http://yourei.jp/%E7%84%A1%E5%AD%A3%E4%BF%B3%E5%8F%A5【無季俳句】 より
坪内稔典は同年の論考「季節と俳句」で、今日の無季俳句は季語が洗練されていくことへの一種の警鐘として意味がありそうだと書いている。以下、昭和末期以降の無季俳句を現代の作例として挙げる。雨の朝のたましいにパセリを添えよ 池田澄子 魚くさい路地の日だまり母縮む 坪内稔典 階段を濡らして昼が来ていたり 攝津幸彦 山嶺に弓なりの木木 栄光!
一方富澤を師とする高柳重信は、多行俳句の実践などによって言語芸術としての俳句表現を志向した。前衛俳句運動はこの二者を中心として展開し、内面意識の表現や新たな詩的感覚を目指す中で折々に無季俳句が作られていった。金子兜太を中心とする流れの中には堀葦男、林田紀音夫、島津亮、八木三日女などの俳人がおり、高柳重信に近い立場の俳人には他に赤尾兜子、加藤郁乎などがいた。
近代俳句史においては、無季の問題は明治末期から大正期にかけての新傾向俳句運動、昭和初期の新興俳句運動、昭和30年代の前衛俳句運動という三つの俳句革新運動において提示され、時代ともに深まりを見せている。今日の俳壇においても、無季俳句に対する立場は個々の俳人や結社・師系などにより様々である。俳句は俳諧の発句が独立して読まれるようになったことから成立した形式であるが、鎌倉時代に成立した連歌においては、発句には必ず季語を入れるべきものとされていた。
三橋敏雄に強い影響を受け私淑のち師事した俳人に池田澄子、遠山陽子、三橋孝子、沼尻玲子などがいる。戦後も無季俳句の好題である戦争にこだわり続けた。代表的な句に「かもめ来よ天金の書をひらくたび」「いつせいに柱の燃ゆる都かな」「戦争と畳の上の団扇かな」などがある。
宇多喜代子は1997年「ただ今の無季俳句」という文章で、かつて有季俳句と無季俳句との間にあった二項対立的な関係が現代の俳句では薄れていると指摘した。またその一方で現代の生活の中で伝統的な季語に対する実感が薄れて季語が虚構化しているとし、そのような虚構化された季語で作られた俳句はもはや無季俳句なのではないか、と述べた。坪内稔典は同年の論考「季節と俳句」で、今日の無季俳句は季語が洗練されていくことへの一種の警鐘として意味がありそうだと書いている。
江戸時代には十七文字と呼称され、現代では十七音とも表記される。和歌や連句の発句と同様に、俳句は発生の時点で無季の作品も存在しており、無季俳句といわれる。有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句もある。
上記のように俳壇の主流を占めていた「ホトトギス」の伝統俳句に対し、1931年の水原秋桜子の「ホトトギス」離反を始点として、反伝統・反「ホトトギス」を旗印とした新興俳句運動が起こる。当時の青年層を中心とした新興俳人たちは「ホトトギス」にはない近代的な叙情の表現や社会性の表現を目指し、一句では表現できない主題を連作俳句によって表現しようとしたが、このような連作において同一季語の重複を避ける意識から無季俳句が現われはじめた。こうした動きの中、「天の川」主宰の吉岡禅寺洞は1934年にいち早く無季俳句の容認を宣言し、以後無季俳句は新興俳句の主要な特色のひとつとなっていった。
俳句形式に最もふさわしい主題は、と問うて、たとえば高浜虚子は花鳥諷詠という答えを出した。しかし現代社会に生きる者としてはそれでは飽き足らないと考え、都市生活の諸環境に新しい題材を求め、社会的現実を俳句形式によって内面化し、端的にその本質を表現しようと努めたのが、昭和十年代前半の新興無季俳句運動だった。白泉はその代表者の一人。
大岡信『名句歌ごよみ[恋]』
またその一方で現代の生活の中で伝統的な季語に対する実感が薄れて季語が虚構化しているとし、そのような虚構化された季語で作られた俳句はもはや無季俳句なのではないか、と述べた。坪内稔典は同年の論考「季節と俳句」で、今日の無季俳句は季語が洗練されていくことへの一種の警鐘として意味がありそうだと書いている。以下、昭和末期以降の無季俳句を現代の作例として挙げる。
「天の川」と「傘火」を拠点にして新興俳句運動の一翼に参じた。花鳥諷詠に終始する俳句を否定し、俳句に何より必要な物は詩魂のはばたきであるとして無季俳句を推進。代表句「しんしんと肺碧きまで海の旅」は無季俳句の存在と可能性を俳壇に知らしめた先駆的作品で、有季派であった水原秋桜子をして鳳作を無季陣最高の俳人と言わしめた。
