蚶満寺

https://09270927.at.webry.info/201502/article_23.html【旅 426 蚶満寺(1)】より

 天気予報で分かっていたが、朝から雨である。この旅は雨模様が多くスッキリした天気に恵まれることが少なかった。それでも晴れ男の私は、小雨が小休止するなか神社仏閣などを回れてきたことに感謝している。

 しかし、今日の朝からの雨は本格的で、さすがにめげてしまった。秋田では秋田城跡や古四王神社などを訪れるつもりであったが諦めて帰ることにした。

 帰ると決めたら撤退は早い。国道7号線を南下した。それでも秋田県を去る前に象潟の蚶満寺には寄ろうと考えた。この旅で芭蕉に何度も会ったので、芭蕉に敬意を表する意味も込めて奥の細道で芭蕉が訪ねた最北の地に寄ろうと考えた。

 途中「すき家」で朝食を食べた。味噌汁が美味しかった。地元の味噌を使っているのであろう。

 国道7号線を南下して象潟町に入る前に金浦町がある。ここの地名は、もとは「木の浦」と書かれていたが、慶長(1596~1614)の頃から金浦と改められたという。北隣の平沢、南隣の象潟と並んで有数の漁港であった。この地域の領主は変遷をくりかえした。仁賀保氏→酒井氏→生駒氏→本荘藩六郷氏と変遷した。

 対馬海流の影響か秋田県内で最も温暖な地で、県内で一番先に桜が咲くという。タブの群生地として県の天然記念物に指定された森もここにある。タブは別名「モチの木」とも呼ばれ暖地性の常緑樹である。日本海側では、この地が北限と考えられ、秋田県内では象潟と金浦を結ぶ海岸の地域に限られている。金浦が「木の浦」と呼ばれたのはこのような情況からかもしれない。

蚶満寺(1)

 象潟まで来た。左折して羽越本線を渡ったところに蚶満寺の駐車場があった。

蚶満寺は秋田県にかほ市象潟町象潟島にある曹洞宗の寺である。

現地説明板より

『 蚶満寺の由来

 皇宮山と称し、古くは仁寿3年(853)に、比叡山延暦寺の慈覚大師円仁が開山したといわれ、はじめは天台宗に属していたが、のちに真言宗そして曹洞宗に改宗し、現在に至っています。正嘉年間(1257~1259)北条時頼が諸国行脚の途中この寺に立ち寄り、「干満寺」と改めたと言われています。この干満の文字が神功皇后の伝説にある「干珠満珠」を連想させるところから、「干満珠寺」とも呼ばれ、奥の細道には干満珠寺の名で出てきます。

 蚶満の名の起源についてはこのあたりを古くは「蚶方」と書き、寺名も「蚶方寺」であったものをいつの頃からか、蚶万寺と読みまちがえ、文字を改め、蚶満寺にしたといわれています。 』 

 説明板の由来では、何といういい加減な理由で「蚶満寺」になったのだろう。平気でこんな由来を書いていて、バカにされないのだろうか。大事な寺の名の漢字を間違えられ、それを誰も指摘しないで、そのまま定着してしまうなどということは、寺の権威に関わり、寺としては恥である。

 蚶方寺→蚶万寺→蚶満寺 は不自然すぎる。

 駐車場の南側はこんもりとした丘になっていた。この場所は今でも住所が象潟島であり、象潟島という島であった。象潟の古名が「蚶方」であったことから、古くは蚶方(きさかた)島と書かれたのであろう。

 「蚶」とはアカガイの古名で「キサガイ」と読むことが多いという。

 古代の寺院は延暦寺のように年号を冠した寺院は特別で、飛鳥寺・清水寺・壬生寺のように、地名をもって寺号としたことが一般的だったようで、創建時は、「蚶方寺(きさかたてら)」が、この寺の古名にふさわしいという説が穏当だと考える。

