東アジアの海洋文明と海人の世界 ―宗像・沖ノ島遺産の基盤― ①

http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_43_file.pdf 【東アジアの海洋文明と海人の世界 ―宗像・沖ノ島遺産の基盤―】 より

秋道智彌

要旨:対馬海峡域に位置する宗像・沖ノ島は東アジアにおける海洋文明を凝縮する意義をもつ。縄文時代以来、対馬海峡の海域世界において航海・漁撈・交易を担った海人の知恵と技術は歴史的な変容を経て現代まで継承されてきた。対馬海峡の海人集団は時代によって王権に服属し、あるいは反権力的な活動を通じてモノ・ヒト・情報の交流に貢献してきた。宗像・沖ノ島の文化遺産群の存在を支えたのは、まさに朝鮮半島と北部九州をつなぐ海域世界における海人の活動であった。海女の素潜り漁、海藻に呪力を見出す神事、先史時代以来の沿岸捕鯨、流動的な海上移動活動とその伝統は東アジアにおける海洋文明を形成する基盤となった。その伝統は海の文化遺産として国際的な意義をもつ。

キーワード:海人、海洋文明、潜水漁、海藻神事、捕鯨、海の祭祀

はじめに

沖ノ島は玄界灘に浮かぶ小さな島である。北西には対馬、南西には壱岐が位置し、日本の九州と韓国南端の釜山の中間にある。釜山まで145km、九州の宗像まで57km の距離にある。

沖ノ島の歴史的意義については、今回の世界文化遺産登録に向けてさまざまな分野からの研究と論考が実証的になされてきた。その多くは考古学・歴史学的なアプローチによるものである。宗像・沖ノ島が国家的な祭祀場として利用された4世紀後半から10世紀初頭にかけての時代が集中的な研究対象であることは論を俟たない。本世界遺産推進会議が責務とするのはまさに学際的な観点から、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」について世界文化遺産としての普遍的な価値と独自性を総合的に明らかにすることにほかならない。

本専門家会議に第6回目から参加した筆者としては、貢献すべき学術領域として海洋人類学ないし海洋民族学の観点から考察してみたい。本稿では、1.対馬海峡の海と島じま、2.島の聖地とビロウ、3.海の神饌とアカモク、4.海の交易と潜水漁、5.航海と島、6.東アジアにおける捕鯨の伝統、に分けて論述する。最後に7.海洋文明のなかの宗像・沖ノ島遺産として、海の祭祀と漁撈・交易複合が玄海灘一円だけでなく、東アジアを中心とした海洋文明史のなかでもつ独創的な意義についてまとめて明らかにしてみたい。なお本稿では、広く漁撈や航海にかかわった個人、集団を一 かいじん括して海人と呼ぶこととする1)。

1.対馬海峡の海と島じま

⑴ 対馬海峡の海

海にはいくつもの区分概念がある。本稿であつかう対馬海峡は、北九州から山陰地方の一部と朝鮮半島南部に挟まれた海域を指す。海峡は陸地に挟まれた狭い海域で、船舶が航行できる領域を指す。

海峡と類似した用語として水道や瀬戸がある。対馬海峡の中央部に位置する対馬を挟んで、壱岐と対馬のあいだを対馬海峡東水道、韓国と対馬とのあいだを対馬海峡西水道と称する。東水道を狭義の対馬海峡、西水道を朝鮮海峡と称することもある。壱岐と東松浦半島のあいだには壱岐水道がある。

瀬戸は瀬戸内海に多く、北九州では宗像市の大島と じのしま くら ら地島とのあいだの倉良瀬戸、平戸瀬戸(平戸島と九州本土)、博多瀬戸(壱岐・勝本町の串山とナガラス)などがある。

灘は、沖合のなかで波が荒く、潮流が速い場所をさす。太平洋岸には黒潮の影響で波の荒い相模灘、遠州灘、熊野灘、日向灘などがあり、日本海側では対馬海流の影響を受ける玄界灘と響灘がある。

『魏志』東夷伝・倭人の条(以下、『魏志倭人伝』と称する)には、朝鮮半島から対馬海峡を渡海して北九州に至る航路についての記載がある。すなわち、朝鮮半島から「一海を渡る千余里」で対馬国に至り、さらに「南一海を渡る千余里」で一大(支)国に至る。そこから「一海を渡る千余里」で末盧国に至るという内容である。「一海」とはある港からつぎの港まで、寄港することなく越えるひとつの海ということになる。

すなわち、朝鮮半島から対馬海峡西水道(朝鮮海峡)、対馬海峡東水道―玄界灘―壱岐水道が『魏志倭人伝』に記載された海ということになる。このうち、対馬と壱 かんかい岐のあいだの海、すなわち玄界灘は瀚海(広い海)と名付けられている。

