文知摺石

https://japanmystery.com/fukusima/mojisuri.html 【文知摺石【もぢずりいし】】より

文知摺観音堂を中心に信夫文知摺公園がある。この「文知摺」という名であるが、この信夫地方に古来あった染色法であり、紋様のある石に絹をあてがい、その上から忍草の葉や茎を擦りつけて染色したものという。これにちなんで名付けられたのが文知摺石(別名:鏡石)である。

中納言・源融が陸奥国按察使として赴任していたが、ある時信夫で道に迷い、村長の家に泊まった。そこで娘の虎女を見初めて相思相愛の関係となった。しかし都に戻るよう命を受けた融は再会を約してその地を去った。残された虎女は融に一目会いたい一心で観音堂に願を掛け、文知摺石を麦草で磨き続ける。そして満願の日、ついに磨き込まれた文知摺石に融の姿を一瞬見いだしたのである。だが、そこで精根尽き果てた虎女は病の床に就き、そのまま亡くなってしまう。その死の直前に、都にあった融から一首の歌が届く。それが古今和歌集に残る

“みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れんと思う 我ならなくに”である。

この伝説の有名さ故、後世の歌人達も多く訪れており、松尾芭蕉も実際にこの石を見ている。ただ『奥の細道』によると、通りすがりの人々が麦の葉をちぎって石を磨くので、村の者が怒って石を谷へ突き落としてしまって、半分埋まってしまった状態であったらしい。一説によると、この石は未だにひっくり返ってしまっている状態のままであるとも言われている。

この公園内には、常に人肌程度の温もりを保ち続ける“人肌石”や北畠親房が揮毫した不思議な文字の“甲剛碑”などがあり、非常に面白いスポットとなっている。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno10.htm 【奥の細道(安積山・信夫もじ摺り 元禄2年4月29日・5月1日・2日)】 より

 等窮が宅を出て五里計*、檜皮の宿*を離れてあさか山*有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ*刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松*より右にきれて、黒塚の岩屋*一見し、福島に宿る。

 あくれば、しのぶもぢ摺りの石*を尋て、忍ぶのさと*に行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり*。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや*。

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺(さなえとる てもとやむかし しのぶずり)

 4月29日。快晴。須賀川を出発。まず、南下して石川郡玉川村の石河の滝を見物。あちこち立ち寄りながら夕方、郡山に到着してここで一泊。宿はむさ苦しかったようである。

 5月1日。快晴。日の出とともに宿を出て、郡山市日和田町で馬を求め、安積山・安積沼を見ながら、二本松へ。黒塚の鬼を埋めたという杉の木立を眺めながら、日の高いうちに福島に入る。福島に一泊。ここでは、宿はきれいだった。

 5月2日、快晴。福島を出発。阿武隈川を岡部の里にて船で渡り、信夫文字摺石を見物。源融<みなもとのとおる>と土地の長者の娘虎女との悲恋伝説のある「虎が清水」などを見てから、月の輪の渡しで再度阿武隈川を渡って瀬の上に出た。ここより佐藤兄弟の旧跡へと辿るのである。

早苗とる手もとや昔しのぶ摺

 稲の苗を扱う手許の風情も古代めいて見える陸奥の田植風景。信夫もじ摺りを扱う手さばきが忍ばれることだ。

 文人墨客に懐かしがられるもじ摺りの石が、村人にとっては迷惑千万な石っころに過ぎない。現実の厳しい生活と王朝ロマンの確執。芭蕉には分かっていたのかどうか疑問の一句。

 『真蹟懐紙』には、早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺 とある。また、『曾良書留』には、

早乙女に仕形望まんしのぶ摺(さおとめに しかたのぞまん しのぶずり)とある。これが初案であろう。

「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)

しのぶもぢ摺りの石 (写真提供:牛久市森田武さん)

「早乙女に仕形望まんしのぶ摺」福島市杉妻町福島県庁前(明治12年5月 斉藤利助(俳号忍山)建立)(写真提供:牛久市森田武さん)

五里計:<ごりばかり>と読む。5里は20km。

等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿:<とうきゅうがたくをいでてごりばかり、ひわだのしゅく>と読む。檜皮の宿は、福島県郡山市日和田町。「檜皮」は芭蕉の洒落。奥羽街道の宿場であった 。

あさか山:安積山、別名額取山。『古今集』の「序」に「あさか山影さへ見ゆる山の井のあさくは人を思ふものかは」(釆女)と詠われ、みちのくきっての歌枕になった。郡山の西方にあり、磐梯熱海温泉街からの登山口がある。

かつみ:ヒメシャガ(姫射牙)のような菖蒲に似た草花?らしいが、 詳しくは不明。郡山市では市の花としてヒメシャガを「カツミ」としている。端午の節句に菖蒲の代わりをつとめたという。『無名抄』に、ここで端午の節句を迎えた藤中将実方が、菖蒲が無かったのでその代 わり安積の沼の花「かつみ」を葺かせたという話がある。芭蕉はこれにこだわったが自身も「かつみ」を知らない。「みちのくのあさかの沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ」『古今集』がある。なお、曾良のメモには「かつみ」を探したという記事が無いので、ここは藤原実方の故事と結びつけるための芭蕉の創作らしい。

二本松:二本松市は福島県中通り地方の北部に位置し、福島市と郡山市の中間にある。戊辰の役では官軍に敗れ、二本松少年隊の悲話とともに藩政も終焉を迎えた。昭和33年1町5村が合併し現在の二本松市となった。人口35,223人(平成17年8月1日現在)。

黒塚の岩屋:謡曲『安達原』の鬼 婆が住んでいた岩屋。

 黒塚の石碑と岩屋(写真提供:牛久市森田武さん)

しのぶもぢ摺の石:昔、安積国信夫郡でとれた忍草の茎や葉の色素で、ねじれたような模様の摺絹をつくったが、これはもじ摺りの石にこすりつけて作ったと解されていた。福島市山口の文 知摺観音境内にあった 。後世、源融と土地の娘虎女との悲恋の主題となった歌「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおもふ我ならなくに」(源融『古今集』)の歌枕としても有名になった。

忍ぶのさと:福島市山口。

遥山陰の小里に石半土に埋てあり:<はるかやまかげのこさとにいしなかばつちにうずもれてあり>と読む。

さもあるべきことにや:本当にそんなことがあったのだろうか? 。土地の人々の石を突き落とすという行為について、そんあことがあってもおかしくはないと同調しつつも、そこまでしなくてもいいではないかという不満もこめて。

全文翻訳

 等躬の家を辞して二十キロほど、日和田の宿駅を少し行ったところに安積山がある。街道筋からはすぐの場所。この付近は沼が多い。今が「かつみ」を刈る季節に近いと思われたので、どの草を「かつみ」と言うのかと土地の人々に尋ねてみたが、これを知る人は皆無。「かつみかつみ」と聞き歩いて、ついに日は山の端にかかってしまった。二本松より右に曲がって黒塚の岩屋を見て、福島に投宿した。

翌日は、「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおもふ我ならなくに」なる源融の歌で名高いもじ摺の石を訪ねて、忍ぶの里に行った。市街から遥かはなれた山かげの集落に半分土に埋もれたもじ摺石がある。村の子供たちがきて言うには、「昔、この石さ、山の上にあったんだけっども、もじ摺を試そうという人だちさぁやってきてぇ、麦を踏んづけっからあ、この谷底に落っこどしたら、石っこさひっくりけえって、面さ下になったんだでば」と言う。そんなことがあるのかとあきれかえって、

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺


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