https://ameblo.jp/amenooshiwo/entry-12618193384.html 【.天地人を循環する大いなる生命】より
五島高資
平成十年は、長崎県・対馬の病院から栃木県にある母校の大学院に進学して二年目にあたり、朝から晩まで臨床と医学研究に没頭していた頃である。自由な時間はわずかだったが、折しも、インターネットが普及し始めた頃であり、ウェヴ上に俳句会「俳句スクエア」を創設した年でもある。
さて、平成十三年に第二句集『雷光』を刊行した。ちなみに、この句集には、俳句の国際化も視野に入れ、私自身による英訳も付した。そこに収録した句から平成十年に詠んだ三句について少しく自句自解してみたい。
滝壺に気を取り戻す流れかな 高資
芭蕉もかつて訪れた日光山麓にある裏見滝での作。落下する水と自分を同化させた物我一如の境地と言えば忸怩たるものがあるが、要は滝壺での水の再生と循環に想像を膨らませたもの。この流れはやがて鬼怒川へと注ぎ込む。
山藤が山藤を吐きつづけをり 高資
大河となった鬼怒川は母校の近くを南下して利根川に合流し、ついには太平洋へと至る。その河川敷は広大で、所々に、巨木が小山のように生い茂っており、そのてっぺんから山藤の花が次々と垂れ下がる。その空間的な形態美にまず圧倒されるが、「年年歳歳花相似たり」と思えば、太古から連綿と時を超える生命力の凄さに感動する。それはまさにオートポイエーシスという生命の本質でもある。しかも、巨木を他者として即応する自動制御は、自他などの二項対立的観念を超克する。ちなみに、蕪村が「北壽老人を悼む」を詠んだのもその下流の河畔である。
実は、数年前にも同じような光景を目にしたことがあった。それは対馬の久根診療所の窓から見た山藤である。そこは安徳天皇の陵墓と伝えられる山であった。安徳帝といえば、壇ノ浦に沈んだはずだが、そこにある遺構は、確かに宮内庁によって御陵墓参考地に指定されている。
口開けて叫ばずシャワー浴びてをり 高資
バブル経済が破綻し、まだその余波の中にあった平成十年は、これまでの日本人における人生観を大きく転換させる契機を孕んでいた。物質中心主義をうち捨てて禊ぎ払うかのごとくシャワーを浴びるのである。ちなみに、掲句におけるシャワーの水も鬼怒川から取水されたものである。
http://gototakaamanohara.livedoor.blog/archives/cat_3777.html?p=10 【滝壺に気を取り戻す流れかな 高資】より
ドンドン渕滝 五島市岐宿町 2013.1.5
前述した巌立神社から南東方向に権現山(松野尾辰五郎氏が天迦具山と比定)、久久能智神と大気都比売神を祀る新田神社、火之迦具土神を祀る平蔵神社、そして、伊邪那岐命と伊邪那美命を祀る六方神社が一直線上に並んでいます。また北東に浮かぶ久賀島には、大綿津見神を祀る塩浜神社、句々廼突神を祀る大開神社があり、五島市北東部には、伊邪那岐と伊邪那美とその御子を祀る神社が集まっています。なお、権現山の南西には、弥都波能売神を祀る河務神社、和久産巣日神を祀る松山神社、そして、金山毘古神を祀る金刀比羅神社が一直線上に並んでいます。「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」つまり「五行相生」という陰陽五行思想をそこに垣間見ることもできます。ドンドン渕滝は、笹岳(羽山津見神、月読命)に発した奥木場川が新田神社のある奥木場を過ぎて東シナ海へ出る直前に位置します。<木は気なり黒姫山に雨が降る>という金子兜太の句が思い出されます。
https://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/2293341.html?__ysp=5bGx6Jek44Gv5bGx6Jek44KS5ZCQ44GN44Gk44Gl44GR44Gm44KS44KKIOS6lOWztumrmOizhw%3D%3D 【山藤は山藤を吐きつづけてをり 五島高資(ごとう・たかとし)】 より
季語・・・山藤(やまふじ)・春
「俳句スクエア」主宰。長崎県生まれ、栃木県在住。
血液学の医師でもある。
五島高資は現代俳句のもっとも有能な作家の一人だ。
戦後、俳句の世界では伝統派俳人と新興派俳人との間で、これからの俳句について激しいせめぎあいと論争があった。
結局、両者は相入れることが無く、決別したが、その後の世代に伝統派の確かな「描写力」と「格調」、新興派の鋭い「感性」や「言語感覚」を併せ持った作家があらわれることになる。
私はその最たる作家が彼だと思う。
彼はまだ30代後半の作家であるが、早くから頭角をあらわし、伝統派、新興派の俳人両方から支持されている逸材である。
新興派の俳人によって結成された現代俳句協会のホープであるが、流派を超えた迫力と確かな実力を持っている。
近作では、
目の覚めて白河駅は銀河なり
という壮大で不思議な秀句も発表していた。
さて、掲句であるが、この句も現代的感覚と確かな描写力に満ちた傑作であると思う。
山藤は公園や神社などの藤棚に咲く藤の花とは違い、山の雑木に混じって長く、鮮やかな花房を垂らす野趣のある花だ。
その山藤が咲き継ぐ、荒々しく美しいさまを、彼は山藤が山藤を「吐きつづけている」と描写した。
この把握は「究極の写生」だと私は思う。
「写生」とは見たものをそのまま写し取ることではないのだ。
松尾芭蕉のいう「ものの光り」、つまり「ものの本質」を描写することである。
この句は、山藤の持つ野性的な趣と美しさという、その本質を見事に表現している。
「吐きつづけをり」という字余りが、句に迫力を与えていることも見逃せない。
彼の持っている言語感覚の冴えも伺える。
左右社@sayusha【今日の俳句 12】
口開けて叫ばずシャワー浴びてをり/五島高資
「叫ばず」とあえて言うことで、叫びたくなるような精神状態が表されています。叫んでも構わない場面でも口を開けるだけなのは、より追い詰められているから。シャワーに打たれる姿が滝行のようです。
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