連想と直感による生の実相

https://blog.goo.ne.jp/mitunori_n/c/45ca2a4d92300b8b28b1fbaed2ddd04f/2 【第15号【首藤基澄「俳句」】】より

はじめての首藤基澄「俳句」~連想と直感による生の実相~

永田満徳

 首藤基澄は『己身』(平成五年十一月、角川書店、熊本県文化懇話会賞)などの句集を出している俳人である。その一方、『「仕方がない」日本人』の他に、多くの研究書を書いている文学研究者である。

 坪内稔典をして「近代文学の方法を俳句で実践した」と言わしめた首藤俳句について論じたいと思っていた。ここにその手掛かりを得ることのできる『わが心』(私家本)が上梓された。『わが心』は遺句集と遺稿集とで編集されていて、遺稿集は自注自解である。この書からは首藤基澄が目指す俳誌「火神」の「本会は写生を基本とし、直感・連想によって自然・生の実相にアプローチする俳句」の方向性がつぶさに見て取れる。

 「火神」の揚言に正岡子規が発見し唱えた「写生」を出発点に据えるのは、観念的で空疎にならないための、現代俳句を詠む場合の基本である。特徴的なものは「生の実相」という、何かと問われればすぐに答えられない言葉である。

 首藤俳句で見てみると、「櫨の実やこころにかかる煤のごと」の自注自解では「櫨の実」の「うす汚れた感じ」を「自分のこころ」と重ねられている。「孤寂なるいのち」とも言い換えられ、「私の生に密着した句」として提出されるところに最もよく特色がある。この「生」、あるいは「心」に依拠するのは、「日頃孤心に向き合い、他に頼らず己身が本尊と、自立して生きよう」とする姿勢から生み出されるものである。これが「生の実相」である。

 首藤俳句は「写生」の眼を通して、「生」と不可分の関係にある「心」、つまり首藤が研究の場で心掛けている「抓れば痛いわが身」の「直感」に呼応し、さらに「連想」の過程で反芻に反芻されて、ようやく一句が成り立つしろものである。首藤俳句の成り立ちを見たとき、句の背景に思い及ばなければ真の理解に至ることはできないことが分かる。

 その首藤俳句の背景としては言うまでもなく、文学研究で培われた膨大な素養である。例えば、

   油照り駝鳥の頭ぼろぼろに

   道遠く光雲像の髭の冷え

などは、高村光太郎研究の第一人者の面目躍如たる発想がある。前者は光太郎の有名な詩「ぼろぼろな駝鳥」から得たもので、「夏の一番暑いとき」「じっと耐え、ことばを紡ぐ外ない」と述べられていて、句の背景が光太郎の詩であることが明らかにされている。後者は「道程」の詩を思い、「光太郎の苦難に満ちた道程を、この時私は論理的にではなく感覚的に捉えていた」と書かれていて、句の発想の原点が示されている。

   海苔巻に風のかたみの花樗

 福永武彦の小説『風のかたみ』の題名が句に詠み込まれて、福永武彦研究者として「『風のかたみ』には私の好みが反映している」と言い、三木露風作詞の日本歌曲「ふるさとの」の情感がからみ、句中の「風のかたみ」が「実存を意識させることば」であるというのである。小説『風のかたみ』が孕んでいる王朝ロマンの内実の重みを知ってこそ、この句を味わうことができる。

   遠方のパトス冬夜にしみる音

 福永武彦の『遠方のパトス』という短編小説の題が使われて、「パトス(情熱)に『遠方の』という修飾語が来て、静かに持続するかたちをとる」との見解が述べられている。首藤俳句を読み解くには、首藤の知的ワールドに肉薄できるだけの素養が必要であるということである。

 次に来る背景は、特に父を素材とした句群である。父の「意外な美意識」や父のタイプのことは、「父」の詞書のある「鎌の柄に振花結はへ立話」の自注自解に述べられていて、詳しくはそれに譲ることにする。文芸の世界では母恋こそすれ、父への思慕は極めて少ないので、異色である。

   独活の花父の投網は低く飛び

 父の「投網」の流儀への賛仰の句といっていい。「私も子供の頃やってみたいと思った」とあるように、子供心に宿っていた想いが蘇っているのである。

   峡を行く汽車鷹揚に父の稲架

 「鷹揚な父」への思慕が背景になっていることが印象深く刻み込まれる。この句の自注自解に「私の郷里は大分県大野郡大野町」として紹介されている。「父」と「故郷」とは分かちがたく結び付いているのである。

