サルトル「実存主義とは何か」 ①

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/48_jitsuzon/index.html 【サルトル「実存主義とは何か」】 より

第二次世界大戦後の世界にあって、常にその一挙手一投足が注目を集め、世界中に巨大な影響を与え続けた20世紀最大の哲学者ジャン=ポール・サルトル。彼の思想は「実存主義」と呼ばれ、多くの人々に生きる指針として読みつがれてきました。そのマニフェストであり入門書といわれているのが「実存主義とは何か」です。

「実存主義とは何か」は1945年10月、パリのクラブ・マントナンで行われた講演がもとになっています。この講演には多数の聴衆が押しかけ中に入りきれない人々が入り口に座り込んだほどだといわれます。翌日の新聞には大見出しで掲載され大きな「文化的な事件」として記録されました。その後、この講演は世界各国で翻訳・出版され一世を風靡し、時ならぬサルトル・ブームを巻き起こしました。サルトルの思想はなぜそこまで人々を魅了したのでしょうか。

大戦直後のヨーロッパでは、戦前まで人々を支えてきた近代思想や既存の価値観が崩壊し多くの人々は生きるよりどころを見失っていました。巨大な歴史の流れの中では、「人間存在」など吹けば飛ぶようなちっぽけなものだという絶望感も漂っていました。そんな中、「人間存在」の在り方(実存)に新たな光をあて、人々がさらされている「根源的な不安」に立ち向かい、真に自由に生きるとはどういうことを追求したサルトルの哲学は、人間の尊厳をとりもどす新しい思想として注目を浴びたのです。

若い頃サルトル思想の洗礼を受け大きな影響を受けたというフランス文学者、海老坂武さんは、既存の価値観が大きくゆらぐ中で、多くの人々が生きるよりどころを見失いつつある現代にこそ、サルトルを読み直す意味があるといいます。サルトルの思想には、「不安への向き合い方」「社会との向き合い方」「生きる意味の問い直し」など、現代人が直面せざるを得ない問題を考える上で、重要なヒントが数多くちりばめられているというのです。

番組では海老坂武さんを指南役として招き、入門書といわれながらも難解で手にとりにくい「実存主義とは何か」を、小説の代表作「嘔吐」や後期思想を交えながら、分り易く解説。サルトルの思想を現代社会につなげて解釈するとともに、そこにこめられた【自由論】や【他者論】、【社会への関わり方】などを学んでいきます。

川口覚さんからのメッセージ

今回のお話をいただいてから、J.Pサルトルという人物と僕が頭の中で向き合うのですが、J.Pサルトルの物に対する着眼点や、想像力に圧倒されてしまいました。でもそれと同時に、とても興味深く、どんどん引き込まれている自分がいました。海老坂先生の解説とともに、ぜひJ.Pサルトルを知っていただきたいです。決して過去の人物ではなく、今の時代を生きる人たちの心を動かす何かがあるはずです。

第1回 実存は本質に先立つ

第二次世界大戦という未曾有の経験によって、既存の価値観が大きくゆらいでいたヨーロッパ。人々は、たよるべきよすがを失い「根源的な不安」に直面していた。意味や必然性を剥ぎ取られ不条理にさらされたとき、人は一体どう生きていったらよいのか? サルトルは、その「根源的な不安」に向き合い乗り越えるために、「実存主義」という新たな思想を立ち上げた。「人間の本質はあらかじめ決められておらず、実存(現実に存在すること)が先行した存在である。だからこそ、人間は自ら世界を意味づけ行為を選び取り、自分自身で意味を生み出さなければならない」と高らかに宣言した講演「実存主義とは何か」は、その後世界中で著作として出版され、戦後を代表する思想として広まっていた。その第一回は、「実存主義とは何か」が生み出された背景やサルトルの人となり、デビュー小説「嘔吐」も合せて紹介しながら、現代にも通じる「根源的な不安」への向きあい方を読み解いていく。

