東松浦郡史 ⑫

http://tamatorijisi.web.fc2.com/higasimatuuragun.html 【修訂増補 東松浦郡史】より 

大夫者忠常長子、母奥半信昌女、乃是大神宮外孫也、慶長十六年奉拜大神宮・臺徳公、時僅八歳、嗣父封邑領二萬石、及忠隣左遷雖不許登営、在城下而封邑如故、寛永二年蒙恩赦、謁臺徳公奉拜大猷公、三年十二月叙従五位下號加賀守、九年正月賜濃州加納城、倍増其禄食五萬石、十一年大猷公入洛、大夫奉迎于州立州股献駄餉、而扈従候京師、十六年改加納城賜播州明石城、又増封領七萬石、慶安二年改明石移肥前之州唐津城、又加禄秩総八萬三千石、唐津是名護屋近邑也、豊臣博陸曾曾諸将于名護屋、出大軍於朝鮮、其後移造域廓唐津也、今應精選守斯要地、可謂不辱其祖先負荷家風也、爾来或居封戒邊防、或至江府勤宿衛、往還各隔歳不違期、恩眷悃篤、寛文七年十二月在東、今大君幕下擇其耆老勤厚進階叙従四位下、明年臨西帰賞其累世忠勲、補西海九州鎮護職、備外国不虞之変、俗所称探題職是也、蓋治不忘乱安不忘危之謂乎、九年起居不快、然當参府期、輿病不辞海陸之遠、発途於府彌篤薬餌不験、藹末少間強登営拜臺顔遂其志、然不能復本而十年四月十九日、易簀至城西麻布第、享年六十七、葬於第南立行寺、蔵遺骨於京師本禅寺、因奕世之舊縁也、建塔號本源院日禅大居士、大夫資禀敦厚行実不好華飾、其動静進退之際、不暫忘奉上之敬雖在避方不向東伸脚、懐家士如体、愛庶民如子、故其一家能齊而従其令、其毎所治皆戴恩恵、其病篤時遺言令嗣令孫及家老等曰、先祖常善仕信光君以来至我九世、家族雖廣無一人肯懐異志者、就中我一派専高其門、非莫大之殊恩哉、我雖不肖守忠報恩之志無忘于心、今齢近七秋則生涯無遺恨、汝輩謹聴我言存忠義、使我開笑于泉下、所念是巳、死生有命何憂何懼。仄聞大夫不死婦人之手、乃使内子及侍女避退、又曰我属紘之後其葬送如平生之儀、勿令僧侶混之言畢而遂歿男子之手、可謂得正而斃臨大変不易其介者也。令嗣朝散大夫忠朝久近待幕下、少而任一隊士頭、声價既著、至此襲封唐津城、終喪拜礼累月賜官暇赴西鎮、辛亥之春、寄書於弘文院学士林叟曰、我家世譜事業卿所素知也、先考忠職守唐津城二十二年、委身於遠境、外則務職分、内則保忠赤、欲建一碑於茲以垂其名於不朽、卿作其詞銘則為幸。叟先父面視忠隣之執事、知忠常之大度、忠職不遣其舊而通信不絶、延及叟身、且朝散亦自幼識叟有由、則今何沮其懇請哉、然大勲之事容易難記、諾而不果、居諸推移促之不措、至于再至三、於是謹考譜牒録其殊功、略其繁挙其要如右、若夫詳語其戦攻之夥、則南山之竹、*(炎+リットウ)渓之藤不能盡之、今唯専記忠職事、於祖先叙其萬一而已、凡為人臣総国政居六鎮、自非備智勇兼寛猛、則不能當焉、所謂出将入相之美談而今古希有者也、今於此一家見之不亦偉也、鳴呼祖先手干戈衽金革、其労豈易言哉、子孫得大禄介景福、其栄有余也、開国之烈如彼、恩賜之饒如此、先大夫遺言良有以也、朝散守而不忽、則庶幾彌浴太平之化、永見家運之久也、係之以銘、銘曰、

 悠々曩祖 握弓東方、就務北越、避難参陽、和田之邑、果葉之卿、歴仕英主、世抽忠良、甲兵守壘、干戈啓行、如虎之猛、如龍之驤、執志惟一、積労無彊、揆乱反正、成功得祥、絳灌可比、賁育難當、任准房杜、恩侔金張、維此大夫、遙鎮西洋、九州之要、萬夫之防、節鉞在手、鐵石為腸、奉職不懈、追遠無忘、孝子継述、以久以易、

