https://ine-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_eeba.html 【文月や六日も常の夜には似ず】より
46歳の芭蕉が奥の細道の途中、新潟は直江津での作、
文月や六日も常の夜には似ず
七夕の前日、7月6日もいつもの夜とは何となく違う。七夕当日は耳目を集めるが、その前日に視点を移した所が芭蕉らしさ。「六日も常の」でなく、「六日は常の」と「は」表記した句も伝わっている(細道拾遺)。みのる君の好みとしては「六日は」の方を選ぶ。
前日を扱った句に、「たなばたや六日は唯のお星さま」(楚赤と云う人の作。元禄14年「枕かけ」)と云うひょうきんな句がある。芭蕉の句と比較すれば、優劣がはっきりする。
芭蕉は7月3日に新潟を出発、その晩は弥彦の宿に一泊。弥彦神社参詣。翌7月4日は出雲崎泊。5日は柏崎に泊まろうとするが、当てにした所で面白くない事があって、鉢崎(米山付近か)と云う所まで足を伸ばしている。翌日の6日に直江津到着。新潟から直江津間は右手に日本海を眺めながらの道中が多かったはず。
先にあげた「文月や」の翌日、七夕の日に「荒海や佐渡によこたふ天の河」を発表。海が荒れていたら佐渡は見えないし、当然天の川なんか見えない、天の川が見える時間は暗くて佐渡が見えない、などと云う言い掛かりを耳にしたことがある。ごもっとも。佐渡に天の川が横たわる季節に言及した意見もある。木を見て森を見ない事例だね。
https://shirakobato.exblog.jp/29151288/ 【文月六日】より
きょうは、旧暦で文月六日(7月6日)。あすが七夕。
日本経済新聞の1面のコラム「春秋」を読み、下記の芭蕉の俳句が掲載されていたので、ああ、そうだったかと気づいた次第です。
当方、5月16日(旧暦弥生二十七日)に「おくのほそ道への旅立ち」と題して記事掲載をしていました。あれから3か月余。
松尾芭蕉は、おくのほそ道の最北の地、現在の秋田・にかほ市の象潟を訪ね、南下して、越後の国に入り、越中の現在の新潟・上越市中央町(旧直江津今町)までたどり着いたところで、「文月や 六日も常の 夜には似ず」と詠んでいます。
句意は、七月も六日、明日は年に一度の、織姫と彦星の逢瀬の日で、いつもとは違って、艶めいた趣きが感じられることよ。でしょうか。(苦笑)
しらこばとは、幼いころ、祖母に聞かされて、ほんとに、天の川を渡るとばかり思っていました~(笑)
ふたつの星が接近することはありませんね。
織姫=こと座の「ベガ」と彦星=わし座の「アルタイル」は、およそ15光年も離れているということです。光の速さで出かけても、歳をとってしまう~ 興覚めでスミマセン。
そのあと、芭蕉は、およそ70年の後には良寛さんが誕生した出雲崎の地で、かの有名な「荒海や 佐渡によこたふ 天河」の名句を残しています。
これまたオチがありまして、この季節には出雲崎から佐渡島にかけて、夜に、はっきりと天の川がよこたうことはなく、まして、荒海の日に快晴であるはずもなく、あくまで、心象風景として詠んだのでしょう。
この絵は、「おくのほそ道」を英訳されたドナルド・キーン氏の「The Narrow Road to Oku」という対訳本の1ページからスキャンしましたが、1ページものの挿絵で、切り絵の大家、宮田雅之氏の作品です。
この書のたくさんの挿絵(切り絵)は、彼の代表作のひとつです。
すぐに気づくことは、かの有名な浮世絵師・葛飾北斎の富嶽三十六景のひとつ、「神奈川沖浪裏」ですね。模倣されての作品でしょう。ここでは、富士に代わって、佐渡島が奥に小さく描かれています。
https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2014/08/post-0796.html 【今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 58 越後路 文月や六日も常の夜には似ず】 より
本日二〇一四年八月二十日(陰暦では二〇一四年七月二十五日)
元禄二年七月 六日はグレゴリオ暦では 一六八九年八月二十日
である。この日、芭蕉は今町(現在の直江津)に到着、また弥三郎の紹介状を見せて当時の住職が眠鷗という俳人でもあった聴信寺という寺を訪ねたが、忌中につき宿泊を断られた。それを聴いた檀家の石井善次郎なる人物が呼び止めた。「曾良随行日記」には『○六日 雨晴。鉢崎ヲ晝時、黑井ヨリスグニ濱ヲ通テ、今町ヘ渡ス。聽信寺ヘ彌三狀屆。忌中ノ由ニテ強テ不ㇾ止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不ㇾ帰。 及再三、折節雨降ル故、幸ト歸ル。宿、古川市左衞門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各來ル。發句有』とあるように、まさに前日五日の柏崎の天屋(あまのや)の一軒のフラッシュ・バックであった。本句はその日の連句の発句であった。
直江津にて
文月(ふみづき)や六日(むいか)も常の夜には似ず
文月の六日も常の夜には似ず
文月や六日も常の夜には似ぬ
[やぶちゃん注:第一句目は「曾良俳諧書留」の句形。「其袋」(嵐雪編・元禄三年自序)には、
