https://note.com/bopono4192/n/nde72df20e8d6 【タカユキオバナ資料】より
江尻潔さんの詩集『るゆいつわ』から「ことのはのる」を詠んでみます。
「ことのはのる」
てるくはの
九(く)のは
ことなぎ
九十(こと)のはの
くすひ
ふとのる
九十百千万(こともちろ)
おせ
てるくはを名のる者が小学生を殺し、自らもビルから飛び降り自殺するといった事件に衝撃を受けたことからこの詩波は生まれてきました。
「てるくはだけではだめだ」と江尻さんが言っていたのを思い出します。
江尻さんは、この事件が起きる三日前にてるくはを詩波の中にのこしていました。
てるくはとは、おそらく輝(てる)く波でしょう。つまり光のことです。てるくはの 九(く)のは ことなぎ は、光の九のはの働きが弱まることを表していると思われます。では九のはの働きとは如何なるものでしょうか?
九のはの働きを読み解くカギを九十のはに求めてみます。九のはを九十のはのように読めば、このはとなります。九十のはに言の葉の字を当てれば、それと対になるこのはの当て字は木の葉になるかと思います。木の葉の働きは光合成です。それは光を物質(影)に変換していくことですから、この働きが弱まる事がことなぎで表されているのだと分かります。
一方、輝(てる)く波の言の葉を輝く言葉「言霊」と解釈すれば、その働きは物質(影)に名を与え輝く響きに変換することです。この輝く響きがくすひなのでしょう。
くすひを九巣霊とすると文字どおり九のはの巣です。出現した光は、影の歴史の最果てに、この巣にたまり活動します。夢が像を結ぶのも光を影に変換していく九のはの働きによるのです。しかしこの夢から発想を広げたり、伝えたりすることは出来ません。この事を可能にするには、影を再び光に変換していく働きによらねばならないのです。この働きこそ九十のはなのです。
九のはの住処、九巣霊を奇霊に変える九十のはの働きが、ヒトの内で活動するとき、日は反転し逆日となります。光が出現の源を始めて睨みます。降り注いでいたものが反転するのです。
したがってふとのるは、九のはによって立ち現れる影を九十のはによって光に変換し、出現の源に向けて太く宣る、響き返すと言う事でよいかと思います。
九十百千万 おせ は、てるくはのるに対することのはのるの願いでしょう。それは、何処までも影を光に変換し続けていってほしいと言う江尻さんの切なる思いが込められています。
逆日が帰ると言う事は、人を殺め、自らの命を絶つと言う事ではないのです。
くのはをのるものに ことのはをおくり ことむけやわす ことのはのるの愛こそ、逆日が帰る道筋なのではないでしょうか。
言葉の意味を理解するための辞書には、言葉を言葉で説明するための膨大な語彙が収められていますね。この膨大な語彙を水の音に変換してしまったさいとううららさんのDICTIONARYという作品があります。言海?大言海だったかも知れませんが、譲り受けたこの辞書から型を取ったと伺ったような気がします。その中に水の通り道を作り、蜜蝋で水を閉じ込め、語彙の代わりとしたのです。
手に取ると、こちらの体温が奪われるような肌触り、その重さと共に伝わってくる脈打つような響き。感じるということが言い尽くせぬ思いを慰めます。全ての言葉の意味が水の音によって語られる世界は神秘的で優しいのですね。
膨大な情報を抽象化し象徴的な水の音に置き換えているこの作品は、言葉の素になっている音が生まれてくる水際にとてもよく似ています。感動のあまり思わず発してしまった声、この心が捉え、響き返した一音に内包されている世界の大きさは計り知れません。
さいとううららさんのDICTIONARYも人類が生み出した言葉の全てに匹敵するものが抽象化されたものだと感じさせます。宇宙的な規模の世界観も身近な小さい入れ物に収めることができるのです。それを可能にしているのは感受性に他なりません。意識と物の関係を象徴的に扱い、感受性があらゆるものを言葉に代替できるというのであれば、音の連続体としての言葉は心で編まれていることになります。
さいとううららさんのDICTIONARYは、たぶん心のモデルなのだと思います。自意識に邪魔されなければ、この世界を呑みこんでも尚、有り余る広さがあるのでしょう。
自意識を慰めるために音が祈るところを求めるとすれば、それは教会などではなく、さいとううららさんのDICTIONARYのようなところではないでしょうか。
さいとううららさんのDICTIONARYは私たちのもう一つの言葉の可能性を示唆しています。それは彼女の次のような言葉にはっきりと表れています。
「自分としては、ひとのこころのなかの祈り、それにこたえてくれる響きになれないか、と思ってつくりました」
祈りにこたえるための言葉が、全てを内包した言葉以前の響きなのだとしたら、音が生まれてきた訳もそこにあるのではないでしょうか。
話し言葉は音が連続しているだけなのですが、それを捉えた私たちはイメージや意味に変え、内側にもう一つの世界を広げています。そこでの生活をとても豊かにしたり、台無しにすることが言葉の働きとしてあるのは、誰でも体験済みですね。私たちの身体の中に入って心の生活のお手伝いをしている音は、ご先祖様が創造したものの中でも最も素敵なものだと思いませんか。古人から受け継いだ音を工夫することによって、意識は根本から変えることができるのです。
音を使って今までになかった言葉を作ってみましょうと言われたら、あなたならどうするのでしょう。でたらめに音と音を連続させますか? それでちゃんとした言葉になるのでしょうか?
私たちは嬉しい言葉には明るくなり、嫌な言葉には暗くなります。言葉が光と響きの働きを併せ持っているのは明らかですね。では光と響きの働きが音として響き合い、嬉しい言葉を形作るまでにはどんな経緯を辿ったのでしょう。言葉が生まれるプロセスは、古人が音に何を託してきたのか、その関係の在り方、文法が如何なるものから生まれてきたのかを明らかにするのではないでしょうか。
福田尚代さんの「飛行縫う戀」から回文を「初期回文集 無言寺の僧 言追い牡蠣」から転文を詠んでみます。ここに挙げた二冊の本は言水へリオさんが2007年に制作しました。
回文
耐えがたし滝 文字の身 いつまで待つ
意味の死も来た 詩 違えた
(たえかたしたきもしのみいつまてまついみのしもきたしたかえた)
転文
問
水面に白子鳩
(すいめんにしらこはと)
この仮名のみ沈めよ
(このかなのみしすめよ)
字も絶えた
(しもたえた)
婚礼救う人魚の恋
(こんれいすくうにんきょのこい)
詩は問
(しわとい)
答
厭わしいこの世
(いとわしいこのよ)
銀に浮く睡蓮答えた
(きんにうくすいれんこたえた)
「文字読めず」
(もしよめす)
染みの中の言葉凝らし任命す
(しみのなかのことはこらしにんめいす)
福田尚代さんが回文や転文を生み出す過程で体験したことの中に、上記したことに対するヒントがあるような気がしています。
単語は幾つかの音によってできていますね。回文や転文を作るには、言葉のどこかを壊さなければなりません。それは一度、言葉を解体し、音の連帯に戻すということに他なりません。この音の連帯をどこかで句切り、別の単語に変え、他の単語に繋いだりするには、どうすれば良いのでしょう。おそらく、意味という物差しと連想のインスピレーションが必要不可欠なのではないでしょうか。
音の連帯を意味で探り、連想する単語に置き換え、新たな世界観を創り上げていくのだと思います。
こんなふうに考えてみると、言葉が生まれる以前のことが少しずつ分かりかけてきますね。私たちは内面にたくさんの意味を感じて過ごしていたのでしょう。それに思わず発してしまった声から生まれた音をあてていったのだとしたら、同じ光景を見て、別の音を発声した者同士が、互いの顔を見合わせて、音を確認しあった、この二音から共振した世界への言葉が生まれたのかも知れませんね。
意識が言葉を生み出す背景には意味を感じて過ごしている心の世界が前提になっているのではないでしょうか。言葉が心で創られたのだとしたら意識を変える手立てもそこにあるはずです。
福田尚代さんの回文や転文を味わい楽しむことから、もう一歩踏み込んで、それを生み出す過程に思いを寄せることは、音と心の関係にどんな秘密が潜んでいるのか気づく手がかりになると思います。
これを機に回文を創ってみてはいかがでしょう。「飛べ 異界へと」(とへいかいへと)なんてね。
言水へリオさんの印に言葉の一音を最小限の形で表そうとしたものがあります。集中しなければ決して作れない小ささゆえに念が籠っているのが分かります。空間が最少で思いが無限大というのであればアインシュタインさんなら特異点を連想するのかも知れません。この重力の内に現れる光こそ言葉なのではないのか? 印がそう言っているように思われてなりません。
言水へリオさんが現した印は、まるでそこに小さな光があるような輝きを抱かせるのです。宝石を手に入れた時のような嬉しさが、その押された印の指先から明るく広がっていくのは何故でしょうか。
そういえば、水上旬さんから印について教えて戴いたことがありました。
「印が木や石に彫られるからといって、それに向かっているわけではない。光の柱をイメージし、その光に向かって正字になるように鑿(のみ)を入れる。すると光が影となって姿を現す。印はその跡を留める行為、印によって生まれる文字は、光の姿、光の跡なのだ」
言い回しは少し違っていたかも知れませんが、こんな内容だったと思います。
「その光に向かって正字になるように鑿(のみ)を入れる」印が正字になるのは、私たちの世界ですから、水上旬さんにとってこの世界は、光の柱としてイメージされていたのでしょう。そこと関わることで生まれた私たちの言葉こそ、光の姿、光の跡なのだと言いたかったのではないでしょうか。
こんな思いに包まれると言葉が光として物質化することを考えざるをえなくなってしまいます。とはいっても私たちの意識では、たった一滴の水ですら物質化することができません。もしそんな働きが私たちに備わったとしたら、食べる必要はなくなりますし、身体を変えることもできるでしょう。何よりも永遠の命を持ってしまいます。物質化とは世界を創造した根源的な働きなのですから、新陳代謝の物質を生むことなど他愛もないことなのです。
表現を意識の物質化と位置づけた場合、視覚表現は、私たちが物質化できないことから、仕方なく外にある物を使って表そうとします。具体的にいえば絵具や粘土などを使うわけです。
既にある物の属性に頼るこの方法では、何もないところから精神性の伴う物質を生み出すという意識の物質化の本質に迫ることができません。物質化は無理だとしても、それに近い働きを感じたいのなら、物の属性に頼らない表現を考えなければならないのです。
身体表現がそれにあたるかと思いますが、直接身体を動かすダンスやパフォーマンスなどでは、意識が物質化するという視点から考えると、意に即しているとは思えません。歌や話し言葉ならば、心の内から外へと音を発声しているわけですから、意識の物質化に近いといってもいいのではないでしょうか。
歌や話し言葉は連続する音で成り立っています。このことから物の属性に頼らない表現を模索するなら、その根源である音が生まれる水際を見極めなければなりません。
驚きのあまり思わず発声してしまった音は、その瞬間の心の化身なのですから、意識を物質化しているのは、おそらく心の働きなのではないかと思われます。
では心に時空はあるのでしょうか。命は身体だけを指すわけではありません。命から物理的な身体を除いたら何が残るのでしょう。思いつくのは心と自意識と無意識、これくらいです。