第2回 人間は自由の刑に処せられている

世界や存在にはそもそも意味はない。だがだからこそ人間は根源的に「自由」なのだ。人間の根源的条件をそう考えたサルトル。だがそれは同時に人間に大きな不安を与えるものでもある。自分自身があらゆる行動の意味を決めなければならないからだ。そこには絶対的な孤独と責任が伴う。その状況をサルトルは「我々は自由の刑に処せられている」と表現した。人間はともするとこの「自由」に耐え切れず「自己欺瞞」に陥ってしまう。第二回は、「実存主義とは何か」や小説「嘔吐」から、人間にとっての「自由」の意味を読み解き、どうしたらその「自由」を本当の意味で生かしきることができるかを考える。

名著、げすとこらむ。ゲスト講師:高橋源一郎 ぼくたちには太宰治が必要なんだ

第3回 地獄とは他人のことだ

決して完全には理解し合えず相克する「他者」との関係。だが、その「他者」なしには人間は生きていけない。「他者」と相克しながらも共生していかなければならない状況をサルトルは「地獄」と呼ぶ。こうした根源的な状況の中で、人は「他者」とどう向き合ったらよいのか? 第三回は、自分の「自由」の前に立ちはだかる「他者」という「不自由」を見つめ、主体性を失うことなく「他者」と関わりあうことがいかにして可能かを、サルトルの思想に学んでいく。

第4回 希望の中で生きよ

人間は根源的に与えられている「自由」をどう生かしていけばいいのか。サルトルは「実存主義とは何か」で、「アンガージュマン」(参加・拘束)という概念を提唱し、人間は積極的に《状況》へと自らを《投企》していくべきだと訴える。社会へ積極的に参加し、自由を自ら拘束していくことが、自由を最も生かす方法だと主張するのだ。それは、サルトルが生涯をかけて、身をもって実践した思想でもあった。第四回は、「実存主義とは何か」だけでなくサルトルの具体的な実践や後期思想も交えながら、どんなに厳しい状況にあっても「自由」を生かし、「希望」を失わずに生きていく方法を学んでいく。


http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/exis20.htm 【A.実存は本質に先立つ(定立)】

前にフールキェのところで、実存主義を本質主義と対立させて考えた。

例)

· 人間にとって大切なのは、共通の人間性という本質である・・・本質主義。

· 人間にとって個性の方が人間にとって大切である・・・実存主義

「実存は本質に先立つ」というサルトルの主張は、実存主義が本質主義に優越することを示している。

実存主義の基本的な特徴:

例)

この存在者の何であるか(本質)は、その存在(実存)から把握されなければならない。

現存在の本質は、その実存にある(ハイデガー)――こうした考えは、本質主義に対立するものとしての実存主義を特徴づけるものである。

この言葉は、サルトルにとっては、どういう意味を持っているのかを考察しなければならない。その厳密な意味を押さえる。

本質が実存に先立つ場合を先ず考えて見よう(仮定)。

たとえばナイフを例にとって考えてみる。

一) 作る人がいる

二) 作る人は、これから作ろうとするものの用途や目的(ナイフの本質)を考えなければならない。作る人は、このナイフの本質にうまく合うような物を作る。こうして作られたナイフが持っているの一定の形体が、ナイフの実存になる。

ナイフの場合 本質が実存に先立つ。一般に道具というものも然りである。

人間の場合にも、そうなるであろうか。

(仮定) 本質は実存に先立つ。

一) 人間を作るものがいる。

※ キリスト教文化圏では、神ということになる。

二) 作る人は、これから作ろうとする人の本質を考えなければならない。その本質に合うような姿形をした人間(実存)を造り出すのである。

しかし神は存在しないとすれば、以上の仮定は成立しなくなる。

神を否定してしまうということは、人間の本質を決定するものがいないということを意味する:

