人間探求派

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498749957.html 【「人間探求派」とは何かをわかりやすく考える。】より

「人間探求派」について書きたい。…といってもそんなに難しいことを書くつもりはない。

「人間探求派というのは何なのか」ということを、私なりの見解で書く。

どうも、俳句の主義主張、理念、ムーブメントの定義は実に曖昧である。

例えば、私には高浜虚子の「ホトトギス」が提唱した、客観写生と、澤木欣一の「風」が提唱した、即物具象(そくぶつぐしょう)の違いがわからない。

簡単に言えば、どちらも、「もの」をありのままに詠むということである。

じゃあ、どちらも「客観写生」でいいじゃないか、という気がする。「風」系の俳人の方に、何度か聞いてみたことがあるが、よくわからない。

ただ、数人に聞いてみて、少しわかってきた気もする。「客観写生」は、「即物具象」と比べて、自然やものに対して、「手放しの敬意」が存在する。「即物具象」にはあまりそういうものはない。自分と「もの」が対等で、どちらかというと「リアリズムを追求」する姿勢がある。情緒的接し方、と、即物的接し方の違い、と言うべきか。今のところ、それくらいしかわからない。

さて、「人間探求派」だが、ネットで調べると、こう書いてあった。

人間探求派とは、俳句において、自己の追求がそのまま俳句の追求になるように、自己の内面を生活のうちに詠もうとするもの。これもわかったようで、わからない。

自己の追求が、そのまま俳句の追求になるように…。とあるが、人間探求派の俳人が登場するまで、そういうものはなかったのか、というと決してそんなことはないからである。

人間探求派という呼称は「俳句研究」(1939年8月号)に掲載された座談会「新しい俳句の課題」の中から生まれた。中村草田男、加藤楸邨、篠原梵、石田波郷が参加して行われた座談会で、同誌編集長であった山本健吉が、貴方がたの試みは結局人間の探求といふことになりますね。と発言し、それからこの四人の俳句、および、そういった傾向の俳句を「人間探求派」と呼ばれるようになった。

私の見解を述べたい。

水原秋櫻子が「ホトトギス」を脱退し、主宰誌「馬酔木」で新興俳句運動を展開する。

「馬酔木」の理念はいろいろあるが、当時、多くの人に支持された理由は、反「ホトトギス」反花鳥諷詠ということである。

「反花鳥諷詠」とは、俳句は自然(花鳥風月)諷詠だけではなく、もっと、社会のこととか、人生のこととか、自己の内面世界だとか、そういうものを積極的に詠んでいい、ということだ。この姿勢は、俳句を古臭い文芸だと思いこんでいた若い俳人を魅了し、「馬酔木」に多くの新鋭を集結させた。

その「馬酔木」の中の代表選手は、高屋窓秋 石橋辰之助 石田波郷 加藤楸邨である。

さて、その新興俳句運動だが、社会を詠おう、自己の世界を表現しよう、とすると、どうしても「季語」というものが邪魔になる。

一句の主題が「社会」「人生」「自己」だから、季語はいらない、という話になってくるのは当然であろう。高屋窓秋、石橋辰之助らは「無季俳句」を作り始めた。

しかし、師の水原秋櫻子は、無季俳句を認めなかった。

二人は水原秋櫻子と袂を分かち、「馬酔木」を辞し、無季俳句運動、前衛俳句運動の旗手として活躍した。さて、ここから人間探求派である。

同じ「馬酔木」の新鋭であった波郷や楸邨にも、同時代を生きる若者として、窓秋らと同じ思いがあった。

しかし、二人は、秋櫻子同様、「季語」を取ってしまっては「俳句」では無くなってしまう、と考えただろう。

「有季定型」を守りつつ、窓秋らが目指したものを実現したい…、これが「人間探求派」なのだ、と私は考える。

私は「人間探求派」のこの考えこそが、現代俳句にもっとも大きな影響を与え、現代俳句のスタンダードになっている、と考える。

それでは、季語は一句の中で、どういう形で、何の役割を果たすのか?

