https://ameblo.jp/bashouza/entry-12576583476.html 【金子兜太『いま、兜太は』青木健編 】より
金子兜太先生の3回忌。このご本を読み返しています。他界、その1年前にこの本が出版されています。その扉には兜太先生の雄渾な筆で署名が入っています。
金子兜太『いま、兜太は』青木健編 岩波書店2016年12月刊
青木健さん、かつて三島由紀夫自刃で衝撃を受け、日銀にいる兜太のもとへ駆けつけた編集者。金子兜太、俳句生活八十年。
そのおりの兜太の「現在、ただいま」を多角的にうかびあがらせる。
自選自解による百八句(煩悩の数でしょうか)。
インタビュー、これが面白い。
青木健による卓抜な問いに、兜太がいともざっくばらんに語る語る。
おなじ事柄でもインタビュアーによりこんなにも違うか、と、感心しきり。
この書名のタイトル『いま、兜太は』がじつにいい。
本の画像、書名が書かれているのみだが、帯が半分以上あり、そこに兜太の写真がどーんと
(ちょっとお地蔵様のよう)あって、存在感たっぷり。本屋さん、図書館で手にとってご覧ください。
◆目次
自選自解百八句(金子兜太)
わが俳句の原風景(金子兜太 聞き手 青木健)
いま、兜太は(ケダモノ感覚の句にしびれる(嵐山光三郎)
私の金子兜太(いとうせいこう)
存り在るひと(宇多喜代子)
進化する人間 深化する俳人とともに(黒田杏子)
兜太への測鉛(齋藤慎爾)
“霧”のみちのり―金子兜太の「古典」と「現代」(田中亜美)
希望の星(筑紫磐井)
うろつく兜太―十句を読む(坪内稔典)
生きもの感覚を見つめる(蜂飼耳)
ことばの体幹(堀江敏幸))
◆著者紹介
金子 兜太 (かねこ とうた) 俳人。
1919年埼玉県生まれ。東京帝国大学経済学部卒業。日本銀行に入行。
44年から終戦まで、海軍主計中尉(のちに大尉)としてトラック島に赴任。
戦後は日本銀行に復職し、74年に定年退職。
俳誌「海程」主宰。現代俳句協会名誉会長、朝日俳壇選者を務める。
日本藝術院会員、文化功労者、菊池寛賞、朝日賞など受賞多数。
青木 健 (あおき けん) 作家・編集者。
1944年京城生まれ。名古屋大学法学部卒業。
河出書房新社を経て、独立。
愛知淑徳大学非常勤講師(教授格)。
「星からの風」で新潮新人賞受賞
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2017011700005.html?page=1 【[書評]『いま、兜太は』金子兜太 著 青木健 編】東海亮樹 共同通信記者 より
オオカミ的孤独の俳人
金子兜太、97歳。俳句会の巨星とも大御所とも呼ばれるが、その俳人の新刊に「いま、」の書名が付けられている。実に的を射たタイトルだと思う。兜太は現在も旺盛に句作を続けているという意味での「いま、」であり、兜太の俳句が今だからこそもっと読まれればいいという「いま、」の意味でもあるだろう。
『いま、兜太は』(金子兜太 著 青木健 編 岩波書店)
『いま、兜太は』(金子兜太 著 青木健 編 岩波書店) 定価:本体1700円+税
拡大『いま、兜太は』(金子兜太 著 青木健 編 岩波書店) 定価:本体1700円+税
俳句に詳しくない人も、安保法案への反対デモで「アベ政治を許さない」という骨太の文字のスローガンがあちこちで掲げられていたことは覚えているだろう。それを書いたのが金子兜太だ。
しかし、文字だけが独り歩きした感もある。「あの文字を書いたのはどういう人なのか?」と知りたいと思ったら、本書はうってつけだろう。
本書は、金子兜太の自選自解108句と本人へのインタビュー、俳人や作家による金子兜太論の3部構成になっている。俳句に親しみがない人はまず、インタビュー「わが俳句の原風景」から読み始めるとよいかもしれない。
最初の言葉に「境地」のようなものが示されていて、少し驚いた。「俺から(埼玉県)秩父っていうふるさとを除いたら、ほとんどゼロに近いね。間違いなく、秩父というのが根底です」というのだ。若い頃は前衛俳句という毀誉褒貶を受け、俳句会でも激しい論争をしてきた人物が、「産土(うぶすな)」がすべてなのだという。