「人間はあらかじめ定義されない」ものなのである。

⇒ 実存のあり方を規定する本質は存在しない。

「定義されないものは、無としか言いようがない」。

「人間は、本来、無なのである。そして無の中から立ち現れてくるのである」。

サルトルがこうした余計なことを言うのは、彼にはやはり神へのこだわりというのがあるらしい。 サルトルの念頭にあるのは、神による無からの創造であると思う。そしてその神を否定するのである。

そこで神を否定すると、無からの人間の出現ということになる。

← 神による無からの創造

※ 無神論というのは、猛烈に神にこだわるものである。

話を元に戻すと、人間を前もって定める本質はない。しかし本質はないにもかかわらず、人間は各々、特定の在り方を現にしている。それならば、この実存はどこから来たのであろうか。それは、各人が、自分で自分に与えたものである。

「無からの自己創造」――これが、実存は本質に先立つことに関するサルトルの真意である。

「人間は自分自身を造るものである」。

【コメント】

 なおヘーゲルは、「本質はあったところのものである」Wessen ist was gewesen istと言っている。興味深い発言である。

サルトルによると、

「人間とはその行為の全体である」。

人間はその行為によって、自分を造る。

サルトルの思想は実に峻烈極まるものである。人間には、あらかじめ決まっている本質や性格はない。したがって人間は、日々の言動を通して自分を造ってゆかなければならない。

例) どんな理由からにせよ、卑劣な行為を一時でもしてしまえば、その人は卑劣漢になってしまう。

 

「汝のなるべきところのものになれ」 ――なるべき自分、目標としての自己。 今の在り方を否定して、本当の在り方を目指さなければならない。しかしなるべき自己がどんなものであるかは、誰にもわからない。本質は前もって与えられていない。人は、いかに生きるべきかということを絶えず自問しなければならない ⇒ 日々の決断と反省。

こうした営みの中で、自分を造っていかなければならない。

※ 形成的自覚:自分を造り上げながら、自分を見てゆく。

――人間とは、その行為の全体である。ヘーゲルに言わせれば、Wessen ist was gewesen ist.

こうしたサルトルの考え方は、正しいと私には思われる。

オルテガOrtega(スペインの哲学者)曰く:

「人間は、自分の可能性を案出しつつ、自分を造る」。

ニーチェ曰く:

人間が本来あるところのものになるということは、自分が何であるかをいささかも予感しないことを前提とする。

現存在・被投性という考え方に関連して、人間存在の偶然性の意識に言及しておく。こうした意識が出現したのは、中世的宇宙観や信仰の衰えがあった・

サルトルの「実存は本質に先立つ」という考え方にも、人間存在の偶然性という意識が現れている。それは、彼の文学作品において強烈に現れている。

人間存在の偶然性(contingence) =

        gratuité 根拠がない・理由がない。

たとえば) 私はどうして日本人に生まれたのであるか、理由がない・根拠がない。

 ⇒ 偶然性

 absurdité 不合理性(不条理性);理屈に合わない

 angoisse 不安;上記のものに対する人間の情緒的な、感情的な反応

こうしたものが、サルトルの文学作品にはよく現れている。しかも生理的な不安にまで達している。 ⇒ 『嘔吐』(nausée)1938

サルトルは、今ここに投げだされて存在している事実に対して、居直っているように見える。人間存在の偶然性から逃れたいのだけれども、逃れられない。

しかし実存が何ものによっても支えられていないからこそ、人間は自分で自分を自由に支えることができるのである。人間存在の偶然性は、人間を解放してくれるもの、自由にしてくれるものと、サルトルは思っている。耐えられないものではない。彼は、偶然性という事実をごまかすことを、卑怯なことであるとみなす。

『実存主義はヒューマニズム』:

