大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 ①

https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/fc8484affc22c22f5867d124fccb9894 【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その1 坂本城本丸跡】 より

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。

これからシリーズで書いていこうと思っています。

本日はその初回で坂本城本丸跡を紹介します。坂本へは今回で3回目の訪問です。

坂本城の歴史

坂本城は元亀2年(1571)比叡山の焼き討ちのあと、織田信長に命じられて明智光秀

が建てた城です。光秀は比叡山焼き討ちの功労として近江国滋賀郡が与えられた。

坂本城は天正8年(1580)に改築されたが天正10年(1582)の本能寺の変の後、

炎上したが、同年に丹羽長秀が羽柴秀吉の命により坂本城は再建された。

天正11年(1583)杉原家次が城主となり、同年浅野長政(長吉)が城主となった。

天正14年(1586)浅野長政が棄城し、大津城に移転するまで存在した。

 参考ブログ:大津城跡訪問記(2017-10-10&10-11)

坂本城本丸跡の碑

現在、国道161号(高島-大津線)の沿道、キーエンスの研修所の門の脇には大津市

教育委員会により建てられた坂本城本丸跡の碑文が建っています。(上の写真)

キーエンス研修所の住所は大津市下阪本3丁目2-20

Goo地図を添付しておきます。

坂本城本丸跡の碑文

上の写真が坂本城本丸跡の碑です。

読み難いので碑文を書いておきます。

坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、

明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。

天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査で

はじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。

                     大津市教育委員会

坂本城の縄張り

上の写真は坂本城跡公園に掲示の坂本城跡

坂本城跡公園の掲示資料

Wikipediaより坂本城の本丸天守に関する解説を引用添付しておきます。

元亀3年(1572年)12月22日の吉田兼見の記述によると、「明智見廻の為、坂本に下向、

杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了」(『兼見卿記』)

とされていることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌12月頃には天守がかなり

進捗していたと思われている。短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が伺い知れる。

また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』にも、

フロイスの日本史(坂本城の記述部分ではない)

「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの

大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって

豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは

天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想では

あるが、名城安土城と並び称される建物として意識されていた。

NHK BS3番組より

 2019年12月28日 NHK BS3 21:00~22:00で放送の下記番組で坂本城が紹介

 されていました。判り易い解説でしたので一部を写真紹介します。

 絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「明智光秀の城」

 【解説】千田嘉博,小和田哲男

上の写真は坂本城の推定復元図

上の2枚の写真は渇水時の石垣と石垣の場所を示したもの

上の3枚の写真は平成6年(1994)の発掘調査で34mに亘り石垣を確認できたこと

石垣の下に胴木が敷かれていたことを示したもの。

解説で坂本の門前町で培った石垣を積む技術が穴太衆と呼ばれる技術集団の間

で集積されており、それが城の石垣建設に活かされた。

上の写真は発掘調査で出土した鬼瓦と軒瓦 本丸で使用されていた。

番組では千田教授と元大津市歴史博物館副館長の吉水眞彦さんが解説されました。

上の3枚の写真は舟入の痕跡と位置を示したもの

番組からではありませんが坂本城周辺の城の築城時期を示した図を添付します。

下の写真 出典:外川淳 著「明智光秀の生涯」Page97(2019) 

安土城に先立ち坂本城が建設されており、安土城は坂本城を参考にしたと考えられます

権威の象徴として見せる城という意味で安土城と坂本城は共通点があります。

関連ブログ:安土城訪問記(2019-3-20)

https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/e3f8da95104db545e4495e705caf8c0b

2020年3月8日以降こちらの本丸跡が来年の2月7日までキーエンスの協力で

一般公開されるそうです。(下記サイトに関連情報を入手できます)

 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200308-00010000-bbcbiwakov-l25


https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/059c3a48db1eb16caef66d5a83c19444 【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その2 明智光秀像と坂本城跡公園】 より

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。

本日はその第2回で明智光秀像と坂本城跡公園を紹介します。

明智光秀像

上の写真は坂本城跡公園に建つ明智光秀像

手前には明智光秀の業績を示した石碑もあります(下の写真)

坂本城跡公園の石碑と説明板

上の写真は坂本城跡公園入口に建つ坂本城址と書かれた石碑

上の写真は坂本城跡公園に設置の明智光秀顕彰の石碑です。

平成7年(1995)下阪本学区まちづくり推進協議会により建立されました。

上の写真は同じく坂本城跡公園に設置の石碑です。

明智光秀をテーマにした演歌で鳥羽一郎が歌唱。スイッチを押すと歌声が流れます

上の写真は坂本城跡公園の遠景で。たくさんの幟旗がありますが当日は観光客は

少なく公園の駐車場は近隣の釣り客で占有されているようでした。

上の写真は坂本城跡公園付近の琵琶湖に建つ鳥居です。

その形状(山王鳥居)から日吉大社の鳥居であると思います。

上の写真は各所の掲示板に張られていた坂本城を紹介するものです。

坂本城は姫路城と同じように大天守の他に小天守を持つ構造であったようです。

前回に紹介した坂本城の縄張り図と推定図の写真を再掲します(下の3枚の写真)