例えば、私たちの身体は三ヶ月位で新陳代謝するといわれています。物質が手を繋いだり離したり、身体をひとつにするときに働く何かの力、この働きによって物質たちには、ひょっとしたら心を通わせたという確かな記憶が残るのかも知れません。それは意識できないけれど新陳代謝を司る何かが働いているのは間違いありません。この何かが、一体化した分子の内に潜む他者の命、たぶん気のようなものを吸って自身のエネルギー源にしているのではないかと思っているのですが、この無意識界の出来事を司る何かに時空があるとは思えないのです。ただ働きだけがあるのではないでしょうか。
物質化を問うことは、時空がなく働きだけの世界を意識することに繋がっていくのですね。
歌や話し言葉も体を持っているわけではありませんので、働きだけの世界に属するのです。このことは未だ時空のない物質化以前の世界でも歌や話し言葉のようなものが存在している可能性を示唆します。いやむしろその程度のことではなく、言葉の叡智に溢れていたと考えた方がいいのかも知れません。
世界を見渡すことができる辺境の何処かに時空が生まれた処、物質化の痕跡があるはずですが、この世界が心のような働きによってもたらされたのだとしたら、物質化に向かう意味をどんな風に考えたらいいのでしょう。
私たちの世界は分化が進行し、多様性に満ちています。これらを内包していた時空のない世界は、意識と物質が融合した混沌としたものだったと推測します。意識が霊感として働き、感受性が臨界を超え易い状況にあったのかも知れません。その働きが向かった先が多様性に満ちた私たちの現実世界ですから、この方向性から考えてみると僅かな違いも見逃したくないという視点に立っていることが分かります。無限分の一を尊く思う眼差しに貫かれているのです。私たちが目撃する多様性は、おそらく時空のない混沌とした世界が理想的な調和を求めていたことの証なのでしょう。あらゆるものとの絆を夢みていたのではないでしょうか。
この世界が始まったその時から、全ては驚くほど新鮮で、感動するものたちの響きで満ち溢れているのだとしたら、存在の内には音を生み出す心があるのかも知れません。
それは私たちのような心ではないとしても、何かを捉え、驚きを内包し、響き返す働きに満ちていたと思われます。
無限分の一の感受性が臨界を超え、気づいたら声を上げていた。いや、叫んでいたといった方がよいのかも知れません。そんな衝撃的な感動を与えてくれた私たちを取り巻く世界に棲むものたちも、私たちのような声を持たなかっただけで、それが私たちに聞き取れる音であるかどうかは別として、同じように感動の音を発していたのではないでしょうか。
つまり響きに包まれているということは、あらゆるものから発せられた心に醸されているということに他ならないのです。この揺り籠の中で心を通わすための音を編むことに気づいたのが私たちの祖先だったのです。
音の本来の働きである心の絆を取り戻すために何ができるのでしょう。
その可能性を意識融合に求めてみます。核融合が膨大なエネルギーを生むのですから、意識融合もそれに匹敵する何らかの働きがあるのに違いありません。
心の絆をテーマに意識融合を体験する具体的な方法を模索していたこの時期、2012年頃ですが、タイミングよく、足利市立美術館 学芸員の江尻潔さんから『スサノヲの到来 いのち、いかり、いのり』展に出展の依頼がありました。
そこで「あめのうた」を出展することにしました。
心の絆をテーマとした「あめのうた」は、観るだけでなく参加し意識融合を体験できるインスタレーションです。
最初に発表したのは、足利市の菅沼きく枝さんが主宰するJAZZ
ORNETTE(2012年12月24日から2013年2月6日)です。
その後、『スサノヲの到来 いのち、いかり、いのり』展「第七章 スサノヲの予感 — あめのうた タカユキオバナ 」は五美術館を巡回しました。
足利市立美術館 2014年10月18日から12月23日
DIC川村記念美術館 2015年1月24日から3月22日
北海道立函館美術館 2015年4月11日から5月24日
山寺芭蕉記念館 2015年6月4日から7月21日
渋谷区立松濤美術館 2015年8月8日から9月21日
この展示に使用した剣は、人々の安寧と健やかなることを願い、母の野位牌から火を熾し、太釘を真っ赤に加熱して、剣の形に打ちだしたものです。
ひらがなの「あ」から「わをん」四十八音と、それに対応する数が記してありますが、これは言霊と数霊が表裏一体のものだとする松原皎月さんからの引用です。「ん」だけは私の一存で「0」にしました。
焼入れは布都御魂(ふつのみたま)の「ふつ」あるいは「ほつ」が物を断ち切る音を表すことから、その響きである「ふ」音「ほ」音の数霊変換した温度にしようと決めました。松原皎月さんによると「28」、「27」であることから、この温度内で焼入れをしました。
この展示に使用した鏡の中央には直径 3 ミリぐらいの孔が開いています。片方の目を鏡に映して、ちょうど孔のところに瞳がかさなるように調節すると、瞳が抜けて外の風景になります。実の身体に対して鏡に映っているのは虚の身体です。その一部である瞳が現実の風景と入れかわります。虚の世界の真ん中に突如として実が出現し、混沌の揺らぎから世界が生まれる瞬間の相転移を体験することができます。
また、この展示には鈴を使用しています。鈴は金ぴかに光って、振ると音が鳴ります。鈴は輝き鳴り響くという光の働きと音の働きを併せ持っています。一つの物のなかに二つの働きがあるということは、同じ鈴という物質のある側面は光であり、別の側面は響きであるということですから、この世界が変換と再統一を繰り返していることを物語っていることになります。鈴は変換と再統一を繰り返している私たちの世界を象徴しているのです。
また、魂のモデルを表現するために、水玉の蓋の内に鈴をつけ、中には母音を記した水晶玉が入っています。この水晶玉は、展示された鏡、鈴、剣をさらに変換したもので、漆黒の水盤の中で停留し、体験者によって水玉の中へ移されたものです。体験者は水晶玉の母音をその段の音に変換しました。
この音を記すための紙の剣は折られており、広げると十六弁の剣菊紋になります。剣弁にはそれぞれ七文字記すことができるようになっていました。
展覧会の最終日には、参加者が記していった音を詠みあげるワークショップが三美術館(足利市立美術館 2014年12月23日、DIC川村記念美術館 2015年3月22日、北海道立函館美術館 2015年5月24日)で開催されました。
これから「あめのうた」の作品解説をしますが、論文のような堅苦しいものでは、次の世代の若い方たちに読んでいただけないのではないかと思い、コンセプトをスケッチするように小説風に仕上げてみました。その方が内容が伝わるような気がします。次の世代へ音の可能性を託したいのです。
「あめのうた」は「対局 言葉の予感」の導入に使った「香詩宮の杜 紅い傘の救世主 一」の何話か先の続きをイメージして描いています。
現実とフィクションの間を行きつ、戻りつし、幾つもの界を表現に導入するのは、複数の界を意識しなければ音の働きを感受することが叶わないと思うからです。
前筆した数ヶ所と同じ内容の記述がでてきますが、それはこの「あめのうた」からの引用です。
あめのうた
コンセプト スケッチ
— 井戸の底?それにしては広すぎるかな。
天井からの幾筋もの糸が輝いて雨の表情が生まれていた。
糸の先端には大粒の雫。空中に点在しているそのミニチュアの鏡、鈴、剣が回転するたびに、キラリと反射した光は心の空へと消えていくように思われた。
「雨が降ってる」
— ウフフッ・・声は反響するのね。不規則に光るものたちが奏でる時空には音がないのに。
何かに醸されているような緊張感だけが漂い、辺りは凛としていた。
ここにいると忘れていた何か遠い記憶が蘇ってくるような気がした。
— あっ!また光った。神秘的なリズム・・時を刻んでいるのかしら? 不思議な時計。ウフッ。
誰もいなくなった放課後の教室のように静かでゆったりとした時間が流れている。
リナは糸筋の間を歩きながら、鏡を仰ぎ見たり、剣をかわすのに屈んだりした。
— なんて優しいの。透明な世界・・眼差しが降りてくる。リナを包んでくれるのね。・・まるで瞳の中に居るみたい。
鈴がちょっと肩に触れただけなのに、かなたからの熱を帯びた音が明るく反響した。可憐に鳴り響いたこの金色の雫が、
「綺麗!」
ふり向くとマホの淡いブルーのフリルを掠めるように鈴が揺れていた。その輝きはどこか温かく、澄ました気持ちにも呼びかけてきた。
呼吸のように、そう極めて自然な響きがときめくリナの胸を雨のイメージで満たしていく。
以前から雨の雫に光を感じていたリナは、日の光が水の体に融けて雨になるのだと思っていた。
— 雨はね。地の深く染みて行き、闇に棲むものたちにお日様の光を届けているの。
水を飲む時、身体に染み渡るこの光を感じたくて瞼を閉じた。
— 雨の詩が聴こえる。
リナは雨の匂いに潜むそんな光の気配を思い出していた。
— こんな感じで表せるんだね。
手のひらを剣先の下に置いて瞳を輝かせている。
「マホちゃん。剣に何か書いてある。す。十三。何かしら?」
「ほんと。鈴にも書いてあるね。ひらがなと数字」
雨の雫を受けとめるような仕草から、ゆったりと回る円い鏡に目線を移したリナの瞳に、ら。四十一。文字が流れていく。
— 鏡にも書いてあるということは
「全部に書いてあるのかな?マホちゃん」
「きっとそう」
「何か意味がありそうだね」
「ひらがなは、たぶん五十音だと思うけど、数字は何かしら?」
「監視員のおねえさんに聴いてみる?」
「そうしようか」
近づいてくる二人に気づいた監視員は、優しく微笑み、親しみをもって迎えた。
「すいません。ちょっとお尋ねしたいことがあるの」
「はい。何でしょう」
彼女は明るい声で立ち上がった。スマートな身のこなし。紺色のスーツがとてもよく似合っていた。
美術系の大学院を卒業し、表現活動を続けているのだが、自立するまでには至らなかった。
そんな彼女が監視員をしているのは、勿論、収入のこともあるのだが、様々な表現を吸収するいい機会だと思ったからである。
「あのね。鏡や鈴や剣に書いてある文字の秘密が知りたいの」
「あ、これのこと?」
「そうなの。ひらがなと数字の秘密」
二人は真っすぐ監視員の顔を見た。
清楚で理知的な顔には力強さがあった。
人見知りで引っ込み思案だった二人なのに、意識しすぎてぎこちなくなることもなく自然に話しかけることができた。なかよしと過ごしている夏休みということもあってか、気楽だったことが無意識にそうさせたのだろうか。信じ合える友と一緒にいる安堵感が何よりも二人を勇気づけていた。
— この子たちにどう説明したら分かりやすいのかしら?
彼女は公開前の作者による公聴会を思い起こしてみた。配置した素材の一つひとつを指差しながら、何故そうしたのかを説明する姿が浮かんでくる。
「簡単にいうとね。作者は、この世界のことを大いなる意識の現れと考えていたらしいの。その意識をね。鏡、鈴、剣に託して、言葉の起源をそれとなく仄めかしたかったのね」
「数字も言葉なの?」
「あら、数も物理法則などを表す言葉のひとつでしょう」
「でも、何で鏡、鈴、剣なの?」
「それはね。根源の世界観をイメージさせるからでしょうね。鈴を勾玉に換えれば、大いなる意識の現れ、三種の神器になるでしょう。作者によればね。鏡は、全てを呑み込んでいる世界が始まる以前の混沌のゆらぎを表しているの。穿った孔は相転移だそうよ。私もよくは分からないけれど、世界が生まれる瞬間を象徴しているのかしらね。ほら、こんなふうに鏡の縁を持ってみて」
「さわってもいいの?」
「いいのよ。ちゃんと作者からそういう指示がでているの。そうしたらね。片方の目を鏡に映してね。ちょうど孔のところに瞳がかさなるように調節するの」
「あっ!」
「瞳が抜けて外の風景になった。不思議」
「くらくらする」
— 何かしら?この味わったことのない感覚は・・?
