http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/22.html 【第二十二 出羽国羽黒権現事】 より
出羽国鎮守の羽黒権現は三社から成る。
中御前の本地は請観音である。
左は軍陀利夜叉明王である。 この明王は南方宝生如来の化身である。
右は妙見大菩薩で、東方阿閦如来の化身である。
羽黒山は能除大師の草創で、人皇三十四代推古天皇の御代に顕れた。
羽黒権現
出羽神社(山形県鶴岡市羽黒町手向)
祭神は伊氐波神・倉稲魂神。 一説に伯禽州姫命(鸕鷀草葺不合尊の娘)、玉依姫命、あるいは羽黒彦命(九頭龍王の御子神)とする。
式内社(出羽国田川郡 伊氐波神社)。 旧・国幣小社。
三神合祭殿に月山神社・湯殿山神社(後述)を合祀していることから、出羽三山神社と通称されている。
『羽黒山縁起』によると、崇峻天皇の第三皇子は参拂理大臣と呼ばれ、醜悪な容貌にして悪声であった。 無智文盲で仏法を知らなかったが、修行の志が有り、勝照四年[588]に抖擻修行の行者と成って諸国を廻り、同年六月十一日に羽黒山に入った。 一羽の大烏により阿久谷に導かれて三年間修行し、烏の止まった杉の下に観世音菩薩を感得した。
山中で修行をしていた皇子は猟師の隆待次郎と出会い、その依頼により大泉庄の国司の長年の腰痛を般若の智火で治癒した。 崇峻天皇五年[592]、その霊験が天聞に達し、烏に因んで羽黒山寂光寺の号が宣下され、人々の苦を能く除いたので能除太子の名を賜った。 六月十五日に同寺が山頂に建立された。
その頃、北海の酒田の湊に浮木があり、夜毎に光を放った。 太子はその木で軍荼利・妙見を造像し、聖観音と併せて羽黒三所権現として伽藍に奉斎した。
当山の本地は、鸕鷀草葺不合尊の娘、伯禽嶋姫である。 聖観音と顕れて、阿久谷に垂跡した。
『羽黒山伝』によると、地神四代の彦火火出見尊は龍宮界に到り、龍王の息女豊玉姫を后として、豊玉姫と妹の伯禽洲姫の二人を連れて地上に帰った。 豊玉姫は鸕鷀草葺不合尊を産むと、直ぐに龍宮に帰った。 伯禽洲姫は鸕鷀草葺不合尊を養育し、後にその后となり、四人の御子が生まれた。 第四の御子が神武天皇である。 伯禽洲姫は干珠・満珠の両珠を常に持つので玉依姫と云う。
また、「又、羽黒山三社権現の御本地は、伯禽嶋姫宮、鸕鷀草葺不合尊第一之姫宮、母は海童乙女、玉依姫」と異伝を記す。
『出羽国風土記』巻二[LINK]によると、羽黒大権現は景行天皇二十一年[91]六月十五日に初めて皇野に祀られ、その後に阿久谷に鎮座し、後世には大堂で本地仏と合祭された。
同書[LINK]によると、景行天皇二十年に武内宿禰が勅命を受けて北陸道方面に下向した際、由良の巌窟に至ると神楽の音が聞こえた。 窟内に入ろうとした時、塩土老翁が忽然と現れ「巽の嶽は葺不合尊鎮護の峯也。東の麓は玉依姫基瑞の霊場也。艮の頂は豊玉姫が鎮座し給ふ湖水有り。茲に於て神楽を奏す」と告げて去った。 宿禰はこれを帝に奏上し、翌年六月十五日に皇野に神祠を草創し、皇納賀原三神と号した。 「巽の嶽」は月山、「艮の頂」は羽黒山である。
羽黒山は無本寺で特定の宗派に属さなかったが、寛永十八年[1641]に羽黒山別当の宥誉が天海の弟子となって天宥と改名。 以後、羽黒山は天台宗(山門)に帰属し、本山派・当山派とは異なる羽黒派修験道として独自の伝統を主張した。
明治初年の神仏分離により羽黒山寂光寺は廃寺となり、大堂は出羽三山神社の三神合祭殿となった。 羽黒山五重塔は末社・千憑社(祭神は大国主命)となり、その他の堂舍もほとんど廃絶もしくは摂末社に転じた。
羽黒山奥の院の荒澤寺は修験寺院として存続し、昭和21年[1946]に羽黒山修験本宗として独立。 現在、羽黒派修験道は出羽三山神社と羽黒山修験本宗に分かれ、それぞれ独自に峰入修行を行なっている。
垂迹 本地
羽黒三所権現 伯禽州姫命 聖観音
羽黒彦命 軍荼利明王
玉依姫命 妙見大菩薩
