Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「姫大神」
全国にある神社数11万社のうち三分の一以上の4万社が八幡社です。
源義家は石清水八幡宮の神前で元服し、八幡太郎と名乗りました。八幡宮を氏神として頼朝が鎌倉の地に移したので八幡神は武士の守護神と思われるようになりました。
その八幡社の総本社が宇佐神宮です。
宇佐八幡宮の由緒では、八幡大神(応神天皇)、比売大神(宗像三女神むなかたさんじょしん)、神功皇后(応神天皇の母で仲哀天皇の皇后、新羅征伐説話で知られる)を祭神としています。
比売大神の名前と宇佐神宮の創立は記録がないので謎となっています。
八幡大神を応神天皇の神霊とする記述は『古事記』『日本書紀』になく蘇我氏の時代の570年に宇佐神宮の創祀に関わった大神比義(おおがのひぎ)が神がかり「我は誉田天皇広幡八幡麻呂(応神天皇)なり。名を護国霊験威身神大自在王菩薩という」と託宣したという平安時代の記録が最初です。
応神天皇14年(283年)の時代に大陸から1万人規模の弓月君(ゆづきのきみ)秦氏一族の先祖が渡ってきたという日本書紀の記録があります。八幡(ヤハタ)は秦氏のハタであり、八幡神は豊前国(福岡県の東部と大分県の北部 中津市・宇佐市)に移り住んだ秦氏が祀った氏神と言われています。
宇佐神宮に応神天皇と神功皇后が祀られていますが歴代の天皇の中で大社に祀られた天皇は明治になるまでいませんでした。そして宇佐神宮に八幡神として祀られている応神天皇の父で神功皇后の夫の仲哀天皇の名前はなく武内宿禰(たけのうちすくね)が祀られています。
第8代孝元天皇の時代、物部の娘から生まれたヤマトタケルノミコトの弟である屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と紀氏の先祖宇豆比古(うずひこ)の妹である影姫との間に生まれたのが武内宿禰と言われています。
平安時代の書物に巫女がしばしば登場します。
身体を依り代として神の言葉を託宣する女性が巫女です。
巫女の託宣によって平将門は新皇と称しました。
鎌倉幕府を開いた頼朝も鶴ケ岡八幡宮で神楽のあと巫女から八幡大菩薩の託宣を受けています。
宇佐神宮には14世紀の南北朝の戦乱によって荒廃するまで巫女が八幡神をチャネリングして宣託するシャーマニズムの伝統がありました。神功皇后も天照大神をチャネリングするチャネラーでした。
中世の時代は皇族・公家から武士、知識階級である高僧に到るまで吉凶の判断を行う巫女の託宣を信じていました。
女人禁制が現れるまで古代の女性は宗教的権威をもっていました。
八幡大神を祀る社殿が造営されたのは娘の光明子を聖武天皇の皇后にした藤原不比等の時代でした。
このあと物部氏の痕跡は消されていきました。
聖武天皇の病気を平癒し、大仏造立の成就を託宣した宇佐神宮の巫女達は748年朝廷から30階ある官位のうち外従五位を授かっています。
翌年宇佐神宮の禰宜(ねぎ)尼(神に仕える禰宜と仏に仕える尼を合わせた称号)の大神朝臣杜女(ねぎにのおおみわのあそんもりめ)が神の代理として天皇と同じ紫色の輿に乗り、東大寺に赴いて大仏を拝しました。
これは八幡神が仏教に帰依したことを意味していました。
八幡神は八幡大菩薩という称号をえて仏教と習合していきました。
769年には宇佐神宮を舞台にした有名な弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の神詔事件が起きています弓削道鏡の出身地は八尾市弓削でした。八尾は物部の本拠地だった場所です。
宇佐神宮の社記によると八幡神が顕れる以前に祀られたのは比売大神で三女神が天降ったのがこの宇佐島だとされています。
宇佐神宮の歴史の最初は太古の昔から祀られていた比売大神で、八幡大神が出現したのが6世紀後半で、八幡大神と比売大神の社殿が建立されたのが八世紀前半、神功皇后が祀られたのはそれから約100年後の823年ということになります。
772年に罷免されまで古代の宇佐神宮の神官をしていた辛嶋氏はスサノオとイソタケルを先祖としていました。
宇佐氏の祖先は「天照大神の二人の姫神」と記録されています。
比売大神が何者なのかがわかったのは六郷満山開山1300年の記念すべき2018年に国東半島を訪れたからでした。
1300年前に開かれた国東半島の六郷満山は宇佐八幡宮の神領地で神仏習合の発祥地と言われています。
六郷満山は国東半島一帯にある寺院の総称で山岳宗教の修行地として「宇佐神宮六郷満山霊場」と呼ばれています。
国東半島に入って最初に目についたのが六所権現社の文字でした。
参拝すると鳥居の看板が身濯(みそそぎ)神社となっていました。
旧称が「六所権現」で現在は身濯(みそそぎ)神社となっているようです。
