https://www.uchidawakanyaku.co.jp/kampo/saijiki/saijiki.html?page=201003 【歳時記 | 椿 ツバキ】ホーム 毎月の生薬情報 歳時記 椿 ツバキ より
「木(きへん)」に「春」と書いて椿。ツバキは、ツバキ科の常緑高木で、花木として、しばしば庭や公園などに植えられています。春になると白、桃、赤など色とりどりの花を咲かせ、また花の形も一重咲き、八重咲きなど様々であり、愛好家が多い植物です。ツバキを繁殖させるには、挿木や接木、取木の他に、実生を用いた方法があり、長い年月にわたり人為的な交雑が繰り返されてきたため、現在では数多くの品種が存在しています。
ツバキの種子を圧搾すると薄い黄色を帯びたツバキ油が取れます。ツバキ油は伊豆諸島や九州南部で生産され、昔から日本で頭髪につける油や、食用油とされており、また日本薬局方にも収載されています。
ツバキの葉を焼いて作った灰は、染色の際の媒染剤として用いられます。ツバキの灰には、アルミニウムイオンが多く含まれており、水溶液はアルカリ性になります。この条件下で、ムラサキの根である紫根を用いて染色すると、鮮やかで美しい紫色に染まることが知られています。
毎年3月には、奈良の東大寺二月堂で修二会(しゅにえ)(通称:お水取り)が行なわれ、その期間、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩には、ツバキの造花がお供えされます。このツバキは紅花で染めた赤い和紙と、梔子で染めた黄色い和紙で作られています。「椿」は、日本の春を代表する伝統行事にも、彩りをそえています。
Facebook後藤 守禅さん投稿記事
中国最古の薬物学書である神農本草経によると、病気を治すだけの「下薬」、精力が強くなる「中薬」、人間が持つ寿命を全うさせるのを手伝い長生きさせる「上薬」。その上薬の第一番目が「松」なのだとか。松葉をお米の上に置いて炊く。炊きあがる蒸気も爽やかな香り。炊きあがったご飯はスゥーッとする和漢薬のようないい香り。旨味もある松葉ご飯。体が元気になるような味わい。
https://ameblo.jp/tagetage3580/entry-12713388290.html?fbclid=IwAR0gG6ElLbmut2faow8aDRhsaMTBAHy7T9YQIFDCeuNVxWRvIYEZZgMbEb0 【松葉ごはん】より
仙人の食べ物と言われている松。松葉は血液をサラサラにして血管を強くするらしい。
中国最古のの薬物学書である神農本草経によると、薬を病気を治すだけの「下薬」、精力が強くなる「中薬」、人間が持つ寿命を全うさせるのを手伝い長生きさせる「上薬」で上薬の第一番目が「松」なのだとか。何ともありがたい植物。山の家から採って来た松葉。
若木の新鮮なもの。枝に付いた葉をむしるとすぅーっとする爽やかな芳香。
手がべたべたするくらいの松脂。サッと水洗いしておく。
水に浸したお米の上にお好みの量の葉を乗せる。蓋をして点火。いつも通りに炊き上げる。
土鍋から吹き上がる湯気がいつもと違う。何の香りと言えばいいのか分からない香り。
炊きあがると松は茶色に。栄養素や香りが全てご飯に移ったような感じ。
箸でつまんで取り出す。炊きあがったご飯はうっすらうっすら色が付いているか付いてないかくらい。独特の芳香。和漢薬と言ったらいいのだろうか。
でも決して嫌な匂いではない。ごはんをよそって松葉の飾りも。松葉ご飯。
松の爽やかな香りと旨味がご飯に移っている。何だか体が元気になるようなご飯。
不思議な旨味の松葉ご飯。
https://office34.exblog.jp/11614057/ 【芭蕉の句、青松葉と枯野】より
清滝の文学碑を取りあげたのに合わせて、同じネタを紹介しているサイトをいろいろ廻ってみた。そうした中で気になったのが、芭蕉句碑ということで心太の句の方を取りあげている方が複数名いたことである。清滝は何度か訪れたことがあるとはいえ、清滝の隅々までを熟知しているわけではない。いや、むしろほとんど知らないと言ったほうがいいかも知れない(晶子歌碑の場所を知ったのでさえ最近のことである)。「清滝や波に散りこむ青松葉」を刻んだ句碑があったのは現物を見て確認したのだが、それとは別に「清滝の水汲みよせて心太」を刻んだ碑があったのだろうか。そして、毎度のごとく、当方がそれを見落としてきてしまったのだろうか。