明智光秀の略年譜

明智光秀の略歴を年譜形式で記載しておきます。

 年齢は1528年生まれ説で記載していますが1516年説では12歳プラス

 1540年説ではマイナス12歳

・1528年(享禄元年):0歳

  美濃国に、明智城城主・明智光綱(土岐氏の一族)の長男として生まれる

   生まれた場所及び年代及び父親には諸説があり不確定

・1535年(天文4年):8歳

  父親の明智光綱がなくなり、明智家の家督をつぐ。

  まだ幼かったので、おじの明智光安が後見人となる。

・1549年(天文18年):21歳 妻木煕子(ひろこ)と出会う(結婚?)

・1556年(弘治2年):28歳

 長良川の戦いが起こり、斎藤義龍が明智城を攻める。

 おじの光安は戦死。

 一族は離れ離れとなり、光秀は浪人となり各地を転々とする。

・1557年(弘治3年):29歳 越前 称念寺門前へ

  最近の研究で医者としての知識を持ちここで約10年過ごす

  その後、越前の大名、朝倉義景に仕える

・1565年(永禄8年):37歳 三好三人衆と松永久秀が13代将軍の足利義輝を襲い

             足利義輝は自害

  足利義輝の弟の覚慶(のちの足利義昭)が5月に奈良を脱出

  10月に近江の矢島御所へ移る

・1566年(永禄9年):38歳 近江の田中城に籠る

  針薬方を伝える(足利義昭の家臣に口伝したもの)

  これが縁でのちに足利義昭の家臣(足軽)となる

・1567年(永禄10年):39歳

  朝倉義景の家臣として足利義昭、細川幽斎(藤孝)と出会う

  足利義昭の家臣として幽斎とともに信長と折衝

・1568年(永禄11年):40歳

  足利義昭と織田信長の両方に仕える(二重雇用状態)

  信長と義昭の間を仲介、信長が義昭を奉じて京都へ上る(光秀も同行)

・1569年(永禄12年):41歳 

  足利義昭が三好三人衆から襲撃されるが

  光秀、幽斎が防戦し義昭を無事脱出させる(本圀寺の変=六条合戦)

・1570年(元亀元年):42歳 

  金ケ崎の退け口で藤吉郎と共に殿(しんがり)を務める

  姉川合戦に参戦 志賀の陣に参陣

・1571年(元亀2年):43歳 足利義昭への仕官を中止、信長のみに仕える 

  森可成の死後、宇佐山城を任される

  織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちを行う

  光秀は実行部隊として武功を挙げる

                  

・1572年(元亀3年):44歳 木戸城、田中城攻めを行う

  柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益とともに河内国交野郡の片岡氏の調略を策す

  働きが認められ、近江国滋賀郡に5万石を与えられる。

  琵琶湖の近くの坂本城が完成こちらに移る

・1573年(天正元年):45歳

  今堅田の本願寺勢を攻撃

  光秀、戦死者を弔う供養米を西教寺に寄進

・1575年(天正3年):47歳

  信長に命じられ、丹波攻略を開始

  惟仁姓を与えられ日向守に任官 以後、惟仁日向守光秀と名乗る

  越前一向一揆攻めに参加

・1576年(天正4年):48歳

  石山本願寺を攻めるが、光秀は病で倒れ坂本城に戻る

  妻の煕子が死去(11月)

・1577年(天正5年):49歳

  紀州雑賀攻めに参加

  細川幽斎、筒井順慶らとともに松永久秀の拠点の大和片岡城を攻略

  丹波攻めの拠点として亀山城の築城を開始

・1578年(天正6年):50歳

  丹波に再出陣 細工所城(荒木城)の荒木氏綱を降伏させる

  播磨に向かい秀吉の上月城攻めに参加

  娘の玉(のちの細川ガラシャ)を細川忠興に嫁がせる

  荒木村重討伐のため摂津茨木城攻めに参加

・1579年(天正7年):51歳

  坂本城より亀山城へ移動する

  八上城(城主は波多野秀治)を包囲、場内に多数の餓死者、降伏させる

  丹波宇津城を攻め落とす

  丹波黒井城を攻め陥落させる

  横山城を陥落させ福知山城として改築

  丹波国29万石を与えられる

  荒木村重の有岡城の包囲戦に加わる

・1580年(天正8年):52歳

  滝川一益とともに大和国の支配に携わる

・1581年(天正9年):53歳

  信長の馬揃えに、大和・山城衆を率いて三番衆として参加

  明智光秀家中軍法及び定家中法度、軍条々を制定

・1582年(天正10年):54歳

  信長の武田攻めに従軍するため、坂本城を出陣

  安土城に逗留する徳川家康の饗応役を命じられる

  羽柴秀吉とともに中国地方を攻めるように命令される

  進軍の途中に引き返し、織田信長が宿にしていた本能寺を襲う(本能寺の変)

