様のワンピースが前から見ると ドロドロ!これが幼い私の「犬は友達」の目に見える証なのです。
私が幼い頃 野犬は自由にうろうろしていました。雨上がりであろうと何であろうと私を見つけた友・犬は駆け寄ってきて飛びつくからです。
初対面の犬でも さっと手を出して 仲良しになっていました。
どうやらこの性格は娘にも引き継がれたようです。
彼女の通う小学校のすぐ近くに「噛むので注意」と警告されている飼い犬がいました。
それでも彼女はその犬に触らずにはおれず 何度も噛まれてしまいました。
性懲りもなく噛まれる娘に「噛まれたらどうするの?」と尋ねると「イーダ!というの」がその答えでした。
そんな犬がある日 野犬狩りに会うのを目撃しました。
男が二人で 輪っかにしたワイヤーを持って 友・犬を追いかけるのです。
犬は床下に逃げ込みました。
男たちももぐりこみ ワイヤーを犬の首にひっかけ 引きずり出しました。
そして 犬は檻に入れられ トラックで連れ去られました。
私は「止めて!」の一言も言わず 体を固めて見送りました。
書きながら 涙が溢れ続けます。
【愛の循環】
里親募集のページを観ると ラブラドール・リトリバーが一番多くいました。
らんも「老夫婦では手に負えないからという理由」でブリーダーさんの所に 出戻りになった犬でした。
ラブはとてもフレンドリーです。命の輝きに満ち、好奇心いっぱいです。言葉を変えれば悪戯っ子です。
「らんはトイレット訓練もでき、ゲージ内で寝るから」というお墨付きで我が家に来ました。然し初日にゲージは踏み倒して役立たず、部屋に閉じ込めるとドァも柱も引っ掻き続け 自分で開けてしまうほどでした。終にフリーにし、夜はベットで一緒に寝ることになりました。
初めての年末にお風呂に入れ シーツ二枚を使ってようやく全身を乾かしました。
しかし 私がお節料理を作っている間に こっそりお風呂にもぐりこみ 蓋に乗って お風呂に嵌り込んでしまいました。好奇心と悪戯の事はじめです。
家族が外出すれば 我が家はらんの天下になります。ベランダからピートモスを持ち込み、部屋中にまき散らしたり羽根枕を振り回し、引きちぎり 部屋中羽だらけにしたり・・・・
それはそれは大変でした。怒るなと言っても怒らずにはおれません。
ですから 飼い主が持てあます気持ちが解らないわけではないのですが わが子だったらどうするのでしょうね?
あまりにも人間の身勝手さを思わずにおれないケースに2例出会ってしまいました。
次の投稿でご紹介します。
一例は里親募集のページで見た ウィルです。
【里親募集のページ記事抜粋】
「飼い主(老夫婦)自らセンター(保健所)に持ち込まれた子です。
引っ張りと、吠え等で殺処分対象となってしまい、殺処分間近だったため、NEWWAYで引き出し保護致しました!(2014.3/12)
引っ張りと吠え等の問題行動については、3/16に矯正完了致しました!
今では、吠えもなく、代表が自転車お散歩40分程連れて、元気発散しております♪
(NEWWAY代表がスペイン本校ファンデーションボカラン公認ドッグトレーナーです)
中略
そして、まだ、飼い主の匂い、人が通るたびに匂い、探し求めます。。。切ないです。。。
裏切られてもやっぱり飼い主大好き。。。ウィル。前向きに忘れて♪
これからウィルを一生守ってくれる本当の意味で優しいご家族さまを探そう!」
もう一例はテリー、ユーチューブで見ました。
ラブラドール・リトリバーのテリーは 子犬の間は可愛がられていましたが 大きくなると疎んじられ 終にはシェルター送りになり、色々な経緯から「少年院で、指導員も手を焼く程の札付きの暴力少年」に一命を預けることになりました。
両親から見捨てられ、愛を失った少年は「人間を警戒し、牙をむくテリー」に「傷つき痛んだ自分」を重ねて見たのだと思います。
テリーは少年の差し出す 強引な食事には目もくれず 命の危機を思わすほど断食を続けますが 指導員の指示で少年が「テリーの意志を尊重する」こと、「目を観てコミュニケーションする」ことを学び、犬と少年の間に友情が芽生え テリーの訓練が完了しました。
訓練を終えたテリーは自閉症児に引き取られ 紆余曲折がありながらも 犬と少年と自閉症児の間に 深い信頼と絆が生まれました。
その絆は少年の社会復帰を助け、自閉症児は症状の改善に預かり、大学生としての社会適応を果たす力となりました。
愛は愛を育て 循環する愛のエネルギーを生み続けるのではないでしょうか?
死と再生は一つ 命の営みそのものは死と再生の繰り返しです。
私たちは 動物の命を食することで 罪責感を煽られますが それは人間の死への恐怖の投影現象と言えるのではないでしょうか?
愛犬らんは 年老いて 自分の力で二階に上がれなくなってからはそれまで恐れていたものに対し 何一つ動じなくなりました。
命は命の循環によって支えられます。
肉体の死を白装束で祝う文化も 喪服で嘆く文化も存在します。
聖書には一粒の麦が死ぬことにより 千倍、万倍の麦の命を結ぶ譬え話があります。
同じく聖書の創造物語では 人間が 動物、植物を(感謝を持って)食することは 祝福されています。
また命は循環することで 進化の過程をたどります。動物が死を恐るとは 人間の勝手な感情移入かもしれません。
そのうえ「奇跡の脳」の著者ジル・ボルト・ティラーさん(左脳出血から立ち直った 神経細胞学者)は 左脳が鎮まるとき「人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心が和んでいきました。」「意識は悟りの感覚、あるいは意識と融合して『ひとつになる』ところまで高まっていきました。」「心地よいのです。」と語ります。
人間は左脳に後悔や、思い残すことがなければ 安らかな死を迎えうるとも言えます。
思い残すことがないとは「人生でやりたいと願ったことが完了した」あるいは「自分を必要としているものが居ない」、「別れを嘆くものがいない」ことかもしれません。
あるいは人生に飽き飽きしていることかもしれません。
いずれにしても 生と死はセットであり 死が前提の(他の死によって支えられる)命の歩みを感謝を持って歩みたいと願います。
修道院では「メメントモリ(死を覚えよ)」が挨拶だと言われます。
死を覚えることは生を問うこととも言えます。
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