「俳人・金子兜太の戦争」を語る ②

http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51565322.html 【詩人・原満三寿「俳人・金子兜太の戦争」を語る(20)】より

  日本の陰湿でうらぶれた風土やさびしい人情が、日本人を戦争へ追いやる根っこにあることを光晴はするどく見抜いております。戦争反対をシュプレヒコールのように声高に叫ぶよりは、こんな句が戦争句として増えることを願っています。

  それにつけても思います。兜太の反戦には、数え切れないほどの賛同者がいますが.金子光晴の反戦は、孤立無援の、一億二心の戦いであった、といまさらに思います。

  次の句は、

    麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな    『詩経國風』

  この句は.旬集『詩経國風』に収録されております。ご存知のように『詩経』は中国最古の詩集ですが.その中の詩に呼応して詠んだ句を収録したものです。これは,すでに小林一茶がやった手法で,それを兜太が倣ったものです。ちなみに一茶は、一般にはあまり知られていませんが.大変な勉強家で、日中の古典をずいぶん学んでいます。

  この句も兜太は代表句の一つにあげていますが.私にとっても思い出の一句です。

  兜太の自句自解はこうです。

  「麦秋の野面は、夜ともなれば黒焦げの感じで、そのひろがりは不気味でさえある。私は原爆を投下された広島、長崎を直ちに想い、戦時中そこにいて、戦場の惨状を体験した赤道直下のトラック島を思っていた。二度とあんな悲惨なことがあってはならないとの願い。」と。

  「海程」には、兜太六十歳の時から始められた秩父俳句道場というのがありました。秩父山腹にあった民宿を借り切ってのもので、年に二、三度、二泊三日の入間と俳句を磨く鍛錬会でした。毎回三十人前後が参加します。句は、そこで披露されたものです。

  この句は評価が分かれました.私などは、「黒焦げ」を戦争の比喩とは見ず、また「あるな」を感嘆符ととり、否定の言葉とは受け取れませんでした.ですから戦争句と撰をした人と、私のように戦争句にとれなかった人で意見がわかれました。そのことで兜太とやりあったことが、なつかしく想いだされます。

  余談ですが、この俳旬道場での兜太の想い出を二つ話します。

  一つは.句はおぼえていないのですが、合評会でのある句に、ある人が「小市民的」という評をすると、兜太は、厳しい声で,「小市民なんていう言葉は無い」、と断言したことです。兜太の生きる姿勢をみた思いがしました。

  二つ目は、朝早く兜太と私が山路を散策していたとき、農作業をしている夫婦を見て、兜太は「この辺の農家の夫婦はみなとても仲がいい。もっとも農業は仲がよくなきゃできない仕事なんだよ。」といって、その作業振りをじっと見つめていたこと。そして、その道筋に咲きはじめた花がマンサクであること、春に先駆け「まんず咲く」ことからきていることなどを教えられました。以来マンサクを見るたび、そのことを想いだします。


http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51565550.html 【詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(21)】より

   さて、その後の「核なくせ」などの五つの戦争句、

核なくせ波濤崩れるは秋の怒り

霧の街われには未だ戦後果てず

薄氷に米国日本州映る

父の好戦いまも許さず夏を生く

左義長や武器という武器焼いてしまえ

 これらは、どれも従来の兜太の戦争句と比べて、精気のない俳旬と思いませんか。映像よりはメッセージが全面にでてきて、表現としても味わいが無いと思います。

  戦争句以外でも、この辺が兜太の人と俳句が変容を見せ始めたと思っております。

  戦争句の最後に、をとりあげます。最晩年の句集『日常』に収録された一句

被曝の人や牛や夏野をただ歩く

  兜太の自句自解はこうです。

  「東北大震災の時,被曝の人や牛がただ黙々と歩いていく。その夏野を歩く人たちの姿が鮮明に映像として残っている。」

  この自句自解で兜太は、夏野の風景が、「鮮明に映像として残っている」といます。兜太の句で成功している句は、ほとんどが映像が鮮明に像を結んだときなのです。この句には原発への批判が、人や牛や夏野の閑かな営みをもって描かれ、そのことが反原発の強いメッセージとなっているのです。

  以上、兜太の戦争句について見てきましたが、最後に「存在者・兜太について」お話ししてみます。

ーーー(原満三寿氏2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)


http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51565575.html 【詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(22)】 より

   ーー 存在者・兜太についてー

  兜太のはつらつとした俳句が騎りを見せはじめたのは、兜太が主宰になるとき宣言した「運動体から存在体へ」の転換が始動した頃からだと考えられます。

  兜太は、自分を支えたものが三つあるといい、それらがいずれもルサンチマンからきていることは既に述べましたが、私には、兜太を支えたルサンチマンではない四つ目のものがあるとみます。それは小林一茶の存在です。

  兜太はしきりに「私は存在者だ」といいます。特に晩年から次第に強調されてゆき、『存在者金子兜太』(藤原書店〉などという題の本まで現れます。

  存在者というとき、兜太のなかで二人の存在者がいたと私は考えます。仮に存在者Aと存在者Bとします。

存在者Aは、日銀での冷や飯時代の最下層のヒエラルキーであった反動であるかのように、俳壇のヒエラルキーの頂点を目指す存在者になっていったことです。

  そして名誉と権威をつぎつぎ実現していき、俳壇のトップに上り詰めた存在者。さらに、特定秘密保護法なんかが国会を通過してからにわかにきな臭くなった世相に警鐘をうちならし.大衆的人気者にもなっていった存在者。驚くほど多くの句碑を建て.故郷秩父にも十二基もの句碑を建てた存在者、いずれもがこの存在者Aであったでしょう。

