「月さびよ 明智が妻の 咄せん」<煕子>の事

https://www.daitakuji.jp/2014/02/20/%E6%9C%88%E3%81%95%E3%81%B3%E3%82%88-%E6%98%8E%E6%99%BA%E3%81%8C%E5%A6%BB%E3%81%AE-%E8%A9%B1%E3%81%9B%E3%82%93-%E8%8A%AD%E8%95%89/ 【「月さびよ 明智が妻の 咄せん」<煕子>の事 芭蕉】 より

強烈な台風8号が北上しようとしています。早い時期なのに・・・

台風で恐怖の思いを何度も体験している私にも一言。 

 気圧は低い方が勢力が強いのですが、今後北上してパワーが落ちるはずにもかかわらず今年は海水温が高いために尚も勢力が強まる可能性があるとのこと。

私の沖縄で経験した最大台風937ミリバール(今はヘクトパスカル)からするとそれよりも凄そうな数字が出そうです。

あの時は鉄筋の入った電信柱が折れ、係留していた船が道路に打ち上げられていました。背の高い車両は横転します。

 推測コースから言って九州中北部要注意ですね。

沖縄人(うちなんちゅう)は対策について習熟して人的被害は比較的少ないのですが、内地の人は「まさかこっちには来ないだろう」という変な楽観があって被害が拡大する傾向にあると思います。ご注意くださいますよう。

 そんな今頃の季節にはあまりピンと来ません。

厳冬期の寒くて体も冷え切ったそんな時、Hotなスープの一杯ほどうれしいものはありませんね。体も心もほっこり、まさに「ホットする」ひと時です。そんな話です。

 きっとそのように寒い日の晩に温かいものの接待をうけ、固くなった身体に血が巡ってついつい饒舌にもなって標記のような歌が出たのでしょう。近江好き(木曽殿・・・)、そして滅した者に思いを馳せる芭蕉らしい歌です。

 私もそのような「温かい」饗応、もてなしを受けるというシチュエーションがありますので、気分次第ではそんなお話をいつかはしてみたいと思っているところです。

 しかしながらこの句を一瞬見ただけでは何の事だかサッパリわかりません。

「明智の妻」とは明智光秀の奥さんの妻木の煕子(ひろこ ただし不詳)。

「妻」は旧姓「妻木」の「妻」もあってその語を使用したのでしょう。もっと違う呼び名の選択肢はありますし。

その「妻」ですから細川忠興の室「珠・玉」(細川ガラシャ)の母親でもありますね。

夫の光秀も娘も儚い命を「ふっと」消して行った者たちでした。

 芭蕉の句を詠んだシチュエーションとは、伊勢方面での旅先、経済的に困窮状態にあることが分かっているその者の家に泊まった時です。

「その妻、夫の心にひとしく、もの毎にまめやかに見え」たとあります。芭蕉は温かいおもてなしに感動したのですね。きっと芭蕉は突然の客だったことでしょう。

その妻の動き―心ばせを、貧乏にもかかわらず・・・

「日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心ばせ」と締めています。

 「惟任日向守」は明智光秀のことです。

近江には‎「内助の功」といえばコレという山内一豊の妻の千代が馬を買う金10両を工面したという話がありますが、芭蕉好みの「内助の功」はこちらの方。

先にも記しましたが前者は嘘くさい話なのですが、こちらは十分にあり得る話で、内容としても好感が持てますしね。

 光秀は京都の将軍家、公家階層ともチャンネルを持って、その理知的雰囲気を醸し出すような人でした。

義理堅くそして連歌会なども好んで出席していたことでしょう。

武人の嗜みでもあった連歌でしたが信長の歌系のイメージとしては、「人間五十年」くらいですから、そんなところでも性格もかなり異にしていたことがわかります。

 本能寺直前にそんな連歌会があってホントにそれを歌ったの?と勘繰りたくなるような超意味深な歌

「時は今 雨が下しる さつきかな」

などあまりにも後世有名になりました。

ちなみに「時=土岐氏」で明智の源流、「雨=天」で下しるで「天下」・・・なのですがやはりどう考えても「後付」の様な気がします。

 さて、そういった連歌会は持ち回りで行われたといいますが、これは当時でいう「パーティ」交流会の類。

幹事役が回ってきたらそれまで自分が皆さんにもてなされてきた分、自宅にその者達を客として招き、宴を催すことになっていたそうです。

 おそらく、光秀はその時は禄を失って貧乏所帯に陥っていた頃だったでしょう。

仕えていた斉藤道三が息子の義龍に討たれてから流浪して再び仕官したのが朝倉家。時間的にはその辺りでの出来事だったのかも知れません。

 要は貧乏で当時の明智家には宴を開くほどの余力が無かったという状況でしょう。

光秀はかなり落ち込んで想い病んだそうですね。それを見た妻は密かに女の命、「長髪」をおろして「供とし」その宴を無事開いたといいます。

 今では旦那のプライドなど糞くらえ(ちょっと言い過ぎ)、「謝ってごめんなさいしちゃいなさい」と言われそうですが・・・ところで黒髪価値ですが、「パーティ」が開けるほどのおカネになったのでしょうか。そういわれていますが実感が・・・。

