青天を衝け

https://news.yahoo.co.jp/articles/70c2249d6ac96fd34e938e9b4c8c4d6fcfdc5d0d 【わずか49歳で逝った近代化の立役者――五代友厚を語らずして「渋沢栄一」を語ってはいけない【青天を衝け 序説】】より

2作で五代役を演じるディーン・フジオカ

 渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、埼玉県を舞台とする血洗島・青春編を終え、5月9日放送回から一橋家臣編が始まりました。

 一橋家臣編では、冒頭にディーン・フジオカさんが演じる五代友厚が登場。ディーン・フジオカさんは2015年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」でも五代役を演じて人気を博しました。奇しくも、ディーンさんは朝ドラと大河ドラマのどちらでも五代役を演じることになったわけです。

 朝ドラでは、五代没後にファンが気力を失う“五代ロス”という現象まで発生。それだけに、「青天を衝け」でディーンさんが改めて演じる五代に注目が集まります。

 渋沢は埼玉県の富農として生まれ、後に15代将軍に就位する一橋慶喜に仕えます。一方、五代は薩摩藩が抱える儒学者の家に生まれました。父は薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)からの信任が厚く、ゆえに五代友厚も薩摩藩から重用されました。

 薩摩藩主・島津斉彬は開明派だったこともあり、西洋の技術を次々と取り入れて製鉄・造船・兵器・ガス・電気といった新しい産業を導入しています。それだけに、藩士たちへの教育にも理解があり、五代は長崎への遊学を命じられました。

 当時の長崎は諸外国とも窓口だったこともあり、異国の文化や技術を学ぶには最適な地でした。そこで、五代は新しい文化・技術に触れます。その後も、五代は藩命でたびたび中国・上海に渡航し、海外の製品を買い集めていたようです。

 五代は長らく長崎で海外との窓口役を務めましたが、1863(文久3)年に薩摩藩はイギリスと一戦を交えることになります。いわゆる薩英戦争ですが、世界の覇権国家たるイギリスに敵うはずもなく、薩摩藩は敗北。

 イギリスからは許されましたが、幕府は外国と勝手に戦争したことを許さず、五代は追われる身となります。五代は武蔵国へと逃亡し、熊谷に潜伏します。

 薩摩藩士の五代が、なぜ遠く離れた武蔵国の熊谷を潜伏先に選んだのかは明らかになっていませんが、潜伏地の熊谷と渋沢の出生地である深谷は距離的に近いこともあり、「青天を衝け」では渋沢と五代がすれ違うシーンが伏線として描かれました。

 五代は1865(慶応元)年、薩摩藩遣英使節団の一員としてイギリス・ロンドンへと渡ります。渋沢も後にフランス・パリへと渡り、現地で新しい社会を知ったのですが、五代は渋沢より一足早く海外を経験しています。

 そして、帰国後には西洋滞在で学んだ知識を活かし、新たな産業を興すために奔走。五代は薩摩藩の財政面や武器・弾薬の調達を任された半商人・半武士としても活動していくのです。こうした五代の商人としての活動は、薩摩藩の倒幕運動を経済面で後方支援することにつながります。

 幕末から明治にかけて、五代は商人の町として経済発展をつづけている大阪を拠点にしていました。

 五代は大阪の経済・産業振興を図るため、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪株式取引所(現・大阪取引所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)などを設立しています。こうした五代の業績を見ると、渋沢の取り組んだ多くの事業と遜色はないと言えるでしょう。

 五代は49歳という若さで1885(明治18)年に没します。五代の活動範囲は全国に及びますが、主な活動拠点が大阪だったことから、「東の渋沢、西の五代」と称されました。

 西の大実業家である五代は大阪での活躍がクローズアップされますが、五代は東京・築地に鉱山管理の事務所を構えています。そのため、たびたび商談などで東京に足を運ぶ機会もあったのですが、東京では同志だった旧薩摩藩士や長崎時代の旧友の起業支援をすることが多かったようです。

東京都電にもゆかりがあった五代

現在、五代の邸宅跡地は日本銀行大阪支店が建っている(画像:小川裕夫)