玄界灘は荒々しい海というイメージで語られることがおおい。対馬海流の流速は平均0.5~1.0ノットであるが、西水道出口で1.2~1.6ノット、東水道出口で1.0~1.3ノットである。潮流についてみると、流速は南西流の上げ潮時に0.6~1.3ノット、北東流の下げ潮時

に1.5~3.0ノットに達する。この数字から、太平洋岸沖を流れる黒潮の流速が2~3ノットであることとくらべて流れが緩慢であることがわかる。

対馬海峡の海底部はほとんど水深120m 以浅にあり、沖ノ島は90m 等深線付近に位置している。この海域では冬季の12~2月に北寄りから北西の季節風が卓越し、波高がもっとも高くなる。春季(3~5月)から夏季(6~8月)には北西風と南西風が交互にまじり、海は比較的穏やかである。台風や低気圧の襲来で海が荒れることがないと、海は夏から秋にかけては安定しているといってよい。しかし、秋季(9~11月)にはふたたび北ないし北西風が次第に強まり、波高もゆっくりとではあるが高くなる(日本海洋学会 1985)。縄文時代以来、対馬海峡を行き来した船と人は数えきれない。すべての航海が順風満帆でおこなわれたとはおもえない。

江戸時代における朝鮮通信使が来日したさいも、釜山と江戸に向かうために目指した下関とのあいだで、対馬と壱岐が重要な寄港地であった。そのさい、通信使の乗った船は壱岐から直接、下関に向かったのでは あい の しまなく、ほとんどの場合、藍島つまり相ノ島2)に立ち寄っている。ここで黒田藩の接待を受け、あらためて下関に向かった。帰路にも藍島に寄港するのが常套であった(応地 1990)。このことは、玄界灘の航海が時として艱難辛苦の旅であったことをいみじくも示している。

⑵ 境界の島じま

対馬海峡には、対馬、壱岐、五島列島、平戸島など お ろのの大きな島じまとともに、沖ノ島、小呂島(福岡県福じのしま岡市)3)、相ノ島(福岡県糟屋郡新宮町)、地島(福岡県

宗像市)4)などの小さな島がある。

規模の大きな島じまにたいして、小さな島じまは航海の寄港地として、さらには政治的・社会経済的にも重要ではないとする通念がある。小さな島では水の便、土壌、植生などが貧弱で、耕地や食料獲得のうえで資源が少ない。生存基盤が一般に脆弱であり、人口支持力も低いからである。これにたいして、大きな島では土壌、植生も豊かで、水の便もよく、耕地や資源利用の可能性は高い。それだけ人口支持力も大きいといえる。重要なことは、大きな島と小さな島がそれぞれ個別に存在しているのではなく、相互に関係性をもってきた点である。つまり、島嶼間のネットワークの存在に光をあてる必要がある。

いわゆる離島という考え方は、島の孤立性や中央から見た辺境性に由来するものであるが、島が意外なほど遠方とつながっていることがある。また、先史時代や古代・中世における航海術がそれほど発達していなかったので島と島をつなぐネットワークなど存在しなかったと考えがちである。しかし、海を越える活発な活動は古来よりいとなまれてきた。奄美大島の東にあ き かいじま ぐすくる喜界島では、8~14世紀の大規模な集落群が城久遺跡群から見つかった。中国や朝鮮からのものと思われる陶磁器が発見され、古代・中世における琉球史を書き換えるほどの画期的な遺跡とされている(宮城2011)。当然、航海を通じた交易が奄美大島や日本本土のみならず中国、朝鮮とのあいだでおこなわれた。

対馬海峡域についてみると、沖ノ島、相島、小呂島などはどう考えても小さな島である。しかし、航海における寄港地として、さらには儀礼・祭祀的な価値は島の大きさとはかならずしも関係がない。たとえば、沖ノ島は国家的な祭祀がおこなわれる神の島であった。

沖縄の久高島はイザイホーでも知られる神の島であり、その規模は比較的大きく、小島とは言い難い。八重山 ウ タキ諸島の黒島には祭祀をおこなう主要な御嶽が8つあり、航海安全を祈願する聖所となっている。岩手県上閉伊郡大槌町の大槌湾内にある蓬莱島は弁財天が祀られて かみじまいる小さな島である。蓬莱島とは神島のことを指す(第1図)。海域にあるのではないが、滋賀県琵琶湖の竹 つくぶすま生島は中世から都久夫須麻神社がおかれていた小島である。

いっぽう、戦略的な目的や流刑地となった島じまも はくすきのえある。たとえば、古代の対馬では白村江の戦い(663年)のさい、ヤマト政権は対馬、壱岐、筑紫国に防人を置き、新羅からの侵犯に備えた。

