http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_43_file.pdf 【東アジアの海洋文明と海人の世界 ―宗像・沖ノ島遺産の基盤―】 より
第10図 韓国慶尚南道蔚山郡大谷里の盤亀台遺跡
岩面の陰刻画(ペトログリフ)による新石器時代の狩猟・漁撈場面
原ノ辻遺跡は壱岐島の南東部に位置する。いっぽう、壱岐島の中西部にあるカラカミ遺跡(香良加美)(壱岐市勝本町)も原ノ辻遺跡とよく似た遺物構成を示すことが知られている。カラカミ遺跡(弥生時代前期から後期)は海抜87.9m のやや高地にあり、海岸部まで約
1.5㎞の距離にある。包含層からは、原ノ辻遺跡と同様にイノシシとシカの卜骨がそれぞれ2点ずつ出土した。『魏志倭人伝』にも、骨を焼いてできる「さけめ」をみて吉兆を占うことが記載されており、そのことを如実に示す遺物となった。
これ以外に、壱岐島の北端にある天ケ原遺跡は海浜にあり、ここから3本の銅矛が出土しており、考古学者の横山順氏は、この銅矛が航海安全を祈願して埋納されたものと考えている。
なお、両遺跡からは鯨骨製の銛やアワビおこしが出土しており、クジラが当時より利用されていたことを強く裏付けるものとして注目しておきたい。アワビおこしについては、カラカミ、原ノ辻以外にも出土して よし も はまいる。たとえば、下関市吉母浜遺跡、福岡県糟屋郡新 宮町夜臼遺跡から鯨骨製のへら状道具が出ている。また、弥生時代以前の縄文時代にも、長崎県五島列島南部の福江島の白浜貝塚から長さ20~30数㎝のへら状鯨骨が発見されている。それとともに、縄文時代中期の熊本県、長崎県、鹿児島県における阿高式土器の分布する地域で、クジラの脊椎骨を土器製作のさいに台として利用されたことが実証されている(三島1961;森 1987)。クジラの脊椎骨の圧痕をもつ土器を出土した縄文遺跡は有明海を中心とした地域に集中している。このことからも、縄文時代にさかのぼってクジラとかかわりを想定することは間違いではない。そ た びらの例証となるのが長崎県平戸市田平町にあるツグメノハナ遺跡である。この遺跡からは大量の鯨骨やサメの骨が出土している。骨と随伴して、サヌカイト製の石銛や長さ5㎝もある黒曜石製の石鏃が見つかっており、これらの利器が海獣や大型魚を捕獲する銛漁に利用されていたことが示唆されている(森 1987)。
⑵ 古墳時代の捕鯨と船
縄文時代を下った古墳時代の捕鯨について考えてみよう。長崎県壱岐島内一円には256基もの古墳が分布している。このなかで大型の横穴式石室墳である壱岐 おに や くぼの西海岸寄りの台地上にある鬼屋窪古墳(壱岐市郷ノ浦町有安触)は装飾古墳として著名であり、二ケ所から船の線刻壁画(ペトログリフ)が見つかっている。このうち西壁に描かれた船には八本の櫂が見受けられる。船は船首と船尾がそりあがった形をしている。船の横には大型の獲物が描かれ、銛が突き刺さっている。それに随伴する小型の獲物が描かれている。この図が漁撈の情景をえがいたものであることはほぼ間違いない。
明瞭ではないが、尾びれの付き方と小型の獲物が描かれていることから考えて、大型魚と小型魚であるとは考えにくく、仔クジラを随伴した母クジラであると推定できる。船上にやぐらのようなものが描かれており、帆ではないかとおもわれる。船が三艘描かれているのは、クジラを複数の船で追尾したものではないだろうか。
鬼尾窪古墳の捕鯨を描いた線刻画で思い出されるのが、韓国の新石器時代における捕鯨を示す盤亀台の岩壁画である。盤亀台における図像からも、両者が東アジアにおける先史・古代の捕鯨の共通要素をもつことが分かる。
先述した鬼屋窪古墳の線刻画にあった船は船首・船尾がそりあがった形状を示していた。これは波よけのためのものと考えられる。また、櫂の数から10人近い人間が漕ぎ手として同船していたことから、大型の船であることが想定されている。このことは用いられた船が丸木舟ではなく、船底の両側に舷側板などを組み合わせた準構造船であることが示唆される。
鬼屋窪古墳以外にも、福井県坂井市春江町から出土した銅鐸や鳥取県の角吉稲田遺跡から出土した土器にもやはり複数の漕ぎ手と櫂が描かれている。古墳時代における船型の埴輪が当時使われていた船の構造を知る上で有力な証拠となっている。船型の埴輪は明らかに丸木舟ではなく、底部の両側に舷側板を取り付けた準構造船であることが分かる。もっとも準構造船は弥生時代からあったもので、古墳時代にはより大型化した船が使われるようになった。