「実の身体に対して鏡に映っているのは虚の身体ね。その一部、瞳が現実の風景と入れかわったでしょう」
「うん、入れかわった」
「虚の世界の真ん中に突如として実が出現するのね。たぶんこういうのを相転移っていうんでしょうね」
「相転移?」
「作者が鏡に孔をあけたそれが理由なのね」
「そうなんだ」
「これを使ってね。相転移を体験させたかったのは何故だと思う?」
「瞳の内にもう一つ目があるってことなのかな?」
— へー。そんな風に考えるのね。
「そうよね。リナちゃん。眼の中にもう一つ目がなければこうならないものね」
「じゃあ、見ることが入れ子になったヴィデオ・フィードバックという表現があるの。知ってる?」
「ヴィデオ・フィードバック?」
「知らない」
「最も知られたヴィデオ・フィードバックはね。モニターに接続したカメラでモニター自体を撮影するというものなの。モニターにはね。モニターを撮影しているカメラ映像が無限に映しだされるの。ちょうど合わせ鏡のような現象になるのだけれどね。面白いのはね。倍率を変えると映像が混沌の渦になってしまうの。しかもね。静止しているはずのものがぐるぐる動いて見えるの」
「ぐるぐる?」
「そう、ぐるぐる。唐草模様みたいな渦ができてね」
「そんなことになるんだ」
「不思議」
「自身を見るということをね。どこまでも繰り返し詰めていくとね。根源に至るでしょう」
「根源の世界はぐるぐるのゆらゆらってこと?」
「ぐるぐるゆらゆら。ウプッ」
「キャハハ。リナちゃんたら、もう」
「ゥフフ。目の中にもう一つの目を持つこの鏡はね。混沌の揺らぎから世界が生まれる瞬間を感じて貰うのが狙いなのではないかしら」
「じゃあ、この糸は世界の始まりへと伸びてるの?」
— この子たち、なかなか察しがいいわね。
「天井から先は省略されていますけれどね」
見上げた二人の胸にかなたへの思いが響きあう。
「空が高いね。リナちゃん」
「透明なんだね。円い屋根」
開かれた視界が遙かなる世界へと飛翔してゆく。
— 少し風が強いのかしら?
深い空にゆったりと弧を描いて鳶が舞っている。
— あんなふうに飛べたらいいのに。
「鈴と剣も世界の始まりと何か関係してるの?」
何時までも見ていたい眼差しを取り戻したくて、マホは尋ねた。
「もちろんよ。作者はね。意識が物質化して変換と統一を繰り返している世界観をね。鈴と剣に託しているの。ちょっと難しいかしら?」
— 意識が物質化して? 変換と統一?
「リナ、ぜんぜん分かんない」
「ごめん。私もどう説明したらいいか、戸惑ってるの。ただ、作者はそう言っていたの」
「意識が物質化するって?」
— そうか、素直に聞けばいいのね。さすがマホちゃん。
「思っていることを物質に変えるってことなのだけれど・・」
何を思ったのか? リナはにっこり。
「ウフッ。ねえ、マホちゃん。もし物質化ができたらどんなことしてみたい?」
「えー、そんなこと急に言われたって困っちゃう。リナちゃん、何か思いついたのね」
「エヘヘ。思いついちゃった。マホちゃんが思いつくまで内緒」
— この子、リナちゃんっていうんだ。で、こっちはマホちゃんね。中学生ぐらいかな?
「リナちゃんもマホちゃんも、魔法か手品みたいに考えてない? 帽子からうさぎさんを出したりするのとは根本的に違うの。物理的な素粒子はとても小さくて肉眼では見えないのよ。原子とか電子とか学校で習わなかった?」
— 未だ教わってないのかしら?
「物質化するっていっても、そんなに小さいんだ。つまんないの」
「私たちの意識では物質化できないの? おねえさん」
「もしそんなことができたらね。身体の中の不足や具合が悪くなった箇所をすぐに補えるから、食べなくても老化しないし、永遠の命を持ってしまうことになるわね」
「えー、死なないんだ」
「今のところ私たちができることで最も物質化に近いことって、言葉を話すってことかしらね。作者が音や数を使って仄めかしていたのもこの点だと思うの」
「言葉を話すことがなぜ物質化に近いの?」
— 物質化の説明をすることになっちゃうなんて。アーこの子たち、ちょっと大変かも。
「例えばね。絵を描こうとして私たちの意識で絵具を生み出せるかしら?」
「意識で?」
「そう、意識で」
「できないよね」
「うん、できない」
「できないから市販の絵具を使って描くわけだけれどね。もし絵具に限らずいっさいの物質に頼らないで何かを表現するとしたら、どんなことが考えられるかしら?」
— うーん。何だろう?・・・あっ
「歌とかダンス?」
「そう、それにこうしたお喋りなんかもね。物質に頼らない表現は声を発するか身体を動かすことになるのね。これを物質化の視点から考えるとね。ダンスは直接身体を動かすことだから、歌のように内側から声を発しているわけではないでしょう。声は身体の内から言葉を生み出しているのだから、意識の物質化にもっとも近いと思うの。どお、少し分かってもらえたかしら?」
「うん、なんとなくだけど」
「物質化って表現することだったの?」
「そう、宇宙を創造した何者かのね。残念だけれど私たちの意識の力では水一滴だって生み出せないの。でもね。絵具みたいに物質は無理でも、思い描くことはできるから、心の中でなら自由に絵を描けるでしょう」
「奇想天外なこともできちゃうね」
「リナ、意地悪なこと思いついても、実際にはやらないよ」
「いい子ね」
「リナちゃん、普通そうでしょう」
「エヘヘ。マホちゃんもいい子ね」
「思いついてもそれを表すとなると話は別よね。思い描いたことを言葉にすればね。今の時点は物質化ではないにしても、いずれそれに近いものになっていくのではないかしら?」
「リナ、旨く言葉にできなくて、しどろもどろになっちゃうの」
「なっちゃうよね。ウフッ、しどろもどろのリナちゃんって、可愛い」
「可愛い?」
「何かもじもじしていて」
「言葉にするのって意外と難しいのかもね」
「どうすればいいの?」
「言葉はそれを受けとった人の意識にも何らかのイメージや意味を生むでしょう。このイメージや意味に光と響きが深く関わりあっていることが分かるかしら?」
「光と響きが?」
「光と響きが言葉におきかわってるってことなのかな?」
「そうよ、光と響きが融け合うところで言葉が生まれているの」
「光と響きが融け合うところ?」
「じゃあ、お眼目とお耳が結ばれたら言葉の子供が生まれるのね。お耳にぱっちりとしたお眼目がついてる。ウプッ」
「キャハハ、言葉星人? 輪郭が溶けてたりして」
「いや~ん。もうマホちゃんたら」
「ゆるキャラにしたら変な子ね。キャハハ」
「ウフッ。言葉の働きはね。たいてい人と物と事の関係を表しているの。光と響きがおきかえているのはこのあたりなのね。でも不思議でしょう。話し言葉はただ音が連続しているだけなのにね」
「音が連続しているだけ?」
「そうよ。よく考えてみて」
「確かに」
「話し言葉って音が連続しているだけだったんだね。気づかなかった」
「この展示はね。言葉の素になっている音が世界に満ち溢れていることに気づいてほしかったのね」
リナとマホは確かめるように改めて展示を見渡してみた。ゆっくりと眼差しを移して視界を空へと広げていく。快晴の瞳たちは、午前十時の青空の底へと逃げてゆく幾筋もの糸を想い求めて、どちらからともなく自然と手を繋いでいた。にっこりとした視線が互いの顔を見合わせるために降りてきた。
『ウフフ。来てよかったね』
笑顔に会えた二人は息を揃えて言った。
「おねえさん。変換と統一のことも教えてくださる?」
「だんだん難しくなるの?」
「大丈夫よ。リナちゃん。分からなかったら遠慮なく尋ねてね」
— とは言ったものの、変換と統一の説明ってどう言えばうまく伝わるのかしら?
リナもマホも彼女の聡明な瞳に憧れをいだき始めていた。その理知的な視線がとても頼もしかった。
「宇宙って全自動的なのよね。物質化し、変換と統一を繰り返しているってことはね。根源から私たちに至る道のりを表しているの。どんな小さな粒子も、一旦、出現したものはね。結びついたり離れたりして、姿、形は変わっても、そう簡単には消滅しないということかしら。星が大爆発してガスや塵に成ったとしても、また、それらが集まって新たな星が生まれてくるのね。そんな悠久の流れの中にね。太陽や地球があって私たちを育んでいるの。リナちゃん、マホちゃんがここにいるってことはね。必ずお父さん、お母さんがいるってことでしょう。そのお父さん、お母さんにもお父さん、お母さんがいて、生命史を辿ることができるの。風はね。古からの息をつないでいるの」
— きっと近くにいるのよね。いつもすぐそばに・・アッ。何でこんな時に・・あれ、あの時の海 ?おとうさん・・
海の情景のなかに背の高い亡き父の笑顔が浮かんで消えた。繋いでいた手のぬくもりが蘇って言葉を詰まらせた。
「どこまででも辿れるの?」
「そう・・、そうね。生命史だけでなくてね。地球史、太陽系史、天の川銀河史と遡って宇宙の始まりまでも辿れるの」
— ひたっていたかったけど・・
気を取り直したかのように目に力が入った。
「私たちは一度だって否定されたことがないのね。圧倒的な全肯定の上に存在しているのよ。だからね。138億光年分の自信をもってもいいの。ウフフ。ねえ。大丈夫なの」
「あのね。リナ自信をもってもいい?」
「何だか、勇気が湧いてくるね。リナちゃん」
「うん。湧いてくる。湧いてくる」
「でしょう。私たちの身体はたくさんの細胞でできているのだけれどね。その細胞も小さな分子の集まりなのね。その分子もさらに小さな原子や電子で成り立っているのよ。そしてね。毎日少しずつ、食べたものと入れかわっているの。一年もしないうちにね。殆ど入れかわってしまい、元の身体ではないのね」
「それなのに別人にならないのは何故なの? ぜんぜん変わってるって気がしないのだけれど」
「リナね。ちょっとだけれど胸が膨らんだみたい」
「どれどれ。あれれ、ぺったんこじゃない?」
「あ~ん。マホちゃんの意地悪」
「フフ。自身の変化に気づかないのはね。眠っている間に身体の地図を書きかえているからではないかしら。睡眠は蛹の状態と同じなのね。お外を遮断して身体の内のことに専念するの。お二人は蝶の蛹、見たことある?」
「香詩宮の杜で木の枝に付いているのを見つけたことがあったの。図鑑で調べたらアゲハチョウだったみたい」
「図鑑でならリナも見たことある」
「じゃあ、幼虫も知ってるわね。あのモコモコしたお芋のような身体が脱皮したらお空を舞うのよ。とても同じ生命だとは思えないでしょう。身体を書きかえるにはね。お外を遮断する必要があったの。だからね、リナちゃんもマホちゃんもお蒲団に入ったら蛹になるの。ウフッ」
「蛹になるの?」
「そう。夢を見るためにね」
「夢を見るために?」
「色々な説があるけれど、身体を書きかえるための光で夢を見ることになるのだと思うの。再統一のために身体の隅々まで更新して回っている光がね。記憶の引き出しも刺激してしまうのね」
「光で身体を書きかえてるの?」
「そうよ。つま先から頭のてっぺんまで身体の地図が光のネットワークで繋がっているの。私たちは脱皮しないけれど、進化の流れの中で脱皮を繰り返していた芋虫はね。お空を飛ぶことを夢みて、身体を書きかえていったのではないかしら。この夢は祈りのようなものだから、願いを叶えた蝶の姿はね。祈りの光で描かれたものなの」
「祈りの光で?」
「そう、祈りの光で」
「すてき」
「祈りはね。進化の兆しなの」
「進化の兆し?」
「何世代にも亘ってね。同じ思いを繰り返し光で描いていくの」
「何回も何回も?」
「何億回も。だからとても神秘的な働きなのね」
「そうだったんだ。蝶になるって」
「翅、輝いてるものね」
「お空を飛ぶ身体を祈りの光で手に入れたんだ」
「いいなー。ねえ、光を結んだり、ほどいたりして?」
「それって蛹の秘密?」
「蛹の秘密はね。変わり続けている私自身をね。自身に気づかれることなく、私として書きかえることだから、無意識にやらなければならないの」
「無意識に?」
「そう。自意識が身体の秘密を気づかないようにしているの」
— 蛹の秘密が身体の秘密だとすると・・・?
