http://www.historist.jp/word_j_shi/entry/033819/ 【蕉風(しょうふう)】 より
正風とも。芭蕉とその弟子およびその流れをくむ俳諧流派。談林末期の延宝・天和年間(1673~84)の漢詩文調の俳諧の流行は,衆目を引く新奇さをねらったものだったが,芭蕉は漢詩文のもつ詩的効果に注目した。江戸深川に隠棲したのちは,発句に緊張した詩情を求め,和歌・漢詩の伝統を踏まえながら卑近な素材を生き生きと蘇らせることに成功した。また,さび・しおり・細み・軽みなどの理念を追求,連句では余情を重んじたにおい・うつり・ひびきなどの理念を求め,匂付(においづけ)を完成した。芭蕉没後は分裂したが,俳諧を文学的に確立した功績は大きい。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/17370881?categoryIds=4001213 【行雲流水】
確立しながら行雲流水でありえたのはその理念が不易流行だったからでしょうか?
https://jphaiku.jp/how/huekiryuukou.html 【不易流行とは?】 より
不易流行とは俳聖・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の中で見出した蕉風俳諧の理念の一つです。
芭蕉の俳論をまとめた書物『去来抄』では、不易流行について、以下のように書かれています。
「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」
去来抄
噛み砕いて言うと、
「良い俳句が作りたかったら、まずは普遍的な俳句の基礎をちゃんと学ぼう。でも、時代の変化に沿った新しさも追い求めないと、陳腐でツマラナイ句しか作れなくなるので、気を付けよう」
ということです。
例えば、明治時代に正岡子規は、江戸時代以来の陳腐な俳句を月並み句として批判し、俳句の革新を成し遂げましたが、彼はいきなり新しい句を作ったのではありません。正岡子規の初期の作品は、彼が否定した月並み句そのまんまです。
子規はこれに満足せず、俳句のすべてを学ぶために、その歴史をたどって、俳句分類の作業を行ないました。
このことがきっかけで、子規は歴史に埋もれていた与謝蕪村の句に出会って、その主観的な描写表現に魅了され、試行錯誤の末、写生による現実密着型の俳句を確立させました。
正岡子規は、俳句の本質を学んでから、新しい俳句を目指すという、不易流行を体現したような人だったのです。
不易流行の『不易』とは、時を越えて不変の真理をさし、『流行』とは時代や環境の変化によって革新されていく法則のことです。
不易と流行とは、一見、矛盾しているように感じますが、これらは根本において結びついているものであると言います。
蕉門に、千歳不易(せんざいふえき)の句、一時流行の句といふあり。
是を二つに分けて教え給へる、其の元は一つなり。
去来抄
去来抄の中にある向井去来の言葉です。
「千年変らない句と、一時流行の句というのがある。
師匠である芭蕉はこれを二つに分けて教えたが、その根本は一つである」
という意味です。
難しい内容ですが、服部土芳は「三冊子」の中で、その根本とは、「風雅の誠」であり、風雅の誠を追究する精神が、不易と流行の底に無ければならないと語っています。
師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。
この二つ究(きはま)り、其の本は一つなり。
その一つといふは、風雅の誠なり
三冊子
俳句が時代に沿って変化していくのは自然の理だけれども、その根本に風雅の誠が無ければ、それは軽薄な表面的な変化になるだけで、良い俳句とはならない、ということです。
(風雅とは蕉門俳諧で、美の本質をさします)
これは俳句以外のあらゆることに応用できる普遍的な概念です。
時代が変ったのに古くからの法則や方法に縛られていると、国や会社などは衰退してしまうし、変えてはいけない部分を変えてしまうと、あっという間に組織などは滅びてしまいます。
利益優先のために、食品の偽装表示などをして摘発された食品会社などは、食に携わる者としての不易の部分を蔑ろにしたため、あるいは変化に「風雅の誠」となる部分を欠いていたために潰れたと言えるでしょう。
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