 例えば、1880年に開業した東京馬車鉄道は旧薩摩藩士の種田誠一と谷元道之などが主導した日本初の私鉄です。

 馬車鉄道とは馬が動力源になっている鉄道で、東京馬車鉄道は技術革新とともに動力源を電気へと変更。1903年には社名を東京電車鉄道へと改称し、その後も東京電車鉄道は東京鉄道、東京市電へ名称・事業体を変え、現在は東京都電として運行されています。五代は同じ薩摩出身という縁から、東京馬車鉄道の開業資金を工面したのです。

 また、幕末に五代が主導して建設した日本初の西洋式ドック「小菅修船場」の初代所長を務めた平野富二は後に石川島造船所(現・IHI)を立ち上げますが、それ以前に平野は築地で活版印刷工場を経営していました。五代は、平野が経営していた工場の経営も支援しています。

 先述したように、五代は若くして死没しています。手がけていた事業は後継者によって引き継がれますが、それらは時代の荒波に飲み込まれていきました。

 五代のビジネスモデルは多く人々から資金を集め、集めた資金で大きな事業を興すというものでした。これは渋沢の実践していたビジネスモデルと同じですが、志半ばで倒れてしまったこともあり、莫大な負債だけが残る結果になりました。

 しかし、五代の残した功績は決して無視できるものではありません。渋沢は多くの事業を興しましたが、それらは五代というフロントランナーがいたからこそ実現が可能だったのです。


https://news.yahoo.co.jp/articles/a4cc04593e972ae65065a884466e188cb89c433e 【青天を衝け・渋沢栄一の母「最期の言葉」に視聴者号泣 「子を持つ母の1番の心配事」】より

吉沢亮さん

 俳優の吉沢亮さんが渋沢栄一役で主演を務めるNHK大河ドラマ「青天を衝け」第32話が2021年10月24日に放送され、俳優の和久井映見さん演じる栄一の母・ゑいの最期の言葉が反響を呼んでいる。

■体調を崩したゑいが渋沢家にやって来る

 大河ドラマ60作目。主人公は「日本資本主義の父」こと新一万円札の顔としても注目される実業家・渋沢栄一(吉沢さん)で、2015年後期朝ドラ「あさが来た」で知られる脚本家・大森美香さんのオリジナル作品となる。幕末から明治と、時代の大渦に翻弄され挫折を繰り返しながらも、近代日本のあるべき姿を追い続けた生涯をエネルギッシュに描く。

 第32話で栄一は、実業の一線に立とうと決心し、勤めていた大蔵省を辞職。日本初の銀行「第一国立銀行」を創設し、三井組と小野組から一人ずつ頭取をとり、自身は総監役となる。

 そんな中、ゑい(和久井さん)が体調を崩し、故郷から渋沢家に身を寄せる。これまでの孝行のためにも、栄一の妻・千代(橋本愛さん)は献身的にゑいを看病する。

 栄一が、新しく流通させようとしている銀行の券を見せ、「(これがあれば)きっとみんなが便利になる」と嬉しそうに語ると、ゑいは「それは楽しみだいねぇ」と同意した上で「でもなぁ、栄一。近くにいる者を大事にすんのを忘れちゃあいげねぇよ」と家族を大事にするようにと忠告。最近、未亡人の女性を妾として自宅に受け入れた栄一とって、それは耳の痛い話だった。

最期の言葉に「ボロボロ泣いた...」の声

 ゑいの最期の日。布団に横たわるゑいは、残された力を振り絞って栄一の手を握り「寒くねぇかい...? ご飯は食べたかい...?」と質問。栄一は安心させるように「俺は大丈夫だ。大丈夫」と言うと、「そうか、そうかい。よかったいねぇ...」と答える。続けて、千代に向かって「ありがとう、ありがとうね」と礼を言うと、家族が見守るなか静かに息を引き取るのだった。

 出世を続ける栄一の胸にはいつも、幼い頃にゑいから言われた「あんたが嬉しいだけじゃなくて、みんなが嬉しいのが一番なんだで」という言葉があった。最期まで栄一を心配していたゑいに対し、視聴者からは「ボロボロ泣いた... 最期まで母であったなぁ」「慈愛に満ちた母の深い愛情を感じるシーンに感涙しました」「死に際の母からの最期の言葉が『寒くないか?』なの涙腺だめだった」「号泣 私も最後はあんな母でありたいと思う」「かっさまの言葉に泣けた 子を持つ母の1番の心配事 『ご飯食べたかい』 『寒くねぇかい』 胸にしみます 栄一頑張るんだに!」などと感動が広がっている。


https://in.prideandhistory.jp/nikoumj_lp11_ydn?yclid=YSS.1000200887.EAIaIQobChMI6eznn8fs8wIV1NxMAh3u-AAoEAAYASAAEgKkIfD_BwE 【スタンフォード大学フーヴァー研究所 西鋭夫(にしとしお)教授が語る…大河ドラマが 嘘だらけな理由】より

