日本祭祀における松崇拝の一考察

file:///C:/Users/minam_000/Downloads/%E7%8E%8B%E5%B5%90%E6%A7%98%E3%83%BB%E5%8D%B1%E9%BE%8D%E8%8F%AF%E6%A7%98%20(1).pdf 【日本祭祀における松崇拝の一考察】より

要 旨

昔から、松は日本人の生活や文化に大きい影響を与えてきた。文学、哲学、庭園のデザイン、芸術だけでなく、飲食習慣、人の生き方にまで松文化の烙印を残した。松を崇拝することは、大体三種類に分けられる。すなわち、松全体、松葉、松明に対する崇拝である。その原因には、松は伸びやかで、風雪にも耐える。その性格は日本人の自然観に合うと言え、いろいろな神話伝説も松をより一層神格化した。中国からの影響も無視できない原因の一つと思われる。そこには主に中国伝統文化の伝来と、中日両国の風俗における類似性が含まれているのである。本稿は日本祭祀の側面から、松が日本人の生活や文化に大きな役割を果たしてきたことを論じ、その原因を考察する。

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はじめに

能楽を見ると、能舞台正面の鏡板に老松が描かれていることに気付く。また、家紋の中では、松に関する紋章が圧倒的に多い。天然記念物としての松も多く見られる。これらを手がかりに、松がどのように日本人の暮らしの中に生きてきたかを調べていくにつれて、多くの事実が明らかになった。

古来いろいろな学者が松に関することについて研究してきた。その中で、系統的な研究には有岡利幸の著作『松と日本人』と高嶋雄三郎の著作『松』がある。有岡利幸は、日本人は日本の文化および文明を構築する際に松が非常に大きな役割を果たしてきたと考え、そのことを確認するため、古代からその足跡を辿って、平安時代末期あたりまでまとめてきた。高嶋雄三郎は「ものと人間の文化史」の角度から、日本の自然と松、生活の中の松、松の伝承、松と文学・美術・芸能、松を守る等の分野から系統的に松に関する問題を論じている。また、柳田国男の「神樹篇」は神が人間界へ降臨する時の梯子の役割をはたす木についての論集である。その中、「天狗松・神様松」など、形状からの逆さ木、すなわち枝が傘のように垂れ下がった松について考察し、神はこの枝を伝わって降臨するという信仰があったことを明らかにする。人と神との交流における樹木の重要性もあきらかにしたのである。

これらのほかに、野口米次郎の『松の木の日本』、金井紫雲の『松』、本田正次『マツの話』、小林義雄の『松入門』、石川健康が監修した『日本の有名松』などの松に関する著作がある。

松は長寿、縁起の良い樹木として、瑞樹とみられてきた。そして祭祀の中では、松の役割が非常に重要になっている。松崇拝の中には、松の葉、松明、松全体を崇拝するなどがある。では、なぜ日本では、松を瑞樹、縁起のいいものとして崇拝しているのか。本稿ではその原因を明らかにする。

1 .松とは

松は日本でもっとも普通の樹木であり、どこにでも見られる。「まつ」という名称については一説に、神がその木に天降ることをマツ(待つ)意とするものから、葉が二股に分かれるところからマタ(股)の転化とする説がある。

松はマツ科の一属で、主な分布地区は北半球の温帯とその南北に分布している。全世界約 100 種の松が見られる。日本の代表的な常緑高木。葉は針状で、2 本、3 本、または 5 本束生。花は春に咲き、雌雄同株で、最初はただ一本からでも叢生(群生)する。雌花は毬状で新芽の頂に生じ、雄花は新芽の下部に穂状に密生する。その果実は「まつかさ」とよばれる。日本にはクロマツ・アカマツ・ゴヨウマツ・ハイマツなどがあり、長寿や節操を象徴するものとして古来尊ばれてきた。天然記念物の大木も多い。また、広辞苑には、松明の略、門松、紋所の名などと説明されている。

