高橋昌紀@takahashi_mas
「近代市民社会から現代大衆社会もきわまる平成の今日へと、社会と個人の「存在」の崩壊が進む中、俳句もまた「座」のみならず「創作の主体性」も希薄になりつつあるのではないか」。慧眼です。
https://mainichi.jp/articles/20181022/ddm/014/070/006000c 【俳句月評:平成後の「主体」とは=岩岡中正 - 毎日新聞】より
『俳句αあるふぁ』が秋号で、「平成の暮れに」を特集。その中の鼎談「『平成』と俳句」で「俳句における平成」の特徴として、第一に長谷川櫂は「末期的大衆俳句」をあげ、「俳句大衆の変質・劣化」、リーダーと「批評の柱」の不在、さらにはネットとの関係にふれつつ、全体として平成の俳句状況を憂える。
リーダー論はともかく、これらの指摘は私の実感にほぼ近い。近代市民社会から現代大衆社会もきわまる平成の今日へと、社会と個人の「存在」の崩壊が進む中、俳句もまた「座」のみならず「創作の主体性」も希薄になりつつあるのではないか。
さらには第二の特徴として宮坂静生は、続発する天災人災による「数多の死という体験」をあげる。この危機と衝撃で私たちはあらためて無常に目ざめるとともに、長谷川が指摘するように、リアリズムを超えた、他者への想像力という俳句の可能性を自覚しはじめた。私は、平成後の俳句の展望は、「存在の崩壊」を超えた、想像力による「関係の回復」から始まると思う。これは、水俣病患者たちと「道行き」をした「悶(もだ)え神」と…
http://manabu5577.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-fc758d.html 【俳句 令和につなぐ課題=岩岡中正】より
平成から令和への改元は、私たちが「戦後」の終りを考えるきっかけになった。
昨年は金子兜太、大峯あきら、石牟礼道子の三俳人の死があった。
金子は戦後なお未完の「主体性」を、大峯は近代を超える俳句の「哲学」を、石牟礼は「己」を超える「道行きと救済の文学」を問うた。
これらの課題はいま、たとえば、第一に、現代俳句協会青年部による、戦前の弾圧で未完に終った新興俳句への注目や主体性への問いかけ、
第二に東日本大震災後の今日、高野ムツオ『語り継ぐいのちの俳句』や赤間学、
中嶋鬼谷、照井翠らの作品をふまえて、自己=他者の互換の力である想像力による、
たんなる震災詠から震災文学の構築へ、さらに第三に、小川軽舟『朝晩』、稲畑汀子
『俳句を愛するならば』、神野紗希『女の…>以上 一部掲載させて頂いた。
詳しくは2019年12月16日 朝刊を。
俳句月報より
ここの記事で 赤間 学を紹介して頂き感謝しております。
今後も 震災からの復興に携わっていきたいと思っています。
https://ameblo.jp/sakadachikaba/entry-12604769574.html 【変だよ、長谷川櫂さん―俳句の話】より
「俳句αあるふぁ」夏号は「飯田龍太と出会う」を特集していて私も寄稿しました。夏井いつきさんや斎藤愼爾さんの龍太論にはかなり不満ですが、一番不満というか、それはないでしょ、と思ったのは長谷川櫂さんの「品について」でした。
櫂さんは詩人の大岡信さんの「文学は人柄」という言葉をあげて、龍太の人柄に品があったというのです。人柄に品を感じるのは自由ですが、人柄の品で俳句(文学)を語ることには賛成できません。いや、人柄で俳句を語ってはいけないのではないでしょうか。
俳句は、その発生時期以来、品のないものでした。和歌や連歌の品に反発し抵抗して俳句はその存在理由を持ち続けました。俳人が自ら品を口にするとき、その俳人は品を否定する俳句の勢いに乗れなくなったときでした。つまり、駄目俳人になると品を口にし始めます。
櫂さんは大岡さんの「酒には品が大切だ」と結ばれる詩を挙げていますが、この詩、人柄の品などを軽く超えていますよ。だから、「始祖鳥が羊歯をかきわける/ジュラ紀のころの夕焼けに立つ」のだし、「憎んでいたゐた敵たちとも/なつめの木陰のテーブルで/講和する気分」になるのではないですか。
櫂さんは今を「末期的大衆俳句の時代」と呼んで、私利私欲に右往左往する俳人をののしています。でも、俳句っていつの時代も今のようだったのではないでしょうか。櫂さんは「末期的大衆時代の俳句」のシンボル的存在ですよ。
筍や大空間に一二本
筍や人間になる気などなく
団扇より殺気ありけり蠅叩
人生を曳きずる音も炎暑かな
風鈴は小さき翼を休めたり
櫂さんが「俳句αあるふぁ」夏号に載せている10句から前半の5句を引きました。はっきりいって、私が選者をしている欄に投句されたとしたら採りません。団扇や風鈴の句には小賢しい知恵しか感じないし、人間になる気、人生を曳きずる音も同様です。最初の筍の句は、大空間という語が妙に新鮮です。筍に寄り添っている感じがいいです。もっとも、以上の5句に「品」などはまったく感じませんでした。鈍感なのかも、ねんてんは。
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