 奈良期称徳天皇(764年)のころ、蚶方(かんぽう)法師という僧が神功皇后の霊夢を見てここに庵を結び、皇后殿を建立したという伝承もある。

 何れにしても、この寺は蚶方寺と書き、「きさかたでら」あるいは「かんぽうじ」と呼ばれていたのであろう。

 その後、地震により廃絶していたが、853年(仁寿3年)に慈覚大師が東北巡錫の時、この寺を再興し、その名も干満寺、あるいは干満珠寺と名付けたようだ。

 円仁が名付けたのが干満寺ならば、潟が浅く潮の満ち引きが顕著だったからだろうし、干満珠寺ならば、神功皇后伝説の「干珠満珠」からであろう。

 この寺が古くから神功皇后との縁を語っていたのは確かなようだ。ここで、神功皇后伝説を見ておく。

 神功皇后の伝説とは、神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着し、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、そのとき皇后は臨月近かったので清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終えたという『蚶満寺縁起』所載の伝承である。その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったという。蚶満珠寺の名は、干珠・満珠を皇后が持っていたことに由来するとされる。

 蚶満寺は一時真言宗の寺になっているので、カンマン(不動明王の真言の一部)という梵語より寺号がおこったという説もある。

 私は、蚶方寺→干満寺(干満珠寺)→蚶満寺 の寺名の変遷が一番自然だと感じる。

 漢字を間違えて、 蚶方寺→蚶万寺→蚶満寺 は愚かすぎて不自然だ。大体、「蚶萬寺」と書いても「蚶万寺」とは書かなかったと思う。

 

 芭蕉は「奥の細道」で干満珠寺と記しているので、元禄2年(1689)当時は干満珠寺が一般的であったのだろう。

現地説明板より

『 新・秋田八景(平成4年選定) 蚶満寺と九十九島

 慈覚大師の開創と伝えられる蚶満寺には、西行法師や北条時頼が訪れたとされているほか松尾芭蕉や小林一茶など多くの文人たちが訪れており、境内や寺にはゆかりの旧蹟や筆蹟が遺されている。

 蚶満寺の周辺一帯は、かつて九十九島といわれるたくさんの島々を浮かべた潟であり、松島と並び称された景勝地であった。しかし、文化元年(1804)の大地震で象潟は隆起し、一夜にして陸地となった。当時の島々は現在、水田に点在し、春の田植え時は水面に浮かび往時をしのばせ、夏は深緑、秋は黄金色、冬は雪景色の中と四季折々の風情を見せることができる。

 「象潟」は昭和9年に国の天然記念物に指定されている。

 秋田県 にかほ市  』

画像

 芭蕉が訪れた時には、写真の田んぼの部分が全て海であり、木が茂っている部分が島であった。

 ここを訪れた多くの芭蕉ファンは、みんなこの西施像や芭蕉像や句碑の写真を撮るのだろうと思いながら、私も写真を撮った。

 句碑には、

「 象潟の雨や西施がねぶの花 」 とあった。句を知っているから読めるが、そうでなければ達筆で読めない。

 奥の細道には、「 象潟や雨に西施がねぶの花 」 とあり、一文字違っていた。推敲前の初案である。

 “ねぶの花”は「合歓の花」のことで、合歓(ねむ)の木は、夕方から夜の間は葉が閉じることから、ねむる木と言われ、それで「ねむの木」と呼ばれるようになった。合歓の木は7月ごろ、白または淡紅色の花をつける。

 美智子皇后作詞の「ねむの木の子守歌」は有名だ。

 木や花の知識がない私も合歓の花は知っていた。山道を走っているとき、妻があの花は何か訊いた。花の知識のない私だが、知っていたので、あれが合歓の花だよと自慢げに教えてあげたのを思い出した。

 合歓の花は、町の花に指定されているという。

 西施のことも知っていた。「西施の顰み(ひそみ)に倣う」という言葉を知っていたから、西施についての知識もあった。

 石碑に西施の説明が刻まれていた。

『 西施 (中国四大美女の一人 紀元前502年~470年頃没)