講演録概要

ここ10年ほどの大河ドラマを眺めると、半分近い主人公が幕末維新の人物。

天璋院篤姫 → (直江兼続) → 坂本龍馬 → (徳川秀忠の正室) → (平清盛)→ 新島八重 → (黒田官兵衛) → 吉田松蔭の妹 → (真田丸) → (井伊直虎) → 西郷隆盛 → (金栗四三と田畑政治) →  (明智光秀) → (渋沢栄一)

これほど大河で幕末のヒーローが取り上げられるのは、日本人がこの時代、人物に憧れを持つからではないでしょうか。実際、私たちはこのヒーローたちが好きですし、「彼らが日本を駆け回り、人に影響を与え、大きな決断をし、行動していった。だからこそ、強大な力を持つ幕府が倒されて、明治維新を成しとげた」と信じている人がほとんどです。

ですが、このストーリーがまったくの「嘘」の上に作られていることをご存知でしたか? この時代を動かしていたのは、私たちが知る英雄たちではなく、誰かが書いたシナリオ通りに彼らが動いていただけだったとしたら?

その証拠となるのが、幕末に膨大にある都合の良い謎の数々です。その謎を追っていくと、あなたが知っている幕末のストーリーの至るところに矛盾が見えてきます。そして、ドラマには決して出てこない、この時代を操っていた「ある存在」の姿が浮かび上がってくるでしょう。「ただ楽しく何も考えないで歴史ドラマを観たい」というなら、これから先は読まないほうがいいかもしれません・・・

明治維新に潜む謎

【坂本龍馬に誰がカネを出したのか?】

海援隊という5~60人の働いてない男たちを養うカネはどこからでてきたのか?

大量の武器(今の価値で50億円とも言われます)を買うカネはどこからでてきたのか?

軍艦を買うカネは?全国各地に出張しまくるカネは?

一体誰が何の目的でそのカネをだしたのか?

【坂本龍馬、暗殺の謎】

日本中の刺客から狙われていた龍馬。一体だれが殺したか?なぜ犯人が分からなかったのか?

【迫る欧米の魔の手】…

日本は無事だったのか?200年以上鎖国し、軍備が古く乏しかった日本。近代化した欧米列強にとって日本侵略は簡単だったのに、日本を植民地にしなかった意図は?

【大英帝国と麻薬】

この2つの関係を知ると、明治維新の本当の姿が見えます...

【世界の有名銀行の知られたくない過去】 

世界の銀行格付けトップ3に入る超優良銀行ですが、ここでは怖くて名前が書けません(講演録でご確認ください)

などなど、われわれが知っている美しい、憧れの明治維新とは全く違った、現実の姿を教えてくれます。この講演録を読み終わった後には、きっとあなたの「明治維新のイメージ」は全く変わっているでしょう。それだけでなく、その後の歴史も全く違った視点から見ることができるようになるでしょう。

西鋭夫教授曰く、われわれが知っている明治維新はその時の御用学者が書いた歴史で、真実とは違うようです。ぜひ、この講演録からあなた自身で何が真実なのかを判断してください。


https://www.sankei.com/article/20171208-BGUOFJPLSFK4DFYYSCDP3H3TVM/ 【誰が龍馬を殺したのか、黒幕は…歴史作家・桐野作人氏が「真相」に迫る】より

 幕末の志士、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都・近江屋で暗殺されてから今年で150年。龍馬の生誕地である高知市で、このほど県立坂本龍馬記念館主催のシンポジウムが行われ、今なお諸説がある暗殺者と黒幕について、歴史作家、桐野作人(きりの・さくじん)氏が独自の切り口から、「謎」に迫った。維新前夜の当時はどんな状況で、各勢力はどう対峙していたのか。桐野氏の講演内容を歴史解説も交えて紹介する。