  寛文十二年壬子四月十九日     孝子唐津城主従五位下出羽守大久保忠朝立

    ○碑陰文

 夫立身揚名以傳家風高門戸、孝之大者也、肥州唐津城主大久保忠朝、以寛文十二年壬子、建先考忠職碑、以述其行実、附祖先勲績於其詞中、以顕其先烈、垂於不朽可謂孝之終也。延寶五年丁已之秋、宿衛江府、七月二十五日應召登営、徽音懇篤以列執政、且豪命改称加賀守以為父祖之號也、実是選挙之大任也、同年閏臘二十六日超階叙従四品、先是幹父之蠱、鎮西海一方之藩、監外国不虞之変、今又握闔国之權衡、為億兆之倚頼、則武林之声誉家門之栄耀、世々済其美、縄曾祖之武永余洪慶、介胎厥之福、鳴呼忠孝一也、君既克孝之終、則其忠赤之心不可不全也、然則身脩家齊而保其子孫黎民、而預聞国政有所遮幾乎。今茲戊午正月二十三日、以唐津遠隔江城改封下総佐倉城、彌々知恩眷脊之渥、於是請余記其趣於碑陰、述永不忘基迹之志也。

   延寶六年戊午四月十九日

                         弘文院学士林叟誌

 ○碑陰文

 日中則昃月満測虧、推之於天地而後萬物之理眼焉、五行変化四時推移、*(臣頁)之陰陽而後萬物之数覩焉、物数之間有理有数、始而始若環之無端也。

 執政相州小田原城主、従四位下侍従兼加賀守大久保忠朝、生於世勲之家、官禄兼備余慶傳家、寛文壬子之夏為祖先、立碑於肥前唐津、請我考作之辞、其後福履益加、延寶戊午之夏又請我考、迫書休徴於碑陰、庚申之春加賜食禄壹萬石、及秋任侍従、貞享丙寅之春改佐倉城移小田原城又増壹萬石、併舊領十萬三千石也。長子隠岐守忠増亦勤敷奏之事、別賜壹萬石、且管寺社之職務、丁卯之冬為麾下副執事也、顧夫自非祖先遣功勲之謀、則一門之美何以至於如此乎、拾遺奉先之孝不已不怠、追慕之情無息無絶、又請余記栄挙於碑陰、乃按其家系、則高祖七郎右衛門忠世、戦功無数勇名無倫、天正十八年庚寅辱遇恩選為小田原城主、曾孫相模守忠隣継父之封声誉盖世。慶長十九年甲寅有故触霆怒、避小田原城蟄居江州、一栄一悴皆生于寅歳、然家運未衰拾遺之父興復前烈、至拾遺彌高門楯、丙寅之歳又賜小田原城、時運之理自然之数可謂天人妙應者也、嘗聞徳踰於禄則不溢不顧、拾遺能謹其言能顧其行、事其上而竭忠致義、思其祖而立身揚名、則申福於一家、傳美於後昆、永久無彊也、豈不期之哉、豈不祝之哉。

  貞享五年戊辰四月十九日

                  弘丈院学士整宇林*(章*心トウ)誌

 公の墓域を管する壽因坊は其の北麓にありて僅かに名残を留むるばかりであるが、維新の頃までは左の如き扶持を有してゐた。今は東都大久保家より洒掃料として、毎歳些末なる金員を同坊に寄贈すると云ふことである。

  松浦郡山田村新田高貳拾石之所

  右者。為本源院殿石碑香華及洒掃、寄附耳壽因坊畢莫怠慢也。

   延寶元年丑十一月十九日

                             出羽守(花押)

  第二代 忠 朝

一、出 身

 加賀守藤原忠朝は右京亮教澄の第二子である。寛永十八年若君(後の四代家綱将軍)生誕ありしかば扈従に列せられ、慶安四年出羽守に任叙し、萬治三年冬扈従頭に転じ、寛文六年十二月始て采地三千石を賜はりしが、之より先既に*(广面示)米二千俵を給せられた。故加賀守忠職子なかりしかば、同十年春(紀元二三三〇)忠職の懇請によりて其の嗣子となり(三代将軍家光の晩年諸侯は予め血族を養ひて嗣子となすことを許した)。其の夏大久保家に入りて唐津八萬三千石を領し、延寶五年七月二十五日宿老の職に進み加賀守と改称した。同年閏十二月二十六日従四位下に叙せられしが、明くれば六年正月二十三日下総佐倉城に封を移され、松平和泉守乗久にかはりしが、藩鎮にあるや心を民治に用ひ、八年食禄壹萬石を加へられ、其の秋八月十八日侍従に任じ、貞享三年相州小田原に移り十萬三千石を食む。爾来大久保氏世々是に居る。元禄七年二月晦日五代将軍綱吉、忠朝が江戸の邸に成らせらる。蓋し一門の栄誉とするところである。この年二萬石加増の恩命に浴した。九年九月優待の仰を蒙りて月番を免せられ、十年十月十六日家を讓りて長子隠岐守忠増封を襲ぐ。忠朝病後の故を以て職を免じ木工頭と称し、髪を削りて木工入道と號した。正徳二年九月二十五日八十一歳の高齢を以て逝去す。大久保氏の任に唐津にあるは前後通じて二十九年間である。