しかし、それは老人の諦念ではまったくなく、動きがあり、さらに人間や自然の深淵に迫ろうとする文学的源泉としての「産土」であることが、俳人の言葉から浮かんでくる。
<おおかみに蛍が一つ付いていた>
80歳の頃に作られた代表句だ。秩父の山では狼は明治に絶滅した。しかし、いまも生きていると信じる地元の人がいるという。俳人は狼を「幻視」して、そこに蛍を止まらせた。本人は本書で「一匹の『おおかみ』が残っていて、孤独を託(かこ)って、夜ノコノコ歩いていると、ふと見たら、その背中に蛍がパッパッと瞬いていた」というイメージが湧き上がったという。「オオカミ的孤独」。この俳人のぶれない力強さを表しているかもしれない。
1919年に秩父に生まれ、旧制水戸高校、東京帝大経済学部を出て、日本銀行に入る。44年から終戦まで主計将校として南太平洋のトラック島に出征する。戦後、日本銀行に復職するが、組合活動を熱心に行い、「冷や飯食い」となったといい、55歳で定年退職する。
秩父を強く意識することになったのは、定年間際、妻の故みな子さんに「あんたみたいな人は、土を踏んでなきゃ駄目だ」と言われて、埼玉県熊谷市に引っ越し、秩父に通うことになってからだ。秩父の農家にあった、冬に花が咲く寒紅梅を譲ってもらい、熊谷の家の庭に植える。
<梅咲いて庭中に青鮫が来ている>
なぜ冬の熊谷に青鮫が来るのか。戦時中に出征していたトラック島は米軍の爆撃で多くの戦死者を出した。遺体は船に乗せられ、サンゴ礁の海に投げ捨てられた。すると動きが早く獰猛な青鮫が集まり、人間を食べて太ったのだという。平和な庭に梅が咲いた風景が海の色に見えて、そこに青鮫が来るのは「当たり前だ」と俳人は想像したという。理屈では割り切れないが、なぜかゾクリとさせられる。
「オオカミ的孤独」についてもう少し耳を傾けよう。金子兜太はこう言う。
「社会の生活というのがあって、そこでみんな定住、生活している。しかし、同時に飽き足りない関係でもあって、そこに孤独感を感じるということがある、そうすると漂泊感情に襲われる。人間が生きているということはそういうことだと、定住漂泊の繰り返しであると、私は悟ったわけです。五十代です」
金子兜太は小林一茶に価値を置く。そして長野の伊那を放浪した極貧の俳人井上井月を愛する。漂泊の代名詞のような種田山頭火への評価は低い。さらに松尾芭蕉への言及は一切ない。俳句界の王道からはかなり外れた視点かもしれない。「生活を常に手放さない」一茶が好きなのだという。
兜太もまたサラリーマンとしての定住生活者であり、俳人として文学的な漂泊を繰り返した。高尚な宇宙観がある芭蕉やパトロンに恵まれた山頭火には反発があるのだろう。俗なことだけではなく、まさに「産土」から湧き上がる想像力を金子兜太は重んじているということが分かる。
俳句を作っている人は、金子兜太のこの結論にドキリとさせられるかもしれない。「究極して、俺は何をやっているんだろうと、ふと思ったときに、やっぱり俺は映像を一生懸命に書いているんだと」。俳句とはまさに「映像に尽きる」のだという。
トラック島で作られた「魚雷の丸胴蜥蜴(とかげ)這い廻りて去りぬ」という句がある。巨大な破壊力を持つ爆弾に蜥蜴が這っていたというだけで戦場の映像が眼前に現れてくるようだ。「暗黒や関東平野に火事一つ」。列車の車窓からたまたま火事が見えただけのことだそうだが、映像的なコントラストは傑作と言うしかない。
反戦の人というイメージだけでは、あまりにももったいない深さと強さを持った俳人だが、最新句だけはやはり紹介しておきたい。
<戦さあるな人喰い鮫の宴あるな>
我が内なる「オオカミ的孤独」。世の中に集まりつつある「青鮫」「人喰い鮫」。まさに金子兜太は「いま、」を問うているのだと思った。
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