龍馬暗殺に4つの説

 〈まず、龍馬暗殺の黒幕説について整理しておく。主に次の4つの説がある。

 (1)土佐藩説=龍馬の活躍を快く思わない藩士という説をはじめ、(幕府から朝廷に政権を返す)大政奉還の功績(土佐藩の前藩主・山内豊信を説得し、大政奉還を建白させた)で名をあげた家老、後藤象二郎が、大政奉還が龍馬のアイデアだったことを隠すために殺害した-などの説がある。

 (2)薩摩藩説=武力で徳川幕府を討ちたかった薩摩藩としては、龍馬による大政奉還という平和的手段は、徳川の勢力を残す不本意なものであり、「龍馬は裏切り者」とみなして暗殺に至ったとする説。「(文献などから、仲がかなり良かったとされる)西郷隆盛が黒幕」という説まである。

 (3)紀州藩説=龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩の船が衝突した事故で、龍馬は沈没したいろは丸の賠償金を紀州藩に支払わせた。「御三家が下級武士に負け、恥をかかされた」とする紀州藩が、これを恨んで犯行に至ったという説。実際に海援隊は紀州藩を疑い、行動を起こしている。

(4)幕府説=実行犯そのものが京都の警備にあたっていた(幕府の組織である)京都見廻組か新選組という説が根強いことから、この説が有力とされる。特に京都見廻組だった今井信郎や渡辺篤が証言や記録で「自分たちが襲った」としており、新選組より京都見廻組の方が有力視されている。ただ暗殺に参加した人数など共通点があるものの、今井が後に証言を修正したり、現場の状況と矛盾する点などがあるとして、信憑性について賛否両論があるのも事実。現場に新選組隊士の遺留品があったとして新選組も疑われているが、こちらも決定的証拠ではないという。

 ほかにも、龍馬とともに亡くなった中岡慎太郎犯人説や、そもそも暗殺場所が近江屋ではないとする説などさまざま。万人を納得させる決定的な証拠・証言がないことだけでなく、龍馬に敵が多かったことや、政局が混乱した幕末期だけに親しい人間による裏切り行為も否定できない時代背景が複雑に絡む。

 桐野氏の講演はこれらを踏まえた上で進んだ〉

新選組にも尾行された「危険人物」

 桐野氏「龍馬暗殺を考える上で、当時の緊迫していた京都の政局を理解する必要がある。龍馬が幕府側に監視されるきっかけは、文久3(1863)年8月18日の政変で、(会津藩などの公武合体派によって、尊王攘夷派である)長州藩が京都から追放された。さらに翌年の禁門の変(京都での復権を目指し出兵した長州藩士が、会津藩などによって制圧された)によって、長州藩は朝敵となった。当然(長州藩に)加担した人間が京都に入れば指名手配され、殺害される状況にあり、龍馬もその例外ではなかった」

「龍馬は暗殺される慶応3(1867)年までの4年間で8回、上京(京都入り)しているが、元治元(1864)年6月にあった池田屋事件の直後、(龍馬の隠れ家だった)京都の下宿先が(幕府方に)踏み込まれている。龍馬はたまたま留守で難を逃れたが、潜伏先を知られていたわけで、剣術で有名な新選組は、情報収集能力もすごく、(龍馬のような脱藩浪士らは)きっちりと尾行されていた。龍馬はこの(高い情報収集力の)餌食になったと私は考えている」

 〈池田屋事件とは、8月18日の政変で京都を追われた長州藩をはじめ、土佐藩などの志士らが京都の旅館「池田屋」に集結する情報を、新選組がキャッチ。近藤勇ら隊士が踏み込み、志士9人を殺害するなどしたもの。この事件を機に長州藩は禁門の変を起こした〉

老中にまでマークされていた

 桐野氏「幕府に(危険人物として)認識されたのは、慶応元年12月。残された肥後藩士の日記によると、老中が『龍馬は何者だ』と周囲に尋ねており、幕府側からマークされたことがわかる」

 〈この老中の発言の1カ月ほど前、龍馬は長州処分の勅許(天皇の許可)に反対した薩摩藩の大久保利通の書簡の写しを、長州藩に届けており、(倒幕に動いていく)薩長斡旋を図る危険人物として幕府側は注目。老中にまで、名前を知られるようになっていた〉

