Facebook清水 友邦さん投稿記事 「空っぽの鏡」
日本語のカガミ(鏡)はガ(我)を取ると境界線のないカミ(全体)になります。
(カ)は産み育てる母さんの(カ)であり、(ミ)とは本質のことです。
それがカガミの言霊です。
人生ではマインドの表面に湧き上がる怒り、悲しみ、絶望、不安、笑い、歓喜とあらゆる感情に巻き込まれて自分を見失う経験をします。
私たちは心に波立つ感情や考えに同化している為、本当の自分に気づけないのです。
鏡に映し出される映像から物語を作り、それを真実と思っています。
鏡は次から次へと様々なものを映し出しますが、鏡自体は何も変わりません。
どんなに酷いことが鏡に映し出されても鏡自体が酷いわけではありません。
鏡に映った姿が汚れている様に見えますが鏡自体が汚れているわけではありません。
鏡が苦しんだり、悩んだり、迷うことはありません。
鏡に映し出される喜怒哀楽のマインド(我)を私と思っていますがマインドに実体はありません。
仏教は自我に実体がないと教えます。
世界のすべてはうつろい、変化します。(諸行無常)
あらゆる事象に実体がありません。(空性)
全ては関係によって支えられています。(縁起)
永遠不滅の自我は存在しません。(諸法無我)
わたしという現象はマインドが作り出している因果交流電燈のひとつの青い照明なのです。
自我はたくさんの過去の記憶や感情、思考で出来ています。
思考はうつろい、変化してゆく実体のない諸行無常なものです。
思考を私と思い込んでしまっているのが私たちです。
心を静かにすることが瞑想やヨガや祈りです。
心が静まった時、心の水面が鏡の様になり、あるがままの景色が映し出されます。
仏教では思考のフィルターを通さずに全体があるがままに映し出される知の様式を「明鏡止水(めいきょうしすい)」や「大円鏡智(だいえんきょうち)」と言いました。
迷いから抜けられない人々は妄想によって鏡が曇っていると仏教では教えます。
心に映し出される映像が実体のないマーヤだと気がつけば、思考が作りだす物語は一瞬にして消えます。
思考は過去を思い出しては悔やんだり、未来を想像しては不安や心配しています。
思考は今ここにいられないので心が今ここにある時、思考する私は消えます。
私という思い込みが世界を分けています。
私たちの知覚は思考によって制限されています。
本来の姿から遠く離れた状態で過ごしています。
あるがままの世界を分離して見ているのです。
世界を分けている境界線が消えると外と内の区別も消えて世界は一つの全体に戻ります。
汚れることのない空っぽの鏡が心の本性なんです。
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