徳川光圀

https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=25&r=115 【那須国造碑】より

那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)〔大田原市(おおたわらし)〕

この石碑(せきひ)は、湯津上(ゆづかみ)の笠石神社(かさいしじんじゃ)に祭られており、文字の刻まれた石の上に笠のように石をのせていることから「笠石」とも言われています。

那須地方を治めた「那須直韋提(なすのあたいいで)」という人物の活躍をたたえて、その息子たちが、西暦700年ごろに建てました。

それまで那須国造(那須国の支配者)だった豪族・韋提が、689年に、大和朝廷(やまとちょうてい)から「評督(こおりのかみ)」という役人に任命されたこと、韋提が700年1月に亡くなったことなどが、漢字152文字で書かれています。文章の中には、「永昌(えいしょう)」という中国の年号が使われています。

やはり奈良時代(ならじだい)に造られた群馬県(ぐんまけん)吉井町(よしいちょう)の「多胡碑(たごひ)」、宮城県(みやぎけん)多賀城市(たがじょうし)の「多賀城碑(たがじょうひ)」と合わせて、「日本三古碑(にほんさんこひ)」と呼ばれていますが、その中でも最も古いものといわれています。

現在は国宝に選ばれ、笠石神社(かさいしじんじゃ)の御神体として大切に保存されています。

奈良時代(ならじだい)が始まるころに建てられた物で、「日本三古碑(にほんさんこひ)」の一つに数えられています。貴重な物なので、国宝にもなっています

この石碑はどのようにして発見されたか

延宝(えんぽう)4年(1676年)、旅の僧円順(そうえんじゅん)によって、草むらの中に倒れているのを発見されました。

石碑に書かれている内容が、1687年に、徳川光圀(とくがわみつくに)(水戸黄門)に報告され、歴史研究をしていた徳川光圀の命令で、石碑を守るためのお堂が建てられました。

この石碑からどのようなことが分かるか

・それまで独立していた那須地方(なすちほう)が、このころ下野国(しもつけのくに)の一部になったということです。

・大和朝廷(やまとちょうてい)の強い力や命令が、地方にもおよぶようになったということです。

・すばらしい文章を作れる優秀な人物が、当時の那須地方にいたということです。

その人物は、中国の年号を使っていることから、大陸からの渡来人だった可能性が高いということです。


https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082778383/ 【那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ) 国宝(古文書)】より

指定年月日 昭和27年11月22日  所在地 大田原市湯津上429 笠石神社 保持者 笠石神社  員数 1基 製作時代 飛鳥時代大きさ  台石より上の総高 約148センチメートル

 湯津上の笠石神社に祀られる石碑で、文字の刻まれた石の上に笠のように石を載せていることから「笠石」ともいわれています。花崗岩(かこうがん)が用いられ、碑文は19字8行、全152字からなります。

 永昌(えいしょう)元年(689)、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の大宮から那須の国造(くにのみやつこ)であった那須直韋提(なすのあたいいで)は評督(こおりのかみ)という評(後の郡)の長官の官職を賜り、その後、庚子(かのえね)の年(700)に亡くなったため後継者の意斯麻呂(おしまろ)らが、碑を立てて故人を偲び祀ったということなどが記されています。

 碑文の内容から、韋提は最初那須の国造であったのが評督になっており、那須国が下毛野国(しもつけぬのくに)(後に下野国(しもつけのくに))に組み入れられたことがわかります。また、「永昌」は唐の則天武后(そくてんぶこう)の時代に使用された年号であり、碑の文字が六朝(りくちょう)の書風であること、またこの当時新羅人を下野国に居住させたということが「日本書紀」に記されていることなどから、渡来人と非常に密接な関係のある資料として注目されます。

 石碑は江戸時代に入り、水戸黄門で知られる徳川光圀の尽力により顕彰されました。

 延宝4年(1676)、水戸藩領武茂郷小口村(現那珂川町)の里正(りせい)の大金重貞(おおがねしげさだ)は、旅の僧円順から湯津上村内の草むらに埋もれた古碑の話を聞きます。重貞はその碑を調べ自身の著作「那須記」に記し、天和3年(1683)武茂郷を巡幸した徳川光圀にその書を献上し光圀の知るところとなりました。