  二 大久保氏の家臣大略

三千石   服部清兵衛    二千石  杉浦平太夫

千石    大久保彌右衛門  九百石  須田太郎兵衛

九百石   辻三郎兵衛    八百石  加藤孫太夫

八百石   山本十右衛門   八百石  近藤庄右衛門

七百五十石 孕石勘兵衛    六百五十石 大久保左兵衛

六百五十石 岩瀬長左衛門   六百五十石 大久保庄兵衛

五百石   吉野傳右衛門   四百七十石 富塚久太夫

四百七十石 渡邊武太夫    四百石  田中助太夫

四百石   片切宇右衛門   四百石  喜多太兵衛

四百石  山中杢太夫  旗奉行  石原善右衛門 相馬七左衛門

 其の他惣家中百石以上の知行者、合せて百八十余人を算す。

  四 近松門左衛門

   一 門左衛門と唐津

 我国文壇の大明星であって戯曲家の大斗たる、巣林子近松門左衛門は我唐津近松寺に多少の因由を有するものゝやうである。或は之を否定する学者も存するけれども、それとても明確なる証拠とすべきものを有するものでなく、僅かに一二史料に依りて推測するものと思はる。さりとて彼の近松なる一大文士が全然この地に信拠すべき歴史を有するものと断定し難しと雖も、多数の記録は彼が近松寺に因縁を有するものゝやうに云ってゐる。

 傳ふるところの一説に、同寺第四代遠室禅師が寺領の御朱印を徳川三代将軍に請願せんとて上府し、其の帰途、下ノ関の一旅舎に寄寓せる十歳ばかりなる幼き彼を見て、伴ひ帰りて寺房に置きたりと、』されど禅師が上府せしは同寺の記録に徴すれば慶安二年八月のことである。然るに巣林子が没したるは享保九年(紀元二三八四)にして壽七十二歳と云へば、其誕生は承應二年(紀元二三一三)に當りて、慶安は四年にして改元して承應と称すれば、禅師入府の後四年である。然るに彼がこの地に来りしは齢十歳頃なりといふ、禅師が在府期間は不明なれども、其の志望を遂げたる後十数年間帰山せざることはなかるべし。されば此の時彼を伴ひ帰山せしとも思はれざれば、其の後何等かの機會を以てこの山門に入りたるものであらう。後彼は二十数歳にして上洛せしと傳ふれば、恰も彼は大久保氏治藩の頃この地にありたるものである。今諸書に傳はれる彼に関する諸説を列挙しよう。

 「南水漫遊拾遺」

 浄瑠璃の作文歌舞伎狂言作者名人と世に聞えたる、近松門左衛門姓は杉森名は信盛平安堂巣林子と號す、越前の人(一説に三州ともいふ)、壮年にして肥前唐津近松禅寺に遊学し義門と改め、僧侶を数多門人となせしが、所詮一寺の主と成りては衆生化度の利益少しと大悟を開き雲水に出でしが内縁の舎弟に岡本一抱子といふ大儒の醫師京都にありけり、是に寄宿して還俗なし、堂上方へ勤仕の間有職を記憶し、其頃京師都萬太夫の歌舞伎芝居または浄瑠璃芝居宇治加賀椽、井上播磨椽・岡本文彌・山本角太夫などの、浄瑠璃狂言を著作せしが、貞享三年大阪竹本義太夫座より頼まれ、出世景清といふ新作を出されしが、竹本の戯文の書初にて、夫より生涯数百番の出作ありて英名海内に発し、看板または版本に作者の名を記す元祖とす。近松氏は元来衆生を化度せん為の信念より出作する戯文ゆへ、平常の草紙ものとは変り。俗談平話を鍛錬して愚痴闇昧の俗中の人情を貫き、神儒佛の奥義も残る所なく、著述する俗文は古今名人遖一流の文者ともいひつへし。俚俗いふ近松の浄瑠璃本を百冊読めば学ばずして三教の道を悟り、上一人より下萬民に至るまで人情に通じ、乾坤の間森羅萬象あらゆる事辨へざるといふ事なし、実に人中の龍なるべし、年耳順を過て享保九辰年十一月二十二日歿す、墳墓は八丁目寺町(大阪)法妙寺にありま々久々知廣済寺の過去帳にも法名あり。