玄界灘の小呂島では正保2(1645)年以降、福岡藩の漁業権確保を目的とした番所が設けられた。おなじ小 き かい が しま い おうじま呂島や鹿児島の鬼界ケ島、すなわち硫黄島はかつて流刑地であった(高橋 2001)。隠岐諸島も中世は後醍醐天皇の例にあったように島流しの地であった。

たとえ無人島であっても、一時的に密貿易の取引場所や漁撈活動のさいの一時的な基地となることがあった。後者としては、東シナ海における孤草島(おそらく、いまの巨文島)(長 1990)や、近現代の例であるがアシカ猟のおこなわれた島根県沖の竹島や鹿児島県で

ま げトビウオ漁のさいに利用された馬毛島、遼東半島南のチャンシャン ヘランド長山群島にある海浪島5)などがある。

⑶ 境界の海人

海洋空間における境界は、陸地の場合のように境界線や目印で明瞭に決められることはあまりない。陸地に近ければ岩礁や浅瀬に立てた標識で明示的に示すことができる。しかし、外洋や海峡域においては、境界はあいまいならざるを得ない。筆者はミクロネシアにおける伝統的な航海術の研究から、異なる2つの島A と B のあいだの海には、A の海と B の海があり、その中間部分の海にはなにもない「空」という表現が使われていることを明らかにした(秋道 1985)6)(第2図)。

沿岸域は地先の共同体が占有するが、沖合は「入会い」とする基本的な海洋の占有関係が日本にはある。 ひょうじょうしょ お さだめがき近世期の元文2(1737)年、「評定所御定書により、「磯は地付き根付き、沖は入会」として確定されたが、そのこと自体、境界をめぐる幾多の争論が当時までにあったことを示している(秋道 1995)。

対馬海峡域についても、対馬、壱岐などや九州沿岸部の海域は浦々が占有していた。たとえば、糟屋郡の新宮について近世期からの沿岸域の領有についての研究がそのことを明らかにしている(Kalland 1984)。沖合の海域は誰のものでもあり、誰のものでもない無主の海域とみなされていた。それゆえ、無主の海域における自由な航行が認められていた反面、海賊行為さえもが横行したと考えてよい。

対馬海峡をはさんだ大陸と日本とのあいだでは、ヒト・モノ・情報をめぐる交流と断絶が歴史的に生起してきた。交流は相互の乗り入れが達成されてはじめて実現する。いっぽう、断絶は交流の一時的な停止を意味する。海峡が障壁(Barrier)と陸橋(Bridge)の世界をもっともよく具現化していることは明らかである。しかも、対馬海峡は歴代の諸王権にとり、権益を保障し、拡大するためのフロンティアであった。

現代におけるような国連の海洋法条約が適用される以前の時代には、海洋における国境や領海(territorialwaters)がきちんと策定されていたとはいいがたい。

交易権や制海権について、背後に王権や国家の思惑や政策があったとしても、つねに権力が現場である境界の海を支配下におさめ、統治していたわけではない7)。

すでに縄文時代、対馬海峡においては大陸と対馬、壱岐、そして九州を結ぶ交易ネットワークが形成されていた。その交易を担ったのは、この海域世界に暮らす漁民や広義のトレーダー(traders)、それに航海に長けた人びとに相違ない。

古墳時代から平安時代にかけて(4世紀後半から10世紀初頭)、沖ノ島の祭祀遺跡から莫大な量の遺物が見つかっている。それらの遺物は当時の東アジアにおける国際関係とその変化を如実に示すものであり、ヤマト政権とともに朝鮮半島の新羅を中心とする大陸部からもたらされたものである。交易に関与したのも、対馬海峡域で航海や漁撈に従事した人びとであったとおもわれる。

11世紀以降、日本と当時の朝鮮半島を支配していた高麗とのあいだで交易がさかんとなり、多くの商人や役人が対馬海峡を渡った。12世紀になると対馬海峡域 を舞台として倭寇の活動が活発化し、対馬海峡域は海賊行為の温床となった。倭寇の脅威を受けた高麗王朝は日本との交易を制限し、その大部分が対馬島民であった人びとによる年に1回、2隻の進奉船貿易がおこなわれた。

のちに高麗が破れ、朝鮮王朝が成立後(1392年)、倭寇を鎮圧する目的で朝鮮は応永26(1419)年対馬に大軍を送り、倭寇勢力を一掃した。そして、捕虜となっていた被虜人の中国人、朝鮮人を解放した。事実上、倭寇活動はこれで終焉する。これが世にいう応永の外寇である。