ところで、首藤が「連想」と同じく、「直感」を重視するのは、例えば「エロス」を感じる句に見られる。

   オートバイ黒き裸身を這ふ花片

「 オートバイ」を「裸身」と詠むのは、「オートバイの黒光りするボディのふくらみにエロチックな美を感じ、『裸身を這ふ』となった」からである。確かに「黒光りするボディのふくらみ」に「エロス」を感じる感覚は理解できる。

   しどけなき裸身や春の霜柱

 同じく「裸身」の措辞が出てくるこの句は独特である。この句の場合、「北外輪のミルクロードで見た霜柱に私はエロスを感じた」とあるように、直感的に「エロス」を感じる繊細で若々しい感性が窺える。

首藤俳句はそれこそ、全身全霊から描き出される「生の実相」であり、首藤ワールドを推し量り、鑑賞すべきものである。つまり、「連想」の背景と「直感」の手法が分かって初めて分かる俳句が首藤俳句ということになる。

俳句は一句で理解が完結するものである。しかし、一句に込められる詞藻の豊かな首藤俳句を理解するには、『我が心』「遺稿集」の自注自解は有益である。そのことを如実に教えてくれた功績は大きい。

             (ながた みつのり/熊本近代文学研究会)


https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19991113,20010223,20061220,20071114,20081119,20090715,20130213,20150715&tit=%8E%9B%93c%93%D0%95F&tit2=%8E%9B%93c%93%D0%95F%82%CC 【寺田寅彦の句】より

November 13111999

 藁屋根に鶏鳴く柿の落葉かな

                           寺田寅彦

作者は物理学者、随筆家。漱石『三四郎』の登場人物・野々宮宗八のモデルとしても有名だ。さすがに科学者らしく、寅彦の句作姿勢は理論的であった。すなわち「俳句はカッテングの芸術であり、モンタージュの芸術である」と。森羅万象のなかから何を如何に切り取り、それを十七文字のなかに如何に巧みに配置するのか。そういう方法で成立する「芸術」だと言っている。俳句はロシアの映画監督・エイゼンシュテイン(『戦艦ポチョムキン』など)の映像技術に影響を与えたが、寅彦の理論とぴったり符合する。見られる句と同じように、他の寅彦作品でも、心情や感情を生で吐露したものはない。徹底的に「カッテング」と「モンタージュ」を繰り返しながら、自分なりの小宇宙を作り上げようとした。掲句も、きわめて映像的な趣を持っている。「鶏鳴」と「柿落葉」の取り合わせ。モンタージュ的にはいささか付き過ぎの感もあるけれど、往時の光景はよく見えてくる。ちなみに、作句は1900年の晩秋だ。前世紀末のこの国の日常的な光景のスナップである。とくに草深い田舎の光景ということではないだろう。『寺田寅彦全集』(1961・岩波書店)所収。(清水哲男)

February 2322001

 煙草屋の娘うつくしき柳かな

                           寺田寅彦

たいした句ではないけれど、たまには肩の凝らない句もいいものだ。「うつくしき」は「娘」と「柳」両方にかけてある(くらいは、誰にでもわかるけど)。この娘さん、きっと柳腰の美人だったのだろう。その昔の流行歌に「♪向こう横丁の煙草屋の可愛い看板娘……」とあるように、なぜか(失礼)煙草屋の娘には美人が多かった。というよりも、実際はなかなか若い娘と口を聞く機会がなかった時代だから、客としておおっぴらに話のできた煙草屋の娘がモテたと見るべきだろう(またまた失礼)。芽吹いてきた柳は、うっとりするほど美しい。したがって、春の季語となった。かの寺田寅彦センセイから、揚句の娘さんは柳と同じように「うつくしき」と詠んでもらったわけで、曰く「もって瞑すべし」とはこのことだ。それがいまや、煙草屋から看板娘が消えたのもとっくのとうの昔のことで、さらには煙草屋の数も激減してしまい、自動販売機が不愉快そうにぼそっと突っ立っているばかり。とくれば、世に禁煙者が増殖しつづけているのも当たり前の成り行きか。ところで一方の柳だが、さすがに美しさを愛でた句は多いのだけれど、なかには其角のように「曲れるをまげてまがらぬ柳かな」と、その性に強情を見る「へそ曲がり」もいた。極め付けは、サトウ・ハチローの親父さんである作家・佐藤紅緑が詠んだ「首縊る枝振もなき柳かな」かな。でも、こんなに言われても、柳は上品だからして「だから、なんだってんだよオ」などと、そんな下卑た口はきかないのである。柳に風と受け流すだけ。(清水哲男)