自由主義の主張のもと実作・理論の両面の向上を唱え、新興俳句運動の中心誌として無季俳句や戦争俳句が多く載った。しかし反戦的な内容から、1940年2月から8月にかけて静塔、白文地、白泉、辰之助、三鬼ら編集関与者14名が治安維持法違反として次々特高警察によって検挙される。
これ以降「俳句」の語が一般に用いられるようになった。季語や季感を持たない無季俳句や、定型からの自由を目指す自由律俳句も、詩感の追求という点で共通するため俳句に含むのが一般的であるが、それらを俳句と認めない立場も存在する。また、英語などの非日本語による3行詩も「Haiku」と称される。
他方に山口誓子による、映画理論にヒントを得たモンタージュ式の連作があり、追随して連作俳句をつくる俳人たちの間で両者が議論された。またこのような連作俳句の中から無季俳句を作る流れが登場するが、秋桜子自身は一貫して無季俳句を否定する立場を取り、新興俳句運動の急進的な立場からは距離を置いた。やがて連作俳句自体も、一句の独立性を弱めると考えるようになり廃止することとなった。
戦後になると俳文学者の潁原退蔵らによって無季俳句の学問的裏づけがなされ、俳句が季語を要するという考えが連歌の約束ごとに由来するもので、俳句形式にとって本来必須の要件ではないといったことが説かれた。実作においては初期には富澤赤黄男らを中心とした「太陽系」「薔薇」などで展開されたが、無季俳句の議論が深まるのは昭和30年代の前衛俳句運動においてである。
他に「蟻よバラを登りつめても陽が遠い」などの句が知られ、青春性を湛えた句風であった。沖縄県在住時に鳳作は、沖縄は常夏の国で季節感がなく俳句を作るのに苦労すると、手紙で吉岡禅寺洞に相談したところ、俳句は季がなくても作れるので気にしないようにと返事があったため、無季俳句の道に進む本格的な決心をしたという。
こうした中で、昭和22年に石田波郷の提言で、「表現の自由を前提とする現代俳句の向上」を創立目的として結成されたのが現代俳句協会である。しかし、無季俳句や前衛俳句を認める派と、伝統俳句を堅持する派との相違が激しくなり、昭和36年に分裂。伝統俳句陣営は社団法人俳人協会を設立した。
こうした動きの中、「天の川」主宰の吉岡禅寺洞は1934年にいち早く無季俳句の容認を宣言し、以後無季俳句は新興俳句の主要な特色のひとつとなっていった。新興俳人たちの中でも無季に対する立場はさまざまであり、例えば連作を積極的につくり無季俳句が注目されるきっかけをつくった秋桜子や山口誓子たちは無季俳句を認めない立場をとっている。一方無季俳句を作った新興俳人たちも、その立場は一様ではなかったが、季語があってもなくてもよく、題材の季感の有無に応じて有季と無季を使い分ける「無季容認派」、季語や季感の有無を問わず句の詩感を第一とする「超季派」に大きく分かれる。
明治時代に俳句の近代化を行った正岡子規は、十七字という俳句の短さに対して、季語によって起こる四季の連想が重要な役割を果たすと考えた。子規の考えを受け継いだ高濱虚子は、俳句の主題は四季を反映した自然であるべきことを説き、無季俳句に対して厳しい態度を取ったが、昭和初期に起こった新興俳句運動は都会や戦争など社会的素材を扱い積極的に無季俳句を容認した。明治時代に西暦が導入されると、旧暦の季節感と西暦の季節感とのずれが生ずることになった。
昭和初期の新興俳句運動において無季派の俳人として活躍。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」など、戦争の本質を鋭く突いた「銃後俳句」と呼ばれる無季俳句が特に知られる。
戦後になると俳文学者の潁原退蔵らによって無季俳句の学問的裏づけがなされ、俳句が季語を要するという考えが連歌の約束ごとに由来するもので、俳句形式にとって本来必須の要件ではないといったことが説かれた。実作においては初期には富澤赤黄男らを中心とした「太陽系」「薔薇」などで展開されたが、無季俳句の議論が深まるのは昭和30年代の前衛俳句運動においてである。もともと社会性俳句の流れの中にいた金子兜太は、「創る自分」と呼ぶ主体意識を明確にしながら暗喩的なイメージを獲得することを説き、現代社会に生きる人間の表現を目指した。