 桐野氏「大久保の書簡は、長州処分の勅許を無条件に受け入れるものではない、などと、阻止しようとしたいきさつを書いたものだった。(禁門の変で薩摩藩が幕府側だったことなどから、当時、薩摩と長州との関係はかなり悪く)薩摩藩士が長州へ行けば切られる。しかし、龍馬なら長州には仲の良い木戸孝允がいる。使者として龍馬への信頼が大きかった一方、幕府側からは危険人物とみられ、新選組の監視も厳しくなった」

〈翌年の慶応2年1月23日、龍馬と長府藩士が、伏見奉行の役人らに襲われる寺田屋事件(寺田屋は京都にあった旅館)が起きる。龍馬は手に重傷を負ったが、何とか逃げのびた。その際、けん銃で反撃し、2人を射殺している。事件の2日前には、同じ京都で倒幕のための薩長同盟が締結されたばかり。龍馬は中岡とともに仲介役を務めるなど、大きく貢献していた〉

船の中にまで幕府の密偵

 桐野氏「寺田屋事件以降も幕府側の監視は執拗に続いた。亀山社中(龍馬が志士らと結成した貿易結社でその後、海援隊となる)の使っていた船に、水夫として幕府側の密偵が潜入もしている。また、薩摩藩士を名乗っていた脱藩浪士が、素性を見破られて逮捕されるなど、中岡慎太郎も危機感を抱いていた。このような緊迫した政局の結末が、近江屋事件だったといえる」

 〈寺田屋事件の翌年の慶応3年10月、大政奉還が成立。この1カ月後に龍馬は近江屋で殺害されることになる。桐野氏は、この龍馬暗殺の政治背景を「(平和的な)大政奉還派」と「武力による倒幕派」の対立とみるのは、史料にもとづかない俗説と切り捨てた。その上で、大政奉還-幕府廃止-王政復古政権の樹立という流れを推進する「廃幕派」と、幕府政権を維持し、そのためにはクーデターも辞さないという「保幕派」の対立軸で、とらえるべきだと主張する。

 寺田屋事件の約1カ月前に老中に名前を認識されてから暗殺されるまでの2年間にわたり、幕府にとって危険人物になっていた龍馬。こうした政局を踏まえた上で、(暗殺の政治背景として重要なポイントとなる)大政奉還に反対していたのは誰だったのか。さらに具体的な黒幕について持論を展開した〉

大政奉還に誰が猛反発していたのか

 桐野氏「当時、大政奉還に反対していたのは、会津藩や桑名藩だったことを考えなければいけない。一方、(同様に黒幕説のある)薩摩藩は、大政奉還を土佐藩以上に推進しており、『大政奉還は表向きは土佐藩が関わったが、実は薩摩藩が操っていた』と考えていた他藩の史料すらある」

 〈会津藩といえば、龍馬暗殺の実行犯として最有力視される京都見廻組や新選組を支配下に置き、京都の治安を担当していた。尊王攘夷派の弾圧を行っており、脱藩志士らの恨みを買っていたとされ、桑名藩も京都の治安担当だった〉

 桐野氏「大政奉還が成立しないように、会津藩も桑名藩も武力によって公家を脅そうとするなど、邪魔をしようとしている。しかし、中止させることができず、大政奉還がいざ成立すると、会津藩が『一同驚愕し、これまでの努力が水泡に帰した』と嘆いたとする史料もあるのです」

 〈会津、桑名藩の怒りの矛先は、薩摩藩に向けられていた。薩摩藩邸襲撃や小松帯刀ら3人へのテロを計画したが、襲撃を察知した岩倉具視の警告によって、小松ら3人はすぐに京都から離れたとされる。しかし、最大の政敵は薩摩藩だけではなく、大政奉還建白を進めた土佐藩などもターゲットだったという〉

襲撃のターゲットが変更された?

 桐野氏「襲撃しようとした3人が帰国したことで、会津・桑名藩は振り上げた拳の下ろしどころがなくなってしまった。その身代わりとして近江屋に潜伏していた無防備な龍馬へのテロリズムを敢行したのではないか。京都見廻組がやったのは間違いない。では誰が命令をしたのか。薩摩でないことは確かです。どこなのかは想像がつくでしょう」

