大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 ②

https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/ba0c6c645d3063d234a5f3cc23c0265b 【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その5 明智塚】 より

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。

本日はその第5回で明智塚を紹介します。

上の3枚の写真は明智塚

明智光秀の墓や供養塚とも伝わる重要な場所です。

この地は1582年に落城した坂本城内にあたり昔から「ここは光秀公の墓だから

さわると祟りがある」という言い伝えがあり発掘調査も実施されていない。

上記の他に次のような伝説もあります。

1)明智光秀が坂本城築城に際して、本家の美濃守護土岐氏から伝領した宝刀を城の主柱の

  下に埋めた跡

2)明智光秀秘蔵の愛刀「郷義弘」(ごうのよしひろ)の脇差を落城に際して娘婿の

 明智秀満(左馬之介秀満)が埋めたところ

3)左馬之介秀満の首を埋めたもの

4)明智一族の墓所

(有)村田製材所の経営者の村田家の敷地内(私有地)ではありますが中に入れます。

所在地の住所表示は大津市下阪本3丁目5−35

Goo地図を添付しておきます。

上の写真は村田氏が設置の説明板

毎年、明智光秀の命日の翌日の6月15日には法要が行われるようです。

6月15日は坂本城が落城した日でもあります。

384年忌に建立された灯篭

計算すると灯篭は昭和41年(1966)に建立されたことになります。

https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/3338f534ff77ece5277a909000c926a5 【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その6 聖衆来迎寺】 より 

表門(国重文)

上の2枚の写真は山門の中景と遠景

表門は、明智光秀が築城した坂本城の城門を移築したとの寺伝がありましたが、

平成21年(2009)~23年(2011)に行われた解体修理により、櫓門の二階部分を

取り除き一階部分の上に本瓦葺の屋根を載せたと考えられるとのこと。

使われた工具の加工痕が坂本城築城の年代と一致すること、聖衆来迎寺と明智光秀

との深い繋がりがあったことから、坂本城の城門を移築したことがほぼ明らかに・・・

説明板

書かれている内容を要約すると

聖衆来迎寺は延暦9年(790)伝教大師(最澄)が開創、 創建当時は地蔵教院

長保3年(1001)源信(恵心僧都)がこの寺に入り改称、念仏道場として再興

国の重要文化財である本殿、客殿、開山堂、明智光秀が築城した旧坂本城門の

表門、森可成の墓など、歴史とのかかわりのの深い寺である。

寺標

森可成の墓

上の2枚の写真は森可成の墓の正面と側面

この墓があったおかげで信長の比叡山焼き討ちの難を逃れた。

したがってこの寺には多くの文化財が残され近江の正倉院と呼ばれることも・・・

元亀元年(1570)の志賀の陣で浅井・朝倉連合軍に対して奮戦したが森可成は

討ち死にした。Wikipediaより森可成の最期についての記述を引用紹介します。

可成の最期については記録に次の様に書き残されている。

「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、

九天九地の下を通り、終日合戦なり。浅井、朝倉新手を入れ替えて攻め戦うによって、

織田九郎、森可成両将とも下坂本瀬戸在家にて討ち死になり」とある。享年48。

討ち死にしたものの坂本で数日間に渡って浅井・朝倉連合軍の行軍を妨害し近江に

釘付けにした為、連合軍は信長の背後を突くことは出来なかった。

宇佐山城も家臣の各務元正、肥田直勝などが奮戦、落城を免れた。

後日、2人は信長から賞賛を賜った。

森可成の首は密かに聖衆来迎寺の住職により運ばれ荼毘に伏された。

この事象により信長は比叡山焼き討ちの対象にしなかったと推察されています。

森可成(もりよしなり)は大永3年(1523)、森可行の子として

尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれます。

美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の

天文23年(1554)には尾張国で織田信長に仕えました。

信長の家督相続と尾張国統一に尽力した生涯でした。

織田家においては柴田勝家より以前に信長に仕えた年長組で、美濃衆として活動。

槍の名手で、関兼定銘の十文字槍の使い手でした。

武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇ったとも。

数多くの武勇伝が伝わっていますが、

信長の上洛後は京都周辺の寺社や堺の会合衆などに宛てて

非常に多くの文書を発給しており、

織田家の重臣として政務にも大きく関わっていたと推測できます。

子宝に恵まれ、生まれた六男三女とも正室えいとの間の子供であり、

愛妻家であったそうです。

<子供>

男子:

可隆(手筒山城攻めで討死・享年19初陣)

長可(小牧・長久手合戦で即死享年27)

蘭丸(成利)(本能寺の変で討死享年18)

坊丸(長隆)(本能寺の変で討死享年17)

力丸(長氏)(本能寺の変で討死享年15)

忠政(美作津山藩初代藩主)

女子:

娘(青木秀重室)

娘・うめ(木下勝俊室)

娘・碧松院(関成政室)

織田秀信の母・寿々(鈴姫)の墓

織田秀信は信長の孫(幼名は三法師)

寿々姫=鈴姫(徳寿院)は織田信忠の側室で塩川長満の娘の他に森可成の娘、

武田信玄の娘(松姫)という説もあり

寿々姫の法名は「徳寿院殿繁林恵昌大姉」

本堂(国重文)

上の写真は本殿の遠景

開山堂(国重文)

客殿(国重文)

境内社

鐘楼

石仏

本坊

放生池

境内の石造品(宝篋印塔、宝塔など)

見応えのある寺の境内であった。

国宝に指定されている絹本著色六道絵 15幅(鎌倉時代)をはじめ数多くの重要文化財

を所蔵。文化財は、毎年8月16日に虫干しされ公開される。絵画、工芸品等の大部分は、

平素は京都国立博物館やびわ湖文化館などに寄託されている。


「https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/666263b058fa53ad10f79c1c9496eb35  【大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その7 石積みの郷公園】 より

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。

本日はその第7回で石積みの郷公園を紹介します。

元亀2年(1571)の比叡山の焼き討ちの時に打ち鳴らされた鐘や穴太衆の

石垣を紹介する公園でJR湖西線の比叡山坂本駅のすぐそばにあります。

石積みの郷公園の住所は大津市坂本7丁目32−22

Goo地図を添付しておきます。

生源寺の破れ鐘

右奥に見えている鐘楼の中の鐘は最澄の生まれた生願寺から移設されたもので通称「破れ鐘」

と呼ばれています。織田信長による比叡山焼き討ちの際に、危を告げるために釣鐘を打ち鳴らし

続けたところ、ひび割れたと言われるのが「破(わ)れ鐘」です。

生源寺は、京阪坂本駅の近くに所在する寺院で、境内には最澄の産湯の水を汲んだ井戸が

残されていることから、最澄の生誕地と伝わっています。

穴太衆の石垣

関連ブログ

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その5 穴太衆積み石垣

延暦寺の門前町の坂本では古くから穴太衆が住み石垣を築く技術を伝承し

高い技術があった。明智光秀はこの技術を城の石垣づくりに活用した。

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