当時寺田寅彦がすでに連句や発句における取り合わせと関連付けてモンタージュを論じていたが、誓子はこれに影響を受け、写生によって得た素材に知的操作を加えて世界の創造を行うという自身の「写生構成」論に援用した。都会的素材や連作俳句は新興俳句運動において後進に波及し、その中から無季俳句を作る流れも出てくるが、秋桜子と同様誓子も無季俳句からは距離を置いた。戦後は病気療養や新興俳句弾圧、敗戦などの経験を経て、自然物との対峙によって己を確かめるような句風に変化。
花鳥諷詠に終始する俳句を否定し、俳句に何より必要な物は詩魂のはばたきであるとして無季俳句を推進。代表句「しんしんと肺碧きまで海の旅」は無季俳句の存在と可能性を俳壇に知らしめた先駆的作品で、有季派であった水原秋桜子をして鳳作を無季陣最高の俳人と言わしめた。他に「蟻よバラを登りつめても陽が遠い」などの句が知られ、青春性を湛えた句風であった。
大学時代の1933年、水原秋桜子の『俳句の本質』に啓発されて「馬酔木」に投句、翌年より「句と評論」にも投句。後者で頭角を現し、実作のほか無季俳句論など評論でも活躍、新興俳句の新鋭として認知される。大学卒業後は三省堂に勤務。
近世に成立した俳諧においては、連歌の約束事を継承し、発句には必ず季語を入れるべきものとされる一方、連句の座を離れた場においては無季の発句もしばしば作られていた。近代になって独立した発句を俳句と呼ぶようになるが、「ホトトギス」を長く主宰した高浜虚子は、花鳥諷詠を俳句の本質として唱えて無季俳句を排斥し、俳句は季語を含むべきものとする伝統俳句の考えを普及させた。近代俳句史においては、無季の問題は明治末期から大正期にかけての新傾向俳句運動、昭和初期の新興俳句運動、昭和30年代の前衛俳句運動という三つの俳句革新運動において提示され、時代ともに深まりを見せている。
新興俳句運動の流れの中、先達の高屋窓秋や篠原鳳作に傾倒しつつ無季俳句の可能性を追求。評論「季語の作用と無季俳句」では古来の伝統俳句にまで遡って季語の作用を分析、無季俳句を「季感を有せず、季語を有する」句と「季感を有せず、季語を有せざる」句の二種とし、季語の有無によらない超季派としての認識を明らかにしている。
「ホトトギス」の沈滞期に若々しく新鮮な感性を持って登場し、同誌ではのちの「4S」の先駆けとも言える役割を果たした。初期の句は写生の基礎をしっかりとふまえつつ、華美な作品世界を構築、「ホトトギス」離脱以降は自ら無季俳句や連作俳句によって現代の世相やフィクションを取り入れた句を積極的に作り、病を得て以降は一転して穏やかな日常のなかに見出す喜びや悲しみを詠んだ。山本健吉は草城を「極端な早熟型の極端な晩成型」と評し、初期・中期に対して後期の作品を評価している。
「セレベスに女捨てきし畳かな」など、 無季俳句の実践から前衛俳句運動にいたる大阪の戦後俳句と歩みをともにした。
この新運動は連作俳句に積極的に取り組み、金児杜鵑花によって、「新興俳句」の名称を与えられた。しかし連作俳句中の個と全、季語の有無が問題となり、無季や超季の容認まで行われるに及んで、秋桜子、誓子は無季俳句批判を行い1936年ごろよりこの運動から離れた。これ以降を後期と呼ぶ。
秋元不死男は昭和十年代半ば「俳句事件」で検挙され、二年間獄中で過ごした。この事件は、無季俳句の唱導は無政府主義に通じる、などの理不尽極まる理由で、新興俳句系俳人が大量検挙された事件である。作者は戦後、記憶をたどって百数十句の獄中吟を詠んだ。
大岡信『名句歌ごよみ[冬・新年]』
その後の1989年、金子兜太編による『現代俳句歳時記』に「無季・ジュニア」の部が作られ、また高柳重信を師とする夏石番矢は、季語による俳句に替わるものとして「キーワード俳句」を提唱、1996年に『現代俳句キーワード辞典』を編んだが、前衛俳句運動以降は無季俳句をめぐる大きな動きは起こっていない。宇多喜代子は1997年「ただ今の無季俳句」という文章で、かつて有季俳句と無季俳句との間にあった二項対立的な関係が現代の俳句では薄れていると指摘した。またその一方で現代の生活の中で伝統的な季語に対する実感が薄れて季語が虚構化しているとし、そのような虚構化された季語で作られた俳句はもはや無季俳句なのではないか、と述べた。
ヤマトタケルが東征の帰途、傷ついた体を剣を杖代わりにして支えながらこの坂を登ったという伝説を踏まえる。無季俳句は、季語を持たない俳句のこと。また季語はあっても季感を持たない俳句や、季語の有無を問わず詩感を第一義とする俳句を含めることもある。
