蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

https://ameblo.jp/haiku17/entry-11787619327.html 【蛤のふたみに別れ行く秋ぞ(松尾芭蕉)】より

【蛤のふたみに別れ行く秋ぞ】(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)~おくのほそ道 結びの句/旅の終着・大垣(岐阜県)にて~

(訳)

蛤のふたと身とが別れるように、私は見送る人々と別れて、二見が浦(ふたみがうら)に出かけようとしている。ちょうど晩秋の季節がら、離別の寂しさがひとしお身にしみる。

(補足:元禄2年(1689年)春に江戸から始まった「おくのほそ道」の旅は、同年秋に大垣で終わります。

長旅の疲れがまだとれない芭蕉翁でしたが、このあとすぐ伊勢神宮の遷宮を拝観しようと、また舟に乗りこみます。

この結びの句は、その時につくられたものになります。ここで、「おくのほそ道」は幕を閉じますが、ふたたび舟に乗りこむ芭蕉翁の姿は、「旅の終わりはまた、新たなる旅の始まり」という永遠の旅を続ける芭蕉翁の生き方を鮮明にあらわしているのではないでしょうか。

*次回以降はあらためて、おくのほそ道の旅のはじめ頃に戻り、俳句を中心に旅の順にご紹介していきたいと思います。

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【(超訳☆想像)芭蕉翁から現代人へのアドバイス】~こころとカラダの美的エッセンス~

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旅は一度終わるからこそ、また新鮮な旅の始まり(の感覚)を味わえるのです。

もし人生において、(あるいは)目標達成などにおいて、なかなか達成感が味わえなかったり、次のステージに進めず挫折感を抱くことが多い場合には、一つ一つの旅(目標)を短く(細分化)してみましょう。

つまり、一気に大きな目標達成を狙うのではなく小さな目標をつくり、それをクリアしていくことで、ワクワク(自己肯定感を育み)しながら、結果的に大きな目標を成し遂げる。

そうすることにより、より速く旅(目標)を終える(達成する)ことができたりもするのです。

狙う結果は同じですが、プロセスの中で抱く感情をよりワクワクしたものにできるように工夫していきましょう♪

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「 当ページをお読みくださっているみなさまにとっては、本日の松尾芭蕉翁のことばから、

どのような学び(アドバイス)が得られますか・・・

イマジネーションの中での(芭蕉翁との)対話により、現代社会に適応させるための「超訳」(想像解釈)を独自におつくりになってみませんか? 」

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時も、人生も、永遠の旅人也~素敵な旅(人生)を☆

https://wabisabi-nihon.com/archives/18529  【松尾芭蕉「奥の細道」の旅・終着「大垣」の俳句はハマグリだった!?】 より

この記事を読むのに必要な時間は約 7 分です。

こんにちは、このかです。

今日は、松芭蕉の『奥の細道』の最後の句(結句)について、お伝えします。

芭蕉は、1689年(元禄2年)3月に江戸を出発し、『奥の細道』の東北の旅に出ました。そして、その旅のゴールは、岐阜県の大垣です!

3月から8月、約150日間もの長旅でしたよ。

そこで彼は、前もって出迎えに来ていた、たくさんの弟子たちに大歓迎されます。

さすが、人気ものですね!

今回は、『奥の細道』の終着地、大垣での芭蕉の様子と結句(俳句)をお伝えします。

『奥の細道』旅のフィナーレは岐阜県の「大垣」!

今回の旅のゴールは、美濃国(岐阜県)の「大垣」です。

ついに、芭蕉が旅の終着地に着くという知らせをうけとった、蕉風グループの多くの門人たちは、喜び勇んで美濃国(岐阜県)大垣に迎えに行きました。

敦賀の港には、まず「露通(ろつう)」が迎えに来ていました。

露通は、この『奥の細道』の旅の道連れ候補だった人なのです。彼は、素晴らしい俳句を作る人なんですけど、めっちゃいい加減な性格をしていたのです。

それで、彼にはマネージャー役はとても務まらないだろうということで、しっかり者の曾良に決まったのでした。

その曾良は、この旅の途中、山中温泉でお腹を壊して、芭蕉と別れてしまいます。養生するため、一足先に伊勢の親類のもとに行ったのでした。

曾良と別れるとき、芭蕉はすっかり落ち込んで心細い思いをしたようですよ。

芭蕉は、露通と共にそのまま大垣に着き、元大垣藩士の武士で、もう隠居している門人「如行(じょこう)」の家に温かく迎えられます。

本当に、全国各地に門人や芭蕉ファンがいたとわかりますね~。さすが、有名人です♪

曾良も大垣で待っていました!