  その結果、存在者Aは、超多忙になって、俳句に於いても晩年頃から前衛俳句の時のようにじっくり推敲し.映像を造る作晶よりは、即吟による句が多くなった。ならざるを得なかった。

  即吟で自在になった好句もありますが、痩せた句も多くなっていったのです。「おれは造型と即吟の二刀流だ」などと放言していますが、いかがなものでしょうか。

  もう一人の存在者Bは.中年の頃より兜太に強い影響を表しはじめた小林一茶と共鳴する存在者です。

  兜太と一茶の関係は、簡単には収まりませんが、そのエッセンスを述べてみます。

  資料の三頁をご覧ください。兜太は、「存在者」をこうとらえております。

  「私は『存在者』というものの魅力を俳句に持ち込み、俳句を支えてきたと自負しています。存在者とは『そのまま』で生きる人間。いわば生の人間。素直にものを言う人たち。存在者として魅力のないものはダメだ。これが人間観の基本です。」と。(朝日新聞平成二十八年)


http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51565674.html 【詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(23)】より

   (承前)ーー 存在者・兜太についてー

  一茶は、熱心な浄土真宗の信者でしたから、その極めるところは,真宗の自然法爾にあったでしょう。自然法爾とは、人為を加えず、あるがままをそのまま受け入れる生き方、思想です。親鷺の晩年の境地といわれます。

  一茶は、真宗の教えに従い、師も弟子も真理を追究する同志であるとし、上下関係を否定して、自由闊達な社中を運営したのです。

  私は、兜太の存在者Bと一茶の自然法爾とは、同じ人間の有り様を言っていると思います。もちろん兜太は一茶の自然法爾を知っていたでしょうが、特定の神仏をもたない兜太は、それを現代風に「存在者」という言酔茱で表現した、と思うのです。

  私は.兜太が多用した<荒凡夫>という表現も、もともとは一茶が「荒凡夫のおのれごとき、五十九年が閲闇(くら)きよりくらきに迷いて、云々」と使ったものですが、兜太は、一茶の否定的な使い方を超えて存在者の肯定的な有り様として使い出した.と考えます。

  それを端的に現したのが資料三頁目の

 「谷間谷間に満作が咲く荒凡夫」だったでしょう。

  さらに一茶の影響をとりあげますと、最晩年の佳作と自他共に認める作に

 「おおかみに螢が一つ付いていた」があります。

  この句ができて兜太は、存在者Bが望んだ秩父のアニミズム的世界での存在者に近づいたと思ったかも知れません。

  また俳壇も世間もこの句を高く評価します。が、この句は資料三頁の一茶の「犬どもが螢まぶれに寝た

りけり」を想起させます。兜太自身もこの句を、「犬たちが寝ている、螢がいっぱいついていて、犬が動くと螢火が波打つ。妖しいうつくしさ」と言っています.

  「おおかみ」の句は構成的には、中年の頃の作である「暗闇や関東平野に火事一つ」と同類でしょう.秩父に昔から伝えられる神話的おおかみの闇と関東平野に銀行マンとして日々雛屈して生きる近代的暗黒との対比、蛍と火事との対比、私には同工異曲に見えるのです。一茶の影響が濃くみられるだけで、最晩年に到達したアニミズム的境地とは言い難いのです。

ーー原三寿氏2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)


http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51565956.html 【詩人・原満三寿「俳人・金子兜太の戦争」を語る(24・完)】より

カテゴリ北一郎の庭

   (承前)ーー 存在者・兜太についてー

  一茶が故郷の柏原で疎まれていたのとは違い、存在者Bはながらく、愛され親しまれた秩父という揺籃の産土へ還りたいと念じていたでしょう。しかし存在者Aが、大衆に面白がられ人気者になってしまったがゆえに、存在者Bと乖離していった。

  もっと言えば、存在者Aを歓迎し、面白がり,執着したのは、まさに兜太本人でもあったであろうということです。ですから、産土秩父のアニミズムの世界への帰還は実現未だしであったと思います。兜太自身もそのこと

にいささか気づいていて、「とにかく、わたしはまだ過程である」と言っていますが.兜太は存在者Aと存在者Bとは、煩悩即菩提であるかのように勘違いしていたのではないかと思うのです、そのことを私は惜しみます。

  最後に私が絶句とした句をもって終わりにします。死に近くくなってからの何句かの内の一句です。

 河より掛け声さすらいの終わるその日

  この句を私は私だけの兜太辞世句とします。ここには存在者AもBもおりません。認知症の合間の俳人の静謐な生があるだけです。河は秩父の河なのでしょう。掛け声は秩父の人たちの声なのでしょう。産土との交歓の裡に長いさすらいがついに終わろうとしているのです。これ以上の辞世句はないでしょう。

  ながながと兜太を覗き見てきましたが、なにはともあれ、秩父困民党の農民が「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」と蜂起した秩父事件のDNAが目覚めたかのように、存在者Bをないがしろにしてまでも、戦争を憎み平和を希求するミッションを自ら担った金子兜太という存在者は、やはりなかなか真似のできない大きな人であったのではないでしょうか。

  以上.九十八年の人と作品を一時間ちょっとで語ってみましたが、不遜だったかもしれません。拙い話を長時間お聞きいただき、ありがとうございました。

ーーー(原満三寿氏2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)


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