実物となる準構造船は全国で数十ヶ所見つかっている。たとえば、滋賀県守山市の赤野井浜遺跡からは船 へ さきの舳先や舷側板の一部が出土している。大阪市平野区瓜破の瓜破北遺跡からも、準構造船の一部がみつかっている。時代は古墳時代後期(6世紀)のものであり、
準構造船の一部が府教委の調査で見つかっていたことが分かった。当時の大阪は大和政権の水上交通を担い、船は瀬戸内海から朝鮮半島への外洋航海に使われた可能性もあるという。準構造船の出土は全国で数十例しかなく、航海技術を知る上で貴重な資料になりそうだ。
見つかったのは、船べりの一部(長さ1.2m)や船体の側板、船内の仕切り板など数十点で、いずれもスギ材である。湾曲した部材やほぞ穴の形状などから準構造船の一部と判断された。全長十数メートルの中型船で、5~10人乗りと推定されている。
準構造船は、縄文時代以来使われた丸木舟を改良し、側面や前後に板材を組み合わせて大型化した構造となっている。弥生時代末(約1,800年前)から導入され、古墳時代には大陸との交流などに使われたという。遺跡一帯は、大阪湾から続く古代の湖「河内湖」が広がっていたとされ、今回の船は河内湖から大阪湾に出て各地の物資輸送などに使われたとみられている。
2008年、奈良県巣山古墳から発掘された木製品は棺ではなく、準構造船の部品であることが分かった。つまり、船の波切り板と舷側板の部材であることで、くりぬいた船底に舷側板を接続したものであることが判明した17)。
7.海洋文明のなかの「宗像・沖ノ島と関連遺産群」
縄文時代以来、対馬海峡の海域世界において、航海・漁撈・交易を担った海人が歴史上、登場した。かれらは沿岸域で海藻、アワビ、サザエなどのベントス資源とともに、マグロ、ブリ、アジ、サバなどの魚類を漁獲してきた。縄文・弥生時代における貝塚や遺跡から出土する貝殻や魚骨がその証拠となっている。さらに、丸木舟でクジラの銛漁にも従事してきたことが韓国南部の蔚山・盤亀台や壱岐島の鬼屋窪古墳に残された壁画から明らかとなる。
人びとは漁撈・採集活動のみならず、対馬海峡域で交易をおこなった。大陸部と対馬海峡域、そして日本とのあいだで、共通する道具類、土器が出土する。明らかに大陸や中国産の土器や金属製品が対馬、壱岐、北部九州で発見されていることからしても、対馬海峡
を介した文化の交流があったことはまぎれもない。その交流に自ら交易者や航海民、商人としてかかわったのが対馬や壱岐の人びとであり、宗像氏の集団であった。
古代には、ヤマト政権を後ろ盾とする国家的な祭祀が沖ノ島においておこなわれた。それは初期の民俗的な海神信仰というよりは、宗像三女神をあがめる社殿祭祀へと変容していった。そこでは航海安全と交易の成功を祈願する儀礼がいとなまれた。こうした国家祭祀のもとで対馬海峡域の人びとは王権の庇護のもとに活動した。
中世には、対馬海峡は倭寇勢力が暗躍する場となり、室町幕府と高麗王朝を悩ませることとなった。14世紀末に成立した朝鮮王朝は倭寇にたいして懐柔政策とともに強硬な手段を講じた。それが応永26(1419)年の李氏朝鮮による対馬攻略であり、この応永の外寇により倭寇は壊滅する。
このように、対馬海峡の海人集団は時代によって王権に服属し、あるいは反権力的な活動を通じてモノ・ヒト・情報の交流に貢献してきた。この海域では海女による素潜り漁、海藻に呪力を見出す神事、先史時代以来の沿岸捕鯨、海人の流動的な海上移動活動とその伝統が継承されてきた。
「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の存在を支えたのは、まさに朝鮮半島と北部九州をつなぐ海域世界における海人の活動であったといってよい。こうした点で、東アジアにおける海洋文明を形成する基盤となった海人の活動の伝統とその軌跡は海の文化遺産として国際的な意義をもつといってよいだろう。
「海の正倉院」と呼ばれる沖ノ島と宗像社に所蔵されている八万点にもおよぶ遺産は単なる至宝の集積であるのではない。東アジアの海域世界に展開した交易活動のいわば所産とでもいえるものである。海の至宝(Maritime Treasure)は対馬海峡域の生態・歴史・文化の結晶なのである。
注記
1)海人については、定義内容が幅広く、明確な社会集団や地域集団を意味するのではない。そのいっぽう、海とさまざまな形でかかわる漁撈民や航海民を広く指す(秋道 1988, 秋道 1998)。
