https://gokoo.main.jp/001/?p=9318 【「死の種子」を読んで 村松二本】より
「死の種子」(「俳句」二月号)から試みに十句抄出した。
わが顔を死の覗きこむ朝寝かな
PET検査
さみだれや人体深く発光す
白桃や命はるかと思ひしに
目の前にまた現はれし露の玉
病巣へ月の刃の冷やかに
月こよひ月こよひとて一生すぐ
宇佐見魚目逝去
昼も咲く秋の夕顔魚目逝く
炎かと寄れば牡丹の帰り花
生淡々死又淡々冬木立
源流や氷らんとして鳴りひびく
ちなみに「生淡々」の初見は、昨年12月の三島句会。
この句が清記されて回って来た。その瞬間の驚きとためらい。そして採ったときの歓び。句会の醍醐味だ。
そんな句がこのように発表されると、また表情が変わる。一層彫りが深くなる。
「死」はいつも我々の隣にある。その気配にまるで気づかないときもあれば、一瞬ひやりとさせられることも。
「生き死にを俳諧の種籠枕」(『虚空』)と詠んでから20年。
我々は「死」に向かって進むほかない。 (村松二本)
http://blog.livedoor.jp/koshi_seinennbu/archives/54385504.html 【『句集 虚空』 藤原智子】より
『虚空』のあとがきには、「二〇〇〇年から二〇〇二年正月までの句を納めた。この間、飴山實先生はじめ大事な人々が相次いで亡くなり、『虚空』という題が自ずから定まった。天体もまた生命も虚空に遊ぶ塵に等しい」とある。
『虚空』を読むと、2つの問いが頭に浮かぶ。1つは、「大事な人の死を詠むというのはどういうことか」ということである。もう1つは、「虚空とは何か」ということである。
立春大吉雪国に雪降りしきり
立春の日、禅家では「立春大吉」とある札を門口に貼る。春が来たと言っても実際にはまだ寒い。雪が降りしきる地域もある。作者は、そんな雪国に心を寄せている。雪の静けさの中だからこそ、春の喜びとめでたさがいっそう深く感じられる。
春立つや加賀も越後も雪深く
立春を迎えても、雪深く眠る町がある。加賀は、石川県小松市に生まれた飴山實先生のことを、また越後は、作者の赴任先であった新潟の人のことを思って詠まれている。
裸にて死の知らせ受く電話口
前書きに「三月十六日深夜、飴山實先生の急逝の知らせあり。折りしも入浴中、季語も取りあへず」とある。大事な人の死という、胸を突かれるようなことがあったとき、胸を突かれるままに私たちは詠めるだろうか。作者は、格好をつけず、まさに裸である。このとき持っているのは電話の受話器だけで、季語も持ち合わせていない。2016年熊本地震のときに、作者が「くまモンがんばれタンポポの花笑つてる」の句を詠んでいるのも、私には忘れられない。季語はあるが、五七五には収まりきらない。とても詠めないというときにこそ、自分を賭けて詠むということだと思う。
なきがらや大朝寝しておはすかに
朝寝とは、春の眠りが心地よいことから、朝ゆっくりと寝てしまうこと。のどかで平和で少しおかしみもある季語だ。しかし、なきがらと向き合って、大朝寝と詠むとしたら、安らかにと願う気持ちだけでないだろう。残された者が大きな悲しみを乗り越えようとする「かるみ」の心が「大朝寝」にはある。「かるみ」とは、いつまでも非常時にとどまらず、平常の心へと無理やりにでも自らを運ぶということではないか。
虚空より定家葛の花かをる
虚空とは、広辞苑によると「何もない空間。そら。仏典では、一切の事物を包容してその存在を妨げないことが特性とされる」とある。定家葛は、日本原産の常緑のつる性木本植物で、花は白く、甘く香る。前書きには「飴山先生、ニュージーランドを旅されし折、とある町の河辺にて定家葛の花を見つけられたり。居合はせし人々、『かかるところに定家葛とは、先生の修羅垣間見し心地せり』と語り合ひけり。この話、心に残りて」とあり、飴山先生の俤を詠んでいる。しかし、不思議なことに、定家葛が空から踊り込んでくるように感じられ、定家葛の句としてずっと心に残る。
生き死にを俳諧の種籠枕
まず、1つ目の問い、「大事な人の死を詠むというのはどういうことか」。本当は、言葉にしたくない、そっと心にしまっておきたいのではないか。だから、あえて死を詠むということは、死を突き放すということではないか。
そして、突き放した自分さえも、この句のように突き放す。そもそも、死だけではなく、どんなことも突き放して初めて、俳句となるのだろう。だからといってどんなことでも詠むというのではない。本当は、自分の心だけにとっておきたいような何かである。そうでなければ、詠む価値がない。言葉にしなくてもいいほどの良いこと、言葉にしたくないほどの辛いことを突き放した上であえて言葉にする。それが俳句だろう。
では、2つ目の問い、「虚空とは何か」。虚空とは、どんなものも包み込むこの世界だ。そうでありながら、どんなものにも染まらず、ただ「ある」この広い世界のことだ。『虚空』は、ただ「ある」というかなしさ、いとおしさを詠んだ句集である。
若き日の妻そのままに初鏡
『句集 虚空』, 長谷川櫂 , 2002年 , 花神社
【長谷川櫂先生句集鑑賞、藤原智子さんより】
https://sadanji.hatenablog.com/entry/2019/01/26/104704 【死の種子】より
『俳句』2月号を買う。冒頭の特別作品50句で長谷川櫂の「死の種子」と穏やかならぬタイトルが出ている。病名はわからぬが死に直面し手術を受けたことが俳句に詠まれている。死ぬことはわかっていても、それは他人事にしておきたいのが人情。しかし、誰もが直面しなければならない問題でもある。これは考えてもしかたのないことかも知れぬが。
生きてきた年数を、この後生きることができるかと言えば不可能。永遠に生きたいとも思わぬが、せめて毎日を充実したものにしたい。
白桃や命はるかと思ひしに
長谷川櫂の句。
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