https://goto-acros.net/fudasyo/fukue/no5.html 【よしだじぞうどう吉田地蔵堂】より
●住所:長崎県五島市吉田町 ●本尊:地蔵尊 ●脇仏:お大師様
●真言 おん かかかび さんまえい そわか
●市の文化財である「吉田の綱引き」で親しまれている場所にある地蔵堂。綱引きは、子孫繁栄と豊作を祈願するものである。
◆手洗い/無、トイレ/無、駐車場/無
◆場所
三尾野から明星院に入る道を越えると、吉田公民館(白い建物)が右手に見える。それの隣。
1人の女性の方が何十年となく、長いこと地蔵堂の世話をしてくれていましたが、その方が亡くなった後は町内会の役員さんたちで世話をしているそうです。お接待はしていません。
◆名所・旧跡
*観音寺の元あった場所
源平の乱の折り平家の落人が本尊の十一面観世音菩薩の像を持って来島し、吉田郷に住んで寺を建立したという。そのゆえか、この地区には寺脇姓の家があります。
*善章について
彼は京都に住む、すぐれた僧であったが30才ごろ祇園の舞妓(まいこ)のもとに通うことが発覚して破戒の罪で五島へ流罪となった。しかし、彼は文化人でもあったので五島家の殿様の要請で和歌、茶の湯の相伴を勤めることもあり、何不足なく生活していたという。彼の墓は吉田町の墓地にある。僧侶の墓の形で墓碑銘には「全正」という漢字になっている。
*五島氏庭園
五島氏の庭園は京都の僧であった善章が盛成(もりあきら)公の依頼によって1856(安政3)年に完成した林泉式庭園で、金閣寺の丸池を模倣して作ったという。善章は庭園造りが巧みであったという。池は心の字をかたどって作っているので「心字が池」と呼ばれる。盛成がカメをことのほか好きだったのであちこちに亀に似た石を配置している。庭園は1991(平成3)年11月に国の名勝の指定を受けました。
https://tabi-mag.jp/ns0269/ 【五島氏庭園・隠殿屋敷】より
長崎県五島市池田町にある幕末に築かれた福江藩(五島藩)の城が福江城(石田城)。二の丸跡にあるのが五島家30代当主・五島盛成(ごとうもりあきら)の隠居所として建てられた隠殿屋敷と、その庭園、五島氏庭園で、大名庭園である五島氏庭園は国の名勝に指定されています。
五島氏庭園・隠殿屋敷は、城山神社の宮司でもある第35代五島家当主・五島典昭さんの所有。
つまり、福江城(石田城)は、日本で唯一の個人所有の城ということに。
庭園は、30代・五島盛成が三男・盛徳に家督を譲った後、城郭内に隠殿屋敷を建て、その東側に浄土宗の僧・全正(善章)が築いたもの。
五島盛成は、漢詩・和歌・俳句に造詣が深く、別荘で曲水の宴を催すほどの教養人でした。
全正(善章)は、京で舞妓に熱を上げ五島へ流罪となったものの、文化人だったため、五島盛成に気に入られたのです。
庭園が築かれたのは福江城(石田城)二の丸の西南端。
廐舎(きゅうしゃ=馬小屋)や藩士教育所の「育英舘」があった場所に作庭されています。
全正(善章)は、鹿苑寺(金閣寺)の池を模して、中央に心字が池を配し、庭石と築山には福江島のシンボルである鬼岳(おんだけ)の溶岩を使っています。
多くの亜熱帯植物を配しているのも五島ならでは。
五島盛成は亀を好んだので、中島などの随所に亀に似た石を据えています。
文久元年(1861年)築で五島盛成の隠居所となった隠殿屋敷の玄関には、全正の辞世の句が記された屏風が立っています。
二の丸西門・「蹴出門」の桝形を通って左側すぐに隠殿屋敷の平門が配され、そこを通ると玄関書院。
廊下で座敷書院に渡り、さらに庭を鑑賞できる釣殿風の小座敷が築かれています。
隠殿屋敷というものの、五島盛徳が病弱だったため、事実上は五島盛成が実権を握り、明治維新を迎えています。
三方を土堤(土坡)で囲み、玄関部分・平門の石垣などを見てもいざという時の防御策が施されています。
5年間を費やした隠殿屋敷の復元工事も平成28年に終わり、庭園とともに公開されています。
https://heiseibasho.com/heiseibasho-comment-gotogarden/ 【平成芭蕉の旅語録〜第35代五島家当主五島典昭氏所有の福江城と五島氏庭園】より
第35代五島家当主五島典昭氏を訪ねる
五島列島の表玄関である福江島にある福江城(石田城)は、日本で最後に築城された城で、その一郭に残る五島氏庭園と隠殿屋敷は現在の五島典昭当主の尽力で復元工事が行われ、現在、見事な回遊式庭園を鑑賞できます。
また、石橋や自然石を積み上げた城壁の石垣も当時の面影を残しており、続100名城に指定されたこともあって城ファンにも注目されています。
しかし、私のおすすめは城内にある五島家の城山神社を参拝し、令和時代の弥栄を祈念して五島典昭当主に宮司として祝詞をあげていただくことです。
