詩の原理 萩原朔太郎

https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/2843_26253.html 【詩の原理 萩原朔太郎】より

 本書を書き出してから、自分は寝食を忘れて兼行し、三カ月にして脱稿した。しかしこの思想をまとめる為には、それよりもずっと永い間、殆ほとんど約十年間を要した。健脳な読者の中には、ずっと昔、自分と室生犀星むろうさいせい等が結束した詩の雑誌「感情」の予告に於おいて、本書の近刊広告が出ていたことを知ってるだろう。実にその頃からして、自分はこの本を書き出したのだ。しかも中途にして思考が蹉跌さてつし、前に進むことができなくなった。なぜならそこには、どうしても認識の解明し得ない、困難の岩が出て来たから。

 いかに永い間、自分はこの思考を持てあまし、荷物の重圧に苦しんでいたことだろう。考えれば考える程、書けば書くほど、後から後からと厄介な問題が起ってきた。折角一つの岩を切りぬいても、すぐまた次に、別の新しい岩が出て来て、思考の前進を障害した。すくなくとも過去に於て、自分は二千枚近くの原稿を書き、そして皆中途に棄ててしまった。言いようのない憂鬱ゆううつが、しばしば絶望のどん底から感じられた。しかも狂犬のように執念深く、自分はこの問題に囓かじりついていた。あらゆる瘠我慢やせがまんの非力をふるって、最後にまで考えぬこうと決心した。そして結局、この書の内容の一部分を、鎌倉の一年間で書き終った。それは『自由詩の原理』と題する部分的の詩論であったが、或る事情から出版が厭いやになって、そのまま手許てもとに残しておいた。

 大森に移ってきてから、再度全体の整理を始めた。そして最近、終ついにこの大部の書物を書き終った。これには『自由詩の原理』を包括したり、そのずっと前に書いて破いた『詩の認識について』も、概要だけを取り入れておいた。そして要するに、詩の形式と内容とにわたるところの、詩論全体を一貫して統一した。即ちこの書物によって、自分は初めて十年来の重荷をおろし、漸ようやく呼吸いきがつけたわけだ。何という重苦しい、困難な荷物であったろう。自分はちかって決心した。もはや再度こうした思索の迷路の中へ、自分を立ち入らせまいと言うことを。

 自分はこの書物の価値について、自ら全く知っていない。意外にこの書は、つまらないものであるか知れない。或あるいはまた、意外に面白いものであるか知れない。そうした読者の批判は別として、自分は少なくともこの書物で、過去に発表した断片的の多くの詩論――雑誌その他の刊行物に載る――を、殆ど完全に統一した。それらの詩論は、たいてい自分の思想の一部を、体系から切断して示したもので、多くは暗示的であったり、結論が無かったりした為に、しばしば読者から反問されたり、意外の誤解を招いたりした。(特に自由詩論に関するものは、多くの人から誤解された。)自分はこれ等の人に対し、一々答解することの煩はんを避けた。なぜなら本書の出版が、一切を完全に果すことを信じたからだ。この書物に於てのみ、読者は完全に著者を知り、過去の詩論が隠しておいた一つの「鍵かぎ」が、実に何であったかを気附くであろう。

 日本に於ては、実に永い時日の間、詩が文壇から迫害されていた。それは恐らく、我が国に於ける切支丹キリシタンの迫害史が、世界に類なきものであったように、全く外国に珍らしい歴史であった。(確かに吾人ごじんは詩という言語の響の中に、日本の文壇思潮と相容れない、切支丹的邪宗門の匂においを感ずる。)単に詩壇が詩壇として軽蔑けいべつされているのではない。何よりも本質的なる、詩的精神そのものが冒涜ぼうとくされ、一切の意味で「詩」という言葉が、不潔に唾つばきかけられているのである。我々は単に、空想、情熱、主観等の語を言うだけでも、その詩的の故ゆえに嘲笑ちょうしょうされ、文壇的人非人にんぴにんとして擯斥ひんせきされた。

 こうした事態の下に於て、いかに詩人が圧屈され、卑怯ひきょうなおどおどした人物にまで、ねじけて成長せねばならないだろうか。丁度あの切支丹等が、彼等のマリア観音を壁に隠して、秘密に信仰をつづけたように、我々の虐しいたげられた詩人たちも、同じくその芸術を守るために、秘密な信仰をつづけねばならなかった。そして詩的精神は隠蔽いんぺいされ、感情は押しつぶされ、詩は全く健全な発育を見ることができなかった。「こうした暗澹あんたんたる事態の下に」自分は幾度か懐疑した。「詩は正まさに亡ほろびつつあるのではないか?」と。それほど一般の現状が、ひどく絶望的なものに見えた。

 けれども今や、詩を求めようとする思潮の浪なみが、新しい文学から起ってきた。すべての新興文学の精神は、すくなくとも本質に於ける詩を叫んでいる。おそらくは彼等によって、文壇の風見かざみが変るだろう。そして我々のあまりに鎖国的な、あまりに島国的な文壇思潮が、もっと大陸的な世界線の上に出てくるだろう。実に自分は長い間、日本の文壇を仇敵視きゅうてきしし、それの憎悪ぞうおによって一貫して来た。あらゆる詩人的な文学者は――小説家でも思想家でも――日本に於ては不遇であった。のみならず彼等の多くは、自殺や狂気にさえ導かれた。――正義は復讐ふくしゅうされねばならない。

