https://blog.goo.ne.jp/fc5551/e/02260bcf83319942a679ccdb16d04ecf 【行雲流水】より
お茶の師匠のはからいで、稽古時間を1時間ごとに区切り、各時間2名「一客一亭」の入替え態勢で稽古が再開されました。全員マスクを着用し、八畳間を広く使っての稽古です。ふすまも窓も開け放たれており、爽やかな風が稽古場を通り抜けて行きます。「行雲流水」の掛軸、床柱には備前焼の「旅枕」花入から卯の花(ウツギ)が可憐に顔をのぞかせています。
卯の花を かざしに関の 晴着かな
芭蕉の弟子の曾良が、白川の関で詠んだ句です。真っ白な卯の花に、白い茨の花が寄り添っていて、まるで雪の中(関所)を越える心地がすると、そのときの様子を「おくのほそ道」が伝えています。昔の人が冠を正し、衣装を改めて関所を通ったように、卯の花を髪飾りにして装いを改めれば、関所を越える先人たちの晴れ着のようだと曾良は詠んでいます。いにしえの旅の空へ、想いをいざなう秀句です。
茶室のしつらえは、芭蕉と曾良二人道中の、長い長い旅を想像させる演出でした。思えば多くの「関」が人の往来を阻んでいるなか、こうやって二人一組ながら稽古に集うこともできました。真っ白な卯の花をかざすのではなく、白いマスクを付けてはいますが。
「行雲流水」の禅語は、空を行く雲や流れる水のように、何かに執着することなく淡々と生きる様子を表しています。ここから修行僧が「雲水」と呼ばれたりする所以です。不自由な生活を強いられる今こそ、失ったものの数を数えるのではなく、新しい生活として素直に受け入れる心構えが必要なのでしょう。
坂口安吾の作品『風と光と二十の私と』には、「行雲流水」の語が頻出します。小学校の代用教員時代の安吾は「行雲流水」を旨として生きており、太陽の光を浴びながら風に吹かれて、麦畑のなかを歩くのを無上の喜びとするような青年でした。しかし、安吾はそれを目指すべき到達点や、失われてしまった純粋さとは描いていません。それは空虚な無欲さであり、これから鍛えられるべき可塑体のようなものです。安吾が麦畑や森のなかを歩いているうち、自分と自然との境目が無くなるような気がして、もうひとりの自分が、木の茂みや土肌になって、安吾に向かって話しかけるのです。
彼等は常に静かであった。言葉も冷静で、やわらかかった。彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。
コロナ禍のもと、少しばかり不自由に慣れたからといって「行雲流水」の境地にたどり着いたと思うのは、おこがましい限りなのかもしれません。むしろ、ここから私たちは自らを鍛え、変わっていかなければならないという、静かな決意が必要なのではないでしょうか。災厄がひとまず過ぎ去ったとき、ほんとうに元のままの生活を望んでいるのかという問いも、そこには欠かせないのだと思います。
白川の関を越えること、それはほんの旅の始まりに過ぎません。これから長い長い旅が始まり、更なる困難がわたしたちを鍛え、それが、ほんとうの意味での「新しい生活」をもたらすのではないかと思います。
https://ameblo.jp/dream-worker/entry-10302940253.html 【「 不易流行 」 と 「 行雲流水 」】より
ある2つの素晴らしい言葉を知ったので皆様にもご紹介したいなと想います♪
前花王会長・常盤文克氏の座右の銘として「 不易流行 」 と 「 行雲流水 」という言葉を知りました。「 不易流行 」(ふえきりゅうこう)というのは、あの松尾芭蕉の言葉として伝えられています。変わらない基本を大切にしつつ、同時にその時々の移り変わりに鋭く目を向けるということです。
「 行雲流水 」(こううんりゅうすい)とは、空を行く雲、流れる水のように物事に執着することなく、物に応じ事に従って行動することです。
変化を率直に受けとめ、つまり変化に逆らわず変化とともに生きようということです。