「もしも身体の秘密に気づいたらどうなるの?」
「たぶん、変わり続けている自己を私として認めなくなるのではないかしら。自分でないものを排除しようと免疫が働くから、瞬く間に自己崩壊してしまうでしょうね」
「死んじゃうの?」
「無意識が生命維持には不可欠なのね。眠ることでそれを万全にしているの」
「無意識じゃないと生きられないんだ」
「えー、そうなの?」
「じゃあ、眠らないでいるとどうなるのかしら?」
「起きていても無意識はちゃんと働いているから大丈夫なの。無意識から比べたらね。意識していることなんてほんの僅かなのね。問題はね。圧倒的多数の細胞たちが黙々と働いているのをいいことに、小さな自意識は大した気になってしまうの」
「大した気になっちゃうんだ」
「捉えた些細なことをそれが全てであるかのように振る舞うから、とても危険なの」
「勘違いしちゃうんだ」
「危険なの?」
「とるに足らないことが、心の全てを支配したら大変じゃなくって?」
「大変かも?」
「60兆個もの生きている細胞を無視して、死にたいなんて思ってしまうのもそのせいなのね」
「じゃあ、けな気な無意識さんたちはどうすればいいの?」
「そこで夢なのね。夢には無意識界と意識界を繋ぐ働きがあるのだと思うの。お外の情報を遮断してね。身体の内を書きかえる再統一の情報処理中に夢をみるということはね。無意識から意識に向けた祈りであるともいえるのよね。ほら、時々印象に残る不思議な夢を見るでしょう」
「リナ、お空を飛ぶ夢をよくみるの」
「私、うまく飛べなくて身体がでんぐり返しのように回転してしまうの」
「えー? そんな飛び方があるんだ。ウフプ。マホちゃんって、かなりマニアックだね。リナはペンギンさんのようにスーイスイだよ」
「お空を飛ぶ夢はね。自由への憧れを示唆しているのではないかしら? 夢を見るということはね。変換と再統一の間で働いている無意識が秘密にしていることを、探る手掛かりにもなるのね」
「無意識が秘密にしていることって?」
「私たちの身体は60兆個の細胞でできているといわれているの。その一つひとつがちゃんと働いているのに意識してるのかしら?」
「してない」
「そんなに働いていたの? リナいわれるまで気にも留めてなかった」
「お二人とも健やかだってことね。病気にでもならない限り、普段は身体のことを意識したりしないものなの」
「おねえさんは?」
「ありがとう。大丈夫よ」
「働いているのにそれを意識してないなんて、考えてみたら不思議」
「働きを意識しないように仕組まれているとしか思えないね」
「でもね。それだからうまくいってるの。逆に考えれば分かることだけどね」「逆に考えるって?」
「身体だけではなくてね。身の回りのことも意識しているのはごく僅かでしょう。身体の内と外からの情報をぜんぶ意識できたらどうなると思う?」
「いっぺんに60兆個もの細胞の働きを意識するなんて、気が遠くなっちゃう」
「それを全て対処するなんて、ちょっと無理。それに外からの情報もあるんでしょう」
「対処できなくて、フリーズしてしまうのかも?」
「そんなところよね。それに自意識は言葉のようなものだから同時に幾つもののことができるとは思えないの」
「言葉のようなものって?」
「マホちゃんは同時に二つのことが言えるかしら?」
— 同時に二つのことかー
「ぅヴーっ、言えないみたい」
「言葉はね。必ず、一つのことを言ってから別のことを言うようにできてるの。自意識も、そう多くのことを同時にはできないの。分裂してしまうでしょう」
「ほんのちょっと意識するぐらいが調度いいのね」
「だからね。生命の神秘は無意識のなかに広がっているの」
「無意識のなかに?」
「そうよ」
「無意識を意識することってあるのかな?」
「リナちゃん、走ったらドキドキするでしょう。普段は気にしてないのに」
「ドキドキする。リナね。この間、走った時、転んじゃったの。膝を擦りむいて痛かったのも無意識を意識したってことになるのかな?」
「無意識だったことを意識するのって、何時もの状態ではなくなったってことなのね。心臓がドキドキしたり、膝が痛かったり、何時もの自分でないってことに気づくのはね。自分の内に比較できるところを見つけたのね。全てが自分である世界へ幾ら眼差しを向けても、それまではね。比較する他者がいなかったから、ただ自分だということ以外には分からなかったのよ。無意識はね。自分でなくなりそうなところがないか何時も見守っているの」
「何時も見守ってくれてたんだ。無意識さん。ありがとう。気づけなくてごめんね」
「あのね。どんなにリナたちが大燥ぎしていてもね。そんなことに構わないで、身体の中では一つひとつの物質たちが手を繋いでいるような時間を確かめ合ってるのかも知れないね」
— ワアー、無意識の世界にも心が生まれてる。
「確かに、新陳代謝は意識できないものね。身体は無意識に書き換えられていくものなの」
「でもね。知らない処で心を通わせてるのって、すてき」
「だから夢はね。自意識に左右されないの。ウフッ」
無意識の領域上に発生する意識は何も身体に纏わることばかりではない。心のことも視野に入れると格段にその深度を増す。自分でなくなりそうな眼差しは心の奥底にまでも睨みを利かせているのだ。
「この世界は変化し続けているのだから本当は、自分という括り自体が不可能なのよね。それを無意識が働くことで可能にしているのではないかしら」
「無意識の眼差しが捉えている世界がそのまま私ってこと?」
「そう。自意識はね。そのどこかで起きた問題意識なのね」
「それじゃあ、身のまわりを気づかっているリナと、身体の中の物質たちを見つめている無意識のリナと、二人いるの?」
「心も仲間に入れると三人のリナちゃんになるかしら」
「リナちゃんは三人いたんだ。プフフ」
「エー。リナひとりだと思ってた」
「私たちは独りぼっちってことはないの。何時も三人で一つなのね」
「エー、うそぉ」
「うそだと思う? 命は身体だけを指すわけではないでしょう。命から身体をひいたら何が残るのかしら?」
「心でしょう」
「それに自意識と無意識」
「ねぇ。働きだけで存在しているものが三つ。三つで一つなの。心と自意識と無意識の三位一体で感受性を広げようとしているのではないかしら」
「力を合わせて?」
「そう。自意識は身体の外を、無意識は内を受け持っていて、心はね。自意識の反省と無意識の祈りなのではないかとおねえさんは思ってるの」
「三位一体でシールドか何か創れる?」
「命のバリアみたいな?」
「シールド? せいぜい雰囲気や気配かな」
「命を守るんじゃなかったの?」
「命を守るといってもね。雰囲気や気配のことから考えるとね。防御のためのものではない気がしてるの」
「防御のためじゃないとしたら何かしら?」
「リナちゃんも感じてたみたいだけどたぶん、あらゆる世界と心を通わせるためなのじゃないの」
「確かに、お友だちになりたいなって思うのは、雰囲気が好きだからかも・・」
「おねえさんの雰囲気が好き」
「大好き」
「ありがとう。リナちゃん、マホちゃん」
「心を通わせた記憶って残るの?」
「たぶんね」
「ほんの短い間でも?」
「リナちゃんが言っていた手を繋いでいるような時間って、命の絆のことではないかしら。それはね。みんなの意識が一つに感じられる世界のことだと思うの」
「一つに」
「リナちゃんが手を繋いだ光の環の中にいる。何かいい」
「マホちゃんも一緒だね」
「おねえさんも」
「あのね。光の環の中にみんな入っちゃうの」
「すてき」
「命の意味って、このあたりに隠されているような気がするね」
「だからね。意識できなくても心を通わせた記憶って残るんじゃないのかな」
「きっと残ると思う」
「三位一体の働きって、感動を共有する力なのかもね」
「それが光の環?」
「心を通わすための言葉のようなもの?」
「たぶんね。みんなと手を繋ぐことができた光の環が、嬉しくて身体の中の物質たちを共振させているのではないかしら」
「それは一つになれたから?」
「この働きはね。意思の疎通のための第一歩だからね」
「じゃあ、働きだけで存在している者がね。物質を操作してるってことにもなるのかな?」
「身体の内にはね。三位一体の世界を創り続けようとしている何かがいるような気がしているのだけれどね」
「霊みたいな?」
「いるような気がしてきちゃった」
「三位一体と霊って同じものなの?」
「どうなのかな? 考えてみたら三位一体って霊性の働きって言い換えてもよさそうだしね。でも微妙に違うのかな?」
「じゃあ。どこが違うの?」
「こんなふうに考えてみるのはどうかしら? 例えばね。物質が共振することによって感動を共有する言葉って、絵画や彫刻がそうなの。視覚表現はね。身体の外にも三位一体の世界、何らかの光の環を表そうとしているってことだと思うの。言い換えればね。霊が霊性を表そうとしているってことかしら?」
「違いは霊とその働きってこと?」
「そうなるかしら」
「霊が働くと三位一体になって、感動したり、言葉が生まれたりするってことなのかな?」
「もっと言うとね。三位一体って、霊の進化を担ってるのだと思うの」
「霊も進化するんだ?」
「何となくだけれど、リナね。命の意味を問い続けているような気がしてきちゃった」
「自意識に囚われることのない思いやりを育むといった方が分かり易いかしら?」
「自意識に囚われると、そこでの私でしか生きられなくなっちゃうの?」
「だからリナちゃんはリナちゃん。マホちゃんはマホちゃんなのね」
「リナちゃん。囚われちゃってるね」
「自分でなくなっちゃったら、いやだもん」
「囚われの身のか弱い私。どこかの王子様が救い出してくれないかしら?」
「ウプッ。マホちゃん。中二病でも恋がしたいお年頃だもんね。リナ王子が救いに行くからね。大丈夫だよ」
「リナ王子?ハハハハハ!大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「お二人は中学二年生?」
「はい。恋がしたいお年頃なのです」
「マホちゃんは中二病なの。ウプッ」
他愛もない会話が場を和らげてくれた。今では、ゲーム、アニメ、コミック等がシャーマンに成り代わって思春期の通過儀礼を一手に引き受けていた。当然、彼女たちの言葉もそこ由来のものが多くなる。
「おねえさん。無意識って変換と統一とどんな繋がりがあるの?」
「極端なことを言えばね。変換と統一は霊の進化史なのね。大いなる何かが物質化して、その働きを意識することなく、永遠に姿形を変えていくためなのではないかしら」
「じゃあ、自意識は?」
「統一されていた世界の何処かに問題が生じたということだから、その異常事態をね。どんなふうに変換したらよいのか、いろいろと考えているのだと思うの」
「それって宇宙も私たちみたいに考えてるってことなの?」
「たぶん無意識にね」
「無意識なのに考えてるのって何か変な感じ」
— この違和感に霊性のことが隠されているような気がするのだけれど、宇宙の霊性を説明するのって荷が重いな。
「たぶん、宇宙にも三位一体の働きがあるのではないかしら」
「宇宙にも三位一体の働きがあるってことは体の地図を持ってるのかな?」
「宇宙も夢をみたりするの?」
「宇宙にも心があるのかな?」
「変換と統一が繰り返されている以上、無意識に作られた銀河の地図があるような気がするし、夢を見たり、心のようなものもたぶん、あると思うけれどね。本当のことはおねえさんにも分からないわ」
「分からないんだ」