 中国の春秋末期時代、越国苧羅村(今の浙江省諸曁(しょき)市)の人。呉・越の両国が、「呉越の興亡」と呼ばれるほどの争いをしていた国難の世に彼女は生まれた。

 越王勾践は会稽で敗れると美女西施を呉王に献上し、呉王の心を乱し、政治を怠らせる政策を立てた。西施は越の救国のためならと呉国に赴き献身的に呉王に尽くした。後、呉国を滅ぼし会稽の恥をすすぐや、越国では西施を愛国精神を具えた天下第一の美女として讃え、現在まで広く伝えられている。

 救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女西施を、俳人松尾芭蕉は松島に比べて「うらむがごとし」と象潟の風景に似通うものとして俳諧の世界に生かした。その句が「奥の細道」に見られる次の句である。

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

 この句が縁で、象潟町が平成2年から、平成17年からはにかほ市として西施の故郷中国浙江省諸曁市と友好関係を深めています。

 にかほ市 象潟町日中友好協会  』

 にかほ市は、この句が縁で、西施が生まれた中華人民共和国浙江省諸曁(しょき)市と姉妹都市提携を結んだという。芭蕉の影響力は国を越えた。

 敵国の呉王の愛妾となり、呉王夫差(ふさ)を骨抜きにしてしまうとは、西施もまた傾国の美人であったことは間違いない。

 それにしても中国はすごい。紀元前5世紀のこともしっかり伝わっている。「呉越同舟」という諺まである。それに引き替え日本はわずか1300年前のことすらはっきり判っていない。3世紀の卑弥呼や邪馬台国のことすら中国の史料に頼らざるを得ない。

 「 象潟や 雨に西施が ねぶの花 」

 この句を、どう捉えるかは難しい。これについては最後に述べたいが、今は一般的な解釈を試みる。

 まず、“ねぶ”が、西施が目を閉じ、眠るがごとき顰みの表情をすることと、合歓(ねむ)の花の掛詞になっていることが分かる。

 私は、

「 雨にけむる象潟の景観は、雨に濡れて咲いている合歓の花のごとく、顰みの表情すら美しい西施が漂わせる美に通じるものがある 」 と解釈してみた。

 大きな「九十九島(つくもじま)の碑」があった。

現地説明柱より

『 九十九島の碑

 象潟地震百年を記念して明治39年11月に斎藤宇一郎代議士の讃助を得て落成。篆額は閑院宮載仁親王で、撰文は文学博士三島毅、書は明治の三筆の一人と言われた日下部鳴鶴である。この碑文には象潟の変遷が刻まれている。 』

現地説明柱から

『 蚶満寺山門

 建造年代は不詳であるが、江戸時代中期と推定され、矢島藩主生駒家から寄進されたと伝えられる仁王像が納められている。 』

 山門は木造切妻造瓦葺の八脚門(12坪)。

 山門だが仁王像が安置されいるので仁王門と言ってもいいだろう。仁王門と言えば参道を進む人を威嚇するように仁王像が正面から見えるものが多いが、ここの仁王像は、八脚門の中にあり、内側を向いて門を通り抜ける人を睨んでいる。

 山門の前後の2間が板のはめ殺しになっているのは、仁王像を守るためのものだろうか。海が潟の中まで入り込んでいたころならば、塩害から仁王を守る必要があったかもしれないが……。

 山門の瓦には、蚶満寺が閑院宮(かんいんのみや)家の御祈願所になっていることから、菊の紋章が用いられている。

 蚶満寺が閑院宮家の御祈願所となったのは文化9年(1812)で、同寺にある閑院宮家からの墨付一巻も市の文化財に指定されている。

 蚶満寺が閑院宮家の御祈願所となった陰には、文化元年(1804)の大地震で象潟が隆起して陸地となった後の経緯があるようだ。

 象潟は、「東の松島、西の象潟」と称され、扶桑第一といわれた名勝であった。遠浅の潟であり、八十八潟・九十九島の松の緑が美しい絶景であったという。領主の六郷氏も領地内に名勝があることを誇りにして景観を保護していた。