December 20122006

 徒に凍る硯の水悲し

                           寺田寅彦

寺田寅彦については、今さら触れる必要はあるまい。物理学者であり、漱石門下ですぐれた随筆もたくさん残した。筆名・吉村冬彦。二十歳の頃には俳句を漱石に見てもらい、「ホトトギス」にも発表していた。俳号は藪柑子とも牛頓(ニュートン)とも。さて、一般的には、現在の私たちの書斎から硯の姿はなくなってしまったと言っていいだろう。あっても机の抽斗かどこかで埃にまみれ、「水悲し」どころか干あがって「硯の干物」と化しているにちがいない。私などはたまに気がふれたように筆を持ちたくなっても、筆ペンなどという便利で野蛮なシロモノに手をのばして加勢を乞うている始末。「硯の水悲し」ではなく「硯の干物悲し」のていたらくである。その昔、硯の水にしてみればまさか「徒に」凍っているつもりではあるまいが、冬場ちょっとうっかりしていると机の上の硯に残された水は凍ってしまったり、凍らないまでもうっすらと埃が浮いたりしてしまったものだ。それほど当時の部屋は寒かった。せいぜい脇に火鉢を置いて手をかざす程度。いくら寺田先生だって、まさか筆で物理学の研究をしていたわけではあるまい。手紙をしたためたりしたのだろう。だとすれば、忙しさにかまけてご無沙汰してしまって・・・・とまで、この一句から推察できる。この「悲し」はむしろ「あわれ」の意味合いが強く、悲惨というよりも滑稽味をむしろ読みとるべきだろう。一句から先生の寒々とした部屋や日常までが見えてくるようだ。たとえば同じ「凍る」でも、別の句「孤児の枕並べて夢凍る」などからは悲惨さが重く伝わってくる。1935年に発表した「俳句の精神」という俳句論のなかで、寅彦は「俳句の亡びないかぎり日本は亡びない」と結語している。71年後の今日、俳句と日本は果して如何? 『俳句と地球物理』(1997)所収。(八木忠栄)

November 14112007

 柿ひとつ空の遠きに堪へむとす

                           石坂洋次郎

ご多分にもれず、私も高校時代に「青い山脈」を読んだ。あまりにも健康感あふれる世界だったことに、むしろくすぐったいような戸惑いを覚えた記憶がある。今の若者は「青い山脈」も石坂洋次郎の名前も知らないだろう。秋も終わりの頃だろうか、柿がひとつ枝にぽつりととり残されている。秋の空はどこまでも高く澄みきっている。それを高さではなく「空の遠き」と距離でとらえてみせた。柿がひとつだけがんばって、遠い空に堪えるがごとくとり残されているという風景である。とり残された柿の実にしてみれば、悠々として高見からあたりを睥睨しているわけではなく、むしろ孤独感に襲われているような心細さのほうが強いのだろう。しかも暮れてゆく秋は寒さが一段と厳しくなっている。その柿はまた、売れっ子だった洋次郎にとってみれば、文壇にあって、ときに何やら孤独感に襲われるわが身を、空中の柿の実に重ねていたようにも考えられる。よく聞く話だが、柿をひとつ残らず収穫してしまうのではなく、二、三個枝に残したままにする。残したそれらは鳥たちが食べる分としてつつかせてやる――そんなやさしい心遣いをする人もあるという。近年は鈴なりの柿も、ハシハシと食べる者がいなくなって、熟柿となって一つ二つと落ちてしまう。田舎でも、そんなことになっているようだ。ところで、寺田寅彦にかかると「柿渋しあはうと鳴いて鴉去る」ということになる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)