新興俳人たちの中でも無季に対する立場はさまざまであり、例えば連作を積極的につくり無季俳句が注目されるきっかけをつくった秋桜子や山口誓子たちは無季俳句を認めない立場をとっている。一方無季俳句を作った新興俳人たちも、その立場は一様ではなかったが、季語があってもなくてもよく、題材の季感の有無に応じて有季と無季を使い分ける「無季容認派」、季語や季感の有無を問わず句の詩感を第一とする「超季派」に大きく分かれる。前者は日野草城や吉岡禅寺洞、後者は富澤赤黄男や篠原鳳作が代表的な俳人である。
俳句にとって、季語は大きな役割がある。季語を必ず入れなければならないとする有季派から、季語よりも季感が大切とする「季感」派、無季でもよいとする無季容認、無季俳句が旧来の俳句的情趣を打破するという「無季」派まで、様々な考え方がある。
その少し前の1933年、勝目楓渓、浜田海紅らとともに同人誌「傘火」を創刊しており、鳳作の無季俳句によって全国にその名を知られた。
新興俳句運動の流れの中、先達の高屋窓秋や篠原鳳作に傾倒しつつ無季俳句の可能性を追求。評論「季語の作用と無季俳句」では古来の伝統俳句にまで遡って季語の作用を分析、無季俳句を「季感を有せず、季語を有する」句と「季感を有せず、季語を有せざる」句の二種とし、季語の有無によらない超季派としての認識を明らかにしている。仁平勝は、窓秋、鳳作や富澤赤黄男といった無季派の俳句が近代詩のレトリックに近づいたのに対して、白泉の句は題詠の方法を季語以外の題に適用することで成っていると論じている。
当時の青年層を中心とした新興俳人たちは「ホトトギス」にはない近代的な叙情の表現や社会性の表現を目指し、一句では表現できない主題を連作俳句によって表現しようとしたが、このような連作において同一季語の重複を避ける意識から無季俳句が現われはじめた。こうした動きの中、「天の川」主宰の吉岡禅寺洞は1934年にいち早く無季俳句の容認を宣言し、以後無季俳句は新興俳句の主要な特色のひとつとなっていった。新興俳人たちの中でも無季に対する立場はさまざまであり、例えば連作を積極的につくり無季俳句が注目されるきっかけをつくった秋桜子や山口誓子たちは無季俳句を認めない立場をとっている。
同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こった。昭和10年代に入ると、新興俳句の主張は素材論にすぎないとし、俳句は「我はいかに生きるか」という意識を深めるべきものとする「人間探求派」というべき主張が起こった。
しかし次第に有季定型・花鳥諷詠から離れるようになり、九大俳句会を中心として新興俳句運動に関わるようになったため、1936年に「ホトトギス」を除名。戦後は有季定型・文語俳句と訣別し、口語・自由律・無季俳句を推進、「天の川」は自由律俳句の拠点のひとつとなった。口語俳句協会の会長も務めている。
この頃、息子の洋一が早稲田大学に進学、『早稲田俳句』を立ち上げ中心人物として活躍した。虚子の門弟らは青峰のこの行動を「恩ある虚子に弓を引いた」と考え、水原秋桜子は自身の主宰する雑誌『馬酔木』において「天地眼前にくずるるとも無季俳句を容認すべきではありません」と10歳年上の青峰に忠告を発した。そして1930年に、青峰は『ホトトギス』同人から除名された。
「ホトトギス」で学んだ後、「旗艦」を創刊、女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導。戦後は「青玄」を創刊・主宰し一転して静謐な句を作った。
「ホトトギス」除名後は無季俳句を積極的に唱導、自らもエロティシズムや無季の句をつくり新興俳句の主導的役割を担う。戦後の1946年に肺結核を発症、1949年に退職して以後の10数年は病床にあり、これまでの新興俳句とは別種の静謐な句をつくった。
前衛俳句運動は難解化・抽象化に対する批判、前衛俳人同士の対立が起こったこともあり、やがて俳壇に起こった伝統回帰の流れの中で収束していった。その後の1989年、金子兜太編による『現代俳句歳時記』に「無季・ジュニア」の部が作られ、また高柳重信を師とする夏石番矢は、季語による俳句に替わるものとして「キーワード俳句」を提唱、1996年に『現代俳句キーワード辞典』を編んだが、前衛俳句運動以降は無季俳句をめぐる大きな動きは起こっていない。宇多喜代子は1997年「ただ今の無季俳句」という文章で、かつて有季俳句と無季俳句との間にあった二項対立的な関係が現代の俳句では薄れていると指摘した。
無季俳句で有名。
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