http://www.ibaichi.com/okuno/45yamanaka/45yamanaka.html 【奥の細道漫遊紀行】より
[ 山 中 1 ]
医王寺・こおろぎ橋・鶴仙渓
山中温泉ではまず医王寺に詣でた。この寺は行基菩薩の開創とされ、。行基が温泉を発見し、薬師如来を守護仏として湯舎に安置したことが始まりと「山中温泉縁起絵巻」に記されている。昔は湯治の客が毎日この寺に参詣して療治全快を祈ったという。芭蕉もここに参詣しており、 「山中や 菊は手折らじ 湯の匂い」 の句碑が昭和35年に建立されている。(写真は医王寺の芭蕉句碑)
医王寺は山中温泉を見下ろす台地にあるが、そこから温泉街が立ち並ぶ大聖寺川渓谷に下り、町一番の名勝であるこおろぎ橋に行く。この橋は総檜造りで眼下の苔むした岩の間を水が流れており、川辺から橋の上まで覆いかぶさる紅葉の木々とともに深山幽谷の気配をかもし出している。
ふと下を見ると青鷺が苔の岩上に休んでおり、あたかも南画の一場面を見ている気がした。こおろぎ橋の近くには多くの文人、歌人の碑があるが、その中に芭蕉の詠んだ 「かゞり火に かじかや波の 下むせび」 の小さな句碑がある。
こおろぎ橋から下流の黒谷橋までの1.3キロの間は鶴仙渓と呼ばれる渓谷である。その中頃にあるあやとり橋という赤紫の鉄骨がくねくね曲がって出来ている橋に行き、そこから鶴仙渓に降りた。
この橋は草月流家元の勅使河原宏が昇竜のイメージをデザインしたものだそうである。川縁に降りると道明ヶ淵という景勝地があり、 「やまなかや きくは手折らじ ゆのにおい」 の芭蕉句碑がある。
鶴仙渓遊歩道を黒谷橋に向かって歩く。15分ほど歩くと黒谷橋のたもとの芭蕉堂に出た。芭蕉は山中の湯に浸かってはこの付近を散策し、岩に座って杯を傾け 「行脚の楽しみここにあり」と言っていたことから明治の終わり頃建てられたものだそうである。
4坪ほどの小堂だが中には芭蕉の小像が安置され、芭蕉を偲んだ句会や茶会が行われるという。堂の近くに 「紙鳶きれて 白根ヶ岳を 行方かな 桃妖」 の句碑がある。桃妖とは芭蕉が8日間滞在した泉屋の若い主(14歳)で芭蕉は自分の桃青の一字を取って与え、 「桃の木の その葉ちらすな 秋の風」 の句を贈っている。(写真は芭蕉堂内部と桃妖句碑)
「おくのほそ道」には 「あるじとする物(者)は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰(ここ)に来たりし比(ころ)、風雅に辱められて、洛に帰て貞徳の門人となって世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。」 と記している。
泉屋の若い主(桃妖)泉屋甚左衛門久米之助はまだ子供だが、その父である又兵衛は俳諧を好み、貞門七俳仙の一人である貞室が若輩の頃山中温泉に来て、自分の俳諧が又兵衛より劣っていることを知り、京に帰って貞門俳句の祖である貞徳の門に入って研鑽を積み名を知られるようになった。しかしそれ以後山中の人からは俳諧を指導しても謝礼を取らなかった。という昔からの伝承がある。と又兵衛と貞室を褒めている。曽良の「俳諧書留」にもそのことは記されているが、それには、又兵衛は久米之助の祖父だと記されている。
https://blog.goo.ne.jp/hitareri/c/0de1c581df409907468d51af74453001/1 【山中温泉 こおろぎ橋】より
松尾芭蕉が弟子の曽良と入湯したという山中温泉。
「奥の細道」の旅で、芭蕉に同行してた曽良は、この北陸道に入ってからはとかく健康がすぐれず苦しんでおったという。
二人の旅は終わりのほう近く山中温泉までたどり着いたら、曽良は、これまでの長旅の間、
ずっと師の体をいたわってきた心労と暑さがたたったのか、弱ってきた。
さらに、ここに来て激しい腹痛にまで襲われたらしい。
芭蕉もさすがに心配になりこの山中温泉で10日間ほど二人は静養したという。
「山中や 菊は手折らぬ 湯の匂い」芭蕉が残した句である。
意味は・・「むかし、中国では慈童が菊の露を飲んで長寿を保ったと言われたが、この山中温泉は効能が顕著であるので菊を手折るまでもないことだ。
あたりには、すばらしい湯の香りが一面に漂い立ち込めている。」
このような内容だという。
「延命の花とされる「菊」など必要としないほどの効能がある湯(山中温泉の湯)」と言っているのだ。
現在ある山中の外湯「総湯 菊の湯」は芭蕉のこの句にちなんで後に名付けられた湯名だろう・・
ともかく、この山中温泉は開湯1300年、当時から湯座屋と呼ばれていた湯で芭蕉ゆかりの地である。
画像の「こおろぎ橋」は、山中温泉の鶴仙渓とよばれている渓谷に掛かっている橋の一つである。、
ここは、山中温泉の名所となっている。街中なのに「深山幽谷」の風情がある。
芭蕉の時代に、今 掛かっているような立派な橋があったとはとても思えないが・・・
でも谷の底のあたりに小さい木の橋があったには違いない。
ここを通らないと 芭蕉といえども次の目的地の福井から敦賀にはたどり着けない。
多くの旅人が通る必要があるのに「行路が危険」「行路危(こうろぎ)」と
夜になると虫の「こおろぎ」がいい声でたくさん鳴くので「こおろぎ橋」とかけているらしい。
今でも木々や草の鬱蒼とした、深い渓谷だ。
私はこの「こおろぎ橋」の周辺の景観のよさにすっかり魅せられてしまった。
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