島崎藤村『桜の実の熟する時』

https://ameblo.jp/classical-literature/entry-11256652518.html 【島崎藤村『桜の実の熟する時』】 より

島崎藤村『桜の実の熟する時』(新潮文庫)を読みました。

島崎藤村の自伝的長編です。書かれたのは『春』よりも後ですが、作中の時期としては『春』の少し前になります。

『春』を少しおさらいしておきましょう。主人公の岸本捨吉は、同じく文学を志す仲間、青木たちと共に同人誌を作ります。

いくつかの悩みを抱えた捨吉は、教師を辞めて旅に出ます。自分の書く詩にも小説にも確固たる自信を持てず、このまま文学の道に進むかどうか迷います。

その悩みはやがて、生きることそのものの辛さになっていって・・・。一人の文学青年の青春時代を描いた物語。

そんなお話でしたね。日本文学史的なことと重ね合わせると、主人公の岸本捨吉は作者である島崎藤村が、そして青木は北村透谷がモデルになっています。そして仲間たちと作った同人誌は『文学界』にあたります。

今回紹介する『桜の実の熟する時』はその少し前、岸本捨吉の学生時代が中心となって描かれ、『文学界』の仲間たちとの出会いが描かれていくこととなります。

作中の時代の順番通りに読みたいのならば、『桜の実の熟する時』から『春』へと読んでいくのも一つの手ですが、その辺りはあまり気にしないでも大丈夫だと思います。好きな順で読んでみてください。

それぞれの作品は独立していて、文体や内容のタッチとしては似ているんですが、作品から受ける印象はやや違います。

『春』がひたすら重々しい苦悩がのしかかってくるようなものであるのに対し、『桜の実の熟する時』というのは、まだどこか明るい希望が見えるような感じなんですね。

つまり、窮屈な現実生活と自分が希望している文学の道という2つの選択肢があるのが『桜の実の熟する時』で、文学の道への自信もなくし、より閉塞した感じを持つのが『春』なんです。

出来事としてのインパクトや文学作品としての重みは『春』の方にありますが、『桜の実の熟する時』には『春』にはない、みずみずしい感じがあります。

ここからは、『桜の実の熟する時』に限定して話を進めて行きますね。この作品を読んでぼくが連想したのは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』です。

『車輪の下で』は若い読者に読んでもらいたい作品ですが、同時におすすめするのが少し怖い感じもあります。というのも知的でナイーブなハンスが現実に少しずつつまずいてしまう物語なんです。

つまり、若い読者の方がハンスに圧倒的に共感できるけれど、共感してしまうと読んでいてとても辛い話なんですね。センチメンタルな心が厳しい現実にぎりぎりと押しつぶされてしまうような小説です。

島崎藤村とヘルマン・ヘッセは境遇的にはとてもよく似ていて、どちらも詩人になりたいと思い、実際に多くの詩と小説を残しました。

現在から見ると、島崎藤村もヘルマン・ヘッセも成功しているからいいように思えますが、本来詩を作ることと、生活というのはなかなか両立できないものなんです。山で遭難してお腹をすかしている人に、詩を読み聞かせてもなんの意味もないですよね。

ナイーブでセンチメンタルな心は、現実生活とぶつかりあって磨耗してしまい、自分の思う文学の道に進めない苦しみというのは、やがて生きることそのものの苦悩へと繋がっていきます。

そうした思いが投影されたのがヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』であり、島崎藤村の『桜の実の熟する時』なんです。

人生の選択が迫られる時、岸本捨吉が選んだ道とは?

作品のあらすじ

岸本捨吉が坂道を登っていると、後ろから人力車がやって来ます。そこに乗っていたのは、繁子という婦人。捨吉よりも5歳ほど年上の繁子は「旧い日本の習慣に無い青年男女の交際」(6ページ)を捨吉に教えてくれた女性です。

2人の間がどういう仲だったのか、そしてどうして駄目になったのかは、具体的には書かれていませんが、捨吉はもう繁子とは会わないでおこうと考えています。この時もただすれ違っただけです。

捨吉は子供の頃から学生時代の間、田辺のおじさんという人のお世話になっているんです。田辺のおじさんとしては、いずれは捨吉に商売を手伝ってもらおうという腹なんですね。