   阿耨院穆矣日一具足居士     

 此の戒名は近松氏在世より設置たるとぞ、辞世二首詠草中にみゆ。

これ辞世去ほどに扨もそののちにのこるさくらか花し匂はば。

残るとはおもふもあろか埋火のけぬま仇なる朽木書して。

浪華金屋橋熊野屋某の家に、近松の墨跡二幅あり、一は美人の画賛一は辞世の詠草也。

楽天が意中の美人は夢のむつごと、僧正遍昭の詠中の恋は絵にかける女、とりかたにはたれかこれか作麼去物いはずわらはぬ代にりん気なく衣裳表具にものごのみせず。

                平安堂近松七十一歳狂讃

「仮名世説」

 代々甲冑の家に生れながら、武林を離れ、三槐九卿につかへ、咫尺し奉りて寸爵なく、市井に漂ひて商売しらず、隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、ものしりに似て何も知らず、世のまがひもの、からの大和のをしへあるみちみち、伎能・雑芸・滑稽の類まで、知らぬ事なげに口にまかせ、気にはしらせ、一生囀りくらし、今はの際にいふべき思ふべき、眞の一大事は一字半言もなき倒惑ごころに、心の耻ををほひて七十あまりの光陰、思へばをぽつかたき我経畢ぬ、もし辞世はとゝふ人あらば。

 それ辞世去ほとに扨もそのゝちに残る櫻か花し匂はば

 享保九年中冬上旬

  入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士

   不俟終焉期予自記春秋七十二歳

 のこれとは思ふもをろかうづみ火のけぬまあだなる朽木がきして。

 先のとし、浪花にありて銅吹屋熊野屋にて、みし事ありしが、これと同文なりしや、近頃浪花の梅園主人のために、近松の碑文を書きし事ありしが、近松は長門萩の生れにて、兄は名誉の醫師なり。門左衛門近松寺と云ふに遊学して、其の寺の僧罪ありて、寺門の側にて刑せられしをみて、自らいましめの為に近松門左衛と称せしとぞ。ある時兄の醫師、近松がよしなき浄璃瑠本を作る事をいましめし時、そこには和語の薬名の書などをつくりて、一字一画の誤りあらば、人の生命にかゝる大事のことなり、我らが作る所は、狂言綺語にして、人の害にならずと云ひしかば、兄も其の理に服し、さあらば中直りのため、伴れて大和めぐりせんとて、つれだちて廻り、世に傳ふる寺子供の手本の龍田といふものを書きしと、盧橘菴の物語なり。近松の碑文には其の事はもらししなり。

 近松の法名、穆矣且具足居士とするものあり、其の法名あやまれり。攝津大阪谷町法妙寺中に平安堂の墓あり、おのれ墓碑の石摺にしたるを蔵す、それにも且を日一の二字につくれり。思ふに近松は法華宗なればさもあるべし、旦操年代記に十一月二十二日とするもあやまれり。

墓碑の裏かげて終に残る所に如此あり。

          辰年十一月廿一日

「京攝戯作者考」

 長州萩の産にして、同藩の臣杉森某の男なり、名は信盛俗称平馬といふ、平安堂・巣林子・不移山人等の数號あり、卯花園漫録には越前の人とす、恐らくは誤りならんか、少して肥前唐津近松寺に遊学し、後京師に登り、或堂上に仕へ奉りて、爵六位を賜ふ。(錦小路頼庸朝臣の五五記に、一條禅閤に仕ふるよし、又江戸柳島法性寺境内に建たる近松翁が事跡を記したる碑石にも、一條禅閤兼良公に仕ふるよしを記しあれども、兼良公は文明中薨去ありて近松より二百余年の昔なり、もしくは此公に仕へし人の子孫にやあらんいぶかし、尚柳島の碑文を先に出す、併せ考ふべし)、元禄の頃仕官を辞して退て浪人し、近松門左衛門と名乗り、歌舞伎芝居都萬太夫が座の狂言の作をなし、又宇治加賀椽・井上播磨椽等か為に浄瑠璃を作る、其の後元禄三年庚午正月、京都より浪花へ下り、竹本筑後椽が為に浄瑠璃を数多著述し、其の名を世上に轟かせり、元より和漢の書籍を学び、博学にしてしかもよく時世の人情を察し、下情を穿ちて数百番の浄瑠璃を作れり、中にも国姓爺合戦(此狂言大當りにて三年打つづけり名誉と云ふべし)、雪女五枚羽子板・曾我會稽山等最其の妙を得しとぞ。享保九年辰十一月二十一日(種員曰・西澤一風子が外題年鑑には、平安堂の物故同年同月二十二日とあり)、七十二歳にて身まかりぬ、大阪八丁目寺町法妙寺に葬る、辞世の文左に誌す(戒號は世に有し時設置したる也といふ)。