「季語」は「自己の心を代弁するもの」と考えた。この季語の使い方が、現代俳句のスタンダードになった、と思う。

例えば、波郷の、女来と帯捲き出づる百日紅(おんなくと おびまきいづる さるすべり)

アパートで半裸状態でだらけていたら、ふいに女が訪ねて来た。

慌てて帯を捲いて、身支度を整えている…、という場面である。

季語「百日紅」は、夏のうだるような暑さをも表現しているが、同時に、「百日紅」の鮮やかな赤は、不意の女性客に、心をときめかせる若い男性の心の華やぎを代弁している。

草田男の、蟾蜍長子家去る由もなし(ひきがえる ちょうしいえさる よしもなし)の季語「蟾蜍」は、家の長子として生まれた作者の「覚悟」「苦悩」の象徴を表している。

楸邨の、灯を消すや心崖なす月の前(ひをけすや こころ がけなす つきのまえ)の中で、季語「月」は、貧困と未来への不安の中で、「崖をなす心」を照らす、一筋の希望を象徴している。

この使い方が、「ホトトギス」の「季題諷詠」(季題・季語そのものを詠むこと)と明らかに違う。ただ、この手法は人間探求派が最初…、というわけではない。

松尾芭蕉の、この秋は何で年寄る雲に鳥(このあきは なんでとしよる くもにとり)なども同じである。

秋になり、がっくりと体力が落ち、老いを感じる芭蕉…。

「雲に鳥」、つまり、「雲の中に消えてゆく鳥」は、旅に行き、なおも旅に生きようとする芭蕉の旅へのあこがれ、漂泊する孤独の心を象徴している。

この手法を積極的に、前面に出し、なおかつ現代版として使ったのが、人間探求派なのだ。

私はそう考えている。


https://moon.ap.teacup.com/tajima/228.html 【「人間探求派について(習作) ~相対性俳句論(断片)」  俳句】より

5月に行った、現代俳句協会青年部の勉強会についての原稿を書きました。もう、ずいぶん締め切りを過ぎているのですが・・・関係者の方々、ごめんなさい。

書いていて、いろいろと思うところがあり、規定の文字数ではとても書ききれないことが解って、何度か、書き直しました。

で、現代俳句協会の雑誌には、その書き直した文章が載るのですが、書き直す前の、やや中途半端な文章について、せっかく書いたので、とりあえずブログに載せることにしました。

あくまでも、書き途中なのですが、あしからず。

*******************************

第96回現代俳句協会青年部勉強会報告

「人間探求派ということに、なりましょうか」あとがき

人間探求派とは何だったか、という問いに答えることは、まことに難しい。

それは、人間探究派と呼ばれた草田男、楸邨、波郷の戦中から戦後にかけての仕事量が膨大であることや、さらに彼らの影響を受けた俳人たちの仕事まで含めると、その範囲が途方も無く広がってしまうからである。

けれども、人間探究派はいつ生まれたか、という問いであれば明確に答えることができる。

それは、『俳句研究』昭和14年8月号の座談会「新しい俳句の課題」である。

第96回現代俳句協会青年部勉強会では、この座談会に焦点をあてた。

座談会には五人の人物が登場する。中村草田男(当時38歳)、加藤楸邨(当時34歳)、石田波郷(当時26歳)、篠原梵(当時29歳)という、当時、頭角を現しはじめた四人の若手俳人と、『俳句研究』の編集者であった石橋貞吉、つまり文芸評論家の山本健吉(当時32歳)である。

勉強会では、彼ら五人の当時の考え方や立場を追うことで、座談会における彼らの発言がどこからどのように導かれたかについて考察した。そのようにして読んでみると、この「新しい俳句の課題」という座談会は、まるで彼ら五人が登場人物となる密室劇のようであった。

実は勉強会の後、しばらくしてから気づいたことがある。

そもそも、この座談会は、当時俳壇を賑わしていた新興俳句運動にたいするアンチテーゼとして健吉によって企画された。

昭和6年に水原秋桜子の「馬酔木」が「ホトトギス」を離脱したことをきっかけに、当時の若い俳人たちが中心となって俳句の革新運動が始まった。これが、いわゆる新興俳句運動である。

勉強会でも触れたが、この新興俳句運動に不満を持っていた健吉が、当時、新興俳句とは別の流れの中で「難解」な句を作ることで注目を集めていた若い俳人たちを集め、彼らの抱えている俳句における中心的な課題について語らせたのが、この座談会であった。

考えて見れば、新興俳句をリードした山口誓子、日野草城、秋元不死男と中村草田男は同い年であり、西東三鬼、富澤赤黄男は彼らよりひとつ年上である。さらに、加藤楸邨は篠原鳳作、平畑静塔と同い年、篠原梵は高屋窓秋と、石田波郷は渡辺白泉と同い年である。

