行脚(あんぎゃ)

https://housenji-zen.jp/monosiri020/  【行脚(あんぎゃ)】 より

 政治家が不祥事を起こした時など、「選挙区にもどって“おわび行脚”をした」といったニュースが報道されることがあります。この行脚という言葉は、もともと禅のお坊さんが、修行のため、諸国を徒歩で遍歴することを言いました。

 お釈迦さまの時代、お坊さんは、一カ所にとどまることはなく、様々な場所を歩き回って、生活をしていました。特にお釈迦さまと弟子達は、托鉢と布教をしながら、教えを広めながら、行脚して暮らしていたのです。

 また、日本では禅宗の修行僧のことを「雲水」と呼ぶことがありますが、これは、「行雲流水」という言葉の略語です。空を漂う雲のごとく、川を流れる水のごとく、物事にこだわらないで、自然の成り行きに任せて生きていくという意味で、修行僧がいろいろな場所を行脚しながら暮らしていることから、「雲水」と呼ばれるようになったのです。

 江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉は、『奥の細道』で、次のような一文を書いています。

「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ(今年は元禄二年だとか。このみちのくへの行脚も、ただなんとなく思いついたまでのことだった。が、たとえ旅の苦しみにこの髪が白髪に変じようとも、話に聞くだけで未だこの目で見たことのない土地をぜひ訪ねてみたい)」

 芭蕉は、僧侶の姿をして旅をしていましたが、出家したという記録はありません。ただ、江戸・深川に住んでいる時に、仏頂禅師と親交を持ち、それがきっかけで、禅に親しんでいたとも言われています。芭蕉の中では、どこか、僧への憧れのようなものがあったのかもしれません。

 『奥の細道』での芭蕉の行脚は、約600里(2400キロメートル)だと言われています。これを150日かけて歩くわけですが、芭蕉のこの旅は、空を漂う雲のごとく、川を流れる水のごとく、まさに「行雲流水」の行脚でした。

 旅というものは、それがどんな旅であっても、どこかに「行雲流水」といった一面があります。それは現代の私たちの旅であっても、同様なことが言えます。

 日常から離れ、しばし「こだわり」や「執着」を忘れることができたら、それが私たちの行脚なのだと言えるでしょう。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12519696961.html 【松尾芭蕉 行脚掟(あんぎゃのおきて)】 より

たび寝して我句をしれや秋の風       松尾芭蕉

(たびねして わがくをしれや あきのかぜ)

芭蕉については、これまでいろいろ勉強してきたつもりだが、まだ知らないことは多い。

芭蕉には「行脚掟」(あんぎゃのおきて)というものがあることを、つい最近知った。

「行脚」とは「旅」と考えていい。弟子たちに「旅の心得」を述べたものらしい。

どこに出典があるのかわからないし、どういう内容なのかもわからない。

ネットで、その断片を見つけた。

・一宿なすとも故なきに再宿すべからず、樹下石上に臥すとも、あたためるむしろと思うべし。

・腰に寸鉄たりとも帯すべからず、凡てのものの命をとることなかれ。

・衣類器財相応にすべし、すぎたるはよからず、足らざるもしかず、ほどあるべし。

・主あるものは、一枝一草たりとも取るべからず、山川江沢にも主あり、つとめよや。

・山川旧跡親しく尋ね入るべし、特に私の名をつくることなかれ。

・船代茶代を忘するべからず。

・夕を思い旦を思うべし。

―日本ボーイスカウト山口県連盟HPよりー

これをわかりやすく直してみたい。

・理由もなく同じところに、安易に連泊してはいけない。

 森や路傍など、たとえどんなところで夜を明かしても、暖かな莚に寝ていると思いなさい。

・短刀なども持ち歩いてはいけない。あらゆる命を奪ってはいけない。

・服や道具の用意は分相応にしなさい。

 多すぎてもよくない、少ないのもよくない、ほどほどにしなさい。

・所有者がある草木は一枝も、一房も取ってはいけない。

 山や川、渓谷にも所有者がいるので注意しなさい。

・山や川、名所には親しみをもって分け入りなさい。自分勝手にふるまってはいけない。

・乗船代、お茶代をケチってはいけない。

・夕ぐれになった場合のことを考え、明朝の予定をしっかり考えなさい。

これは「原文」から私が推察したもので、細かいニュアンスは間違っているかもしれない。

しかし、まあ、大筋はこういうことではないか。

一番気になるのは、一宿なすとも故なきに再宿すべからずつまり「連泊」を戒めている。

それは何故だろう。

常に旅を進めろ、滞らせるな…、という意味であろうか。

今後もこの「掟」を調べ、考えてゆきたい。


https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/201903270008/?scid=wi_blg_amp_pagehead_pre 【素堂、芭蕉追善句文】より