曰く、この世への人間の登場は、まったく偶然であるのに、これが必然であることを示そうとする人々を私は見下げ果てた奴と呼ぶ。

  ※ 見下げ果てた奴salaud・・・俗語、ひどく汚い言葉

パスカルの場合、彼は、偶然性という意識から神への信仰に入っていた。

ハイデガーの場合、彼は、現存在の在り方を彼の言う存在に結び付けている。

パスカルもハイデガーも、人間を、人間以外のもので支えようとしている。

ところがサルトルは、そうではない。それだけ、サルトルの実存主義は、徹底している。このことは、サルトルの無神論と平行している。

今までのことから、「実存は、本質に先立つ」というと、実存と本質は並立するように思われるかもしれないが、本質はないのである。あるのは実存だけである。そういう意味で、この定立は、甘い言い方である。各人が日々の言動を通して造った自分のあり方(=実存)しか、実際にはない。

このような意味でなら、サルトルのこの定立は、ハイデガーの言葉とほぼ同じ意味となる。

 ハイデガーによれば、現存在の本質は、その実存である。

※ ヘーゲル:本質は、あったところのものである。Wessen ist was gewesen ist.

 

サルトルの実存についての考え方は、次のようにも説明されよう。

× 存在と現象の二元論

◎ 現象の一元論

サルトルは、前者を否定し、後者を肯定する。現象の背後に、それとは別な存在があるわない。あるのはただ現象だけである。存在とは現象と区別されたものではない。したがって存在とは、現象と同じものとなる。

× 本質と実存の二元論

◎ 実存の一元論

実存と区別された本質はない。あるのはただ実存だけである。実存=本質。

 存在と現象の二元論では、存在の本質がすべて現象となって現れることはない。現れないこともあるのである。 たとえば愛情表現がない場合にはどうなるか。心の中では愛しているけれども行動には出ない。こうした結論が二元論からは出てくるのである。 一元論では、愛情は、愛情表現の行動と同等である。

サルトルの現象と存在(実存と本質)についての考え方は非常に厳しい。

× 可能性と現実性の二元論

◎ 現実性の一元論

サルトルは、プルーストを例に取る。

      ※マルセル・プルースト『失われし時を求めて』・・・膨大な小説

プルーストの現実の作品を離れて、汲めども尽きぬ可能的な創作力があるのではない。本当にあるのは、プルーストの天才的な作品だけである。可能性としての才能が本当にあるならば、現実化するはずである。現実化しないとすれば、才能はないことになる。したがって現実と区別された可能性を考える必要はない。

作家は、才能があるかぎり、作品を書き続けるのである。この考え方は、過酷なまでに峻烈である。 あれば、態度で示せというのが、サルトルの考え方である。


http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/exis21.htm 【B 実存の自由】より

サルトルの哲学は、時として自由の哲学と呼ばれる。ところで自由論には二つの側面がある。

一) 意識の自由についての議論

二) 実存の自由についての議論

前者は、実存哲学との関係は薄く、現象学との関係が強い。後者は、実存哲学の考え方のである。これは、実存は本質に先立つという定立に直結する。ところが、後者の前提に、前者も入る。

現象学の立場からすると、

① 意識というものは、常に、何かについての意識である。したがって何も意識しない意識はない。こうしたことを意識の志向性(指向性)と言う。

② 意識は、意識されるものに関わる志向作用の何ものでもない。

③ 意識とは、自分を超えて外へ出てゆく運動である。

④ ところで、対象についての意識には、その意識自身の意識が伴っている。

⑤ 何かを意識するということは、意識されたものを意識されたものとして在らしめることである。

まとめると、意識には、それについての意識が伴っている。そして意識するということは、意識されるものを在らしめることである。よって、意識をあらしめているのは、意識自身である。意識の原因は意識自身である。

一)意識は何かを意識するという能動的な働き。

二)意識は自分以外の原因を持たない。

以上の二つのことが、意識の自由ということの意味である。人間は、いま言ったような意味で、自由なのである。以上が意識の自由の形式的な議論である。







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