1.1 松をマツと読む説

松をマツと読むことについては、先に触れたように、神様が高天の原から人間に降ることを待つ樹という説がある。またほかには、祭り木が転じたものという説や、葉が二股になっているところから股がマツに転じたとする説がある。古代の書物には、松について記しているものを例を挙げてみる。

謡曲「高砂」には「松は尽きぬ言の、栄えは古今あい同じ……」その「尽きぬ言」、「栄え」は長寿や祝賀の義を表す。ほかにも縁起を表す言葉として、「ちはや古松」、「相生の松」、「おきな草」など数多くみられる。

貝原益軒は、『大和本草』(宝永 5 年、1708 刊)で、「松はたもつの上略なり、もとまと通ず。久しく寿をたもつ木なり」と記している。また、林甕臣は、「松は茅厚よりくる」と主張して、「メアツ」を早めに読むことから、「マツ」となったという。さらに賀茂真淵は、「松は四季常緑の真常の木であるので、マトをマツと音便してしまう」としている。谷川士清は『和訓栞』1)で「松はモツと通う。久しきを持つの義なり。ただし雪霜を待つの義というも、久しきを持つというもいかなるべきか。」と主張する。

松をマツと読む説はこのように多くあり、いずれもがそれなりに正しい根拠を示している。しかし、現在でも松の語源については定説はみられない。諸説はおおむね松の特徴や音便論にもとづいて論じられている。言語の発展と変化は歴史の産物だとされるので、これらの説の集合的な産物かもしれない。

1.2 松の別称

松は縁起の良い樹木なので、いろいろな別称が与えられた。代表的なものには翁草、千代木、延喜草などがある。そのほかには、千枝草、たむけ草、豊喜草、百草、都草、色無草、常盤草、初代草、神代草、琴弾草、五大夫、十八公などと多くの別称がある。それは松が日本民族と古い昔からずっとかかわり続けていることを示している。日本民族は古い昔から、松に美しく、めでたい名称を与えて、最も縁起のよい樹の第一位としてきたのである。

2 .日本祭祀における松文化

2.1 瑞樹としての松

松は依代としてめでたい瑞樹中の随一に挙げられ、年経た老松は一本ずつ因縁故事来歴をもっている。『万葉集』に「実ならぬ木には神ぞつくとふ」とある。つまり、実のならない木には、恐ろしい神様が憑くというのである。

現在でも、京都の祇園祭には、八幡山では 6 メートルの松が御神体として登場してくる。また、屋台の上にも松を立てる。正月の行事には、年内の松迎え、かまど注連などの行事で松を家の中で飾る、これらのことから、松の瑞樹という印象は古くからあったことが分かる。

日本では、名木老木にはそれぞれの伝説が残っているが、瑞樹として一番多いのは高砂の松と尾上の松であろう。「高砂住の江の松はあいおいの様に覚え」と『古今集』の序に書かれている。それが原因で高砂の松と尾上の松は後世の人々に知られることになった。そして、この「あいおい」を相老、相生、相逐と解釈し、特に縁起の良いものとしたのである。現在の高砂松、尾上はその二代目、三代目となったものだという。初代の切株は大切に祀っている。謡曲「高砂」は、松の常緑の永遠性と不老長寿の思想を結びつけて作られた、翁嫗の物語である。松は古来、長寿のめでたさを象徴し、松の雌雄が夫婦を表し、祝言を挙げた夫婦がともに長生きできるようにという願いを込めているその謡曲は、結婚式に必ず歌われる。それは赤松と黒松の相老の高砂の松を、長寿の夫婦に見立ててのことである。その歌詞は、「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きに

けり」というものである。

2.2 松とまつり

日本では、松を崇拝するにも、いろんな形がある。それぞれの祭り、あるいは行事の中で、松の役割はさまざまである。また、そこには松全体、松の葉、松明を崇拝するという分類がある。

2.2.1 松全体を崇拝する祭り

松全体とはただの枝、あるいは松葉ではなく松の木の全体をいう。松全体を崇拝する祭りというと、まず子の日の祭りと門松であろう。

・子の日の遊び(図 1)

平安時代から、子の日の遊びという祭りがあった。これについて高嶋雄三郎は次のように述べている。「日本の年中行事で、今はすたれてしまったものに子の日遊びがある。正月の