江戸時代最後に完成した五島の福江城(石田城)
五島家35代五島典昭当主(城山神社宮司)
クラブツーリズム特別企画「潜伏キリシタンの信仰文化を探求する 外海から五島列島への旅 3日間」のツアーに同行し、国指定名勝「福江城(石田城)五島氏庭園」に第35代五島家当主五島典昭氏を訪ねました。
今回のツアーでは、主として明治時代に潜伏キリシタン集落に建てられた教会を巡るのですが、この福江城では教会めぐりの中で江戸時代を感じました。
しかし、福江城(石田城)は黒船来航に備えて築かれた江戸時代最後に完成した城で、日本における最も新しい城郭です。
すなわち、幕末になって日本近海にオランダ、清以外の異国船が頻繁に出没し、その異国船防衛のため、1849年、第30代藩主五島盛成(もりあきら)の代になって築城が許可された国防のための城郭です。
この石田城築城の請願は、新田開発を優先させて禁制のキリシタンを受け入れた、五島藩中興の祖第28代藩主五島盛運(もりゆき)の代に初めて幕府に届けられましたが、その時は回答はなく、続く第29代五島盛繁の代にも、異国船防衛を指示され、参勤交代を免除されるも築城許可は下りませんでした。
そのため、三代にわたる築城の宿願がかなった城中では「小躍りして喜び、手の舞い足の踏むところを知らず、路傍の歓声湧くが如し」と伝わっています。
そして城は1849年8月から15年の歳月をかけて1863年6月に完成し、城壁の三方を海に囲まれた日本唯一の海城でしたが、間もなく明治維新を迎えたために築城9年で解体されてしまいました。
しかし、自然石を積み上げた石垣や蹴出門などは当時の面影を残しており、昨年、日本城郭協会が財団設立50周年を記念して選定した「続日本100名城」にも選ばれています。
五島家の始祖を祀る城山神社で正式参拝
福江城内にある城山神社
今回のツアーではまず、城の一角にある城山神社で第35代五島典昭当主に神職として旅の安全祈願の祝詞を奏上していただきました。
城山神社は五島全般の弥栄を祈る保食神(うけもちのかみ)が祭神ですが、その起源は第8代の宇久覚が五島家の始祖宇久家盛の霊を祀るために建立したことに始まり、第28代五島森繁の代になって、元寇に参加して殊勲のあった宇久競(きおい)、秀吉の文禄の役に戦功があった五島純玄(すみはる)を合祀した「勝」にこだわった神社です。
今回は、直会の際、その城山神社特製の「勝守」を当主から授かり、私は感無量です。
早速、帰宅してキャディバッグに付け、五島カントリークラブで典昭当主とラウンドして「勝守」のご利益をいただきたいと思いました。
「心字が池」で有名な五島氏庭園と全正
心字が池を造った「全正」辞世の句
城山神社参拝の後は、当主の案内で通常は入れない裏門から心字が池庭園を見学させていただきました。
これは第30代の盛成が家督を譲った後、城郭内に隠殿屋敷を建て、その東側に京都の僧、全正に作らせた庭園です。
全正は金閣寺の丸池を模倣し、福江島のシンボルである鬼岳(おんだけ)の溶岩を多用しています。
なお、盛成は亀を好んでいたので、中島などの随所に亀に似た石を据えており、池は心の字を形どって「心字が池」と呼ばれています。
隠殿屋敷の玄関の間には、その「心字が池」庭園を設計した全正の辞世の句が書かれた屏風が立てられています。
盛成はこの邸宅完成後は、戒律を破って京都から逃れてきた全正を友とし、風月を愛したと言われていますが、邸宅から見る庭園には樹齢800年以上のクスノキや南方系の樹木も配されており、私は江戸時代にワープしたような感動を覚えました。
また、この隠殿は盛成というご隠居さんの住居ですが、亀の釘隠しや透かし欄干など、様々な趣向が取り入れられており、落ち着いた雰囲気の中にご隠居さんの茶目っ気を感じました。
五島は今、世界遺産登録によって教会が注目されていますが、この福江城(石田城)や見ごたえのある日本庭園「心字が池」も世界にアピールすべきだと思います。
なぜなら、福江城と五島氏庭園は、第35代五島典昭氏が鷺の餌になろうとも池に錦鯉を入れたり、御神木のクスノキの落ち葉を掃除したりと自ら管理されています。
国宝の犬山城も今や成瀬氏個人の所有ではなく、財団所有になったと聞いていますが、この福江城は今なお五島典昭氏個人が所有する日本唯一の城なのです。
すなわち、五島家の当主を通じて五島藩の歴史や江戸時代のお殿様の生活をイメージできる貴重な城郭庭園で城ファンとしてもおすすめです。
なお、この城山神社正式参拝と五島邸庭園は平成芭蕉が同行したテレビ東京の「旅スルおつかれ様 ハーフタイムツアーズ」後編で紹介されました。
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