2)相ノ島には縄文時代から人びとが住みついていたことが知られている。沖ノ島を中心とした祭祀がおこなわれた古墳時代から平安時代にかけて、相ノ島と大陸とのあいだに交流があった。同時期、島には相島積石塚群とよばれる254基の積石塚からなる古墳群が4世紀末から6世紀にかけて造成され、7世紀まで利用されていたことが分かっている。島はのち近世には朝鮮通信使が壱岐勝本町から直接、立ち寄った島としても知られている。近世期、黒田藩は朝鮮通信使を歓待するための「客館有待邸」を建てた。
3)小呂島は宗像大社の社領であったが、中国南宋の博多商人である謝国明が領有権を主張したので、宗像大社側が鎌倉幕府に訴えた。のち建武政権時代、宗像大社による小呂島所有が保証された。
4)地島の南部にある厳島神社は、広島県宮島の厳島神社よりも早い時期に宗像三女神を分霊されたとする伝承がある。
5)15~16世紀当時、海浪島では海賊集団が居住し、海獣の密貿易がおこなわれていた(高橋 2001)。
6)2つの島の中間部分は、ネプォン(neepwon)すなわち「空の」という意味の空間が設定されている(秋道1985)。
7)現在、世界では「海洋の自由」の原則が一部の国ぐにの挙動により阻害されつつある。これはある海域への接近することを阻止する行為や、海域への権限の否定を意味する行為(Anti-access と Area Denial(A2/AD)の動向が国際的に懸念されている(後潟 2012)。
古代・中世にあっても、対馬海峡域において自由航行が原則であったわけではない。
8)日本の例ではないが、メラネシアのソロモン諸島マライタ島北東部にある人工島に居住するラウと呼ばれる漁 撈 民 は、マ ア ナ ベ ウ(maanabeu)とマアナビシ
(maanabisi)と呼ばれる空間を日常の居住空間から区別している。前者が男性のみのはいることのできる聖なる空間でさまざまな儀礼がおこなわれる。後者は女性のみが立ち入ることのできる空間であり、厳密な意味では聖なる空間ではない。ここは女性の出産、月経時に滞在するための空間であり、“穢れた”空間とみなされている(秋道 1976)。
9)ビロウではないが、日本海の隠岐諸島には第三紀に生育していたスギがレフュージアの植物として残されている(津村・百原 2011)。
10)愛知ターゲットのなかでは2011年から2020年の10年間を戦略目標達成期間として設定し、具体的な環境保全をはかるものである。そのなかの Target6では、2020年までに、すべての魚類・無脊椎動物、水生植物の持続的な管理を達成することが目標とされた。さらに
Target11では、2020年までに少なくとも陸域と内水面の17%と、沿岸域の10%を地域独自の方策を通じて保全することが決まった。各国が抱える問題は一律ではなく多様である。国を超えた国際的な取り組みも早急になされることが期待されている。
11)こうした御料地では、特権的に狩猟・採集・漁撈をお にえびと ぞう く ごこなう集団がいた。贄人や雑供戸とよばれる集団がそ あ びきうであり、山城国・丹波国の鵜飼戸、和泉国の網引、え びと摂津・河内の江人などが独占的な活動をおこなった。
12)アカモク以外に、ワカメ、カジメ、アジモなどを用いる儀礼や民俗的な慣行が知られている(伊藤 1990)。たとえば、山口県の角島「つのしま」では、カジメを盛ったものを死者への供物とする。
13)褐藻類の藻場はガラモ場、アマモなどの海草類の藻場はアマモ場と呼ばれる。
14)このなかにはいくつものグループがあり、バジャウ、バジョ(インドネシア)、サマ、サマール(マレーシア島嶼部のスルー海)、オラン・ラウト(マレーシア半島部)、モーケン(ミャンマーのメルグイ諸島)などが代表例である。
15)このなかには、安房、上総、常陸、相模、志摩、佐渡、若狭、出雲、石見、隠岐、長門、紀伊、阿波、伊予、筑前、肥前、肥後、豊後、日向と壱岐島が含まれる。
16)対馬海峡域では3種のアワビを産する。それらはクロアワビ(Haliotis discus)、メガイアワビ(Haliotis gigantea)、マダカアワビ(Haliotis madaka)であり、生息する水深はクロアワビ、メガイアワビ、マダカアワビの順に深くなる(海外漁業協力財団 1995)。
17)ただし、船幅がせまいことから、この船が航海を目的としたものでなく、死者を船で送るための喪船である可能性も示唆されている。
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