November 19112008

 哲学も科学も寒き嚔哉

                           寺田寅彦

嚔(くさめ)とは、さても厄介な漢字である。この漢字をさらりと書いてのける人は果たして何人いらっしゃるか? くさめ、くしゃみ、くっさめ、はくしゃみ・・・・いろいろな呼び方があって、思わずくさめをしたくなるようなにぎやかさである。嚏は通常、冷気が鼻の粘膜を刺激することで出るわけだが、それだけではなくアレルギー性の嚏もある。しかし、咳とちがって悲壮感とかやりきれなさはない。それはさておき、寅彦はご存知のように地球物理学者にして文学者。筆名は吉村冬彦。掲出句で「文学も科学も・・・・」としなかったのは、今さら「文学がお寒い」と詠ったところで始まらない、という気持ちがあったのか、と愚考するが、いかがなものか。「寒き嚏」ではなくて「寒き」で切れる、と解釈することもできそうだけれど、その場合、すっきり切ろうとするならば「寒し」だろう。ここでは哲学や科学を、嚏と同等なものと茶化したとらえ方をしているのだろう。「寒き嚏」とはくどいとか何とか、決まってとやこう云々する人もいるだろうが、そのあたりのことは十分承知したうえで、寅彦はこう言い切ったのではないか。哲学が寒いのも、科学が寒いのも、季候の次元の問題などではない。ノーベル科学賞受賞者が日本で今年四人も出たことを知ったら、寅彦は掲出句を修正しただろうか? 寅彦は第五高等学校時代(熊本)に、俳句を見てもらいに漱石先生を頻繁に訪ね、「ホトトギス」に掲載された。蛇足だが、寅彦一家を題材にしたマキノノゾミの芝居「フユヒコ」は大傑作。『俳句と地球物理』(1977)所収。(八木忠栄)

July 1572009

 炎天や裏町通る薬売

                           寺田寅彦

俳句に限らない、「炎天」という文字を目にしただけでも、暑さが苦手な人はたちまち顔を歪めてしまうだろう。梅雨が明けてからの本格的な夏の、あのカンカン照りはたまったものではない。商売とはいえ暑さに負けじと行商してあるく薬売りも、さすがに炎天では、自然に足が日当りの少ない裏町のほうへ向いてしまう。そこには涼しい風が、日陰をぬって多少なりとも走っているかもしれないが、商売に適した道筋ではあるまい。炎天下では商売も二の次ぎにならざるを得ないか。寅彦らしい着眼である。行商してあるく薬売りは、江戸の中期から始まったと言われている。私などが子どものころに経験したのは、家庭に薬箱ごと預けておいて年に一回か二回やってくる富山の薬売りだった。子どもには薬よりも、おみやげにくれる紙風船のほうが楽しみだった。温暖化によって炎天は激化しているが、「裏町」も「薬売」も大きく様変わりしているご時世である。炎天と言えば橋本多佳子の句「炎天の梯子昏きにかつぎ入る」も忘れがたい。『俳句と地球物理学』(1997)所収。(八木忠栄)

February 1322013

 冬川や朽ちて渡さぬ橋長し

                           寺田寅彦

辺境の川にかかる橋は別として、車輛が頻繁に通るような橋は、今どきは耐震性も見かけもずいぶん立派なものになってきている。ここで詠まれている橋は木橋か土橋か、いずれにせよ老朽化してしまって、人が渡ることが禁じられている橋であろう。冬であれば、人が通らない橋は一段と寒々しく眺められ、渡れないということで実際以上に長い橋のように感じられるのだ。おそらく、その川は郊外を流れているのであろう。川はいつもより水かさが増して、白々と流れているかのように想像される。だからなおさらのこと、橋の老朽化が強く印象づけられ、いっそう長いものに感じられるのであろう。寒さのなかにも、古き良き時代の風景を感じさせてくれる句である。俳人としてもよく知られている寅彦は、二十歳の頃に俳句を見てもらうために夏目漱石を訪ね、いくつかの俳句が「ホトトギス」に掲載された。漱石には「谷深み杉を流すや冬の川」がある。『俳句と地球物理』(1997)所収。(八木忠栄)

July 1572015

 雲の峯見る見る雲を吐かんとす

                           寺田寅彦

夏空にぐんぐん盛りあがってゆく雲の峯は、まさに「見る見る」その姿を変えてしまう。まるで生きもののようである。見ていて飽きることがない。ダイナミックに刻々と姿を変えてゆくさまは、「雲を吐」くように見えたり、噴きあげるように見えたり、動物など生きものの姿にそっくりに見えたりして、見飽きることがない。雲が雲を吐くととらえた、そのときの様子が目に見えるようである。何年か前、わが家の愛犬が死んで遺骨にしての帰路、春の空前方に浮かんだ雲が、走る愛犬の姿そっくりに見えて感激したことがあった。寅彦は俳句を漱石に熱心に師事したけれども、句集は出していない。俳号は寅日子。しかし、「俳句の本質的概論」や「俳句の精神」「俳諧瑣談」の他、俳句に関する論文はさすがにいくつかある。他に「涼しさの心太とや凝りけらし」「曼珠沙華二三本馬頭観世音」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000