もちろんネットの情報を鵜呑みにするのは危険である。十分に調べずに書いている方もおられるようで、現地の探訪レポートといいつつ、何かよく分からなかったけど芭蕉句碑だったらしい、芭蕉には清滝と心太を詠んだ句があるとかないとか、そういったあたりの聞きかじりから、心太の句を刻んだ碑としてしまっている可能性もないわけではない。芭蕉句碑というポピュラーなネタだけに、そうしたあいまいな記述が紛れ込んでくる可能性もあるのだ。実際のところは、当方が現地で確認したのは青松葉の句碑だけで、心太の存否は決めつけることができない。しかし、願わくば、「清滝の水汲みよせて心太」の碑なるものはネット情報のルーズさが生み出したガセネタであってほしい。
と、前振りはこの程度にしておいて、今日のお題は、青松葉の句碑に添えられていた高桑義生の添え書きの件である。とりあえず確認のための再掲、
元禄七年十月
芭蕉翁辞世句の後 澄明の心境に生れた最後の絶唱を刻む
永遠に清滝の景勝を見守り給へ
昭和四十七年初夏
高桑義生
改めてこれを取りあげてみようと思ったのは、青松葉の句がいわゆる辞世の句の後に作られた「絶唱」であるとする点が気に掛かったからである。一般に知られている芭蕉辞世の句というのは「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」だろう。厳密なところを突くと、この吟は病床で詠んだ句であっても辞世の句ではないとする意見もある、というより、門人の文章にも辞世の句がない旨が記されているという(各務支考『笈日記』ということなのだが、当方は原文未見)。したがって軽々しく芭蕉の辞世は云々とご託を並べるわけにはいかないのだが、芭蕉が人生の最後に作ったのが枯野の句であり、簡便な解釈では、それを辞世の句と呼び慣わしている。
さて、そうした一般的解釈に対して、高桑義生は、辞世の句の後に、青松葉の句が作られたとする。これはいったいどういうことなのだろう。枯野の句が人生最後の一句ではなかったというのだろうか、それとも枯野以外に「辞世」と呼びうる句があって、それが青松葉の句の直前に詠まれていたということなのだろうか。
青松葉の句には少々ややこしい制作事情があるのは事実である。向井去来の『去来抄』には、
清瀧や浪にちりなき夏の月 ばせを
先師、難波の病床に予を召して曰く「頃日、園女が方にて「しら菊の目にたてゝ見る塵もなし」と作す。過ぎし比の句に似たれば、清瀧の句を案じかえたり。初めの草稿、野明がかたに有るらん。取つてやぶるべしと也。然れども、はや集々にもれ出で侍れば、すつるに及ばず」。名人の句に心を用ひ玉ふ事しらるべし。
日本古典文学大系『連歌論俳論集』より
という記事がある。後に作られた句での言葉の使い方に応じて、先行する句である「清滝や浪にちりなき夏の月」が改作されたという話である。そして『去来抄』は触れていないのだが、改作後が「清滝や波に散りこむ青松葉」であるという(大系本頭注)。この改作が行われたのが大坂で病の床についている時のこととなっているので、あるいは枯野の句を作った後に、この改作が行われた旨を記した資料があったのだろうか。そうして高桑義生はそれに拠ったのだろうか。「辞世句の後、澄明の心境に生れた」という部分になにがしかの整合性を見出すには、そう解釈するしかないと思うのだが、どうだろう。
なお芭蕉臨終の模様を伝えるものとしては『花屋日記』というものがある。現在では、偽書という評価で落ち着いていると思うが、明治大正の頃まではまだその内容にも信が置かれていたらしい。ただその『花屋日記』でも、枯野の句は十月九日の記事に登場しているのに対して、青松葉は十月六日の記事に出ている。出どころ自体に問題があるので、こだわるに及ばないというのなら、それまでである。しかし、現代での評価はともかく、長く臨終記と思われてきた『花屋日記』とも相容れないのであれば、高桑義生はいったいどういう資料に拠って、こういう添え書きを残したのだろう。
いわゆる一つの、京都のナゾということで、いつの日にか思い出した時にでも考えるネタということにしておこう。
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