「でもね。泡のような構造をしていることが観測されているのよ」
「泡?」
「そう、泡なの。きっと理にかなったことがあるのでしょうけれどね。何故、泡なのかしらね?」
「おねえさん、泡の体を創るように働いていかなければそうならないはずでしょう?」
「リナ、やっぱり宇宙にも体の地図があるような気がする」
「おねえさんの話を聞いてると、宇宙の体を創っている変換と統一って、意識と無意識が織りなす、浮かんでは消える泡のようなものに思えてくるね?」
「マホちゃんもそう思う?」
「きっとそうだよ、この泡の物語の中にリナたちも住んでいるのね」
「宇宙が自分に気づくことから始まった泡の物語ウフッ。自意識はね。身近なことで言ったら好きとか嫌いとかを判断するための物差しのことなの」
「それがどうして物語を起こすきっかけになるの?」
「リナちゃんとマホちゃんが仲よしなのはどうして?」
「大好きだから」
「いっしょにいると楽しいもの」
「じゃあ。嫌な人と付き合いたいと思う?」
「思わない」
「変換と統一もね。簡単にいえば、物質がくっ付いたり離れたりすることなの」
— 物質なら反対の性質がくっ付くのにね。そこが不思議なのよね。
「宇宙はくっ付いたり離れたりするための物差しを持ってるの?」
「くっ付いたり離れたりする働きはね。物質化と同時に生まれてきた基本的な働きなのではないかしら。それに対してね。小さな統一した世界をたくさん生み出そうとしているのが今お話していることなのだと思うの。たぶん、意識することでどうしたいのか、願を深めているのではないかしら」
「願を深めたら蛹になるのかな?」
「意識することがいっぱいかさなってね。それも何世代にも亘ったりして。とても強い自意識が働かなければ蝶になることはできなかったと思うけど」
「無意識だった世界を意識するのって、何か怖い気がする」
「どうして?マホちゃん」
「とても純粋な祈りを感じるの」
「じゃあ、純粋な祈りが何かを変えるための自意識なのかな?」
「この世界は無意識を呑みこんでしまうくらい無限大の自意識が働いたのではないかしら。星を吹き飛ばしても尚、余りある強さがなければ全自動的に変換と統一を繰り返すことはできなかったでしょうね。私たちの身体の中にはね。この地球では作れない何種類もの物質がごく微量だけれど含まれているの。その物質は何処から来たと思う?」
「身体を形作っているものたちは、光の環から別の光の環へといろんなところを旅しているのでしょう。宇宙の何処か遠いところから来たのかな?」
「もしかして星の爆発と何か関係しているの?」
「太陽のように大きな星はね。核融合によって自身を書き変える時に、光を放ちながら少しずつ重い元素の体へと変わっていくの。核融合で生み出される物質には限界があってね。鉄ぐらいまでなのね。それ以外のもっと重い元素は星が爆発する瞬間に創られるといわれているの」
「星の爆発で生まれた物質がリナの身体の中にもあるってことなの?」
「あるのよ。だから、リナちゃんもマホちゃんもお星様の子供ね。ウㇷ」
「おねえさんもね」
「お星さまの子供」
「全ての営みは物質化が根源なのだけれどね。変換と統一のこと、少しは分かってもらえたかしら?」
— こんな私たちが確かに元はひとつだったと実感する手立てはあるのかしら?
「でも、おねえさん。何だか鈴と剣にあまり結びつかないのだけれど・・?」
— 変換と統一の具体例としては分かりやすいと思ったのに、作品から離れすぎたかしら?
「では、もっと直接的に説明するわよ。物事を統一しようとする時にね。同じ何かの別の側面という考え方をすると都合がいいのよね。作者が考える宇宙はね。光と闇と物質の世界なの。闇はただ暗いということではなくて、響きの世界だと考えていたのよ。そこでね。この世界観を統一的に表せる象徴的な素材を探したのね。鈴は金色で光っているでしょう。そしてこんなふうに振るとね。ほら、音が鳴る。一つの物質に光と響きを合わせ持っているの。ねえ、ぴったりでしょう。剣はこの鈴の働く方向と力を表しているの。その計り知れない力によってね。宇宙は何処までも広がっているのね。鈴の光と響きの波は、剣の諸刃に変換されているのが分かるかしら? 一方の刃が光波、もう一方の刃が響き波ね。光波と響き波が合わさる剣先から世界を開いていくの。世界はその始まりから光や響きで満ち溢れていたのね」
「すてき!」
「リナちゃんとマホちゃんが輝いているのはそのせいなのかもね」
「おねえさんも輝いてる」
うち解けた三人の姿を漆黒の床が水鏡のように映しだしていた。そこには水鏡の目が捉える逆さの世界があった。マホは眼差しを床に落として、地に降り注いだ鏡、鈴、剣が変換されて見せる、その澄んだ鏡面の美しさに見とれていた。
— 神秘的な水鏡の目。始まりからの途方もない時空をこの目の中に隠し持っているのかしら?
床の中央には、円形の光沢がある黒い水盤が置かれていた。床の質感と合わせていることで地続きだと分かる。
— 小石を投げ入れたのは誰?
ポチャリと水盤を基点として波紋が広がると時が止まった。マホは床の展示物にイメージをかさねていく。透明なアクリル板が二重の輪に巡らされL字型で立っている。どこか呪術めいた八角点の波紋は、互いの角度を半分だけ転回することで十六の方位を示していた。
— これにどんな謎が秘められているというの? アクリルの板が光を屈折させ、プリズムのように小さな虹が生まれるのかしら?
板の垂直面には剣先を天に向けた紙の剣が差してあった。正に天上がろうとする剣の下に白い水玉が置かれている。
— お宮のものと比べるととても小さいね。
「おねえさん、床の展示も気になるの」
— でしょうね。何から説明しようかしら。
「マホちゃん。リナちゃん。この作品はね。参加することができるのよ」
「やってみたい」
「リナもやりたい」
「じゃあね。床面に置かれている十六の水玉と剣の中からどれか一組を選んでみて」
「どれでもいいの?」
「お好きなものをどうぞ」
「おねえさん、北はどっち?」
「この方角かしら」
「真北にあるこれにしようっと」
「マホちゃん。それにするの。何となくだけれどリナ分かる気がする。北って基準になる方位だものね」
対称的な真南のものをリナは選んだ。
「マホちゃんは北極星ね。リナは真夏の太陽。ギラギラだよん。キャハ」
「リナちゃん。マホちゃん。アクリルの抜き差しから剣を抜いてね。水玉と一緒に部屋の隅にあるあの台のところまで持って行きましょう」
「はーい」
「ねえ。魂ってどんな姿なのかしら? 考えたことある?」
持っていた水玉と剣を台の上に置くと、リナは両手を組んでハートの形を作った。
「こんな感じ」
「それって逆さにするとこの形になると思わない?」
そう言って水玉に軽く触れた。
「蓋を開けてみて」
可愛く鈴が鳴った。
「あっ、蓋に鈴が付いてる」
耳元でそっと振ってみる。愛らしい音に口元が緩んだ。
「水玉は魂のモデルだそうよ。魂の姿を想像した時にね。宝珠の形が浮かんだのですって」
「そう言われてみれば、これって宝珠の形に似てるね」
「炎を象徴しているのだそうよ」
「水玉ってお水を入れるものだとばかり思ってた」
「何か入ってる」
「取り出してもいいの?」
「どうぞ」
「水晶玉?」
「そのとおりよ。よーく見て。何か気づかない?」
「あっ、何か書いてある。A かな。マホちゃんのは?」
「わたしのは O みたい」
「それはね。母音なの」
「魂って、もしかしたらタマが鈴でシイが水晶玉なのかしら?」
「それじゃあ。母音は?」
「母なる音は、あのね。透明だから本当は見えないの。でもね。炎の内で輝いて鳴り響いているの」
鈴を付け透明な水晶玉に母音を記したのは、マホが想像したようにそういう意味に違いなかった。そしてこの魂のモデルは私たちに委ねられていた。
「水晶玉に母音 A I U E O と N を託すことでね。魂とふれあえる機会を持たせようとしているの」
「どうやって?」
「言葉の一音一音を伸ばしたらどうなるかしら?」
「うーん。母音になっちゃう」
「なっちゃうね」
「そこでね。変換と統一のことを思い出してみて。同じ何かの別の側面という考え方をね。音にあてはめてみるの。リナちゃんは A だったから、同じ A の母音の別の側面として、あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら、わ、が、ざ、だ、ば、ぱ、の何れかに変換できるでしょう。マホちゃんはOだから、お、こ、そ、と、の、ほ、も、よ、ろ、を、ご、ぞ、ど、ぼ、ぽ、になるわね。変換を促す働きが母音に託されているのが分かるかしら?」
「うん。分かる気がする」
「剣を開いてね。変換した一音をお好きなところに書き込むの。こうしてできた音の連なりによってね。参加者の意識を融合した歌の剣が生まれるの」
剣は十六弁に折り込まれていた。開くと剣菊紋になる。剣弁には音を記すためのマスが縦中央に七マス印刷してあった。所々に筆跡の異なる音が書き込まれている。年齢も性別も住んでいる所も違う誰かが、人生の通過点として変換していった音である。力強くしっかりとした太い文字もあれば、か弱く震えている文字もあった。隣り合う音が響きあい、お互いを感化し続けて行く中でどんな働きが生まれるのだろう? 核融合が膨大なエネルギーを生むように、意識融合もまた、それに匹敵する何かの可能性を秘めているに違いない。
「作者はね。私たちと魂との見えない絆によってね。意識を融合するための具体的な方法を考えていたのよ」
— でも、分からないのよね。文法もなくただ音が連続しているだけの呪文のようなものに何か意味を見出せるのかしら?
「おねえさん。意識を融合するって?」
「うーん。もっと易しい言葉でなくちゃ分かんない」
「ごめん。作者がそう言っていたから、つい。そうね。みんなの気持ちを一つにするって言えばよかったのかしら? 感じ方も、考え方も違う一人ひとりの思いが融け合うための方法なのね」
「それってどういうことなの?」
「どういうことなのかしらね。みんなの意識が響きあうことによって何が生まれるのか、おねえさんにも分からないわ。ただ言えることはね。今、私たちが使っているこの言葉とはまるで違う言葉を探していたのは間違いなさそうね。ねえ、どんな言葉を探していたと思う?」
「夜空に涙のひかり、色白のお星様たち」
「それを優しく受けとめてくれるお月様やお日様なんかともお話しできたらいいよね」
「いいよね」
「それにお花や森の」
「猫。ウフゥ。小鳥にお空。髪をとかしてくれるそよ風」
「雲の背中を押したりなんかして」
「雨を降らすの。輝く川。海が待ってる」
「おめかしした人魚姫、お魚さんたちともお話しできたらいいよね」
「いいよね」
— 人だけでなく他の生命や物とまでも会話できる言葉を探していたのかしら?
「何にでもなれる魔法の呪文があったら?」
「リナちゃん何になりたいの?」
「秘密。ウプ」
— それとも物理的な感受性とは別のもう一つの回路を開こうとしているのかしら? 言葉に欲望を叶える超越的な何かを感じていた人々がいたのは事実なのよね。もしかして体験からそうなったのだとしたら? そういう呪文か何かがあるのかも知れない。
「亡くなったお爺ちゃんに会いたい」
「よしよし、会いたいよね。マホちゃん」
— 亡くなった人や見えない世界と思いを通わせられる言葉って? 祈りによって開かれてきた界があるのだから、それもできるのかも知れない。文法を解体することで生まれる言葉にどんな働きが秘められているというのかしら?