江戸本庄柳島妙見菩薩境内所在石碑如左

 日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖

  近松門左衛門藤原信盛文碑

曾祖近松門左衛門信盛、長州藩之藩臣杉森某男也、後登京師、奉仕一條禅閣兼良公、賜筍立位、因老病致仕、而遊攝之浪華、享保九年甲辰十一月二十一日、七十有二歳而寂、則葬於攝津久々智山廣済寺、法號阿耨院穆矣日一具足居士、當百回之遠諱、収所遺草稿、而於北辰尊前納千石下、以樹文碑、且臨終辞世之狂歌一首、勒于石面者也

  文政十一戊子年十一月

                  曾 孫

       洛東山 近松春翠軒繊月

                戯名心庵蝶々子誌

                自足堂信尚書

 碑陰文

    辞 世

 それ辞世さる程に偖も其後にのこる櫻のはなにしにほはは

                 八十八翁儉

                   大阪 近松千葉軒

                   京都 同門蝶

                   江戸 同門三

「戯財録」

  近松門左衛門平安堂と號す。肥前唐津近松禅寺小僧古澗、碩学に依で住僧と成、義門と改む、僧侶を数多門人となせしが、所詮一寺の住持となりては、衆生化度の利益少しと大悟して雲水に出でしが、肉縁の弟岡本一抱子と云大儒の醫師京都にあれば、是に寄宿して堂上方へも還俗して勤仕の間、有職も大体記憶し、其の頃京師浄瑠璃芝居宇治加賀椽・井上播磨椽・岡本文彌・山本角太夫などの浄瑠璃狂言を述作せしが、貞享三年大阪竹本義太夫座に頼まれ、出世景清といふ新物を書しより、竹本の書始めにて、生涯数百番の新物を書作して、日本に名を発る、是より、看板または坂本に作者の名を記す元祖となりぬ。元来近松は衆生化度せん為の奥念より書作するゆゑ、是迄の草子物とは異なり、俗談平話を鍛錬して、愚痴蒙昧の者どもに人情を貫き、神儒佛の奥義も残る所なくあらはし、俗文は古今の名人、遖古今一派の文者といふもさらなり、近松の浄瑠璃本を百冊読む時は、習はずして三教の道に悟を開き、上一人より下萬民に至るまで、人情をつらぬき、乾坤の間にあらゆる事、森羅萬象辨へざる事なし、実に人中の龍ともいふべきものか、時に享保九年十一月廿二日卒す。(久々智妙見廣済寺に過去帳あり) 

  法名 阿耨陀穆矣日一具足居士

  辞世 それ辞世去ほどにさてもその後に残る櫻の花し匂はば

「藤井文学士の近代文学叢書近松門左衛門なる冊子中に」  翁姓は杉森、名は信盛、通称平馬、平安堂・巣林子・不移山人と號す、長州萩の人其の父祖を詳にせず、兄は相国寺の宗長老、弟は岡本一抱子といへる儒醫にて京師に住す、妹は錦江といひ俳諧に長じ大阪に住す。

 南水漫遊には椙森とす、後に杉に改めしならん。生国に関しては異説多し、「増補和漢書画一覧」に雲州近松村とす、これ畢竟村名に仮托せしものにて根據ある説に非ず。「竹豊故事」には単に京師の産とのみしるせり。「卯花園漫録」「嬉遊笑覧」等に越前の産とし、「橘菴漫筆」に北越の産とせるは、共に弟一抱子の養家が藤井侯の醫なりしより起れる臆測とおぼし。「戯財録」の一説に三州の人といへるは、浄瑠璃姫の故郷をや思ひ寄せけん。「浮瑠璃譜」には出生は近江国高観音近松寺御坊にて出家を嫌ひ、京師に暮し居られしとあり。塚越芳太郎氏の「近松門左衛門」に一説として周防山口の人とするも、実査の結果非なり。

 萩の舊臣に椙杜氏を称するものあり、其の傳ふる所に據れば、翁は妾腹の出にして、大津郡探川村の下屋数に生れ、父を椙杜主殿助三善廣品といふ。兄弟の事は「攝津名所図絵」の記する所に據れるが、兄宗長老妹錦江につきては、全く事蹟の徴すべきものなし。弟一抱子は出でゝ舅家を嗣ぐ、父受慶福井侯に仕へ法眼に叙す、一抱移りて京師に居り、味岡三泊に従ひ素難を講ず。

 少くして肥前唐津近松禅寺に入りて僧と在りしが、久しからずして寺を辞し、京師に上りて弟一抱子の家に寓し、還俗して一條家に仕へ、ほゞ有職故実に通ず。いくばくもなく仕官を退て近松門左衛門と名乗り、歌舞伎狂言及び浄瑠璃の作をなす。近松寺の碑銘には法名を祖門とせり、其の文に日く。

 仰海祖門上座者長門深川人也、従當山第四世遠室禅師而受業得度学識共卓絶、後遊京師、変姓名称近松門左衛門以著作浄瑠璃為業、享保九甲辰年十一月二十二日卒於浪華以遺言帰葬於當寺墓地。