羽黒三所権現の垂迹神には諸説あるが、ここでは戸川安章「出羽の信仰と歴史」(『日本の聖域(9) 出羽三山と修験』所収、佼成出版社、1982)に依った。
能除大師
羽黒派修験道の開祖。
『羽黒山縁起』は崇峻天皇の第三皇子と伝える。 史書にはその名は見えないが、羽黒山別当の宥俊や天宥は蜂子皇子(崇峻天皇の第一皇子)の異名と主張した。
文政三年[1820]に羽黒山別当の覚諄は能除太子に対する菩薩号の勅許を願い出て、同六年[1823]二月十三日に「照見大菩薩」の諡号を賜った。
明治になって、羽黒山の開山を蜂子皇子とする説が新政府により正式に認められ、羽黒山上に蜂子皇子墓(宮内庁管理)が設けられた。
現在、羽黒山上には蜂子神社(旧・開山堂)が有り、蜂子皇子を祭神としている。
【参考】出羽三山
羽黒派修験道では羽黒山・月山・葉山の三山を現在(観音)・過去(阿弥陀)・未来(薬師)に配し、湯殿山を三山の総奥之院としていた。 戦国時代に葉山が三山から離れた後は、湯殿山に薬師岳の薬師如来を勧請合祀し、羽黒山・月山・湯殿山を三山としている。
月山・湯殿山は冬期の参拝が困難であることから、羽黒山頂の羽黒山寂光寺大堂に三山の本地仏(観音・阿弥陀・大日)を安置した。 神仏分離以降は大堂を三神合祭殿と改め、月山神社・湯殿山神社を合祀している。
月山神社(東田川郡庄内町立谷沢)
祭神は月読命。 一説に鸕鷀草葺不合尊とする。
式内社(出羽国飽海郡 月山神社〈名神大〉)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『新抄格勅符抄』巻十(神事諸家封戸)大同元年[806]牒[LINK]の「月山神 二戸 出羽国(同年同月(宝亀四年[773]十月)符)」。
月山本宮は月山山頂に鎮座する。 本宮は御室とも呼ばれ、神仏分離以前は暮礼山月山寺と称した。
『羽黒山縁起』によると、推古天皇元年[593]四月八日に能除太子が深山に分け入ると、補陀落の如来が金色の光を放って山林を照らし、十方世界を浄土とした。 太子が山頂に登ると阿弥陀如来の来迎が有り、過去・現在・未来の影向の光に現れ、鏡に物の浮ぶ如くであった。 鏡は月に似ており、夜を司る神なので「月山」と号した。
『羽黒山伝』には「月山は鸕鷀草葺不合尊」とある。
湯殿山神社(鶴岡市田麦俣六十里山)
祭神は大山祇命・大己貴命・少彦名命。 一説に彦火火出見尊とする。
旧・国幣小社。
湯殿山本宮は湯殿山の中腹の梵字川渓谷に鎮座する。 神域には社殿がなく、御神湯を湧出する赤褐色の巨岩(御宝前)を御神体とする。 この巨岩は大小二つの頭部を有し、小さい方を金剛界大日如来、大きい方を胎蔵界大日如来とする。 二つの頭をもつ岩が一つに結ばれているところから、胎金一致の大日如来あるいは金胎両部の大日大霊権現として崇敬された。
『羽黒山縁起』によると、能除太子は羽黒山・月山を開いた後、大日如来を拝すために湯殿山の谷に入った。 合向という嶮岨な坂に湯殿山権現が顕現し、その御身から出た火は太子の膚に燃ついて三毒を消滅させ、天に上って宝珠となった。 太子はその宝珠を羽黒山奥の院の荒澤に納め、不動明王と地蔵菩薩を本尊とした。 これが今の常火堂である。 太子は湯殿山を月山・羽黒・葉山の三山の奥院として、秘所と定められた。
湯殿山側では弘法大師の開山による真言宗の法流を主張し、羽黒山側と争論した。
例えば『大日坊由来』によると、弘法大師は入唐中に五台山に登って文殊菩薩に遭い、「大日本国東北の山に当て大権現鎮座の大日如来の浄嶺有」とお告げを受けた。 大師は帰朝後の大同二年[807]に各地を巡錫し、出羽国田川郡で八久和川の下流(大梵字川)に大日如来の五字真言が浮き流れるのを見つけた。 その源を尋ねて地蔵菩薩に仏法興隆の地を教示され、大網の邑に伽藍を建立して瀧水寺金剛院大日坊と号した。 その後、大師は湯殿山に登って法身の大日如来に拝謁し、梵天・上火・切火・注連等の密儀を大日如来から直に伝授された。
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