第一の子の日に野辺に出で小松を曳き、若菜をつまんで齢を延べる印とする。唐の歳首に新薬、松実を食することが若菜や小松曳になったといわれるが、奈良時代には、天皇の御殿に使える人々が、正月の子の日に山へ出かけて、小さな松を引き抜いて遊ぶしきたりがあった。山の神を迎えてくる儀礼らしい、小松引きの民俗と、松迎え、松ばやしなどと呼ばれる門松を山に伐りに行く行事とが無縁のものであるはずはない。正月に青いものを眺めていると縁起が良く、幸せが訪れると信じていたからである。」2)

・門松

子の日の遊びは 11 世紀になると、「門松」という新しい民俗のかたちとなった。門松は正月に門に立てる松、「お神松(おがみまつ)」「飾り松」、「祝い松」、「立松」ともいわれる。

「門松」が最初に記録に現われるのは、平安初期の『堀河院百首』の「門松をいとなみたつるそのほとに春明がたに夜やなるぬらん」だといわれている。堀河天皇時代、つまり少なくとも 11 世紀末にはこれが一般の風習行事として行われていたと思われる。

また、積弊を改めるのに力を入れた第 71 代天皇後三条天皇時代の官吏で詩人の惟宗孝言の詩にも当時流行していた門松の風習が記録されている。それは「門を鎖しては賢木もて貞松に換ふ」というものである。

これは門を閉じ賢木を松の代わりに挿したとして、その注釈に「近来の世俗、皆松を以って門戸に挿す、而るに余賢木を以って換ふ」と述べていることから、平安時代後期には、すでに正月に「松を門戸に挿す」習慣のあったことがわかる。『本朝無題詩集』に収められたこの詩は、門に松を立てることについて記した日本で最初の文献だろう。

門松の形も時代の発展とともに変わってくる。また、地方によって形がそれぞれある。日本には、昔から門神宅神をまつる風習がある。門松が歳神様の降臨を迎えるための依代として立てられる習慣は一年の邪気を払って、一年の幸運を祈るという行事に発展してきたのである。

現在の門松は中心の竹が目立つが、本体は門松の名のとおり「松」である。門松の起源は、平安貴族が好んだ小松引きの行事で持ち帰った「子の日の松」を、長寿健康のため愛好する風習にもとめられる。現在でも関西の旧家などでは、「根引きの松」といい、玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松(松の折枝は略式)を飾る習慣がある。

門松は、庶民の間から始まったもので、平安時代には、朝廷や公家には門松はなかったらしい。藤原為尹の歌に「しずが門松」という歌があるので高貴の家や朝廷には飾られなかっただろうと江戸時代の書物に書かれている。「しず」とは漢字で「賎」と書き、身分の低い人を指す。

門松は千年ぐらい一般に用いられていたが、江戸時代に入り、本居宣長の弟子、藤井高尚が随筆『松の落葉』の中に、「門に松を当てるのは、千年もの前からのことだから年の始めのお祝い心と、かつは飾りの為とだれもが思うけれど、そうではなく年の始めはことさらに神をまつるとてすることである」と書いた。京都では宮中をはじめ貴族の家でも松飾りをせぬ家が多かったが、江戸時代になって門松の風が急速に広まった。

門松に竹が組み合わされるようになったのは室町時代と思われる。図 2、図 3 のように門松の一番上の部分を、真横に切った「寸胴」と、斜めに切った「そぎ」の 2 種類がある。「寸胴」は室町時代には正月に家の門の前などに寸胴型の竹、松を飾るようになった門松の元祖とはいえるだろう。「そぎ」は徳川家康の生涯一度の大敗戦、「三方ヶ原の戦い」(1572 年)から辛くも逃げ帰った後、対戦相手の武田信玄に対して、次は斬るぞという念を込め、雪辱を期して竹を一息に袈裟斬りにしたのが始まりだという逸話がある。『やまなしの民俗』の記載によると、戦国時代、武田と徳川が戦いの中で正月を迎え、両軍とも門松を競って作った。徳川方は竹の先を斜めに切ったが、武田方は竹の節のところで平らに切り落とした。これを見た両軍は、お互いに相手をからかった。武田方で「松(徳川)枯れて、竹(武田)たぐひなきあしたかな」と言えば、徳川方では「松(徳川)枯れで、竹だ(武田)くび(首)なきあしたかな」とやり返したという。