  享保十乙已年六月二日

          當山六世現住鏡堂識之

 巣林子は二十歳前後既に京師にありたりとおぼしければ、一寺の住職となり、また大悟還俗説の如き如何にや。

 「嬉遊笑覧」は門左衛門が近松を名乗ること、三井の近松院にはあらざるか、其の故は「本朝文鑑追辞」の註に、昔説経者といひて、蝉丸の流む汲て三井の近松院に本寺とす、今の佐々羅といふものならむとあり。「仮名世説」の一説に、彼を三井寺門前近松寺破戒僧の一人なりといへるは、併せ考ふるに、彼が佛門生活は唐津の近松寺にあらずして京師に近き近江の近松寺なるべきか、江州出生説あるも旁々因縁なきにしもあらず。享保九年十一月廿一日大阪に歿す。行年七十二、墓は谷町寺町法妙寺と川邊郡久々智村廣済寺との両処にあり、法號は生前自命せしものなりといふ。両寺とも墓石は同質同形にて、さゝやかなる自然石に「阿耨院穆矣日一具足居士」「一珠院妙中日事信女」と夫妻の戒名を二行に刻み・裏面に享保九年九月 一日とす。法妙寺にも過去帳あるも、法號歿年等一切符合せずと。廣済寺は近松の檀那寺にして日昌和尚とも親善なり、同寺の寶物に、大納言実藤卿等の法華経二十八品和歌の巻物二巻あり、其の奥書に。

   和尚法華廿八品和歌一巻

 二位大納言実藤卿墨痕

 右

 奉納久々智山廣済寺

           近松門左衛門

と記せり。

 なほ寶物のうちに「釈尊涅槃之図」ありて、「近松門左衛門男杉森多門梅信筆、享保十二年丁未二月十五日」と落款せりと。

 其の他廣済寺には、「百講中列名」に、御縁十部の施主として近松の名を記せり。又同寺の過去帳に「享保元年申年九月九日智法院貞松日喜、本願人近松門左衛門母」とせるものなどあり。

 要するに巣林子の傳説は暗冥なり、群疑の府なり。今日知る能はざるのみならず今後も亦長く知るを得ざらん、父母を知らず、生地を知らず、出家の説も疑ふべく、埋骨の地も決し難しと。

「大正九年五月十六日大阪朝日新聞記事中に、大阪法妙寺に於ける新発見と題する、木谷蓬吟の文があつた、之を録して見れば」

   日本に三箇所の墓

 近松門左衛門の墓と称するものが日本に三箇所ある、肥前唐津の近松寺と、攝津久々智の廣済寺と大阪谷町寺町の法妙寺とである。中にも唐津近松寺のは、まことに根據のないもの信ずるに至らぬと云ふ定説になってゐるから、残るは久々智廣済寺と大阪の法妙寺とである。ところが此両寺にある翁の墓なるものは、青の自然石で殆んど同じ形同じ大きさで、碑面にも同じ字体で「阿耨院穆矣日一具足居士」「一珠院妙中日事信女」の二つの法名が二列に刻まれてある。この相似た墓石が奇妙にも両寺に存在してゐることが、従来近松研究者の疑問の的となり、それに就いて種々の観察や評論が試みられてゐね。併し私は寧ろそんな事よりも、近松夫妻連名の法名が碑面に刻まれてあることに疑ひを抱いてゐた。処が今回法妙寺に於ける発見の新事実に由って、図らずも此等の疑問が氷解された。此相似た両寺の墓に就ては、廣済寺の方が元の墓石で、法妙寺のは其模型だと云ふ説が普通になつてゐる。それは近松姓を名乗る近松崇拝の戯作者や、他の芸人等には廣済寺参詣が遠路で不便なので、近い大阪の町に其模型を建てたのだと云ひ、或は三代目中村歌右街門(梅玉)が、年老いて参詣に都合が悪いため同形のものを法妙寺に建立したのだとも傳へられてゐるが、歌右衛門の晩年と云へば文正天促の頃(天保九年歿)であるから、是れより二十余年も先き、寛政年間太田南畝の「仮名世説」には既に「大阪谷町法妙寺に、近松の墓あるも云々」と記されてゐるから、以上の説も當にはならない。又弘化四年二月、翁の曾孫と称する近松門三郎(春の家繊月)が翁の百五十回忌を営み、廣済寺と法妙寺にて佛事を行ひ両寺の墓を修復したとも云ふ事実があり、其時此両寺に現存の墓が建てられたのだと云ふ説もあるが、私の考へでは此時は文字通りの修繕に止まって、少くも法妙寺現存の墓石(裏面上部の欠けた)は、既に寛政當時に存在したものであらうと思はれる。