 しかし、1804年(文化元年)の鳥海山麓一帯の大地震によって海底が隆起し、一夜にして陸地と化してしまった。

 領主六郷氏は、新田開発の事業を起こし、隆起後3年、総面積150余アールの稲田に変わってしまった。

 更に残った島々を崩して開田に取り組もうとした。土地問題もからみ蚶満寺24世全栄覚林が九十九島の保存を主張した。

 覚林は神功皇后伝承があることなどから、寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。

 覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。

 蚶満寺では今でも覚林和尚の命日には供養をしているという。天保6年(1835年)28世の活山和尚も再興に力があったという。

 このような人々の熱意によって今の景観が保全されてきた。

 現地説明板より

『 天然記念物 象潟

 およそ2500年前に鳥海山が大きく崩れて岩なだれが発生し、海に流れ込んだ岩の固まり(流れ山)は多くの島々となり、やがて島々を囲むように砂嘴が発達して一帯は入れ江となった。島々には松樹が茂り、水面には鳥海山を映し、松島と並ぶ景勝地として象潟は広く知られることとなった。

 しかし、文化元年(1804)6月の大地震によってこの地域は隆起して陸地となり、往古の潟は一変して現在の稲田と化したのである。

 象潟は、火山活動および地震による土地の変化を示す自然記録として学術上の価値が極めて高いため、昭和9年1月22日、国の天然記念物に指定された。

 文部科学省 管理団体 にかほ市  』

 境内に入るのは有料であるようだが、料金所に人がいなかった。中に入れば人がいるだろうと思い境内に入った。私の他にデイパックを背負い、その上から透明なビニールレインコートを着た熟年夫婦が一緒だった。

 本堂の屋根には北条氏ゆかりの三ツ鱗があった。

 寺伝では、正嘉元年(1257)8月、鎌倉幕府5代執権北条時頼(最明寺入道)が象潟を訪れて、「四霊の地」と定め20町歩の寺領を寄進し再興したとされる。

 北条時頼(1227~1263)は、「廻国伝説」で知られるが、これは史実ではない。時頼は執権を退き出家して最明寺入道と名乗ったあとも、実権を握っており、天皇家で言う院政のような政治形態を築き、得宗家の元を作ったと言われる。正嘉元年(1257)、30歳の時に象潟の地を訪れている余裕はない。時頼は36歳で亡くなっている。

 時頼は善政をしたかのように言われるが、それは名門ではない北条氏が政権を維持するためには人気取りをする必要があり、民衆や地方の御家人に対しては締め付けが緩やかであったからだという。

 寺には北条氏との由緒を物語る多くの文献や遺物が現存しているという。寺紋も北条氏ゆかりの三ツ鱗の紋所が使われている。

 蚶満寺が北条氏の何らかの援助は受けた可能性はあるが、北条時頼の廻国伝説は史実ではないので、私は北条時頼は東北には来ていないと考えている。

 東北には円仁開基の寺が多いが、その全てが円仁の開山開基ではなく円仁グループによるものであるように、北条氏による援助は全て北条時頼に仮託されたのであろう。


https://09270927.at.webry.info/201502/article_24.html 【旅 427 蚶満寺(2)】より

 見学料は300円だった。高くはないが、しおりがお粗末なものだった。一緒に見学した熟年夫婦は芭蕉や蚶満寺のことを調べてきたようで、いろいろ教えてくれた。

 蚶満寺には七不思議があるという。あまり信憑性があるものではないようだ。

樹齢700年の椿で、寺に異変があるときは夜泣きするという。(七不思議「夜泣きの椿」)

 芭蕉はバナナの木である。象潟一帯は秋田県内で最も温暖な地である。暖地性の芭蕉も生育する。

 なぜ、松尾芭蕉は“芭蕉”と名乗ったのかは諸説あるが、別の機会に述べたい。

 本堂の裏へ回るとき、本堂から庫裏へ繋がる部屋の中に巨大な神像のような物が見えたので写真を撮った。狛犬のようなものも見えた。 蚶満寺の本尊は釈迦牟尼仏だというが、神像も祀っているようだ。