こうして、この「そぎ」型門松が誕生することになった。徳川家康が江戸開幕後、関東では竹の頭を「斜め切り」とする「そぎ」型の門松が定着したとのことである。また、この節のところをそぎ切りすると笑った顔に見え、「笑う門には福来る」ということわざを連想させるから、縁起がいいといわれる。

このほか、江戸時代の後期から商家を中心に飾られた門松は、笹の葉付きタイプであり、商売が繁盛するようにと願いが込められた物である。大きなものほど財を反映するとされる。松の葉が飾られる一本の竹を地面に立てたもので、そのまま家屋の二階まで届くような数メートルもの高さがあるものが取り付けられるようになったのである。

門松の飾り方は地方によって異なる。関東では 3 本組の竹を中心に、周りに短めの若松を飾り、下部をわらで巻くという形が多く見られる。これに対して関西では、3 本組の竹を中心に、前面にハボタン(赤と白がある)を後方に長めの若松を添えて下部を竹で巻く。そのほかには、東京都府中市の大國魂神社や神戸市生田神社などには松をつかわない門松もみられる。また「逆さ門松」ともいい、松を下向きに飾る門松もある。

近年におけるマンションや集合住宅の発達など社会環境の変化とともに、門松の設置も変わってきている。画像の様な本格的な門松が設置されることは少なくなったが、一般家庭用に小さな寄せ植え風の門松などが年末に店頭に並ぶようになった。また、枝振りのいい若松に、赤白や金銀の水引を蝶結びにし、門柱などに付ける方法もあり、手軽なことからこれも多く使われている。

2.2.2 松葉神事

筆者の調査によって、松の葉に関する神事は、ほとんど豊作を祈る行事に関わっていると見られる。

例を挙げると、静岡県掛川市では、毎年 4 月の初めころ、遠州地方の祭りのトップを飾る遠州横須賀三熊野神社大祭が盛大に行われる。その一連の神事の中で、田遊びという古くからの伝統行事がある。

「めでためでたの若松さまよ」の唄に合わせ、若者が苗に見立てた松葉を投げ、田植えを表現する。

美田を称え、豊作を祈り、農事の無事を祈る行事である。

千葉県南部の館山市館山では「農業」に関したお祭りや神事が盛んにおこなわれているのである。

その中、最も有名なのが毎年元旦に、その年の豊作を願って行われている「洲宮神社御田植神事」だといわれる。洲宮神社では境内を田んぼに見立て、「田うない」の所作を行い、氏子の長老がモミを播き、氏子の中で新しく結婚した新婿が牛役をし、苗に見立てた松葉を投げて、「田植え」を行い、神事は終了。この神事には、その年の豊作を願うという意味合いもあるが、新年に地域の結束を固めるという役割も果たしていると考えられる。

京都の世界遺産である上賀茂神社では、御祭神の賀茂別雷神は厄除、八方除や勝利の神として全国から厚い信仰を集めている。ここの細殿と呼ばれる殿舎の前に一対の円錐形の白い砂山がある立砂(盛砂ともいう)は、上賀茂神社の北 2 キロ先にある神様が最初に降臨されたといわれる神山をかたどったものといわれている。依代といい、神がこの立砂に招き寄せられて、乗り移るものとされている。立砂の先端の小さな穴に、細殿に向かって左側に 3 本の松葉、細殿に向かって右側に 2 本の松葉が差し込まれているのである。立砂は、陰陽思想を紐解いて考えてみると細殿に向かって左が陽で、右が陰と考えられている。なぜ本数が異なるのかといえば、3 葉と 2 葉を用いることで、陰陽思想の中において、男と女、あるいは、奇数と偶数が合わさることで神の出現を願う意があるからではないだろうか。松と神との関係は真に深いと思われている。