  廣済寺と近松との関係

 久々智廣済寺と近松との深い関係は今更言ふまでもないが、単簡に其切っても切れぬ繋がりを云つて見ると。同寺の住職日昌上人(正徳享保頃の人)は、翁が其隠居所を書室として居たと云はれる大阪寺島(今の松島)の船問屋、尼ケ崎屋吉右衛門の男に當る関係から、日昌上人と翁とは親交があったこと又、廣済寺の本堂を一個人で建立した大信者山本治重の子は、近松浄瑠璃本の出版元正本屋山本九右衛門であったから、自然當寺を挿んで翁と正本屋との関係が推知されること。同等開山講中列名にも近松門左衛門、正本屋九右衛門の名が見え、外に近松から母追福の為めにと寄附した。二位大納言実藤卿の筆慈鎮和尚法華経二十八品、和歌二巻も現存してゐることなど。日常翁が廣済寺に来住したのは事実であって竹本筑後椽(政太夫)や播磨小椽(政太夫)等と相携へて参詣した事もあらうと想はれる。船問屋の富豪の息子から佛門に入りたといふ日昌上人の中心にして、文豪巣林子や浄曲道の偉才義太夫、政太夫や出版界の才人正本屋九右衛門などが新興芸術に就て縦横論議を闘はした當年の廣済寺は、さながら名優の舞臺を観るやうである。

 谷町の法妙寺の方は単に翁の墓石があると計りで、寺には何の資料記銘も存してゐなかつたため全く世間から閑却されてゐた。そこでこの方は、水谷不倒氏の説(近松傑作全集序論)のやうに「碑面に鐫れる文字は凡て廣済寺に存する所の過去帳によりて刻めるものなるべし」といはれ、全く廣済寺の模擬に過ぎないとまで論ぜられ、廣済寺は「杉森氏の菩提所として比較的信を置くに足るべきものあり」とあって、世間も斯く信じてゐた。

 妙法寺に於ける新発見

 私は前にも云ふた通り、両寺の墓共に翁と其妻女とを連記したことが普通事でないと思うてゐた。そして又仮りに法妙寺のを廣済寺の模形と見、且つ近松信仰者参詣の便宜上建てられたとしても、それを何故法妙寺に限定したか(他にモツと参詣に便利な寺、天王寺一心寺などもある)、といふことも疑問の一つになってゐた。然るに今度法妙寺に於ける一発見から、同寺と翁との関係に動かす可からざる証拠が上ったと同時に、その墓石に夫妻連記の理由や、特に法妙寺に限つての墓碑建立の理由が明白になった。私は曩に廣済寺で翁の妻女「一珠院妙中日事信女」の系図に就て調べたが要領を得なかった。

 去年の暮、大阪谷町寺町法妙寺に近松翁に関する古記録、竝に末孫近松鶴太郎氏なる壇家の現存することを報ぜられたが、其古記録なるものを拝見すると、それは古い過去帳であった。元来この寺の先代住職時代には、翁の墓に関する調査も一向に冷淡で捨てあったのを、現時の住職高見智静師が熱心に、古葛籠の底を覆へして古記録整理に着手せられ、浄曲研究家藤井呂光氏が協力対査の結果、近松翁の妻女-松屋太右衛門の母-の系統が連続登記されてゐる事を見出した。即ち此寺は、翁の妻女の出身である松屋一統の菩提寺であることが確実に発見されたのである。左に過去帳から松屋一家(翁の外戚)の記載を抜記して見る。

 玉清院浄心日愛信士(寶永五年三月六日)門左衛門内方父▲妙吟(正徳二年六月四日)松屋太兵妻▲良仙(享保十一年四月十二日)松屋太兵▲顕本妙退(享保十八年七月二十四日)松屋多右衛門妻▲了善日埋信士(享保十六年三月十六日)松屋仁兵衛父▲妙耀童女(享保十八年八月五日)松屋太右衛門娘▲〇一珠院妙中日事信女(享保十九年二月十九日)松屋太右衛門母▲道秀(元文五年十二月十一日)松屋治良兵衛▲妙憐(寛保三年二月二十日)松尾治良兵衛母▲妙室信女(延享二年十一月二十三日)松屋治良兵衛妻▲夢幻(延享三年一月二十一日)松屋太右衛門子▲通閑(寛延三年九月十二日)松屋太兵衛▲智秀(寶暦六年八月二十一日)▲信解院妙敬日典信女(寶暦八年五月六日)杉森由泉妻▲妙幸信女(寶暦十年六月十七日)松屋喜兵衛妻▲○信敬院由泉日亮信士(寶暦十一年八月二十八日)杉森由泉事京屋庄七、