 近江西教寺には光秀の墓の隣に「明智の妻」の墓が建っています。その近くには標記芭蕉の句碑が。


https://senjp.com/hiroko/ 【妻木煕子 明智光秀を愛し愛された糟糠の妻】 より

妻木煕子(つまき-ひろこ)は明智光秀の正室で、明智煕子(あけち-ひろこ)とも言います。

煕子の生年と出自には謎が多く、46歳で死去した説を採用すれば享禄3年(1530年)に『美濃国諸旧記』に名を記された現地の武士である妻木範熙、もしくは妻木広忠の長女として産まれたと言われています(なお、範熙と広忠には同一人物説あり)。

煕子の少女時代は不明ですが、天文14年(1545年)頃には15歳で明智光秀(当時20代後半だったと言う)と婚姻しました。

一説によると煕子は婚約後に疱瘡に感染して痘痕が残り、美貌が損なわれると言う悲劇に見舞われます。

憂慮した父の妻木は破談となるのを避けるべく、煕子の妹で外見がそっくりな芳子と言う娘を身代わりに出すのですが、それを見破っていた光秀は美醜を度外視して煕子を妻にと望み、かくして二人は結ばれたのです。

このエピソードは、後世に於いて創作された物語と言う説も存在しますが、身重の煕子を光秀が背負って敵から逃がしたと言う伝承と並び、彼女が光秀に深く愛された事を示す好例でもあります。

煕子もまた、自分を思ってくれる優しさ、外見に囚われない聡明さを持つ光秀を助けようと必死であったらしく、斎藤道三に加担していた夫が斎藤義龍に敗北して浪人になった時の事跡として、以下のような逸話も残されています。

浪人で無収入同然の身となった光秀でしたが、ある時連歌の会を主宰する順番が回ってきたにもかかわらず、接待費が無いのに悩んでいました。

すると煕子は美しい黒髪を切り落とし、それを売って光秀に見事な宴会を開かせたのです。

その計らいに感謝しつつ、申し訳無いと痛感した光秀は生涯を通して彼女への純愛を貫き、側室や妾を抱える事は無かったと言います。

なお、その歌会は朝倉家臣との会合でもあり、また光秀は朝倉義景の配下として10年仕えたとする説も存在するため、その説を採用するならば煕子は光秀が再起するきっかけをもたらした事になります。

この逸話も、光秀が朝倉家の家臣だったかに疑問を呈する声や、側室や庶子の存在をほのめかす資料などから否定される事がありますが、煕子と光秀は相思相愛と言ってもおかしくないくらいに仲睦まじい夫婦だった事に変わりはありませんでした。

天正4年(1576年)11月7日、そんなおしどり夫婦にも悲痛な別れが訪れます。

明智煕子は、明智光秀が重病で倒れた時から付きっきりで介抱していたのですが、その看病疲れが元で46歳の生涯を閉じたのでした。

享年は46歳(36歳、42歳説もあり)、戒名は福月真祐大姉と付けられました。

一説には天正10年(1582年)に光秀の居城であった坂本城が陥落した時、入城すること無く落ち武者狩りで落命した最愛の夫の後を追うが如く、城と運命を共にしたとも言われています。

なお、『明智軍記』によると光秀には7人(明智系図では養子や側室の子を含めて13人)の子供がいたとされますが、煕子の産んだ子としては名門の細川忠興に嫁いだ三女ガラシャ(明智たま、四女説もあり)、嫡男とされる長男の光慶などがおり、子供への扱いを見ても光秀の煕子に対する敬愛と信頼が伝わります。

後世、光秀が逆賊として扱われるようになっても煕子の逸話は好まれ、松尾芭蕉が「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん」と一句残したほどに親しまれました。

なお、煕子が葬られた妻木氏の菩提寺である西教寺(滋賀県大津市)には明智光秀一族の墓も現存しており、今でも『戦国のおしどり夫婦』はこの地で安らかに、そして睦まじく眠り続けています。

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