2.2.3 松明神事

松の明かりと書いて「たいまつ」と読む。近世に提灯が発明されるまで、暗い夜の照明は松明であった。樹脂をたっぷりと含んだ松(肥松)の根を、小さく割って束ねたものに火をつけ、その火が照らし出す光を明かりとした。たいまつを使って夜を照らしたりする神聖な火を運ぶという神事や火祭りは各地に見られる。

筆者は京都に滞在している間、京都、奈良の松明に関する神事を見学してみた。日本の三大祭りの一つと言われる京都の祇園祭の場合、松は神との結びつきが非常に強い。京都祇園祭では殆どの山鉾は先に松を付け、神体や神域を表現する依代としているのである。7 月 10 日と 28 日に、神輿洗いの儀式が行われる。午後 6 時に八坂神社で、4 メートルの大松明に浄火を点じ、神輿の通る四条通を四条大橋まで清める。大松明の火で清めた四条通から四条大橋の中央まで、中御座 1 基を担ぎ、四条大橋を渡る。そしてお祓いをすませた神事用水を、神官が神輿に注ぎ清める。

祇園祭とともに京都の夏を代表する風物詩の一つである「五山送り火」も、火棚への点火には松明が用いられている。京都五山送り火は、広く行われるようになったのは、仏教が庶民の間に深く浸透した中世 -- 室町時代以降だといわれている。ご先祖の霊をお送りするという、精霊送りの意味を持つお盆の行事である。毎年 8 月 16 日夜、京都を囲む 5 つの山に「大文字」「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」の順に点火され、それぞれが夏の夜空にくっきりと浮かび上がる。燃える時間は 30 分しかないから、火が消えた後の闇の暗さに、夏の終わりを惜しみ、秋の訪れを感じるのだろう。規模・送り火の迎え方など、それぞれが違う「五山送り火」は、井桁が樹齢 40 年から 50 年の赤松(松割り)を使って組み上げ、病気治癒の願いが書かれた護摩木は点火後に入れられている。高さは約 1.3mで、点火後の炎は数メートルにも上がる素晴らしい風景である。

奈良県指定無形民俗文化財の「松明儺々会」は茅原山金剛壽院吉祥草寺では毎年陰暦正月 14 日の夜行われる。「茅原のトンド」とも呼ばれる。例年旧正月朔日より二週間、五穀豊穣、天下泰平、四海静謐の祈祷の為、修正会が行われるが、トンドはその結願の日の行事である。この夜、古例に従い、近在の玉手と茅原の両地区より雌雄二基の大松明を担ぎ出し本堂前の左右に建て、夜になると、「茅原儺々会の唄保存会」による唄と踊りをし、儺々会を行い、深更に及んで、まず雄に法火を点じ、次に雌に及ぶのである。午後 9 時過ぎ、大松明の火が弱まると、見物人たちは一年間の無病息災を願い、雄と雌の間をくぐる。燃え終る頃、「杭ぬき」の行事がある。中心の大杭を争って火の中から抜き取るのである。その杭の納まった家は、その一年間無事息災であると信ぜられている。

3 .松を崇拝する原因

3.1 松そのものの特徴

松は古くから日本人の生活の中で共に活きてきた樹種として日本人に親しまれているのである。日本には、熱海海岸のお宮の松、静岡県の美保の松原、兵庫県高砂神社の相生の松など、松の付く名勝地が多く挙げられる。また、身近な庭園や公園、ガーデニング、門松、盆栽などでも、松がお馴染みの樹木でもある。

日本では、南から北まで、海岸から内陸まで、平原から山地まで、松の姿はどこにでもある。それは祭祀を行うにあたって容易に入手できることを意味する。それゆえに松を祭祀の道具として使ったのであろう。どこにでもあるからこそ、こういう習慣は日本全国に認められる可能性が生じるのだろう。