 山号が皇宮山というだけに、何だかこの寺も神との繋がりがある寺なのかもしれない。開基が円仁であることが気になる。

 北条時頼が植えたと伝えられる二株のツツジのうち一株は普段は花が咲かない。寺に異変がある年に限り咲くという。樹齢700年以上という。(七不思議「咲かずのツツジ」)

 樹齢1000年以上と伝えられる大きなタブの木があった。

 肥前島原の西方寺にあった親鸞聖人が腰掛けたとされる石。安永6年(1777)切支丹ノ変を避けるために信者が蝦夷地に輸送中、シケにあい、象潟に陸揚げしてここに納めたものであるといわれている。

 「舟つなぎ石」は芭蕉が船から降り場所だという。

 蚶満寺のあった島は、象潟島といった。

 何代目かの桜の若木。まるで存在感なし。伝承ではあるが、1174年、この地を訪れた西行法師が「蚶方の桜は波にうづもれて 花の上漕ぐ海士(あま)のつり舟」と詠んだという。

 平安初期の三十六歌仙の一人の猿丸太夫が、象潟に来た時この井戸に自分の姿を映して自らの行く末を占ったとされている。夜半だれにも知られず井戸に参り自分の姿を映せば、将来の姿が現れるといわれている。(七不思議「姿見の井戸」)

 猿丸大夫は生没年不明で実在についても不詳。私は秘かに柿本人麻呂の異名ではないかと思っている。

 小倉百人一首にある、

「 奥山に 紅葉ふみ分け なく鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき 」 は、私の好きな歌の一つだ。

 『奥の細道』の象潟の部分を見てみる。

『 江山水陸の風光数を盡(つく)して、今象潟に方寸を責む。酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて其の際十里、日影やゝ傾(かたぶ)く比(ころ)、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧(もうろう)として鳥海の山かくる。

 闇中に莫作(もさく)して、「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色(せいしよく)又頼母敷(たのもし)き、蜑(あま)の笘屋(とまや)に膝を入れて、雨の晴るゝを待つ。

 其の朝、天能(よく)晴れて朝日はなやかにさし出づる程に、象潟に舟を浮ぶ。先づ能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)を残す。

 江上に御陵(みさゝぎ)あり、神功后宮の御墓と云ふ。寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)と云ふ。此の処に行幸(みゆき)ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。此の寺の方丈(ほうじょう)に坐して簾(すだれ)を捲けば、風景一眼の中に盡きて、南に鳥海天をさゝえ、其の影うつりて江にあり。

 西はむやむやの関路をかぎり、東に堤を築きて秋田にかよふ道遥かに、海北に構へて浪打ち入るゝ所を汐こしと云ふ。

 江の縱横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂(たましひ)をなやますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

 汐越や鶴はぎぬれて海涼し   』

 『曽良旅日記』によると、蚶満寺を訪ねた日は、朝から昼にかけて小雨で、昼以降に晴れたようだ。

 “先づ能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ” とある。

 能因法師の『後拾遺集』に採られた「世の中はかくてもへけり蚶方の蜑(あま)の苫屋に我が宿にして」の和歌の詞書のなかに「出羽の国にまかりて蚶方といふ処にてよみ侍る」とあるから、あるいは能因法師は象潟へ来たことがあったかもしれないが、「三年幽居」はありえない。

 私は能因法師は象潟へ来ていないのではないかと思う。同時代の歌人でも能因法師の実地作歌を疑う人がいたことが記されている。

 “むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)を残す。” とあるが、西行法師についても象潟を訪れている確証はない。

 『継尾集』というものに、西行桜として「象潟の桜はなみに埋もれてはなの上こぐ蜑(あま)のつり船」とあり、『日本行脚文集』や、西鶴の『好色一代男』『西鶴名残之友』に「花の上こぐ蜑の釣舟」と引用され、この和歌は西行作と信じられてたようだが、西行の作という確証はないという。

 象潟を多くの文人が訪れていることは確かである。能因や西行も訪れて歌を詠っていて欲しいという後世の人々の願望が、能因と西行をこの地に連れてきたのであろう。私は実際には能因と西行は象潟には来ていないと感じる。

