源義経とは 腰越状と腰越の満福寺や首塚・白旗神社や平泉義経堂も

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源義経(みなもと-の-よしつね)は、兄・源頼朝とは約12歳年下となります。

兄・源頼朝の母は、熱田神宮の大宮司である藤原季範の娘・由良御前で「正室」です。

それに対して源義経(牛若)は、父・源義朝の妾(愛人)とも言える側室・常盤御前でした。

ちなみに、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺へ預けられ、遮那王(しゃなおう)と名乗りました。

その後、僧になるのを嫌って寺を出ると、伝承では、武蔵坊弁慶と五条橋で対戦して弁慶を家来とし、藤原秀衡を頼って平泉に下りました。

そして、1180年8月17日に兄・源頼朝が伊豆・韮山で挙兵したと聞くと、黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)にて対面を果たし、源氏の軍に加わるのです。

その後、源頼朝は鎌倉で政務を行い、源範頼と源義経に平家討伐は任せます。

一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと、兄の代わりに次々に平家を破ると言う大活躍をした源義経は、平家打倒においては最大の功労者と言えます。

1185年5月、源義経は、壇ノ浦で捕虜にした平宗盛・平清宗の父子を鎌倉近くの腰越まで護送してやってきましたが、源頼朝は鎌倉入りを許さず、平宗盛の父子のみを鎌倉に入れます。

これは、源義経が、後白河法皇より京都の治安維持を頼まれた際に、検非違使・左衛門尉の官位を勝手に受けたためとも言われています。

他にも、源頼朝が派遣した軍監・梶原景時の意見を聞かず、独断で戦いを進める事があったこと、兵法に優れて人気絶頂の源義経の方が後白河法皇の信頼が大きいことを懸念した、手柄の多くを源義経が独占してしまい他の武家から不満が出るのを恐れたなど、色々な理由があったものと考えられます。

そして、源義経は滞在先の腰越・満福寺にて「腰越状」を1185年5月24日に提出しました。

腰越状とは

腰越状(こしごえじょう)は、源義経は、兄・源頼朝の怒りを買い、腰越から鎌倉入りを認められなかった際、滞在先の腰越・満福寺にて、弁明のため綴ったとされる手紙です。

その腰越状の「原文」(下書き)とされるものが、腰越・満福寺に伝わります。

左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。

私は(源頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。

ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。

つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。

ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。

こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。

私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。

悲しいことです。

そうはいうものの、亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が悲嘆を申し開いて下さるでしょうか。

憐れんで下さるでしょうか。今更改まって申し上げるのも愚痴になりますが、義経は身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上である故左馬の頭殿(源義朝)が御他界され、孤児となって母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。

甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。

しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。

また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。

そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。

これに勝る名誉はありません。

そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。

ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。

我が国は神国であります。

神様は非礼をお受けにはなりません。

他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。

便宜を図って(源頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。

それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。

言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。

ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます。

元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経

進上因幡前司殿

この「腰越状」のあて先は、公文所別当・大江広元宛てになっています。

当時、大江広元は源頼朝からの信頼も厚かった武将ですが、それも空しく、ついに鎌倉へ入る事は叶いませんでした。

満福寺(まんぷくじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある真言宗大覚寺派の寺院です。

満福寺

境内には、弁慶と源義経の像も建立されています。

弁慶と源義経の像

満福寺には弁慶が書いたとされる腰越状の下書きが展示されており、有料拝観が可能です。

腰越状

写真撮影も問題ないと言う事で、ご紹介させて頂いております。

腰越状

この腰越状を持っても鎌倉入りを許されなかった源義経に対して、源頼朝は6月9日になって、平宗盛・平清宗の父子と平重衡と共に京に戻るように命令します。

源義経

これに対して源義経は深く恨んで「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言いた為、源頼朝は、源義経の所領をすべて没収しました。

そして10月になると、源頼朝は源義経の討伐を決定するのです。

源義経は、最終的に藤原秀衡を頼って奥州へ逃れ、妾の静御前もその後を追ったとも言われています。

藤原秀衡が死去したあとを継いだ藤原泰衡は、源頼朝からの圧力に耐えかねて、源義経主従が滞在している藤原基成の衣川館を襲撃しました。

武蔵坊弁慶、鈴木重家、亀井重清らが抵抗しますが、ことごとく討死し、源義経は持仏堂に篭ると、正室・郷御前と4歳の娘を殺害し、自らも自刃して果てました。享年31。

武蔵坊弁慶

そして、源義経の首は美酒に浸した上で、黒漆塗りの櫃に収められ43日間かけて鎌倉に送られます。

1189年6月13日、和田義盛と梶原景時らによって、腰越の海岸にて首実検がで行われました。

そして、首は藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られたと言う伝承があります。

源義経の首塚

小田急・江ノ島線の藤沢本町駅から歩いて5分くらいのところに「源義経の首塚」があります。

源義経の首塚と首洗いの井戸

道路が混雑することでも有名な「白旗」信号の東にある交番の右側から入ったところにありますが、下記の地図ポイント地点がその入口となります。(駐車場はありません)

現在の白旗神社に伝わる話では、弁慶の首も一緒に首が夜の間に白旗川を上ってきたとされ、井戸水で洗い清めて丁重に埋葬したとされます。

源義経の首塚

このことを知った源頼朝は、源義経の霊を弔う為「白旗明神」として、当時の神社に祀るように指示したそうです。

こうして、義経公が神様として祀られることになり、のちに白旗神社と呼ばれるようになったのが下記の白旗神社です。

源義経の首塚からも近いですので、セットでどうぞ。

白旗神社

白旗神社は、鎌倉時代よりもっと昔からこの地に神社があったようで、寒川比古命(さむかわひこのみこと)を祀っていますので、その昔は「寒川神社」と呼ばれていたそうです。

大鳥居は日本初のグラスファイバー製で、耐震性が考慮されています。

白旗神社

1249年に源義経を合祀したとされており、1752年に社殿を再建すると「白旗神社」と称するようになりました。

恐らく、江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎で「義経」が人気だったからでしょうね。

(略)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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