光や響きで満ち溢れているからといってこの世界に始めから音があったわけではない。音や数は人の意識が果たしたささやかな物質化を象徴するものなのだ。響き合わせることで感じることや考えることと結ばれていく。母音を変換することで音を連ねていく体験が何を意味するのか。彼女は考えをまとめきれずにいた。
「リナちゃん。マホちゃん。そろそろ、やってみない?」
「うん。やってみる」
リナは手のひらに剣を乗せると、折りを開きながら、そこに記されている音をゆっくりと指先で読んでゆく。ぽっちゃりとした桜色の指が紙の上を滑って、微かな音が僅かに開いた唇からぽつり、ぽつりと漏れ出てくる。
「□りつ□す□ん る□あむが□に □□ぽと□ゆ□ らか□みろよ□ ほれめの□た□ ぴ□おろ□□□ □□□り□□ん りずえ□□□ろ □もる□でる□ にゑぐ□□ええ □くよだ□ゆつ ぱび□てぬをぞ □□げぬふま□ □まだ□ろねか う□□□ぽえ□ □ろぐ□ぜにり」
— マホちゃんの「ま」にしようっと。どこに書き込もうかな?
剣の中に「り」の文字を発見したリナは、その上に書こうと決めた。
「□□まり□□ん」
— 海になっちゃった。それとも船かしら?
マホもまた同じようなことを考えていた。
— I だったらよかったのに。どうしよう。リナちゃんの名字、荻野の「お」でもいいかな?
「□くうひ□□お」
— 何か男の人の名前になっちゃうのかも?
マホは剣弁の最後のマスに「お」と書き込んだ後、小さな声で歌い始めた。恥ずかしそうな声が糸のように震える。
「□ろり□ぞてら □あぴき□□お る□□んつた□ やげわ□□□を へ□□□ぱいぬ □ぐ□おれ□□ □えつ□みれ□ むも□ばりやさ □□□ゆのよ□ ぼれそ□□□□ □うま□ぱせ□ □□ざ□らのこ □□□くり□ぎ ろきわ□□そ□ おつす□□□ち □くうひ□□お」
音は神仏の働きに人が呼んだ言わば神仏の名である。
神仏の名を連ねることによって生まれた歌の剣が天に昇って行くひとすじの光を、マホは歌いながら龍の姿で思い描いていた。古人がかつて持っていた音に寄せていた思いを無意識に感じ取っていた。
その調べは、どこから発せられているのか分からないくらい澄んでいた。音の響きがかなたからの声のようにリナの心に融ける。
「すてき! 天使が歌ってるみたい」
リナはマホの声が天から降りてくるような気がして空を見上げていた。
「あっ、彩雲がでてる」
「どこ?」
リナが指差した方向を見ると翼を広げた鳥のような姿で虹色に輝いている。
「鳳凰みたいね」
その微妙に変化いていく色や形に歌の余韻のようなものを感じてしばらく見ていた。
「この作品の大事なところはね。今、マホちゃんが歌ったようにね。私たちの意識が融合した歌を、世界の始まりに向けて響き返すことなの」
「それで剣先が天に向いてるの?」
「高見を目差すって感じがするでしょう」
作品からその霊性を読み解くためには、想像力を働かせなければならないことぐらい、リナもマホも分かっていた。それでも今の二人には彼女のサポートが必要だった。
「世界の始まりへ向けて歌うってどういうこと?」
「マホちゃんはお手紙がきたらお返事を書くでしょう。それと同じことじゃないかしら。ただ、文通のお相手がこの世界を創造した方というだけのことでね。身の回りの全てのことが神様仏様からのお便りだとしたら、起きていることは全て、神様仏様が姿を変えて現れたものだということになるわね。良いことも悪いこともみんなね」
そう言った途端、先日おこった自爆テロのニュース映像が浮かんできた。
— いいことばかりじゃないのよ。神仏は痛みを隠さない。それどころか、もっとも好ましくないところを私たちを使って表現してくるのね。私たちが考えたり悩んだりする力を持っているからかしら? この働きって元はと言えば言葉なのよね。
「リナちゃん、マホちゃんは生活していて、感じたり考えたりしたことを神様仏様に御報告してる?」
「してないの」
「お願いすることの方が多いみたい。おねえさんは?」
「ありがとうってたまにね」
「全てを神様仏様の現れだと感じて生活するのって、できるの? 厭なこともいっぱいあるのに」
「全ては無理でもね。自然を神様仏様とかさねている人って意外と多いんじゃないのかな。ほら、ご来光に手を併せている姿を時々見かけるでしょう」
「初日の出の時、リナもしてるよ。今年も良い年でありますようにって祈ったの」
「お日様と心が一つになったらすてき」
「根源ではきっとお日様だけでなく目にする全ての風景とも心が一つになるのではないかしら。ここに展示してあるものはね。本来、現実には見えないものなの」
「空気のようなもの?」
「そう、それをあえて音が生まれる水際を意識させるためにね。象徴的なもので見えるようにしているの。そういう意味ではね。神世から私たちに至る世界を立体的な曼陀羅として物質化していると言ってもいいの」
「曼陀羅って?」
「見たことあるけど、よく分かんないの」
「簡単にいうとね。心を表したものなの。心の本体は思いやりと知恵なのね。思いやりは大悲といって胎蔵界曼陀羅、知恵は大知といって金剛界曼荼羅で表現されているの」
「あの絵って心を表したものだったんだ」
「心の世界を成り立たせている全ての働きをね。その働きに応じた神様や仏様の姿で表しているの。この作品ではね。その代わりに鏡、鈴、剣に記された音と数があてられているの」
「これって神様仏様だったんだ」
「可愛いのに凄いんだね」
「リナちゃん。その鈴に何て書いてある?」
「い。それに数字の五かな」
「鈴に至る糸はね。世界の始まりへと伸びているわけだから、神様仏様がい音の五として輝き鳴り響くためにはね。たくさんの星々が誕生したり衝突したり、時には大爆発してブラックホールに成ったりしてね。銀河を形作ってきた宇宙の様々な歴史を背負っていることになるわね」
「気が遠くなっちゃう」
「138億光年もの神仏霊性の結晶が輝き鳴り響いているの。作者が音と数に抱いていた思いはね。そういうものだったはずよ」
「鈴に化けちゃうなんて。可愛い。神様仏様って人を救うものだとばかり思ってた」
「かなたから降り注ぐものたちが音に変わるのにはね。さらに人の意識と響きあわなければならないの。人の意識の根源、それはたぶん魂よね。心と身体を司る霊性が神様仏様の息吹と響きあうことでね。言葉の素となっている音が生まれてくるのだと作者は考えていたのかも知れないわね。音は神様仏様と人の魂が響きあった証し、霊性の絆なのじゃないかしら」
「一音一音にその霊性が働いているのね」
「だから話し言葉って、音が連続しているだけなのにそれを捉えると意味やイメージが広がるのだと思うの」
「音が霊性の絆だなんてすてき!」
「何だか言葉って音の糸で神様仏様を編んでるみたいな気がしてきた」
「不思議。何となく祈りの糸で言葉を編んでるような気がしてきたね」
「それって音に、神様仏様と私たちを繋ぐ働きがあるってことなのかな?」
「誰かの一言が涙が出るくらい嬉しかったりして。そんなことない?」
「ワーァ、おねえさん。そんなことがあったの?」
「いっぱいあるわよ。リナちゃんはどうなの?」
「何となくリナも感じたことあるけれど・・・でも、?」
「その時、身体の中がパアート明るくならなかった?」
「なった」
「じゃあ、厭な言葉を言われたりしたら?」
「暗くなっちゃう」
「身体の中が明るくなったり暗くなったりするのは何故かしら?」
「・・・ん? 分かんない」
「言葉に光の働きがあるから」
「そう、マホちゃんの言うとおりね。言葉には光と響きの働きがあるのね。それでね。その働きと神様仏様の霊性は同じものじゃないかしら。どお?」
「そうかも知れないね」
「一音一音が神様仏様の霊性そのものだからこの繋がり方しだいで身体の中を明るくしたり暗くしたりできるのではないかしら」
「不思議」
「そんなふうに考えたことなかった」
「音には数の数には音の働きが秘められていて、それぞれの霊性はね。きっと共に響きあえる相手を求めているのだと思うの」
「響きあえる相手を?」
「相手によって働きが違う言葉になるのではないかしら」
「それじゃあ、働きの違う神様や仏様が響きあうことによって言葉が生まれるってことなの?」
「その神様仏様たちをどう響き合わせるのかが私たちの霊性なのね。言葉使いはね。神様仏様の霊力を使うのと同じことなのね。だからとても畏れ多いことなのだと思うの」
「何だか言葉を使うって魔法を使うみたいな気がしてきちゃった」
「心で働くためのね」
「どうしたらうまく使えるの?」
「リナちゃん。ちょっとそこの鈴を鳴らしてみて」
「こお」
「今の音に右へ行きなさいって命令してもいうことを聞くかしら?」
「無理」
「無理よね。いったん発せられた音はコントロールできないの。どんなふうに鳴らすのかコントロールできるのは身体の内にある時なのね。言葉も同じで、発する前によく考えなくっちゃね」
「分かった」
「この世界を創る時、神様もよく考えたのかな?」
— 鋭いな。戦争やテロ、環境やエネルギー、核や原発事故、差別や格差、食料や人口、天変地異や疫病など様々な問題を抱えている私たちのことを考えるとマホちゃんがそう言うのにも頷けてしまうわね。人の創り方を間違ったのかしら? これも神仏の現われだとしたら、悲しみや苦しみに悩み悶える世界を自ら抱えることで、根本的な解決の糸口をそこに住まわせた元凶である私たちによって見つけようというのかしら?