松は古い時代から使われていた。それを京都大学木材研究所の「製品群別樹種と用途一覧表」から、縄文時代から弥生時代後期までの時代に松が製品として出土した遺跡をみてみる。まず縄文時代では、一戸城蹟遺跡(岩手県)、古宮遺跡(青森県)、鳥浜遺跡(福井県)、寿能泥炭層遺跡(埼玉県)、布勢遺跡(鳥取市)、伊那氏屋敷遺跡(埼玉県)、右衛門次郎窪遺跡(青森県)、山賀遺跡(大阪府)から土木用の杭、漁労具の尖り棒、槽状木製品、芋洗状木製品、皿状木製品、建築用丸太として松が出土し、用途不明の加工材などとともに自然木、炭化材が出土している。この資料によると、松は古くから使われてきている。遠い昔からずっと親しみ、利用してきた松は、祭祀の媒介となるのは当たり前のことと思われる。

前も述べたように、古い時代から、近世に至って提灯が発明されるまでの間は、暗い夜の屋外の照明を代表する明かりは松明であった。その闇を駆ける松明は人々の夜に対する恐怖を治めた、猛獣も近づかないようになった。松明がそういう力を持つので、崇拝する感情が生じたと考えられる。

3.2 日本人の自然観

昔の日本の人々は四季の変更を暦として、常に自然とともに生活してきた。その自然ははるかかなたの雲のかかる山や白い雪をいただく高山などではなく、住居の裏山か、それにつづく日常生活に必要な薪炭、住居を作る木材や農耕地の肥料とする刈敷きを取る山野であった。いわゆる里山が自然のすべてであった。北村昌美は、「この山里における自然との交流こそ、日本人の自然観の形成に最も大きく貢献したと見るのが、極めて自然な考えではないだろうか。日本文化の中に見られる自然への愛と言えば、この山里との交流から生まれたものに他ならない。その意味でも日本人の自然観のかなめとなっているのが、この山里との交流と考えてよいであろう。」と述べている。北村が言う日本人の自然観のかなめである山里を主要な生育地としている樹木が、松なのである。

松の緑色は常緑であることから常盤木と呼ばれ、また千年の齢を保つことから長寿の象徴として吉祥樹とされてきた。松はめでたい時だけでなく、季節を選ばず一年中用いられる。したがって、松は人々によく観察され、親しまれると同時に、古代では畏敬の念がもたれていたと言えるだろう。古代の人々の松についての観察や松の信仰を風土記からうかがうことができる。『常陸国風土記』(720 年頃成立)は、次のように松が植物社会に占める地位をうまく説明している。

「郡の東二、三里高松浜、大海の流れ砂貝を着(よ)せ、積みて高き丘を成せり。松林自ら生(しげ)れり云々と見えたれば、高間原は高松浜の略言(はぶき)なるべし。」

この短い文の中には、途轍もない長い時間が語られている。海流が砂浜を作る年月は、見当のつけようもない。浜に新しくできた土地に、パイオニア樹木の松がまず生え、その松が大きく成長する。

そして、その下にシイノキなどの照葉樹が生活をはじめる様子が簡潔に述べられている。新しく生まれた土地に、初めて一年生の草が芽吹いてから、照葉樹の樹木が侵入して、林を作り始めるまでの時間は三百年から五百年が必要である。こんな長い時間を、引きつづいて観察した人はいないが、古代人の観察力と推理力には感心させられる。

さらに『常陸風土記』には、「浜の松の下には、泉が湧き出しており、その水は非常に旨い」という記述がある。そこでは松に山野の霊が留ることを知り、松を畏敬し、松の神格化が始まっている。

「古来から、老木で枝の垂れている樹木には神が降って来ると考えられており、このような樹形をしている樹木をきこりたちは必ず伐り残し、成長するにつれ、ますます恐れ敬った」と柳田國男は『神樹篇』に述べている。桜などには樹木が枝の垂れる樹形があるが、それは松に一番多く、これを神様松と呼び、わざわざ其の松を傷つけることをしないようにした。枝が四方に垂れ、樹冠が傘のようになった松は、天狗松と呼ばれ、神様松と同じく大切にされた。また、小さい松でも枝が垂れ、樹冠が傘の形となろうとする気配のある松も、わざわざ保護されていた。