山中温泉で腹痛のため衰弱してしまった曾良は、芭蕉と別れて療養するために伊勢に向かいました。芭蕉の足手まといになってはいけないので、伊勢の縁者の所へ行ってゆっくり体を治すことにしたのです。

芭蕉がとうとうゴールすると聞いた「曾良(そら)」は、伊勢から大垣へやって来て、待っていたのでした。

さらに、門人の「越人(えつじん)」も、馬を走らせて会いに来ました。

次々とお祝いに門人たちが駆けつけます。

芭蕉は、そのときの様子を、「まるで生き返った人間でもあるかのように」、みんな再会を喜んでくれたと記しています。うれしかったでしょうね~♪

このときの雰囲気から、蕉風グループの温かさと団結力が、伝わります。これも芭蕉の人徳でしょうか。

【結句】蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

大垣で数日過ごすと、芭蕉は、もう次の旅に出ますよ。

10日に行われる伊勢神宮の遷座式に間に合うようにと、9月6日、再び舟に乗ったのでした。

そして、ここで、この旅の最後の一句(結句)を詠みます。

蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行(ゆく)秋ぞ

(伊勢のハマグリの「ふた」と「み」がなかなか切り離せないような、離れがたい思いを振り切って、私はこの懐かしい人々に別れを告げ、二見浦のほうに向かって、新たな旅の一歩を踏み出す。秋が行き、冬に向かうこの時節に。)

ハマグリの「蓋と身」向かう伊勢の「二見ヶ浦」(地名)を掛けていますね。

あとは、この結句の「行秋ぞ(ゆく秋ぞ)」と、旅の始めの旅立ちの句「行春や(ゆく春や)」を呼応させています。春に旅立ち秋に旅が終わったと、強調させているとわかりますよ。

呼応させているという「旅立ちの句」は、これです。

 ↓

行春や 鳥啼魚の 目は泪(ゆくはるや とりなきうをの、めはなみだ)

そして、松尾芭蕉はこの結句を、西行の次の和歌を意識して作ったのは、明らかだと思われます。

今ぞ知る 二見の浦の はまぐりを 貝あはせてと おほふなりけり(by西行)

おわりに

『奥の細道』の最後の地・大垣に、芭蕉は15日間ほど滞在したようです。

そこでたくさんの門人たちに祝福され、また、次の旅に出たのでした。

奥州路の旅は終わりましたが、これからも芭蕉の「旅を住処(すみか)」とする日々は、続くのですねー♪

https://yeahscars.com/kuhi/hamaguri/ 【蛤のふたみにわかれ行秋ぞ】 より

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ松尾芭蕉、1689年(元禄2年)の「おくのほそ道」の最後を彩る句。9月6日(新暦10月18日)、伊勢神宮の遷宮を拝もうとして、大垣の舟町から伊勢長島へと舟を出した時の句。その時の情景は、「大垣」の項にある。

露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、 

 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

内宮の9月10日の遷座には間に合わず、9月13日の外宮の遷座式に芭蕉は参列している。

この句の「蛤」は、伊勢名物。「ふたみ」は伊勢の「二見浦」と貝の「蓋」「身」に掛かる。「旅立」項に「行春」で詠まれた「行春や鳥啼魚の目は泪」に対応した句である。

なお、元禄二年九月二十二日付の杉風宛の書簡には、以下のようにある。

木因舟に而送り、如行其外連衆舟に乗りて三里ばかりしたひ候。

 秋の暮行先ゝは苫屋哉 木因

  萩にねようか荻にねようか はせを

 霧晴ぬ暫ク岸に立玉へ 如行

 蛤のふたみへ別行秋ぞ 愚句

  二見

 硯かと拾ふやくぼき石の露

先如此に候。以上

  九月廿二日  はせを

ここでは、「蛤のふたみへ別行秋ぞ」とある。これが初案か。

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