「マホちゃん、どうしてそう思うの?」
「幼いころ綺麗だった川が今では悪臭を放ってるの。よく遊んでもらったのに。あれが神様仏様だなんて悲しい」
「確かに環境を悪化させたのは私たちがしてしまったことだけれど。痛みを意識する上で大事なことはね。それをみんなで意識することなの」
「みんなで」
「そう。みんなで作っている世界なんですもの。みんなで悩んだり考えたりした方がいいと思わない?」
「うん。そう思う」
「特に痛みはね。小さな部分が全世界と同じくらい大切なのだと自覚するためのものだからよけいなの。例えばね。指先に棘が刺さったことある?」
「ある」
「小さな棘でも、その痛みは違和感になって身体全体で感じるでしょう。たった一つの細胞が傷ついただけなのにね。でもね。その一つがとても大事なものだから癒そうとする働きを全身で呼びだしているの。身体全体が一つひとつの細胞を気づかっているのね。このことをね。私たちにあてはめてみれば痛みをみんなで感じることがとても大事なことだと分かるでしょう。ねえ」
「うん。分かる」
「社会的な営みの中で無視されがちな私たち一人ひとりの働きが如何に尊いのかを意識することなのですものね。みんなで作っている世界なのに、その総資産の内、上位僅か十人足らずの人たちの資産が、全人口のもっとも貧しい人から数えて半数の総資産とほぼ同じ何て、馬鹿げていると思わない? 私たちはそんなふうにしか社会を作れないのかしら?」
「えー、そうなの」
「痛みをみんなで感じられるようになるにはどうすればいいの?」
「一つの体になればいいのだと思うの」
意識を如何に統一するのか。その模索する方法が作品に示されていると彼女は思っていた。
「ああ、それでなのね。この歌の剣は」
神仏と人の意識が霊性の絆で結ばれ、私たちが一つになる願いが込められていることにマホは気づいた。歌の剣の本当の意味が分かったような気がした。
「私たちが悩むって神様仏様が悩んでるのと同じことなの?」
「この世界が統一されている世界ならね。少なくとも作者はそう思っていたと思うの。困ったちゃんの尊さに気づくことが神様仏様からの最高の贈物なのね。言葉を授かったのは、たぶん、神様仏様に代わって私たちが悩んだり考えたりするためじゃないかしら」
「悩んじゃうのは神様仏様が困ったちゃんになって遊びに来てたの? 変なの」
「遊んであげる余裕なんてないんだけれどね」
「何時も見守ってくれていたんじゃなかったんだ」
「そんなことはないと思うけど」
「じゃあ、ウㇷ。困ったちゃんとどんなふうにお付き合いしたらいいのかしら?」
「真摯に向き合って一生懸命に悩むのがいいんじゃない。悩むのって、特に対人関係の場合はね。その殆どが自意識が仕掛ける罠なの」
「自意識が仕掛ける罠?」
「そう。自意識は捉えた人のことをね。本当はそれほど知らないのに、身勝手に位置づけてしまうの」
「身勝手に?」
「そうよ。だからどんなふうに位置づけたかによってね。評価や見かたが違ってくるのね。それは自身の何処かに投影されるものだから、気にくわなくて憎しとばかり刺したりしたらもう大変、自身を傷つけてしまうことになるのね。憎いと思ったお相手は痛くも痒くもなくて、刺した自分自身が痛みを抱えてしまうの。自意識の歪みはね。好ましくない捉え方を繰り返しした時に起こるものなの」
「自分で自身を刺すようなものなの?」
「そんなふうに引き受けていたことでね。身に余っていたのに、苦しくなってもなかなか気づけなくてね。投影されるスクリーンが自分自身だということに気づいていればね。そんなことはしないでしょうに」
「おねえさん、何かを捉えることって引き受けることだったの?」
「その人や世界に成り代わってね」
「じゃあ、身に余るって?」
「不平や不満はね。たいてい捉えた世界のことが身に余っているからなのは分かる?」
「いい子にしてるのって大変だもの」
「そうなの? おりこうさんでいるのってそんなに大変? でもね。身に余るかどうかは感受性によって変わるものなのよ。例えばね。好きな人から頼まれたりしたらね。ああ、頼られてるんだなって、そのことが嬉しかったりするのに、嫌いな人からだと、仕事を押し付けられたように思ってしまって、嫌になるなんてことがないかしら? 同じことでも180度変わるのね」
「苦しくなってるのになかなか気づけないのはどうしてなの?」
「対象を好ましくないものに位置づけようとしているだけでね。他の捉え方もあるんだってことを殆ど考えないからじゃないかしら。自意識に歪みが生じた時にね。精神や身体の何処かに違和感をつくったりして、それとなく警告したりするのだけれどね。自意識はとてもわがままな権力者、暴君だから愚かにもこのことに気づかないのね」
「気がつかないんじゃどうしようもないね」
「自意識の暴君ぶりが何時も自身に投影されてるってことなのかな?」
「それに気がつかないと罠にはまっちゃうんだ」
「そうよ。だから嫌だなって思った時が要注意なの」
「おねえさんが言うように、自分がそういうふうに決めつけたかったんだって、気づけばいいんでしょう?」
「そうなのだけれどね。心はね。欲望によって無意識に位置づけられたものたちをね。直ぐに感情へと変えてしまうから、気がつく間がないのね」
「気がつく前に感情になっちゃうの?」
「考えてみて、感覚的に生理的に捉えてると思わない?」
「考えたことなかったけど、そうかも知れない」
「先に感情に囚われたことでね。位置づけた世界が確かなものだと信じてしまうのよ」
「捉えた世界を疑ったりしないものね」
「だから自意識が仕掛ける罠はね。困ったちゃんに感情が支配されることなの」
「感情に心が奪われちゃうんだ」
「感情は心全体を占めてしまうから、他のことが入り込む余地がなくなってしまうの」
「感情をコントロールするにはどうすればいいの?」
「繰り返しになるけれど、無意識の欲望が身勝手に位置づけている世界なのだと、初めからそう思っていることね。自覚していればね。他の捉え方もあるってことに気づけるでしょう。もともと対象のことをあまり知らないのだから、最初から分別しないって方法もあるけどね」
「それじゃあ。困ったちゃんは初めからいなかったのね」
「あのね。リナが困ったちゃんを生んだの」
「ワ~。そうなの?」
「感情に囚われずに投影されたものを見ればね。自分が何を望んでいたのかを知ることができるの」
「そうしたかったって?」
「自覚できるんだ」
「位置づけた他者の世界をね。自分自身の欲望が生みだしたものなのだと気づけばね。わがままな暴君を死の淵へと追い詰めることができるの」
「あっ、リナ王、死んじゃったよ」
「自意識が仕掛ける罠から抜け出せたのね」
「リナ悩まなくて済むの?」
「困ったちゃんと遊べなくなるね」
「あら、遊びたかったの?」
「友だちなの・・?」
「リナちゃん、それ違うでしょう」
「でも大丈夫なの。困ったちゃんはマホちゃんも生むことができるから」
「キャハ、私が生むの?」
「たくさん生んじゃだめだよ。一っ困ったちゃんにしてね」
「二っ困ったちゃんじゃだめ?」
「キャハハハハ。ニコちゃんならいいかも」
「おねえさん。さっきのことだけど。リナちゃんも話を戻してもいい?」
「いいわよ」
「うん」
「もし統一されてない世界だったとしたら?」
「むしろ、今の状況から考えると、とても統一された世界だなんて思えないの。神様仏様が自らの体を余すところなく使ってね。包み隠さずそのまま現わしたのがこの世界だとしたら、隅から隅までその現われなのだから、どんなに小さなことでも等しくみんな尊いはずでしょう。命に優劣をつけてしまうこと自体が間違いなの。神様仏様が優劣や格差を望んでいたとは思えないのだけれど。でも現実は違うのよね。私たちもその現われなのに、どうしてなのかしら? まるでこれ以上ない痛みを望んでいるかのようにせっせと好ましくない世界にしてしまうのね。尊いものの危機をみんなが意識するにはこれくらいではまだまだ足らないとでも思っているみたいなの」
「なんか、怖くなってきちゃった」
「ごめん。そういうつもりじゃないの。でもね。私たちの社会はみんなで作っているはずなのに、一人ひとりの尊さが生かされるように統一されているわけではないの。お父さん、お母さんたちは、どんな働きを持った人でも尊く受けとめられるように工夫してこなかったのね」
「どうすればいいの?」
「どうすればいいのかしら? みんなで考えよう」
「うん」
「考えようとする時にね。私たちは言葉を使うでしょう。その言葉が何処から来たのか。言葉の本質に迫ろうとして作者が気づいたことはね。大いなる意識が物質化するうえで音から言葉が生まれるように仕組まれていたということではないかしら。神様仏様の現われの中に問題をみつけたらね。それを自分の悩みとしてあれこれ考えてみるのって言葉があるからできるのよね」
大いなる意識とふれあい、霊性の絆として生まれた音の働きには、どんなものとも響きあえる無限の可能性が秘められていた。界を開くもよし、神仏精霊を召喚するもよし、死者を弔うもよし、音には私たちが知っている言葉以外の使い方があった。それは真言や呪文によって模索されていたことでも分かる。だが、現在、一般的に使われていないことから考えると、肝心の使い方を修得できたのは、今私たちが使っているこの言葉だけだったのだろう。
言葉が働きだすとその構成要素である音の霊性を意識することはしだいに薄れていくのかも知れない。自意識が心の中心におかれ神仏との関係を見失っていく。音が持っていた本来の働きを使うことなく、霊性の絆を忘れてしまう。今に至っては、もはや一音によせる関心など殆んど失われているといってよいだろう。
リナにもようやく作品の意味が分かりかけてきた。
「マホちゃんの歌、届くといいね。リナね。祈ってるように聞こえたの。マホちゃんの声」
言葉が生まれる水際で古人が体験してきたかなたからの声を、さっき歌ったマホの声の中にリナは感じていた。
「心を込めて歌えば、また、歌い返してくるのかな?」
「マホちゃんが歌えばね。きっと、歌い返してくるよ。マホちゃんの声って、心の何処かで懐かしい神様を呼んでいるような気がしたの。あんな不思議なメロディが即興で歌えるのだもの」
「音たちが祈りを求めていたの」
— 思春期の女の子って感受性が鋭いわね。私もそんな時期があったはずなのに。
「あのね。リナ、おねえさんの説明を聞いていて分かったことがあるの。それはね。この作品が神様仏様の歌だってこと」
「リナちゃん。どうしてそう思ったの?」
「だって、おねえさん。ここは心の中なのでしょう?」
「そうね。心の中にいるようなものね。心の「ろ」って暖炉とか核融合炉とかの炉のことだと思うの。心はね。意識融合炉。[ここ]で感じたことや気づいたこと、意識したことを祈りに変えるための炉なのではないかしら」
「マホちゃんが歌ったらね。音と数をまとった鏡の妖精さんたちが雨となってリナの心の中に降りてきたの。鈴の妖精さんも剣の妖精さんも降りてきて雨の心を奏でるの。一音一音が輝いて響きあい天使の声で歌っていたの」
「リナちゃんはそんなふうに感じたのね。おねえさんはマホちゃんの歌、とても繊細で清らかな明るいものに包まれた気がしたのよ。マホちゃんは実際に歌ってみてどうだったの?」
「ちょっと恥ずかしかったけれど、でも何か気が遠くなるようなぼんやりとした明るさの中にいた気がする」
言葉が祈りと共にある時の心の輝きをマホはどう説明してよいのか分からなかった。
「透き通ったマホちゃんの声はね。勇気のでるお水を飲んだような感じ」
「そんなお水があるの?」
「ウフッ。マホちゃんのことだよ」
「さっき、マホちゃんが言っていたことだけれど。音たちが祈りを求めていたってどういうことなの?」
「発声した音を伸ばしているとね。繋がりたいという気持ちが次の音の世界を探し求めているの。そんな音の祈りを感じて響きあわせようとするとね。音階が自然に変わってメロディになっちゃうの」
「一音一音にそれぞれの世界があるのね。それが祈りによって結ばれるなんて興味深いわね」
「それじゃあ、マホちゃんの歌は祈りによって生まれてきたのね」
「リナちゃん、歌ってそうなのかもしれないよ。私に限らず誰でも」
— 言葉もそうかも知れない。
マホは音を初めて意識した古人の姿を思い浮かべていた。夜空の雫たちを見つめては、星々から吹いてくる風の匂いを嗅ぎ分けている。煌めきと煌めきの香りが響きあい、発光する心の奥で無意識に反射した声は遥かな記憶の空にも彗星のような音をたなびかせた。
未だ私たちが言葉を持たなかった頃、感動のあまり胸を割っていでたその声が、捉えた世界をたった一音にしてしまったことから、音が世界を内包し、抑えきれぬ感動を響き返す心の化身であることを知った。心には無限大の世界をたった一音にしてしまう働きがあるのだとマホは思った。この感動の一音こそ、発声した瞬間の心そのもの、意識の物質化に他ならなかった。
言葉はその感動と感動の連続体、心の絆なのではないのか。世界を内包した心の声が音として連なり、心を融合した響きを醸しだす。そこにイメージや意味を認めるのもまた心なのだから・・
「ココ ロノ キズ ナ」
— え。何? 幻聴かしら?