  信長死亡の知らせで中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦い、敗北(山崎の戦い)

  逃げる途中に襲われて死亡(11日間の天下であるが三日天下と呼ばれる)


https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/1c6f122ae62936f37eee5d9efe8d898a 【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その3 東南寺】 より

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。

本日はその第3回で東南寺を紹介します。

東南寺の基本情報

住所:大津市下阪本3丁目6−14 TEL:077-578-0001

宗派:天台宗 御本尊:釈迦如来、阿弥陀如来

創建:延暦年間(782-806)最澄が創建 

Goo地図を添付しておきます。

東南寺の本堂と略縁起

上の3枚の写真は東南寺の上から本堂、山門、説明板

延暦年間に伝教大師が創立した寺で、比叡山の東南、戸津ケ浜にあったので

東南寺という。寛永15年、高島郡今津にあった一堂を当地に移したので一名を

今津堂ともいう。ここは伝教大師の法華経説法の場であったので、今も毎年8月、

比叡山延暦寺の高僧による有名な「戸津説法」が続けられている。 

   下阪本学区まちづくり推進協議会

東南寺は最澄(伝教大師)が延暦年間(782-806)に両親の追善供養と民衆教化

のために、人々にわかりやすく法華経を説く場所として創建したと伝わっています。

比叡山の東南にあるからその名になったといわれる。

元亀の兵火(1571)=比叡山焼き討ちで全焼し、寛永15年(1638)に今津町に

あった堂舎を移して今津堂と呼んだ。それが今の東南寺である。

明智一族の首塚

寺は坂本城の二の丸にあたり、境内の最澄像の両側には坂本城の陥落時に城を

枕に討ち死にした明智一族の首塚があります。

一応、このブログでは明智一族の首塚ということで書いていますがこの場所については

様々な言い伝えがあります。(下記のようなもの)

1)光秀が坂本城築城に際して、本家の美濃守護土岐氏から伝領した宝刀を城の主柱の

  下に埋めた跡

2)光秀秘蔵の愛刀「郷義弘」(ごうのよしひろ)の脇差を落城に際して娘婿の

 左馬之介秀満が埋めたところ

3)左馬之介秀満の首を埋めたもの

葉上照澄阿闍梨の記念碑

上の写真は葉上照澄阿闍梨の記念碑

「ひたすらに 謙虚に行ず ただ行づ つゆいささかの はからいもなく 南山」

上の写真は山門横に掲示の説明板

上の2枚の写真は石碑の側面と裏面に刻まれた文章

 

戸津説法

戸津説法(東南寺説法)は往時は30日間、明治時代以降は5日間、天台座主から

直接使命された僧侶が最澄の志を継ぎ、法華経を解り易く民衆に説法を行うもので

天台座主の登竜門としても知られています。

例年、8月21日から5日間戸津説法が行われます。

故今東光師も昭和50年(1975)8月21日から5日間説法された。その時の講話は

「毒舌・仏教入門・集英社文庫」におさめられている。

鐘楼

境内社と庫裡

宝塔・宝篋印塔

石仏

https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/650b3d34475a4d34092ba5e0d3157ad3 【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その4 坂本城址の石碑】 より

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。

本日はその第4回で坂本城址の石碑を紹介します。

上の2枚の写真は東南寺の参道と北国街道の交差点付近に建つ「坂本城址」の石碑

裏面の刻字より大正4年(1915)11月下坂本村により建立されたことが判ります

このあたりにかって坂本城の大手門があったとのこと。

所在地の住所は大津市下阪本3丁目7-26付近

上の写真は「坂本城址」の碑の遠景

奥に見えているのは東南寺の建物

坂本城は元亀2年(1571)比叡山の焼き討ちのあと、織田信長に命じられて明智光秀

が建てた城です。光秀は比叡山焼き討ちの功労として近江国滋賀郡が与えられた。

坂本城は天正8年(1580)に改築されたが天正10年(1582)の本能寺の変の後、

炎上したが、同年に丹羽長秀が羽柴秀吉の命により坂本城は再建された。

天正11年(1583)杉原家次が城主となり、同年浅野長政(長吉)が城主となった。

天正14年(1586)浅野長政が棄城し、大津城に移転するまで存在した。

上の2枚の写真は坂本城跡の現地説明板

上の写真は北国街道 坂本城の中堀が埋められ街道として整備されました

参考として坂本城址公園の説明板と坂本城址の石碑の写真を再掲します。

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