新興俳句グループとは問題意識を異にする同世代の俳人たちに語らせることで、この座談会は、俳壇全体に大きな波紋を投げかけることになる。

これよって、同じ世代の若い俳人たちが、戦中・戦後にかけて大きなふたつの流れを作ることになるのである。

その面では、いわば、新興俳句と人間探求派はまったく性格の違う双子の兄弟のようなものなのである。

であるから、新興俳句の面々は、人間探究派の主張を自分達と同じものであると感じた。実際、この座談会のあと、「人間探究派の主張は自分たちと同じである」といった新興俳句側からの評価が見られる。

西東三鬼は、昭和14年11月号の『難解派の人々』という文章の中で、

「楸邨氏はこの機運を認めて、「俳壇の大勢が今までの方向に於いて一種の飽和状態に達してゐる。一面完成に近づいてゐる。さういふ方向では云へなかつた『生活からの聲』が盛上らうとしてゐる。」と云い又「カオスの状態にある心理を追求することが、如何に至難な、不安な事であつても、その方が魅力がある。」と云つてゐる。

 これを読むと我々超季派は「へえ、今頃ねえ・・・」と思ふに違ひないが、憎まれ口は止めて考へて見ると、「馬酔木」と云ふ完成された平和境の住人の言葉としては、仲々興味が深いのである。」

として、座談会に出席した面々を「難解派」と名づけている。西東三鬼ですらも、座談会の内容を、「心理的な」題材を俳句に導入する、という視点のみで理解し、「へえ、今頃ねえ・・・」という感想を持つに至ったのである。

けれども、座談会を何度か読み直してみると、楸邨が次のような発言をしている。

加藤 何時か草田男さんが「生活の為めの俳句」ぢやなくて「生活からの俳句」だといふことを言つて居られましたね、あれは社会に出て社会の生活を意識して来ると心の底から出る言葉ぢやないかと思ふのです。自分の力、自分の眼──これは社会に生きて始めて溜息みたいに身にひびいてくる言だ。

ここで楸邨が引用している、草田男の言葉、『「生活の為めの俳句」ぢやなくて「生活からの俳句」』の意味が、実は最初よく解らなかった。

勉強会の後、しばらくこの言葉について考えていて、おそらくこういう事なのではないか、と思うようになった。

つまり、俳句に於いて「なにを」「どのように」詠むかを問題とした新興俳句に対し、人間探求派は「どこから」という作者の立ち位置を問題にしたのである。

一般的に「人間探究派」という呼称は、この座談会における、

記者(健吉)  貴方がたの試みは結局人間の探究といふことになりますね。

加藤(楸邨)  新しいか否かは人の見るところによつてちがひませうが、四人共通の傾向をいへば「俳句に於ける人間の探究」といふことになりませうか。

という、やりとりから名づけられたとされているが、この「俳句に於ける人間の探求」という言葉が一人歩きし、その影響から、戦後の俳壇に「人生を詠む」あるいは「生活を詠む」「思想を詠む」といった傾向が顕著になっていった。

けれども、これは新興俳句運動が抱えた「なにを」「どのように」というフレームワークに、「人生」や「生活」という題材を当てはめただけである。

この座談会で提示されたのは「どこから」という問題であった。「人生を詠む」ということと「人生から詠む」ということは違うのである。

「なにを」「どのように」詠むかというのは、言い換えれば、「内容(なにを)」と「技術(どのように)」である。それに対して、「どこから」という俳句の「動機」を問題の中心とした点に、この座談会の特筆すべき点がある。

*********

文章が中途半端になっているのは、途中で書ききれないことを悟ったからです。

あと、この「どこから」という問題は、そのまま「作者」と「読者」の問題に置き換えられるような匂いがあり、或る意味、現代思想の流れと一致するようなところがあるような気がします。

現代俳句協会の若い評論家たちが、現代思想(主に構造主義やポスト構造主義)の切り口から俳句を分析する傾向があるのは、この辺に原因があるのかも知れません。

また、この「どこから」という俳句の動機について考える上で、技術的には、「切れ」と「季語」の問題が切離せないと思う(現に石田波郷は、戦後「切れ」を特に重要視するようになる)のですが、それはまた別の機会に。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000