此國何トヤラいふ崎にとまりて、所の夷もおし入て、句をのぞみけるに
というやや穏やかでない(と私は思う)前書を附す。
第二句目は「泊船集」の、第三句目へ「俳諧 柏原集」(かしわばらしゅう・江水編・元禄四年自序)句形。
脇は石塚喜左衛門左栗なる人物(土地の有力な俳人か。亭主ではない)が、
文月や六日も常の夜には似ず はせを
露をのせたる桐の一葉 左栗
と脇を付けており、しかもこの連句には芭蕉の宿泊を断った眠鷗も参加している。ところがこの連句(おそらくは歌仙)、二十句で未完に終わっている。
――明日は牽牛織女の出逢う七夕という今日六日……夜空も祭前夜の町内もそうしてここにこうしている我らの心も……常には似ず何か艶めいた空気の中にいることだ――
というのであろう。
「奥の細道」の越後路の段を示す。
*
酒田の余波(ナコリ)日を重て北陸道の
雲に望遙々のおもひ胸をいた
ましめて加賀の苻まて百三十
里と聞鼠の關をこゆれは
越後の地に歩行を改て越中
の國一ふりの關に至る此間九日
暑濕の勞に神をなやまし病おこりて
事をしるさす
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河
*
■やぶちゃんの呟き
「百三十里」約五百十一キロメートル弱。これは酒田からの距離であろう。但し、酒田から長めに推定計測しても加賀金沢までの距離は実際には四百五十キロメートルは越えるものの、五百は越えないようだ。
「此間九日」酒田の次の大山着が六月二十五日(グレゴリオ暦八月十日)で市振着は七月十二日(グレゴリオ暦八月二十六日)で実際には鼠が関越(現在の山形県の新潟県境に在る)が六月二十七日だから、北陸路の日数と限定しても、事実は十四日である。諸本がこの大きな齟齬を問題にし続けているが、頴原・尾形注は『俗に「越後路九日、越中路三日」という』と注する。しかし安東はこれについて、そういう俗諺があるというが、『当時既にそういう云方があったかどうか分からない』と留保する。私は寧ろ、ここを実際より短く言ったことと、この「荒海や」の作中第一とも目される名句を配しながらその通称、越後路と呼ぶ章段が如何にもそっけなく短いことと無関係ではないと感じる。見てきたように、実は象潟のしっとりとした感動を含む酒田の愉しい思い出以降、この越後路では急転直下、腸の煮えくり返る意想外の乞食俳諧師扱いを受けることになった。それはある意味、思い出したくない部類の出来事であった。さすれば、完成した「奥の細道」では「暑濕(しよしつ)の勞(らう)に神(しん)をなやまし病(やまひ)おこりて事をしるさず」と圧縮・省略・割愛したのではなかったか? その忌避意識が自ずと時制をも短縮させたのではあるまいか?
そうして、そうした眇めでこの句を見ると「常」「には似ず」とするのは、何やらん、妖しい雰囲気とも読め、暗に不当なあしらいを受けた連中(前に述べた通り、その場には宿泊を拒んだ当の住職もいるのである!)への皮肉にもとれるのである。ここまでは大方の御批判を俟つものではある。
いや、この日数の齟齬はよく見ると、私には齟齬でもなんでもない、正しいものに見えてくるのである!
この段には「奥の細道」では数少ない、特定日を限定出来る日附が極めて例外的にある。それが本句の七月六日なのである。そうしてそれは次の「荒海や」の句がその翌日の七夕の句であると読めるように出来ている。とすれば、あくまで作品内の仮想事実(この場合、市振に着いた実際の日附が七月十二日であったことは実は全く意味をなさない。そもそも市振の段は日付の特定は出来ないのである)として、この句が七月六日の夜にようよう疲労や病いから解放されて、のびのびと創った句であるというのであれば、その直前までの文章は、一気に体調が回復するのは逆に不自然だから、少なくともその前日の七月五日か四日ぐらいに措定出来よう。そうするとそこから九日前というのは、先に示した実際の大山着である六月二十五日や鼠が関越の六月二十七日に限りなく一致するからである。「曾良随行日記」が発見されてこの方、多くの研究者はその実際的事実と「奥の細道」との齟齬とそれに基づく虚構の暴露に躍起となった余り、創作物としての「奥の細道」内の時間の中に身を穏やかに委ねるということに対して哀しいことに免疫を失ってしまったのだと私は思うのである。
基。翻って、寧ろ、以上述べたような生臭い現実を完全に払拭して、七月六日の日附を持つこの一見凡庸にしか見えぬ句とそれに続く名吟「荒海や」を虚心に眺めたならば、この句がまさにこの操作によって創作順を崩して「荒海や」の前に持ってこられているという事実が、この二句を以ってもっと連句的な付け合いとして読み解くことを別に可能とする。
即ち、本句が年に一度の彦星と織姫星を結ぶ妖しい艶なる天の川を引き出すならば、ここは一つ、荒海の彼方に妖しく蹲る悲劇の流人島とそこで流人らが恋い焦がれた本土との間に、一句の天の川を掛けてやろう、というのが「荒海や」をそこに配した芭蕉の感懐であったのである。
「荒海や佐渡に横たふ天の川」が名句中の名句である所以は、その字背にある歴史の中の心傷(トラウマ)としての流人島に纏わる非常に深く痛いノスタルジアに基づくものなのだと私は今、感ずるのである。]
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