捨吉は夏期学校といって、キリスト教の講習会のようなものに出席します。ここで印象的だったのが、友人菅との会話です。

 基督教主義の集りのことでこういう時にも思い切って遊ぶということはしなかった。皆静粛に片付けていた。捨吉は桜の樹の方へ向いて、幹事の配って来た折詰の海苔巻を食いながら、

「菅君、君は二葉亭の『あいびき』というものを読んだかね」

「ああ」

 と菅も一つ頬張って言った。

 初めて自分等の国へ紹介された露西亜の作物の翻訳に就いて語るも楽しかった。日本の言葉で、どうしてあんな柔かい、微細い言いまわしが出来たろう、ということも二人の青年を驚かした。(60ページ)

ここで話題になっているのは、二葉亭四迷によるトゥルゲーネフの「あいびき」の翻訳です。興味のある方は講談社文芸文庫の『平凡/私は懐疑派だ』などで読むことができますよ。

この翻訳が当時どんな風に受け止められていたのかは、実に興味深いところだったので、短い場面ながらとても勉強になりました。やはり内容ではなく文体が当時としては斬新だったんですね。

友人たちとのこうした文学談義や様々な経験を経て、捨吉は学校を卒業することになりました。捨吉は学校の門の所の桜の木を眺めて、過ぎ去った4年の歳月に思いを馳せます。入学した当初は、桜の木もこれほど大きくありませんでした。

 風が来て桜の枝を揺るような日で、見ると門の外の道路には可愛らしい実が、そこここに落ちていた。

「ホ、こんなところにも落ちてる」

 と捨吉は独りで言って見て、一つ二つ拾い上げた。その昔、郷里の山村の方で榎木の実を拾ったり橿鳥の落した羽を集めたりした日のことが彼の胸に来た。思わず彼は拾い上げた桜の実を嗅いで見て、お伽話の情調を味った。それは若い日の幸福のしるしという風に想像して見た。(132ページ)

捨吉は自分の目の前には2つの道があると考えます。手本があり、先人の足跡がある道と、自分で開拓していかなければならない道。捨吉は後者の道、つまり文学を志したいと思っていますが、現実はそううまくはいきません。

捨吉は田辺のおじさんの店で、帳場の仕事を任されることになります。ところが、「あの品物を幾干で仕入れて幾干で売れば幾干儲かるというようなことに、ほとほと興味を有てなかった」(150ページ)んです。

地に足のついた生活と夢とで揺れる捨吉はたまたま読んでいた雑誌で、「恋愛は人生の秘鑰なり」から始まる、ある衝撃的な文章を目にします。

 これほど大胆に物を言った青年がその日までにあろうか。すくなくも自分等の言おうとして、まだ言い得ないでいることを、これほど大胆に言った人があろうか。捨吉は先ずこの文章に籠る強い力に心を引かれた。彼の癖として電気にでも触れるような深い幽かな身震いが彼の身内を通過ぎた。(161ページ)

この文章の執筆者こそ、後に親しく交際することになる青木です。ここでは、モデルになった北村透谷の文章がほとんどそのまま引用されています。

文学に激しく惹きつけられる捨吉。はたして捨吉が選んだ道とは・・・? そして、やがて捨吉に訪れる恋の行方は!?

とまあそんなお話です。仕事と夢の狭間にある状況というのは、かなり多くの方が共感できるだろうと思います。

現在でも、新入社員が3年で会社を辞めてしまうことが問題になっていたりもしますよね。理想の自分と現在の自分との間には、とかく溝が生まれがちなものです。

あらすじの紹介では後半の展開にはほとんど触れられませんでしたが、さすが作者が詩人なだけあって、恋をすると恋の詩に感銘を受けたりするんです。ロマンティックですよね。そういうのぼくは嫌いじゃないです。

まあ現在でも、恋をするとよりラブソングにより共感したりはしますよね。

島崎藤村の小説というのは、ドラマティックさには欠けていて、苦悩にしろ恋愛にしろ、理解はできるものの感情移入はしにくいんですが、当時の文学青年たちの姿が分かるので、その点は非常に興味深いものがあります。

興味のある方は読んでみてくださいね。島崎藤村は次、大作『夜明け前』に入ります。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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