 能因と西行のことを書いた芭蕉も、さすがに神功皇后の墓については疑っている。

『おくの細道』で、「江上に御陵あり、神功后宮の御墓と云ふ。寺を干満珠寺と云ふ。此の処に行幸ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。」と記している。

 私は、蚶満寺に伝わる神功皇后、能因、西行、北条時頼の伝承は全て胡散臭いと感じる。唯一、円仁グループが寺を再興したということが真実だと考える。この寺は天台宗→真言宗→曹洞宗 と宗旨替えしている。古刹であることは確かであるが、それぞれの時代の時の権力と上手く付き合ってきた形跡がある。

 芭蕉は能因や西行の歌枕を訪ねるために、酒田から北上し象潟を訪れた。象潟は奥の細道の北限地である。

 芭蕉は西行のファンである。西行が桜を詠んだとされる象潟で、自分も花の句を詠みたいという願望はあっただろう。

 しかし、本当の目的は太平洋側の「松島」と日本海側の「象潟」を対比させて句を詠もうとしたのだろう。

 芭蕉は松島で句を詠んでいないが、『おくの細道』の地の文では松島を賞賛している。

 松島を「其の気色窅然(ようぜん)美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。」とも表現している。

 松島では具体的な美人の名前は出さなかったが、象潟では西施の名を出している。 

 芭蕉は、「 江の縱横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂(たましひ)をなやますに似たり。」 と書いた後、

 象潟や雨に西施がねぶの花

 汐越や鶴はぎぬれて海涼し  の2句を載せている。

 芭蕉が訪れた頃の象潟は、南北約2km、東西1kmの入り江に島々が無数に浮かび、八十八潟、九十九島の絶景の地として、松島と並びその美景を天下に誇っていた。

 今ではその風景を見ることはできない。まして私は日本三景の松島にも行っていないので、松島と象潟を比べて語ることなどできない。

 芭蕉の訪れた頃には既に、「東の松島 西の象潟」と呼ばれていたのであろう。

 芭蕉は、“俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。”と記している。

 芭蕉の感性は、象潟は松島に似ているようだが、どこか異なると感じている。

そして、その違いを“松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。” と表現している。

 つまり、芭蕉は松島と象潟は似て非なるものと感じたのだ。

 更に、“寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂(たましひ)をなやますに似たり。” と続ける。

 そして、「 象潟や雨に西施がねぶの花 」 と美人の代表として西施の名を出す。

 西施は美人だったので、病んで胸を抑えて眉を顰(ひそ)めている顔も美しく見えたという。美女が困ったような顔をするのも、どこか妖艶で男心をくすぐる。だが、このようなも表情が美しいのは美女であるから成せることである。美人は怒った顔さえ魅力的だ。

 愚かな女官たちは、西施の表情を真似たという。「西施の顰みに倣う」とは、自分も美人だと思う愚かな女官たちの流行らせたその表情の結果である。やはり女性は愛嬌がいいのが一番である。

 『曽良旅日記』によると、蚶満寺を訪ねた日は、朝から昼にかけて小雨で、昼以降に晴れたようだ。

 芭蕉は象潟で雨に濡れそぼっている合歓の花を見たのであろう。花弁が豊かな花は、雨に濡れみずみずしさが増すことはあるだろう。しかし合歓の花は違う。

 芭蕉には、雨上がりの靄に煙る象潟の風景と、雨に濡れた合歓の花と、西施のイメージが重なったのではないだろうか。

 かつては大陸に面する日本海側が表であった。しかし、江戸時代には既に表の地位を太平洋側に奪われ、裏日本に甘んじていたのかもしれない。芭蕉はそれも感じたのであろう。

 芭蕉は松島では、「其の気色窅然(ようぜん)美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。」 と記しているが、具体的な美人の名は出していない。

 もし、私が美人の名を出すのが許されるのであれば、それは「楊貴妃」である。

 楊貴妃は古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされるが、その知名度は抜群だ。また、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。