 〈幕府説が最有力と示唆し、桐野氏は講演を終えた〉

〈講演の後、それぞれの黒幕説に対して、桐野氏を含む4人の研究者による討論も行われた。土佐藩説、紀州藩説、薩摩藩説についてはそれぞれ動機や背景に矛盾点や疑問がある一方、幕府説は他の3説と比べもっとも矛盾や違和感がないというのが共通の見解だった。しかし、断定はせず、最後に県立坂本龍馬記念館の三浦夏樹主任学芸員が「これだと100%決められるものではない。将来、新たな史料が出る可能性もあるし、別の角度から史料を見直すことも重要。まだまだ研究する必要がある」と総括した〉

 桐野作人 出版社編集長からフリーになり、歴史作家となる。主な著著に「さつま人国記 幕末・明治編1〜3」「孤高の将軍 徳川慶喜」など多数。龍馬暗殺についての単行本を来年初めにも刊行予定。


https://oh-kinmui.jp/1401/ 【第6回(最終回) 温故知新 明治維新の背後にあった大英帝国のアヘンマネー】より

 多くの日本人は明治維新を、薩長の若者が中心となって江戸幕府に終止符を打って、欧米列強の植民地化から日本を救った美談と捉えているのではないでしょうか。最終回では明治維新の本質に迫り、今後私たちがどう行動すべきかを示したいと思います。

 19世紀に世界を席巻していた大英帝国は、清国から茶と陶磁器・絹を輸入、インドで栽培したアヘンを清国へ輸出する「三角貿易」で巨利を貪っていました。1840年に第一次アヘン戦争が勃発した当時、英国のジャーディン・マセソン商会がアヘン輸出の主役を担っていましたが、清国のアヘン輸出禁止令に対抗するために英国議会にロビー活動を行い、大英帝国艦隊を清に展開させた張本人こそこの商会でした。

 1853年に黒船が浦賀に現れて日本は幕末のドラマに突入しますが、長崎のグラバー商会こそアヘン貿易で巨万の富を得たジャーディン・マセソン商会が日本に作った代理店でした。グラバーが坂本龍馬を介して武器販売を行い、1866年の薩長同盟を支えて倒幕に大きな影響を与えたことは歴史的事実です。

 1868年に江戸城が無血解放されると、維新政府は1872年(明治4年)から1年10ヶ月に渡り岩倉使節団を欧米に派遣します。メンバーは木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通ら「薩長中心の使節46名」が中心でしたが、海外情報の入手が困難な時代に見聞を広めたメンバーが、その後維新政府の中枢で活躍したのは当然の結果でした。

 初代内閣総理大臣となった伊藤博文は同使節団の一員でしたが、さらにジャーディン・マセソン商会からも大きな影響を受けていました。1863年維新5年前に、長州は5人の若者を英国に留学させましたが、この面倒をみたのもグラバーとジャーディン・マセソン商会だったのです。英語も満足にできぬ20代の若者が、一生涯英国に恩義を感じたことは想像に難くありません。

 さて明治維新当時にも民主主義に通じる「四民平等」を目指していた人々がいました。それは坂本龍馬、日本司法の父とされる佐賀藩出身の江藤新平、そして薩摩の西郷隆盛ですが、いずれも不幸な運命をたどっています。龍馬は大政奉還の1ヶ月後に「京都土佐藩邸目前の近江屋」で中岡慎太郎との会談中に暗殺され、司法卿の江藤新平は井上馨大蔵省長官の尾去沢鉱山私物化問題を追求して政府を追われ佐賀の乱で1874年(明治7年)に処刑されました。西郷隆盛も征韓論の論争に敗れて下野を余儀なくされ、西南戦争で1877年(明治10年)に自刃に追い込まれています。これら四民平等を訴える人々を粛清した後の維新政府の歴代内閣総理大臣が当初は長州と薩摩、その後長州の1人勝ちとなったことは第4回で紹介した通りです。

 学校の歴史では教えられませんでしたが、明治維新は英国のアヘンマネーを背景に薩長の下級武士が皇室を「錦の御旗」に政治利用して徳川から政権を奪取したクーデターでした。そしてこの体制は、戦後は「錦の御旗」を「皇室から米国」に変えて今も続いています。最近大きな話題になっている大阪のM幼稚園に対する不透明な国有地払い下げのルーツにも、維新以来続くクレプトクラシー(収奪・盗賊政治)があると考えれば納得です。

 まさに温故知新、国民が日本政府のルーツを直視して政治を抜本的に変える努力をしなければ、医療や社会保障充実は百年河清を待つが如し。哀しいですがそれが日本の現実です。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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