太陽の子

http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200802160063.html  【太陽の子」灰谷健次郎と兄】 より

 死に場所を探していたのかもしれない。そう漏らしたことがある。1972年、本土復帰直後の沖縄を、37歳の灰谷健次郎は放浪した。長兄・吉男の自死をめぐる悩みの果てだった。

美しい白砂の渡嘉敷島には集団自決の悲惨な歴史が残る。沖縄にいのちをもらった灰谷健次郎は晩年、自宅も構えた=沖縄県で

灰谷は放浪時代、サトウキビ狩りの作業などで暮らした=沖縄県・波照間島で

神戸の路地裏にある稲荷神社。隣同士が肩を寄せ合う下町を愛した=神戸市

 神戸で造船所の職工として働くものの、賭け事に没頭し、家計を顧みない父。長兄が大黒柱となり、やはり造船所で働いた。だが30代のころから、組合運動などに絡んで悩みを抱え、心を病んだ。

 灰谷の随筆に、67年に自死する数日前の長兄のくだりがある。「(病の)発作がおこると何をするかわからないという不安があった」「誠実に生き抜き、傷つきボロボロになった兄を、凶暴な生きものか何かのように思っている」と自分を嫌悪した。直前まで会っていたのに、救いの手をさしのべられなかったと後悔が募る。仕事の悩みも抱えるなか、翌年の母の死も追い打ちをかける。教師を辞め、戦争の歴史に関心のあった沖縄をさまよった。

 ときに空き家で寝泊まりしては、パイナップルの皮むきや、サトウキビ刈り、土木作業などで糧を得た。軍命で移住させられた大勢の住民がマラリアで命を落とした八重山、集団自決のあった慶良間(けらま)……。戦争体験を聞き、ショックを受けた。

 と同時に驚いたのは「他人をしいたげた人間にはぜったいもつことのできないやさしさ」(友人あての手紙)だった。思い詰めた灰谷のただならぬ様子を察してか、戦争で身内を亡くしたおばあたちが、逆に励ましてくれる。

 「自分を責めて生きても、死んだ人は喜ばんし、幸せにならんさ」「沖縄のおばあたちが元気に暮らすのは、戦争で死んだ人たちの分も生きるためだよ」――

 悲しみを背負って前向きに生きよう、生者のなかに死者を生かし続けようとする沖縄。自分もそうあろうと決めた。自分を導いてくれた子どもたちを描きたいと、神戸に戻ってアパートの3畳の部屋にこもり、4カ月で一気に書いたのが『兎(うさぎ)の眼(め)』、次作が『太陽の子』だった。

 元同僚教師で、マネジャー役も務めた作家岸本進一さん(62)は『太陽の子』執筆の様子をつぶさに見た。生命はかけがえがない、というのが作品のメッセージ。「学校の先生のお説教やったら、一言で終わってしまうでしょう」。それを伝えるため、倒れてしまうほどの神経症に悩み、身を削りながら、原稿用紙を埋めていた。

 「お兄さんを小説の登場人物に投影させ、その死を普遍化しようとしていたんやと思います」

 灰谷は書き上げた後、「死んだ兄貴でも帰ってくれば嬉(うれ)しいのでしょうが(中略)やらねばならぬことをやっただけのこと」「ぼくは新しく生きることが出来た」と手紙を出した。兄を自分の中に生かして、生きていけるという宣言だった。

だれの心にも太陽がある

 灰谷健次郎の遺品から最近見つかった取材ノートを見せてもらった。長兄・吉男と重なる「おとうさん」の自死と、主人公「ふうちゃん」の嘆きが、冒頭にぎっしり書かれ、記述のかなりの部分が作品に生かされている。『太陽の子』では結び近くだが、そこを核心に全体を構想したと分かる。

 「ふうちゃんの成長→沖縄という特殊なものをけなげに背負っていこうとする(中略)人間全体の問題としてとらえようとする」といった書き込みもある。沖縄の歴史を自分の血肉とし、肉親の死を受け止める主人公の姿は、灰谷自身でもある。

 小説の終盤、沖縄差別に怒って暴力をふるった少年を、警察官が冷たく取り調べようとする。そこで「ろくさん」が戦争体験を静かに語り出す。

 ガマ(洞穴)に隠れているとき、赤ん坊の泣き声が米軍に聞こえると全滅だと日本兵に命じられ、我が子を絞め殺し、その片腕を手榴弾(しゅりゅうだん)で失った。

 「この手をよく見なさい。この手はもうないのに、この手はいつまでもいつまでもわしを打つ」「ひとを愛するということは、知らない人生を知るということでもあるんだよ」

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 沖縄の思いを訴える登場人物と同じく、「ろくさん」と呼ばれた男性がいた。その役で映画「太陽の子」に出たうえ、人生も重なっていた。