 だが既に時期は来ている。何よりも民衆が、文学に於ける詩を求めている。彼等は文壇を見捨ててしまった。そしてより詩的精神のある彼等の文学――即ち大衆文学――の方に走って行った。我々の進歩した民衆は、もはや文壇に於ける芸術的な、そしてあまりに芸術的であることによって、精神の詩を持たないような文学書類を、一切読もうとしないだろう。一方文壇の内部からは、あの小児病的情熱の無産派文学が興ってきて、過去の死にかかった文壇に挑戦ちょうせんしている。あらゆるすべての事情が、今や失われた詩を回復し、文学の葬られた霊魂を呼び起そうとしているのだ。正義は復活されるであろう。

 この新世紀の朝に際して、自分がこの書物を出版するのは、偶然にも意義の深いことと言わねばならぬ。自分はこの書物に於て、詩に関する根本の問題を解明した。即ち詩的精神とは何であるか、文学のどこに詩が所在するか、詩の表現に於ける根本の原理は何であるか、詩と他の文学との関係はどうであるか、そもそも詩と言われる概念の本質は何であるか、等々について、思考の究極する第一原理を論述した。故に標題の示す如く、正に『詩の原理』であるけれども、普通に刊行されてる詩書の如く、単に韻律音譜の註ちゅうであったり、名詩の解説的批判であったり、初学者の入門的手引であったり、或は独断的詩論の主張であったりするものとは、全然内容が異っている。この書の考えている事は、詩の部門的思考でなくして、文学、芸術、及び人生の全般に於ける詩の地位が、正しくどこにあるかを判別するところにある。故にこの書物の論ずる範囲は、単に韻文学としての詩に限らず、本質に於て詩という言語が包括し得る、すべての文芸一般に及んでいる。(実に或る意味からみて、本書は一種の小説論でさえある。)

 思うに「詩」という言語ほど、従来広く一般的に使用されて、しかもその実体の不可解であり、意味の掴つかまえどころなく漠然としたものはないであろう。本書はこの曖昧あいまいをはっきりさせ、詩の詩たる正体を判然明白に解説した。(自分の知っている限りこうした書物は外国にも無いようだ。)そこで自分の読者は、すくなくともこの書物から、詩という観念が意味するところの、真の根本の定義を知り得るだろう。そしてこれが解れば、文学の最も重大な精神が解ったのである。故に自分の望むところは、単に詩の作家ばかりでなく、いやしくも詩的精神の何物たるかを知ろうとしている、すべての文学者及び芸術家の全部に向って、この書物を読んでもらいたいのである。諸君がもしこの書を一読すれば、すくなくとも翌日からして、詩の批判を正当にすることができるであろう。

西暦一九二八年十月

大森馬込まごめ町にて   著者

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新版の序

 インテリの通有性は、自分の心情ハートが為なしてる仕事に対して、自分の頭脳ヘッドが懐疑を持つことだと言われている。詩を作るのは、情緒と直観の衝動による内臓的行為であるが、詩の原理を考えるのは、理智の反省による頭脳の悟性的行為である。ところで、詩人としての私の生活が、過去にそのインテリの通有性を、型通りに経過して来た。即ち私は、一方で人生を歌いながら、一方で人生の何物たるかを思想し続け、一方で詩を書きながら、一方で詩の本質について懐疑し続けて来た。この『詩の原理』は、私が初めて詩というものを書いた最初の日から、自分の頭脳に往来した種々の疑問の総譜表スコーアである。

 しかしこの書の初版が出てから、既に約十年の時日が経たってる。この長い歳月の間に、自分の思想に多少の変化と進歩があり、今日の私から見て、この著に幾分の不満なきを得ない。しかしそれは部分的の事であり、大体に於て一貫する主脈の思想は、十年後の今の私も依然として同じであり、堅く自分はその創見と真実を信じきってる。

 私がこの書を書いたのは、日本の文壇に自然主義が横行して、すべての詩美と詩的精神を殺戮さつりくした時代であった。その頃には、詩壇自身や詩人自身でさえが、文壇の悪レアリズムや凡庸主義に感染して、詩の本質とすべき高邁こうまい性や浪漫性を自己虐殺し、却かえって詩を卑俗的デモクラシイに散文化することを主張していた。したがってこの『詩の原理』は、かかる文壇に対する挑戦ちょうせんであり、併あわせてまた当時の詩壇への啓蒙けいもうだった。

