http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/tanpen/akechi.htm 【真蹟懐紙】
将軍明智*が貧のむかし、連歌会いとなみかねて、侘びはべれば*、その妻ひそかに髪を切りて、会の料に供ふ*。明智いみじくあはれがりて、「いで君、五十日のうちに輿にものせん」と言ひて、やがて言ひけむやうになりぬとぞ。
ばせを
月さびよ明智が妻の話せむ(つきさびよ あけちがつまの はなしせん)
又玄子妻に参らす*。
俳諧勧進牒
伊勢の国又幻が宅へとどめられ侍る比、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに
見えければ、旅の心を安くし侍りぬ。彼の日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心
ばせ、今更申し出でて、月さびよ明智が妻の咄しせむ
滋賀県大津市坂本の西教寺境内の句碑(牛久市森田武さん撮影)
伊勢の神職で蕉門の又幻<ゆうげん>は、神職間の勢力争いに敗れ、この頃、貧窮のどん底にあった。芭蕉は奥の細道の旅を終えて伊勢の遷宮参詣の折り、又幻宅に止宿した。貧しさにもかかわらず又幻夫婦の暖かいもてなしを受け芭蕉は感激して、後にこれを贈る。
細川ガラシャ夫人ゆかりの西教寺の石仏(同上)
ガラシャ婦人(1563-1600)は、 安土桃山時代のキリシタン大名細川忠興の室。明智光秀の女(むすめ)で名は玉。ガラシャはキリシタン洗礼名。関ヶ原の戦いの際、人質として大坂城に入城することを拒み、自刃した。(『大字林』)
将軍明智:明智光秀.安土時代の武将。通称、十兵衛。織田信長に仕え、近江坂本城主となり惟任(これとう)日向守と称した。次いで丹波亀山城主となり、毛利攻めの支援を命ぜられたが、信長を本能寺に攻めて自殺させた。わずか13日で、豊臣秀吉によって山崎に破られ、小栗栖(おぐるす)で農民に殺され、悲運の最期を遂げる。(1528?-1582)
侘びはべれば:<わび・・>と読む。意気消沈しているさま。
会の料に供ふ:連歌会の費用を捻出した、の意。
又玄子妻に参らす:この一文を又幻の妻に与える、の意。
http://sokai-kei.cocolog-nifty.com/blog/2020/06/post-5ba00f.html 【明智が妻の咄しせむ】より
西教寺 明智光秀の妻の墓碑(Nov./2019 大津市坂本)
月さびよ明智が妻の咄しせむ 芭蕉『俳諧勧進牒』
近江の西教寺に明智一族の墓があり、光秀の妻もここに眠っている。彼女は牢人時代の夫を陰で支えるためにずいぶん苦労したと伝えられるのだが、子の細川ガラシャのほうが名を歴史にとどめた。
よく知られたこの句は「おくの細道」の旅の後、芭蕉が伊勢に立ち寄ったとき、門人の「又玄(ゆうげん)」宅を訪れて詠んだもの。ふたりのもてなしにいたく感動し、門人の妻の心配りに感謝しつつ光秀の妻の話を引き合いにした吟である。伊勢の御師であった又玄は、そのころ同業者との張り合いもあって生活に貧していたらしく、妻の支えを賞しつつ彼を励ます意味もこの句には込められていたらしい。
世のひとが謀反人として光秀をみることの多かったなか(芭蕉の活躍した17世紀後半の光秀像は実際よくわからないが)、芭蕉がむしろ光秀をその妻とともに顕彰していたことは確かだ。「おくの細道」で越前にも立ち寄っている芭蕉は、牢人時代の光秀のことも現地(称念寺など)で伝え聞いたのかもしれない。もちろん牢人時代も含め光秀に関わる話には伝承が多く、確固たる史実の裏付けがあるのかどうかはよく知らない。
だが木曽義仲の眠る「義仲寺」に自分の墓をもうけたことからしても、いわゆる英雄ではなくむしろ悲運の人物にこそ芭蕉は心を寄せていたのだろう。芭蕉とは、そういうひとであったとおもう。
例のドラマではすでに道三はこの世を去り、信長は桶狭間の合戦にも勝った。美濃国も信長に早晩呑み込まれ、稲葉山城は岐阜城と名を変える。これまでのところ、光秀役は能でいうところの「ワキ」役に徹しているのも面白い。
しばらくは、あの秀逸なオープニング映像と曲で我慢我慢。
https://note.com/senmi/n/n8ed061f54183 【月へ行く 光秀照子を忘れ得ぬ】 より
※俳文碑 平成元年(1989年)7月、丸岡町文化協議会建立
月さびよ 明智が妻の はなしせむ はせを
將軍明智か貧のむかし、連哥會いとなみかねて侘侍れは、其妻ひそかに髪をきりて、會の料にそなふ。明智いみしくあはれかりて、いて君、五十日のうちに輿にものせんと、いひて、頓て云けむやうになりぬとそ。
※案内碑
明智が妻
元禄2年9月11日、芭蕉は伊勢山田に至り、翌12日から西河原の島崎又玄方に滞在した。この句文は又玄の妻女のために草したもので、『俳諧勧進牒』『芭蕉庵小文庫』、土芳『蕉翁句集』『一葉集』に載るものである。
将軍明智が貧のむかし、連歌会いとなみかねて侘侍れば、其妻ひそかに髪をきりて、会の料にそなふ。明智いみじくあはれがりて、いで君、五十日のうちに輿にものせんといひて、頓て云けむやうになりぬとぞ。 はせを
月さびよ明智が妻のはなしせ 又玄子妻にまいらす。
※案内板
坂本城主・明智光秀の妻 𠘕子の墓(光秀の子女、玉子嬢・細川ガラシャの母)
天正4年(1576)11月7日寂 戒名 福月真祐大姉
作家の中島道子氏の「明智光秀の妻・𠘕子」という小説序文に次のように𠘕子夫人のことが書かれている。
人生を旅と心得、旅を求めてやまなかった芭蕉は軍旅に敗死した武将への限りない哀惜を詠んでいる。その中で唯一女性に対する句が異彩を放っている。明智光秀の妻である。
比較的近年まで光秀は逆臣、叛将とのみ言われてきたにもかかわらず封建体制下の江戸時代にあって、光秀の妻を顕彰したのはまさに自由人芭蕉その人であった。明智が妻の句は「奥の細道」の旅の途次、越前(福井県)は丸岡に足を止めた折耳にしたことを後、伊勢の門弟山田又玄の妻に贈ったものである。
月さびよ 明智が妻の 咄せむ 芭蕉
まさにこの一句に人生感があらわれていると云えよう。
※出典①:芭蕉真蹟懐紙
将軍明智が貧のむかし、連歌会いとなみかねて、侘びはべれば、その妻ひそかに髪を切りて、会の料に供ふ。明智いみじくあはれがりて、「いで君、五十日のうちに輿にものせん」と言ひて、やがて言ひけむやうになりぬとぞ。 ばせを
月さびよ明智が妻の咄しせむ 又玄子妻に参らす。
※出典②:『俳諧勧進牒』
伊勢の国、又幻が宅へとどめられ侍る比、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに見えければ、旅の心を安くし侍りぬ。彼の日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心ばせ、今更申し出でて、 月さびよ明智が妻の咄しせむ
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