 本島北部の名護市。1~2月にはヒカンザクラをめでる人出でにぎわう。故・松田豊昌(ほうしょう)さんは近郊の農家に生まれ、敗戦近いころ19歳で徴兵され、本島の地上戦に投入された。

 戦友が次々死ぬなか、迫撃砲で右腕を飛ばされた。いく度か気絶し、ひめゆり部隊の手当てを受けた。摩文仁(まぶに)の丘近くでは島民の投身自殺を目の当たりにし、ウジのわく腕を海水で洗った。意識不明に陥って捕虜となり、敗戦。結婚して小さな印刷所を営んだ。

 映画の話は突然だった。ろくさん役に地元の人の起用を考えた制作側は、傷痍(しょうい)軍人に顔の広い松田さんに相談するよう県庁で勧められた。松田さんを訪ねたスタッフが、そのたたずまいに「役のイメージそのままだ」と驚き、出演を依頼した。

 「50歳を超した素人に無理だ」。松田さんは固辞したが、懇請に根負けし、「防空壕(ぼうくうごう)で親が泣いている赤ん坊を手にかけざるを得なかった、小説そっくりの悲劇も見た。体験を伝えるのも生き残った人間の役目」と応じた。

 撮影の合間には俳優・スタッフに請われ、ふだんはシャツに隠している腕を見せ、戦争体験を語った。皆、撮影再開の時間を忘れて聴き入った。

 映画公開後は、本土の学校に平和学習の語り部を頼まれた。「何十人もいた同級生のほとんどが戦争で死んだ。その分も生きないといけない」

 01年、76歳で病没。「沖縄の人間にとって、争いはあの戦争でもうたくさん、もめ事は一切いかん、が口ぐせでした」と次男の忠さん(58)は言う。

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 「ふうちゃん」の父の出身地、波照間(はてるま)島。放浪当時の灰谷を、大嶺成子(なりこ)さん(89)は夫と営む民宿で長く世話し、マラリアなど壮絶な戦争体験も聞かせた。小説には、そうした人たちの思いがこめられている。

 灰谷は2度の結婚を経た。子どもはいなかった。「自分の生と死を精いっぱい全うしたいと思っていたのでは」と岸本進一さんは思う。子どもは大好きで、とくに長兄の遺児を我が子同然に慈しんだ。ただ聖人君子とみられるのを嫌い、神戸でもアジアの旅先でも歓楽街を徘徊(はいかい)しては、ストリートチルドレンとも春をひさぐ女性とも話し込んだ。そこに人生を見たからだ。

 灰谷が「兄と母が死んだ今、もう二度と味わってはならない ぬくいものを感じさせてくださった」と慕った編集者・作家の小宮山量平さん(91)は、灰谷の著書の多くを世に出した。

 小宮山さんが編集し、教師と子どもが詩作で交流する児童詩誌「きりん」で、灰谷は活躍し、子どもの詩を「自分の聖書」と大事にした。大人が子どもから学ぶ教師像を作った灰谷は、沖縄の旅を経て、子どもと沖縄の人たちの共通点に気づいたと小宮山さんはみる。「重く苦しい人生を歩む子どもほど優しさと楽天性を持っています」

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 「性善説すぎる」との批判はあった。殺人容疑の少年の顔写真を載せた雑誌に抗議してその出版社との契約を解消したときは、賛同する作家が出ず落胆した。だが、「子どもだけではなく大人だって変われる。だれの心にも太陽がある」との信念を守り続けた。

 小宮山さんは、亡くなる直前の灰谷に「あなたの命は私が繋(つな)いでいきます」と手紙を書いた。そしていま「老いの身ながら、彼とともに歩いていこう」と思っている。

〈ふたり〉

 灰谷健次郎は神戸市で7人きょうだいの三男に生まれる。家が貧しく、働きながら定時制高校で学んだ。大阪学芸大(現大阪教育大)入学後、小説を書き始める。56年から神戸で学校教員を務め、大人向け小説の投稿や、児童詩誌「きりん」での作文教育で活躍。長兄・吉男の自死(67年)、母の死(68年)の後、72年に沖縄放浪の旅に出た。74年、新米教師と下町の子どもの交流を描いた『兎の眼』を出版。72歳で食道がんのため亡くなった。

 76年「教育評論」で連載を始め、78年に出版した『太陽の子』は小学生ふうちゃんが主人公。両親が営む沖縄料理店「てだのふあ・おきなわ亭」に集う沖縄出身者との交流を通じて成長する。父が戦争体験から心を病んだことを知るが、父は自殺する。「てだ」は「太陽」、「ふあ」は「子」の意味。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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