(刊行年による) 『枯尾花』元禄七年(1694)深草のおきな宗祇居士を讃していはずや、友風月家旅泊芭蕉翁のおもむきに似たり。旅の旅つゐに宗祇の時雨哉雲水の身はいづちを死所 『翁草』元禄九年(1696)頭巾着て世のうさ知らぬ翁草 『陸奥鵆』元禄十年(1697)亡友芭蕉居士、近来山家集の風体をしたはれければ追悼に此集を読誦するものならし。あはれさやしぐるる比の山家集 『柱暦』茶の羽織おもへば主に穐もなし 『続有磯海』元禄十一年(1698)ばせを墓にまうでて手向草二葉秋むかし菊水仙とちぎりしが苔の底泪の露やとどくべし 『芭蕉庵六物』元禄十二年(1699)予が家に菊と水仙の畫を久しく翫びけるが、ある時ばせををまねきて、此ふた草の百草におくれて霜にほこるごとく、友あまたある中にひさしくあひかたらはんとたはぶれ、菊の繪をはなして贈る時、菊にはなれかたはら寒し水仙花 『はだか麦』元禄十三年(1700)芭蕉庵三回忌歎とて□ぞ残る垣の霜   『冬かつら』元禄十四年(1701)ことしかみな月中の二日、芭蕉の翁七回忌とて、翁の住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひ入て、堂あれども人は昔にあらずといへるふるごとの、先思ひ出られて涙下りぬ。空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、猶人がらのなつかしくて、人々句をつらね、筆を染て、志をあらはされけり。予も又、ふるき世の友とて、七唱をそなへさえりぬ。其 一くだら野や無なるところを手向草其 二像にむかひて紙ぎぬに侘しをまゝの佛かな其 三像に声あれくち葉の中に帰り花其 四翁の生涯、風月をともなひ旅泊を家とせし宗祇法師にさも似たりとて、身まかりしころもさらぬ時雨のやどり哉とふるめきて悼申侍りしが、今猶いひやまず。時雨の身いはゞ髭なき宗祇かな其 五菊遅し此供養にと梅はやき其 六形見に残せる葛の葉の繪墨いまだかはかぬがごとし。生てあるおもて見せけり葛のしも其 七予が母君七そじあまり七とせに成給ふころ、文月七日の夕翁をはじめ七人を催し、万葉集の秋の七草を一草づゝ詠じけるに、翁も母君もほどなく泉下の人となり給へば、ことし彼七つをかぞへてなげく事になりぬ。七草よ根さへかれめや冬ごもりといふものはたそや武陽城外葛村之隠素堂子也 『そこの花』元禄十四年(1701)芭蕉の塚に詣して志賀の花湖の水それながら 『きれぎれ』芭蕉塚にて志賀の花湖の水それながら 『渡鳥集』芭蕉居士の舊跡を訪志賀の花湖の水それながら 『追鳥狩』此句粟津翁塚に手むけぐさとなん夢なれや梅水仙とちぎりしに 『三河小町』元禄十五年(1702)ちからなく菊につゝまるばせをかな 『木曾の谷』宝永 元年(1704)あはづ芭蕉塚にて志賀の花湖の水それながら 『千句塚』しぼミても命長しや菊の底 (前書、本文参照) 『誰身の袖』去来丈追善の集編せらるゝのよし傳へ聞侍りて、風雅のゆかりなれば、此句をあつめて牌前に備ふ。元察子執達給へ。枯にけり芭蕉を学ぶ葉廣草 『東山萬句』宝永 三年(1706)前のとしの春ならん湖南の廟前に手向つる句をふたゝびこゝに備るならし。志賀の花湖の水それながら

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