 右のうち「信教院由泉日亮信士」杉森由泉とあるは、正しく翁の本姓(杉森信盛)の杉森氏を冐したるもので、想ふに翁が最も親近の一人ではあるまいか。そして最近に発見された同寺無縁墓中の一碑には松屋太右衛門妻、杉森由泉、同妻女松屋太右衛門娘及び松屋太右衛門らしい人の法名が、竝んで刻まれてあるを見ても、杉森由泉と松屋との繋縁を知ることが出来る。又杉森由泉の過去帳記載に「杉森由泉事京屋庄七」とあるは考証の結果、多分杉森由泉事京屋庄七の父」の誤記らしい、そして此京屋庄七こそは現存の近松翁墓石の臺石に刻まれた「施主正七」であるまいか(正七と庄七、太右衛門と多右衛は恐らく同人であらう)。若し仮りに然りと推定すると、法妙寺に於ける翁の基は、翁の本姓杉森を名乗れる杉森由泉の子(又は一族)京屋正七の建立であると云ひ得る。尚は詳しく言添へると正七は京屋を名乗るも松屋一家の出である事は、前記発見の無縁墓碑面、法名併記の関係に見ても明かである。

 これを要するに、法妙寺は由来近松翁の妻女一家の菩提寺であることは、最早疑ひもない事実で、この墓の建立者は妻女側の系統松屋一家である京屋正七かとも想像されるのである。兎に角翁の歿後、妻女側の松屋一家の何人かに由って建てられたことは推定に難くない。斯う説き進んで来ると、翁の碑面の妻女の法名を併記した所以(後に妻女側の一家から建てた一証)も、特に法妙寺に建立した理由(妻女側の菩提寺である一証)も、容易に了解することが出来る。廣済寺は翁が最も因縁深い寺、法妙寺は妻女側の最も因縁深い寺といふことになる。それでは翁が安住の埋骨地は孰れかといふと、これは容易に断定する事は六つかしい、併し現存の墓は、以上述べる所から観ると、廣済寺側に反証の挙らない以上、法妙寺のを先とし廣済寺のを後とするのが妥當ではあるまいか、妻女の法名を併記した点から観ても、法妙寺の臺石に施主正七と刻まれた点から観ても。

  二 諸説の批判

 余之を接ずるに、巣林子が少時唐津近松寺に関係なきが如くするは、「仮名世説」の一説に、三井寺門前の近松寺の破戒僧の一人なりと云へるもののみである。「嬉遊笑覧」には三井の近松院が声曲に関せし点より疑問を存してゐる。其の他の記録には或は出処一にして全く同一文字を羅列するものなきに非ざれども、子が唐津近松寺に関係あることを否定するものはない、多数説必ずしも是なりと首肯すべからざれども、有力なる否定の據証を有せざる限りは、多数の説に従ふは無理ならざる道理である。然れども當地近松寺の墓所は子の遺骸を*(ヤマイダレに?うずめる)むるものなるか疑なき能はず、久々知廣済寺は子の帰依寺にして縁故浅からず、有力なる過去帳及其他に信拠すべき史料の存するは、文学叢書中に云へるが如くである。また朝日新聞記事によれば大阪法妙寺なるかの如き観あれど、同寺は唯子の妻女一族の縁故探しと云ふにあり、さりとて同寺に埋葬したりとも判断し難い。要は唐津近松寺に埋葬すると云ふは最も疑はしき事である。當唐津近松寺の子の墓碑の隠し銘中に、遺言を以て當寺に帰葬するといへるは疑問の一であって子や少時唐津に多少の因縁を有すとも、元これ唐津は子の故郷に非ず、また子が活動の生涯五十年間は京阪の地にあり、安ぞ其の帰依寺を捨てゝ遠く西陲の地に帰葬するを望まんや、且つ其の歿年月日のうち廣済寺のものは享保九年十一月二十一日とし、唐津近松寺の碑銘は同廿二日となす、確に翌十年に帰葬せしものならんにはかゝる忌日に疎漏を来すこともなかるべし、猶また其の帰葬するが如くんば、予て子が活動中に於ける動静につき何等かの音信其の他に関する消息手蹟存せざるべからず。されば當唐津近松寺は大文豪巣林子が少時の因縁を有する点より碑を立て其の分霊を祭祀せしものであらう。現に當藩主寺澤堅高・大久保忠職・水野忠光諸公の如き、當地に分霊崇祀して其の徳を後昆に遺して居る。巣林子の如きも其の類例の一なるべし。よし唐津近松寺の墓碑下に彼の大文豪の肌骨を*(ヤマイダレ*えい・うずめる)めずと雖も、其の偉霊は永久に鎮座するものであれば、其の碑の意義も萬世の後に失することはない。

 詮ずるに巣林子の生地は長州萩にして、少時唐津近松寺に居り、壮年にして京阪の地に遊び、彼戯曲を大成して雷名を竹帛に轟し高齢を以て攝州に歿し其の地底に永眠するものと思はゞ誤り少かるべきか。

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