以上のように、対馬海峡域では漁撈、交易、航海に従事する人びとだけでなく、多くの商人、役人、倭寇に代表される海賊行為をおこなう賊、さらには海賊に拉致された人びと(日本人、中国人、朝鮮人)が移動し、国境を越えた。高橋公明氏は境界領域にかかわった人

びとを「境界人」と規定している(高橋 2001)。 倭人が航海するさい、船に持衰と呼ばれる人物が同船していたことも注目すべきである。『魏志倭人伝』には、「頭(髪)を梳らず、しらみを取り去らず、衣服は垢によごれ、肉をたべず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる」とある。いわば安全な航海のための生け贄として持衰を乗船させた。航海が不首尾になると、持衰のせいにされた。持衰も境界人として重要な役割を担った人物であった。『魏志倭人伝』の時代ののち、航海安全を祈願する祭祀が沖ノ島を中心としておこなわれた背景の萌芽形態をこの時代に見ることができる。

歴史史料には、境界人による歴史認識が明示されることは上記の持衰の例のほかほとんどない。権力による辺境への視座、あるいは陸から見た海への認識が主流を占め、海に生きた人びとの生きざまはあくまで権力側や陸からの視点で貫かれている。

この点からすると、沖ノ島に代表される国家祭祀を王権やヤマト政権の視点からのみ捉えることには限界がある。むしろ、対馬海峡域で王権に服属し、あるいは反対に海賊的な行為をあえて辞さなかった人びとに注目した捉え方が必要であろう。

ヤマト政権を背景として国家祭祀をおこなった宗像・沖ノ島の集団にたいして、じっさい航海をおこない、交易に携わった担い手はどのような人びとであったのだろうか。後代、秀吉の朝鮮出兵のさい、水先案内人として活動したのは泉州泉佐野の漁民であった。

沖ノ島で祭祀がおこなわれていた時代、交易に携わった水夫となった人びとのなかに宗像の海人がふくまれていたのかどうか。境界を越えた海人の実像はいまだ霧のなかにある。

2.島の聖地とビロウ

⑴ ビロウの民俗植物学

沖ノ島では古代より国家的な祭祀を挙行するうえで厳しい規制がしかれてきたことは周知の事実である。現代でもその精神は生きており、禊をして入島しなければならないこと、女人禁制、島で見聞きしたことをおいわずさま島外で口にしてはならないこと(不言様)、いっさいの草木や石を島外にもちだしてはならないこと、などに端的に示されている。こうした戒律をもつ島は、聖域(サンクチュアリ)といってよい。島全体が聖地となっているからである。これにたいして島の中で特定の場所のみが聖なる空間とされる場合もある8)。

沖ノ島では樹木が伐採されることがなかったので、自然環境が良く保存されてきた。実際、沖の島の森林は大正15(1926)年10月に国指定の天然記念物に指定されている。注目すべきは島に自生するビロウ(蒲葵:Livistona chinensis)であり、沖ノ島は分布の北限となっている。

周知の通り、ビロウは暖地性の植物であり、太平洋岸では足摺岬以南、八重山諸島の与那国島、さらに台湾北部まで分布する。

宮崎県の青島は宮崎市南部海岸にあり、島内の青島神社境内に約5,000本のビロウが自生することで知られている。最古のもので約300年以上と推定されており、大正10(1921)年3月に、国指定の特別天然記念物に登録された(第3図)。

⑵ ビロウをめぐる自然と文化

この島のビロウが繁茂した理由についての2つの説がある。ひとつは「漂着帰化植物説」であり、南から北に流れる黒潮に乗ってビロウの種子や生木が島に漂着し、その後に繁殖したというもので、本多静六、時枝誠之、西村真琴、平山富太郎の各氏や元青島神社宮司の長友千代太郎氏が主張されている。

もう一方の「遺存説」は、現在よりも温暖であった第三紀の時期に繁茂したビロウがその後の環境変化にもかかわらず温暖な気候条件で生き残ったとする説で、三好学、中野治房、日野巌、中島茂の各氏が主張されており、いわばレフュージア(refugia)説といえるものである9)。

では沖ノ島のビロウは上述した二つの説のいずれに合致すると考えればよいだろうか。ビロウが海岸部に自生しているのであれば、黒潮の分流である対馬暖流によって運ばれたと想定することができる。だが、沖ノ島のビロウは海岸部に自生しているのではない。ビロウの種子を摂餌した鳥が糞とともに島にもたらしたとする可能性がないわけではない。しかし、その鳥の種類を特定し、実際に種子が散布されたことを確認するための調査がこれまでおこなわれたわけではない。

もういっぽうのレフュージア説の可能性はあまりない。現存するビロウの分布は琉球列島に広範囲に及んでおり、これらの地域で第三紀の環境がすべて残存したとは考えにくい。


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