3.3 日本古来の神話伝説

日本には松についての神話伝説は多い。病魔を除けの松に関する話が特に多くみられる。京都の伏見稲荷大社には病魔を払う神の宿る根上り松がある。また、神奈川三浦郡一色村には魂が宿っている平松と言われる伝説の松がある。この松の下に線香を立てて祈れば、一切の病気が癒えるといわれる。

ただ、願いが達成する日には、芝を植え、小さい幟を立て、賽銭を投じなければならない。

縁起のよい松は祟るということはよくよくなことで、たぶん悪い人を戒めるためであろう。人間が埋められたりしたところに植えられた松は、木が成長すると変事が発生する。それは夜泣きしたり、この松の前で倒れたら袖をとられたり、またその松を切ると樹木の傷口から血が出たり、病気になったりする話が多く残っている。

これらの伝説は、古代の人々にとっては、松は神様あるいは故人の魂と繋がっているに違いないと思われたためだろう。

3.4 中国からの影響

3.4.1 中国の伝統文化の伝来

松の別称「五大夫」の由来は、紀元前 3 世紀に、秦の始皇帝が泰山での儀式の帰りに暴風雨に遭ったとき、大木の松の下で雨宿りして難を逃れた。これに感謝した始皇帝は松に五大夫の官位を与えたと司馬遷の『史記』「秦始皇本紀」に記載されている。この当時から松が吉兆の木であると見なされていた表れだろう。

日本の古い時代の思想や信仰は、ほとんど中国からのものと考えられてよいので、中国古来の思想から見ると、松を「千歳の松」として天地の長久なるにたとえ、長寿を象徴し、高貴なものと位置付けられている。代表的な文は「夫れ尭舜は天に享け、松柏は命を地に享く、国に松のあること尭舜の如し」3)、「歳寒うして、然して後、松柏の後に涸るを知る也」4)と寒い冬の霜や雪をしのぎ、緑がしぼまない節操のかたさを示す松や柏の神髄とともに、困難の時代となって節義いよいよあらわれる君子を共に賛嘆している。中国の文化が松を非常に高く評価しているので、遣隋使、遣唐使を代表として、漢学を研究する学者たちはその思想を日本に輸入し、貴族から庶民に至るまで、そして日本民族の精神性の形成に影響したのである。日本でも縁起物として定着している「松竹梅」は、中国では古くから「歳寒三友」と呼ばれ、寒さに強い生命力の象徴であり、逆境にあっても変わることなく節操を守る精神的な理想のものとして喜ばれてきたのである。

3.4.2 中国風習の類似性

古代社会では、中日両国とも祭祀を生活の大事なこととしていた、しかも祭祀の内容が豊富である。

たとえば天地、山川、鬼神、祖先などを祭る。正月に門松をたてるのは、中国の『史記』に「松柏を百木之長となし門閭を守らしむ」と書かれているので中国から伝わったという説があるようだ。少なくとも、中日両国は古くから、門松を飾るような類似の風習があるとわかるだろう。

中国の東北地方に暮らしている満族では、昔疫病を追放すため正月に門松を立てる習慣があった。

大晦日の日に、どの庭にも松枝に飾られた、高さは 6 メートルにも達する灯籠棒が立てられ、赤い灯籠を一番上に掲げ、正月六日までずっと点火している。

中国少数民族の彝族(イ族)は、火を崇拝する民族である。その年中行事のなかで最も重要な行事の一つは毎年旧暦の 6 月 24 日前後に行われる「松明祭」(「火の祭り」ともいう)である。「松明祭」は彝族以外に白族、ナシ族、リス族、ラフ族などでも行われる。旧暦の 6 月 24 日ごろは、ちょうど夏を迎える時期であるため、豊作祈願や邪気払いを祈願して祭を行うのである。特に松明に火を灯すのには作物に虫が付かないように願う「虫やらい」の意味がある。昼間は盛装した若者が歌い踊り、闘牛、闘羊、闘鶏、相撲、競馬、美人コンテスト、歌垣など多彩な活動が行われる。日が暮れる時分に家々で松明に火を灯す。そして松明を持った人々は村のなかを練り歩き、村のはずれから田畑や山のふもとまで回り、最後は村に立てられた大きな松明を囲んで輪になりながら歌い踊り、無病息災を祈る。