マホはこの声を何処かで聞いたような気がした。
感動の微妙な違いを様々な音によって言い当てた古人の記憶が、マホの脳裏に呼びだされ走馬灯のように浮かんでは消えた。
その中に同じ光景を見て感動した者たちが違う音を発声することがあった。発声した音の違いから互いの感動を共有する言葉が生まれたのかも知れない。この異なる二音が最初の言葉だったのかも知れない。
そんな音の出会いから、あるがままの事物とそれを取り巻くたくさんの言葉が生まれていったのだろう。
— 私たちはそれを気軽に使っているのね。
自意識の大元には意識の物質化を体感した音の記憶が溢れていた。だが出現と同時に全てを無意識化する働きによってあらゆる存在は前世を思い出すことはない。無意識化とは世界を内包し同一化することに他ならなかった。
マホが感じたように祈りによって音と音が結ばれていくのだとしたら、その心と心の絆が醸しだす響きは、働きだけを残して音の霊性を無意識化していくのだろう。音が世界を内包した心の化身だったことに気づくことなく私たちは言葉を使っているのだから。
「心って音が祈るところを求めたから生まれてきたのかも知れないね」
「リナもそんな気がする。神様仏様へお返事するためのマホちゃんの歌、心の中で聞いているような感じがしたもの。それに音に祈りがこもってた」
「意識を融合するのって、祈りなのかも知れないね」
「お二人ともいい線いってる。おねえさんもそう思うわ。この作品はね。一人の誰かがでたらめに音を並べたわけではないでしょう。大勢の人がそれぞれの思いで関わって変換していった音なのね。それを響きあわせるのだから」
「一人の人の心ではなくても心のモデルなのでしょう?」
「確かに個人の心のようにさまざまな感情がわき起こってくるわけではないわね。どう言えばいいのかしら? みんなの心が一つになって混沌としているのに、何故か調和がとれている。何かが生まれる前の卵のような状態じゃないかしら」
「混沌って?」
「そうね。全てがマホちゃんで出来ていたらマホちゃんは何? 空も海も大地も空気も水も土も建物も動植物も、全部マホちゃんで出来ていたらマホちゃんは何かしら?」
「分からない」
「マホちゃんしかいないからマホちゃんじゃないの?」
「いろんなものが混ざり合い融けて一つになった世界はね。分けることができなくて比べるものが何もないから、全てが自分だということしか分からなくなってしまうのね。おねえさんが考える混沌ってこんな感じなの」
「じゃあ、何故、調和がとれているって思ったの?」
「例えばね。調和をイメージさせる形ってどんな形かしら?」
「円?」
「括られているわけじゃないのに何となくだけれど、卵のような丸いイメージがしたのよ」
「うん。分かる気がする。ハートがぷくっと膨らんだ感じ」
「そう。そんな感じね。調和を象徴する円といえばね。気になることがあるの。円周率って知ってる? 学校で習った?」
「円の面積を求める時に使う3.14のことでしょう」
「円周と直径の比のこと」
「そう。円周と直径の比はね。数えられるものたちの絆が何処までも繋がっていて割り切れないの。私たちも一人二人って数えられるからその絆のお仲間ね。調和した世界は何処までも繋がっている私たちみんなで表しているの。すてきだと思わない?」
「数えられるって存在している全てのこと?」
「そうなの。全てのものが関わってこその調和なのね。調和した世界は誰も排除されないの。それでね。割り切れないところに無限の多様性を感じるの。だからね。円に調和の秘密が書かれていると思ったの」
「調和した世界って混沌の世界と似てるね」
「似てるのは全てのものという括りね。で、何処が違うか分かる?」
「全てのものが一つに融けて分からなくなっちゃうか。色々な個性に限りなく分かれ続けるのか。の違いでしょう?」
「そう。だから正反対の方向性なのね。ウフ。それで大いなるものの自意識が渦になって無限大まで膨らんじゃうの」
「そうなのかも知れないね。反対の力が働くのだから」
「無限大まで膨らんだ自意識はどうなるの?」
「今までのことから考えると、物質化して数えられるものたちになるのではないかしら」
「私たちになるんだ」
「鏡と鈴と剣に記されていた数と何か関係してるの?」
「円周率が直接関係してるとは思えないけれどね。作者は音と数についても同じ何かの別の側面と考えていたのは間違いないわね。それは霊性の絆と数えられるものたちの絆にもあてはめていたと思うの」
「ということは祈りと調和も同じ何かってことなの?」
「そういうことになるわね。出現させたり数と数を結びつけているのは調和なのだと思うの。祈りには無意識化の働きがあり、調和には物質化の働きがあるということかしら。祈りと調和が音と音、数と数の間で働いているのね。だからね。歌の剣は物質化と無意識を同時に体験することでもあるの」
対立する働きによって引き裂かれる自意識の痛みが無限大に達する時、祈りは全てを受け入れ自立へと導く。物質化とは祈りによってもたらされた調和なのだから。
おそらくは、自意識の無限大の痛みは物質化によって無意識化された。全宇宙が抱えている無限大の痛みは、大いなるものの祈りが無意識化していたのだろう。身体とその働きの背後に無意識を認めるのはそのためなのではないのか。
大いなるものの物質化に始まり、変換と統一がもたらした膨大な死と再生の痛みや苦悩を、分化したものたちの身体から消しさり無自覚にしたのは、意識を持つものが現れた時、そのものたちの日常が健やかに過ごせるようにと案じていたのかも知れない。
無意識が大いなるものの祈りの働きだとすれば、本当は今この瞬間も全世界の痛みを誰もが受け止めているのに、それに気づいていないだけなのかも知れない。
— もし、そのことに気づいてしまったとしたら?
「作者はね。神様仏様と私たちの意識が響きあう象徴的な体験を考えていたのだと思うの」
それは、大いなるものの祈りにふれることに他ならない。
「誰もが無意識の働きを持っているのはね。神様仏様の調和への祈りを体現しているからなのではないかしら」
「じゃあ、変換と統一を繰り返しているってこともそうなの? 調和への祈りが星の大爆発も引き起こしているの?」
「その痛みを感じないように無意識化してね。宇宙って円い形のものが多いじゃない? 爆発したとしてもまた調和を象徴する形になっていくのね」
「無意識のことが分かったら神様仏様のことがもっと身近に感じられるようになる気がしてきた」
「でしょう。でもね。なかなかできないからこういう作品が創られることに意義があるのじゃないかしら?」
見えない世界と思いを通わせることができた体験は、今私たちが使っているこの言葉とは違う別の言葉があることを示唆させてやまない。
無意識に蓄積されていく膨大な記憶が自在に操れる叡智を、音の霊性が醸し出す響きの配列にみつけられるかも知れない。宇宙の辺境に咲いた名もない花のことを、全宇宙が意識していると感じられる音の連なりがあるのかも知れないのだ。
「リナね。音を意識したことなんてなかった」
「みんなの意識が一つに結ばれればいいね。世界の片隅で起こったどんな小さな痛みも誰もが気づかうようになるかも知れないものね」
「そんな日がきっと来るよ。マホちゃん。リナ信じてるよ」
「来るかな?」
「その時はね。ウㇷッ、マホちゃんの夢の中にリナが現れて、でんぐり返しの飛び方を教えてもらうの。キャハハハハ」
「ウフプ。じゃあ、教授料の前払え、アイスクリームはリナちゃんのおごりね」
「ア~ン。・・? チョコも付けます」
「フフ。その時はお二人でおねえさんの夢の空をでんぐり返しで飛んで見せてね。遠い未来かも知れないけど、おねえさんも信じてるの。全ての細胞に遺伝子があるようにね。私たちの誰もが心に全世界を内包する日がきっと来ると思ってるの。絵を描くこと一つとってみても、実際は紙に描くわけだけれど、本当は紙じゃないのね。みんなの心に向かって描いているのよ。表現ってそういうものでしょう。この作品だって実際に音を連鎖させているのは、ここを訪れた皆さんなのですもの。リナちゃん、マホちゃん、私たちみんなで繋いでいく神様仏様との霊性の絆に不可能はないでしょう。この響きの連鎖がいつの日にか、みんなの心を一つにするって作者は考えたのでしょうね。それでね。もう一つやることがあるの」
「どんなこと?」
「次の人のためにね。水晶玉を入れかえるの」
「この水晶玉って誰かが入れかえたものだったんだ」
「そう。歌の剣に音を遺して行った誰かのね。今度はリナちゃんとマホちゃんが祈りを連鎖させる番ね。それじゃあ、水盤の所へ移動しようっか」
意識融合炉の炉心をブラックホールのようなイメージにしたかったのだろうか? 夜空を地に映したような床の真ん中に円い漆黒の水盤は置かれていた。中にはたくさんの水晶玉が入っていた。降り注いだ鏡、鈴、剣が変換されていたのだ。その一つひとつに母音が記されている。これが水玉へ移ることで魂のモデルとして参観者の自意識と関われる状態になるのだ。それは、かなたから降り注ぎくるものたちを誰かの魂の中に見つけた者が、この融合炉を発動させるという筋書だった。
「入れ替える水晶玉はね。展示してある鏡、鈴、剣の数だけあるのよ」
持っていた歌の剣を床に置いて水玉を傾けると、水晶玉がリナの手の平に転がりこんできた。母音を確かめたリナは透き通った円い粒に向かって微笑みかけている。
— バイバイ。
手の平で温めた水晶玉を親指と人差し指でつまむと水盤の真ん中にそっと置いた。
「混ぜまぜ、混ぜまぜ」
指全体を使って渦を巻くように掻き回すリナの仕草を、傍らにしゃがんでマホは見ていた。
水晶玉同士がぶつかる音が光を巻き込んで乱反射する。キラキラと光を宿している。リナはその光の一つをつまんで水玉の中に入れた。水玉の底に収まった水晶玉に向かって呼びかけるように蓋を振ると、鈴が優しく鳴った。
「タマちゃん。いよいよ君の出番だよ。がんばってね」
「光がいっぱいだね。水盤の中」
「マホちゃん、入れ替える?」
「うん、入れ替える」
— その前にお日様を見てみようかな。
水晶玉を太陽に向かって高く掲げたマホは片目を閉じて覗き込んだ。太陽は水晶玉の中に小さく収まって、不思議なことにまったく眩しくないのである。
「マホちゃん。そんなことして大丈夫?眩しくないの?」
「眩しくないよ。ほら」
手渡された水晶玉をマホのようにかざしてみた。水晶の小さな球体の闇に母音が身を隠すと星のように輝く太陽が現れた。
「ほんとだ。眩しくないね」
かざしていた水晶玉をマホの手の平にちょこんと戻し笑った。
「ありがとう。マホちゃん」
マホはもう一度太陽を見た。
「お日様が小さいね。不思議」
つまんでいた水晶玉を水盤の真ん中へ静かに転がした。幾つかの水晶玉にぶつかって止まった。
「混ぜまぜしないの?」
「うん。どの水晶玉も一つずつお日様と母音を持っているから、混ぜまぜしないの」
マホは最後にぶつかった水晶玉を水玉の中に入れ、リナと同じように鈴を鳴らした。
「小さなお日様。可愛い」
慈しむように笑いかけた、その瞳の中にも小さなお日様が輝いていた。
「帰ったら言葉を創ってみようか? リナちゃん」
「マホちゃん、何か思いついたの?」
「雨の香詩宮の杜でなら、できると思うの」
「それは目が合った者たちを名付けてきたマホちゃんならできると思うけど・・リナにもできる?」
「大丈夫。いいこと思いついたの」
「いいこと?」
「帰ったらね」
香詩宮の雨の杜をリナとお揃いの紅い傘を差してさまよい歩く姿が「あめのうた」に影響され、言葉を創ってみたくなったマホの脳裏に浮かんでいた。
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