 日本では世界三代美人として、クレオパトラ、小野小町と共に名を挙げられる。

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 楊貴妃は“陽気妃”である。西施を陰気とは云わないが、憂いに沈むイメージがある。

 私はまだ松島を訪れていないが、勝手に、松島=楊貴妃、象潟=西施 とイメージする。

 どちらも美人であるから、景観の美しさは際立っていることには変わりがない。

 芭蕉が松島で句を詠み、そこに美人の名を出したとしたら、一体誰の名を挙げたのだろうかと想像するだけで楽しい。

 私は日本三景の一つと云われる松島に行ったことがないが、行くのが楽しみでもある。松島でその風景に明るさを感じたら、楊貴妃でも詠み込んだ句をひねってみたい。

 東日本大震災で松島も被害を受けたが、島々の影響もありその被害は他地域に比べて少なかったと聞く。私は東日本大震災の時、義捐金には協力したがボランティア活動はしていない。無理をしないで自分のできることを長くすることが大切だとも云う。現地に行ってお金を遣うことも、復興の助けになると云う。

 遠慮しないで松島に出掛け、そこで少しだけ贅沢してお金を遣うことも地元への援助になるのなら、そうしたい。ブログで東北を紹介することも、ほんの微力でも東北のためになるのなら嬉しい。

 芭蕉は、陽よりも陰を好む性向あるように感じる。体制側よりも反体制側に心を寄せる。奥の細道の旅に出る前に、松島を訪れることを楽しみにしているとも書いているが、松島では句を詠まなかった。

 松島の勝景に負けて、ついに句作できなかったと云っている。事実は、「嶋々や千々にくだきて夏の海」の作があったが、会心の作ではなかったので、示さなかったようだ。

 芭蕉クラスになると、余人の期待が大きく、景勝松島でこの程度の句かと侮られるのはプライドが許さないのかもしれない。「景にあうて唖す」として、中国の文人的姿勢に倣ったのかもしれないと云われる。しかし俳諧師が俳句を詠まないで何とする……。

 いずれにしても松島で句を詠まなかった芭蕉が、象潟では句を詠んだ。そして、その句に西施を登場させた。その影響力は大きい。

 にかほ市は、この句が縁で、西施が生まれた中華人民共和国浙江省諸曁(しょき)市と姉妹都市提携を結んだという。

 西施(紀元前502年~470年頃没)と松尾芭蕉(1644年~1694年)は2000年の時空を超えて呼応した。

 私もわずか300年余の時を超えて、芭蕉にシンクロしたいが、今ここに芭蕉が見た風景はない。

 蚶満寺の周りの九十九島を少し歩いてみた。

 芭蕉ファンの先輩の話によると、田植え時期に水田に水が張られると、水面に島影が映り、かつての景勝の地が現出すると言うが、やはり違うのではないか。

 象潟は現在国の天然記念物に指定されているが、江戸時代の景勝地としての面影はない。観光資源としては物足りない。やはり、芭蕉あっての象潟である。その意味でも、芭蕉は時代を超えた観光大使である。

 見学を終了して駐車場へ戻ると、羽越本線を電車が通り過ぎて行った。

 芭蕉が舟で渡った象潟に今は電車が走る。

 「 象潟や雨に西施がねぶの花 」

 奇しくも私が訪れた今日も小雨が降っていた。季節は秋なので合歓の花は咲いていないが、芭蕉を偲ぶことはできた。

 幸い蚶満寺参拝時には霧雨状態であったが、写真で見て頂いて分かるように、象潟は曇天の中に陰鬱に沈んだ感じであった。

 この東北への旅で、4つほど芭蕉の訪れた所を尋ね、私もいっぱしの芭蕉通になったように感じる。これからも何処かで芭蕉に会えるのが楽しみだ。

 雨が降らずに、予定通り秋田市内を回っていたら、今夜の宿泊予定地は国道7号線を渡った道の駅「象潟」であった。ここは温泉施設もあるようで充実しているようだ。次回の楽しみにしたいがいつになる事やら……。



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