この古い祭りの由来は、地域によって様々な伝説があるが、その一説は、アティラバという力士が彝族を率いて、旧暦の 6 月 24 日に、松明を燃やして虫駆けをさせ、害虫を追い払い、天神に打ち勝った。天神に勝つことを記念するために、毎年この日に松明を挙げて祝うようになったという。

このほか、中国の雲南地方の白族では、「長寿の松を縛る」という風習があることを知る人は少ない。松を門戸や庭に挿す。その数は一本の場合も二本もある。雲南白族の一番重要な祝日は元旦と 7月 15 日の「七月節(日本のお盆に相当する)」である。この時、玄関に 1 本の松を置いて、主祭は片手で燃えている線香を持ち、片手で松葉を暖炉に投げ込む。同時に祖先の名前を唱え、最後には「君が松の木から歩いてきて、私達のものを受けてください」という。

中日両国の松を配置する場所、数量、形式は互いに異なるが、その役割と意味はよく似ている。日本では、門松はもともと正月の神事を行う時の祭場のマークであった。同時にそれは神様を迎える時の依代となる。また、日本の神社で行われる祭事は、よく松明を点火し神前に捧げ、清めや厄払いなどの役割を果たしている。ほかは、墓参り時もよく松を供える。祖霊はいつも子孫を守り、かつ農業や牧畜業に心を寄せる神であると信じられている。祖霊は農神あるいは農神の化身ともいえるだろう。

正月だけでなく、7 月 15 日または他の祖先を祭るという重大な場合に松を挿すことが行われてきた。

そこに中日間における民間習俗の類似性が見られるだろう。

おわりに

本稿は日本の祭祀における松崇拝の現象およびその原因を検討した。松は日本人の生活の中で、非常に大きな役割を果たしてきた。松は神の依代となり、それゆえ、祭祀において重要な位置づけになってきた。その原因は主に四つあると思われる。つまり松そのものの特徴、日本人の自然観、日本古来の神話伝説の影響、中国からの影響である。松についての研究は幅広く、奥深い意味を持っている。本稿は一側面から述べただけで、今後なお中日における松にまつわる伝承について実地調査を行い、考察を深めていきたい。

1) 辞書。九三巻。谷川士清(コトスガ)編。編者没後の 1777~1887 年(明治 20)刊。前・中・後の三編より成り、前編は古言・雅語を、中編は雅語を中心にして補い、後編は俗語・方言をも含める。第二音節まで五十音順に並べ注釈を施し、出典・用例を示す。収録語数約二万。

2) 高嶋雄三郎『ものと人間の文化史.松』第三章 松の伝承、1975 年 法政大学出版社

3) 范仲淹、《庄子・德充符》、「舜受命于天、松柏受命于地、物之有松柏、犹人之有舜也」。

4)《・子罕》、「寒然后知松柏之后凋」。

参考文献

本間洋一『本朝無題詩全注釈』新典社、1992 年

高嶋雄三郎『ものと人間の文化史.松』法政大学出版局、1975 年

有岡利幸『松と日本人』人文書院、1993 年

有岡利幸『松 -- 日本の心と風景』人文書院、1994 年

小林義雄『松入門』池田書店、1972 年

本田正次『まつの話』アルプス、1968 年

吉野祐沢『風土記』東洋文庫、1986 年

柳田國男『柳田全集』14 巻、ちくま文庫、1990 年

北村昌美『森林と日本人』第七回、小学館、1995 年

浅井治海『樹木にまつわる物語』フロンティア出版、2007 年

上野晴朗『やまなしの民俗』上巻「暮しに生きる日本のしきたり」光風社書店、1973 年

「南葛城郡の傳説」 http://www.7kamado.net/den_yamato/katuragi_den2.html

平安女学院大学研究年報 第 19 号 2018


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