 光圀は石碑の保存顕彰のため元禄4年(1691)には碑堂の建立を開始し、同5年には、碑の主を求めて、日本で最初の学術的な発掘調査を上・下侍塚古墳(国指定史跡)で行いましたが、被葬者は明らかになりませんでした。同年6月には完成した碑堂に自ら参詣しました。この一連の作業は大金重貞が現地指揮をとり、光圀の指示は家臣の佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)を通じて行われました。重貞は事の経緯を「笠石御建立起(かさいしごこんりゅうき)」に記しています。

 なお、群馬県高崎市吉井町の多胡碑(たごひ)外部サイトへのリンク、宮城県多賀城市の多賀城碑(たがじょうひ)外部サイトへのリンクとともに日本三古碑のひとつに数えられます。


https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/nakagawa/rekishi/003.html 【3.水戸藩の開発】より

備前堀の開削

那珂川沿岸の開発が大きく進んだのは、江戸幕府によって天下が定まり、水戸に城下町が築かれた近世以降のことです。家康は、水戸城主に実子を置き、水戸藩は御三家として重要な立場を与えられました。以後、水戸藩の手により、那珂川沿岸では、現在の原型を形作るような大規模な開発が進んでいきます。

1610年には、那珂川の豊かな水を引き、右岸の低地を潤す大用水「備前堀(びぜんぼり)」の開削が行われました。工事の指揮を行ったのは、関東郡代・伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)、幕府直轄の技術者として、関東平野の治水や新田開発に携わったことで名高い人物です。かつては、東京湾へと注ぎ込んでいた利根川を現在の流れへと変えたのも、伊奈一族の行った事業の一つです。その技術は「関東流(伊奈流)」と呼ばれ、今日の関東平野の原型を築き上げたと言っても過言でもありません。

工事が完成し、見事、延長12kmにもおよぶ水路が引かれると、21か村、約1,000haにもおよぶ農地に水が行き渡りました。その功績を称え、用水路には、彼の名を取った「備前堀」の名が付けられました。備前堀には、千波湖(せんばこ)の氾濫による水戸城下の水害を防ぐ効果もあり、城下町の整備にも大きく役立ったといえます。

驚くべきことに、この水路は、その後、明治、大正、昭和、平成と、改修を続けながらも受け継がれ、現在も農業用水路として重要な役割を果たしています。伊奈氏の技術の秀逸さを目の当たりにするようです。

疏水百選(平成18年)の一つに選ばれている備前堀の風景

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小場江用水の開発

一方、那珂川左岸でも、初代藩主・徳川頼房(よりふさ)のもと、1656年、かんがいのための堰と用水路整備に力が注がれました。

那珂川の左岸には、低地より一段高い土地が階段のように連なる河岸段丘が広がっており、川から水を引くのが困難でした。そこで、上流から水路を掘り、左岸一帯を潤す大用水、小場江(おばえ)用水の開発が計画されます。事業を命じられたのは、諸国の金山や鉱山の開発に携わっていた永田茂右衛門(ながたもえもん)・勘衛門(かんえもん)父子です。彼らは、沿岸一帯の流水量や土地の高低差を詳細に調査し、計画を立てました。その結果、現在の那珂市にあたる下江戸(しもえど)に堰が築かれ、20か村にもおよぶ村々を 潤す大用水が完成しました。1798年には、水路はひたちなか市の三反田までの約28kmまで伸ばされ、 24か村、7,700石の農地を支えるまでになりました。

この他にも、永田茂右衛門父子は、久慈川(くじがわ)筋の辰ノ口堰(たつのくちぜき)や岩崎堰(いわさきせき)、水戸城下の上水道であった笠原水道(かさはらすいどう)など、領内の治水・利水事業に数々の功績を残しています。1694年には、名君で知られる二代目藩主・徳川光圀から、勘衛門に対し、「円水」の称号が送られています。

備前堀と同じように、この小場江用水路も、現在も利用されており、農業を行う上で欠かせない役割を果たしています。このように、那珂川の沿岸の農地を潤すかんがい施設は、水戸を中心とした水利開発に力が注がれた江戸時代に、大きく発展しました。

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