この2つの言葉は、人の人生においても、ビジネスという観点においても当てはまるのではないでしょうか(*^-^*)
会社の理念や人の想いというのはビジネスの形態、業種が変化しようとも変わらないものとして土台にありつつ、常に時代の流れ・変化を読み取り、過去や現状に固執することなくそれらに応じたビジネスを展開していくこと。大切な2つの言葉だなと感じました (略)
https://www.fujingaho.jp/lifestyle/a69694/kouunryusui-160829/ 【禅僧 松山大耕の生きるヒント 行雲流水 】 より
[こううんりゅうすい]雲が大空を行くように、水が流れるように。立ち止まらず、何事にもとらわれず、さらさらと自由自在に動く様子
京都は修行の街ですから、修行僧の皆さんが練り歩き、托鉢をされている姿をよく見かけます。禅宗では修行僧のことを雲水と呼びますが、それはこの「行雲流水」という禅語からきています。
大空を自由に行きかう雲のように、高いところから低いところによどみなく流れる水のように。何事にもとらわれず、執着せず。退蔵院にもよく雲水さんたちが托鉢の合間に休息に来られますが、姿を見るだけですがすがしい気持ちになります。自分が僧堂で修行していた時代を思い出しながら、いつまでもかくありたいと思う、今日この頃です。
https://blog.goo.ne.jp/idomori28/e/91d556705828572aa5e198d36e44dd29 【大事なことから忘れなさい 迷える心に効く三十の「禅の教え」】 より
禅の本を読み進めていますが、今までで一番理解しやすい本に出会えました。京都・妙心寺退蔵院副住職の松山大耕氏の『大事なことから忘れなさい』です。松山氏は妙心寺生まれで、東京大学出身。禅を海外に発信し、外国人への禅指導は自ら英語で行い、政府観光庁「Visit Japan 大使」、 京都市「京都観光おもてなし大使」に任命され、海外での講演もされています。
本書では禅の真髄を誠に簡単に書かれています。まず、禅とは、その漢字を分解すると、
「単」を示すとなり、シンプルを目指す教えであり、その特徴を3つに集約されています。それは
①とらわれない、まっさらな澄み切ったこころ
②不要なものを極限にまで削ぎ落とし、あるべき本来の姿に向かう
③言葉よりも実践を重んじる
です。
例えば、本書の書名の「大事なことから忘れなさい」ということは、一流になるには、大事なことは「型」を習得することが必要ですが、型にこだわると「型」に執着し、自らのオリジナルが発揮できなくなります。「型」を一つ一つ集中し、量をこなし、「型」を意識せずとも実践できるようになると、一流の域に達するのです。「守破離」に通じますね。
過剰に商品や情報が氾濫し、そして、欲望を煽る現在、やはり、禅(ZEN)に人気が上がるのは頷けます。
https://ameblo.jp/mayuyano/entry-12002682127.html 【大事なことから忘れなさい】より
人間は煩悩の塊です、『大事なことから忘れなさい』この言葉のように、日々安らかな気持ちになりたいものだと思っても、ついつい愚痴がでてきてしまいます。昨日、京都妙心寺の退蔵院でふと目についたのがこの言葉でした。
右ほとけ 左はわれと 合す手の 中ぞゆかしき 南無のひとこえ
現代のわれわれにとって合掌ということが、毎日できにくいことの一つになっているのではないでしょうかね…毎日、仏壇に手を合わせることも含めて。
右ほとけ、とは、尊厳なるいのちに目覚め得た表白であり、左はわれ、とは、わが懺悔でもありましょうか。合す手、とは、純粋なわがいのちへの感謝と、わが懺悔の自覚であり、厳粛なるいのちを生きる喜びの行為でもありましょうか…
そういえば、もうお彼岸の入りでしたね…21日にはご先祖様のお墓参りにいってまいります。
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