身濯(みそそぎ)とは「禊ぎ」の事で六所権現とは禊神のことです。
仏や菩薩が日本の神々の姿となって現れた化身を権現(ごんげん)といいます。
六所権現の素性がはっきりしないので無動寺の身濯(みそそぎ)神社に回ってみるとご祭神が明記してありました。
身濯神社
祭神 伊奘諾尊 大直日命 八十猛津日命 表筒男之命 中筒男之命 底筒男之命
(菅原神 大物主命) 明治十八年五月合祀
由緒
桓武天皇の延暦年中に此の地に鎮座。承平、応和の頃本地垂迹説の所産として六所権現と称されたが明治初年の神仏分離令により身濯神社と改称。明治十八年、菅原神、大物主命を合祀。昭和十六年村社に昇格。
霊仙寺の六所権現社の由緒によるとご祭神:伊弉諾命 八十禍日之神 大直日神 表筒男神 中筒男神 底筒男神となっています。
霊仙寺の六所権現が八十禍日之神で無動寺の身濯神社が八十猛津日命となっています。
これは古事記で八十禍津日神(やそまがつひのかみ)・大禍津日神(おほまがつひのかみ)日本書紀で八十枉津日神(やそまがつひのかみ)・枉津日神(まがつひのかみ)と一字違いなのなので八十枉津日神(やそまがつひのかみ)の事だということがわかります。
伊勢神宮内宮の荒祭宮祭神は祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)で名前は八十枉津日神(やそまがつひのかみ)といい別名が瀬織津姫とされています。
祝詞の禊祓いの筆頭の神が瀬織津姫ですから身濯神社の元の祭神は瀬織津姫だったのです。
国東半島の関大神社の祭神は瀬織津姫となっています。そして、豊後高田市真玉町の八面宮の祭神は少童命・瀬織津姫命・速秋津姫命の三柱の神様でしたが明治十五年に全く別な神様に改名されていました。
神社と寺院が一体となって比売神と神功皇后と宇佐八幡の若宮四神を含む六神をもって六所権現としていたようですが神仏分離の時に宇佐神宮大宮司本家の末裔が身濯神社の祭神を猛の字に変えて「八十猛津日命」としたようです。
六所権現の信仰は比咩大神(ひめおおかみ)から始まっています。
宇佐市にある標高647mの御許山(おもとさん)は「大元山」とも「馬城峰」(まきのみね)と言われ神代の昔、比咩大神(ひめおおかみ)が天孫降臨の先駆となって最初に天降った神聖な山と伝えられています。
ニニギの天孫降臨に先立つ比売大神といえばスサノオ=ニギハヤヒの系統の姫君となります。
宇佐市の神社の四割近くの祭神がスサノオとオオトシで占められています。
ここは昔スサノオ=ニギハヤヒの勢力下にあったのです。宇佐神宮の神官だった辛島氏(韓島)はスサノオを先祖としています。
スサノオは現在、宇佐神宮の末社に落とされています。
六所権現の禊神とは瀬織津姫でした。
宇佐神宮に最初はスサノオと稲田姫、ニギハヤヒと瀬織津姫が一緒に祀られていたのでしょう。
日本の古代は天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)の二重構造になっています。
高天原(たかまがはら)から渡来してきた天津神(あまつかみ)の前に日本列島に住んでいた先住民が国津神(くにつかみ)です。
三世紀後半から四世紀前半の崇神天皇の時代に、出雲系の「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」と日向系の「天照大神」をともに宮中でお祀していましたが、一緒に住むには不安があったので排除したという記録があります。
天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)が和合してできたのが大倭の国です。
大倭の国では天津神(あまつかみ)の祖先神として「天照大神」を国津神(くにつかみ)の祖先神として「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」を一緒に祀っていました。
倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)とは個人ではなくスサノオから瀬織津姫まで国津神(くにつかみ)を総合した神です。
縄文時代は母系社会で女性が主導権をにぎっていました。
母系社会の子供は母親の一族が育て家と財産は娘が相続します。
男性と女性は一緒に生活しないで夜だけ女性の元へ男性が通いました。
家に父親はいないので一家の主人は女性でした。
九州では早くから稲作が行われていましたが縄文から続く母系社会の伝統を継続していましたので族長は女性が多かったのです。
八幡神以前から信仰されていた宇佐神宮の比咩大神(ひめおおかみ)とは先住していた国津神(くにつかみ)の女神だったのです。
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