 今や再度、詩の新しい黎明れいめいが来て、詩的精神の正しい認識が呼び戻された。すべての美なるもの、高貴なるもの、精神的なるもの、情熱的なるもの、理念的なるもの及び浪漫的なる一切のものは、本質的に詩精神の泉源する母岩である。そして日本の文壇は、今やその母岩の発掘に熱意している。単に文壇ばかりではない。日本の文化と社会相の全部を通じて、詩精神が強く熱意されてる事、今日の如き時代はかつて見ない。過去約十年の間に、十数版を重ねて一万余人の読者に読まれたこの小著が、長い間の悪い時代を忍びながらも、かかる今日の時潮を先駆して呼ぶために、多少の予言的責務を尽したかも知れないことに、著者としての自慰を感じて此所ここに序文を書くのである。

西暦一九三八年五月

著者

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――読者のために――

 この書物は断片の集編でなく、始めから体系を持って組織的に論述したものである。故ゆえに読者に願うところは、順次に第一頁ページから最後まで、章を追って読んでもらいたいのである。中途から拾い読みをされたのでは、完全に著者を理解することができないだろう。

 各章の終に附した細字の註ちゅうは、本文の註釈と言うよりは、むしろ本文において意を尽さなかった点を、さらに増補して書いたのである。故に細字の分も注意して読んでいただきたい。

『詩の原理』について、自分が始めて考え出したのは、前の書物『新しき欲情』が出版された以前であって、当時既に主題の一部を書き出していた。したがってこの書の思想の一部分は、前の書物『新しき欲情』の中にも散在している。

 この書は始め八百枚ほどに書いた稿を、三度書き換えて後に五百枚に縮小した。なるべく論理を簡潔にし、蛇足だそくの説明を除こうとしたからである。特に自由詩に関する議論は、それだけで既に三百枚の原稿紙になってる稿本『自由詩の原理』を、僅わずかこの書の一二章に縮小し、大略の要旨だけを概説した。したがって或る種の読者には、多少難解と思われる懸念もあるが、十分注意して精読すれば、決して解らないと言うところはないと思う。

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概論

詩とは何ぞや

 詩とは何だろうか? これに対する答解は、形式からと内容からとの、両方面から提出され得る。そして実に多くの詩人が、古来この両方面から答解している。もしこれ等の答解にして完全だったら、吾人ごじんはそのどっちを聞いても好いのである。なぜなら芸術に於おける形式と内容の関係は、鏡に於ける映像と実体の関係だから。

 しかしながら吾人は、そのどっちの側からの答解からも、かつて一つの満足のものを聞いていない。特に内容からされたものは、一般に甚はなはだしく独断的で、単に個人的な立場に於ける、個人的な詩を主張しているにすぎない。例えば、或あるいは詩は霊魂の窓であると言い、天啓の声であると言い、或は自然の黙契であると言い、記憶への郷愁だと言い、生命の躍動だと言い、鬱屈うっくつからの解放だと言い、一々個人によって意見を異にし、一も普遍妥当するところがない。畢竟ひっきょうこれ等のものは、各々の詩人が各々の詩論を主張しているのであって、一般についての「詩の原理」を言ってるのでない。吾人が本書で説こうとするのは、こうした個人的の詩論でなくして、一般について何人にも承諾され得る、普遍共通の詩の原理である。

 さて内容からされた詩の解説が、かく各人各説であるに反して、一方形式からされた詩の答解は、不思議に多数者の意見が一致し、古来の定見に帰結している。曰いわく、詩とは韻律リズムによって書かれた文学、即ち「韻文」であると。思うにこの解説ほど、詩の定義として簡単であり、かつ普遍に信任されているものはないだろう。しかしこの解説が、果して詩の詩たるべき本質を、形式上から完全に定義しているだろうか? 第一の疑問は、先まず韻律リズムとは何ぞや、韻文バースとは何ぞやと言うことである。字書の語解は、この点に就いて完全な答案を持つであろう。にもかかわらず、古来多くの詩人等は、この点で態度を晦くらまし、強しいて字義の言明された定義を避けてる。けだし、彼等の認識中には、詩と散文との間に割線がなく、しばしば韻文の延べた線が、散文の方に紛れ込んでいるのを知ってるからだ。彼等はその点で困惑し、語義を曖昧あいまいにしておくことから、ずるくごまかそうとしているのである。

 されば*リズムや韻文やの語も、詩人によってそれぞれまた解釈と意見を異にしている。誰もおそらく、この言語の意味する字書の正解を知ってるだろう。しかも多くの詩人等は、これにまた各自の勝手な附説をつけ、結局して自己の詩と結びつけているのである。故ゆえに詩の形式に於ける答解も、つまりは内容に於けるそれと同じく、どこにも共通普遍の一致がない、各人各説の独断説にすぎないことが推論される。しかし此処ここでは、仮りに各人の意見が一致し、文字通りの正解された韻文を以て、詩の詩たる典型の形式であると認めておこう。しかしそれにしても、尚なおこの答解は疑わしく、定義として納得できないものを考えさせる。

 もし果してそうであり、詩の詩たる所以ゆえんが韻文であるとするならば、およそ韻律の形式によって書かれたすべてのものは、必然に皆詩と呼ばるべき文学に属するだろう。然るに世には、正則なる律格や押韻やの形式をもっていながら、本質上に於て詩と称し得ないような文学がある。即ち例えば、ソクラテスが韻文修辞の練習として、獄中で書いたと言われるイソップ物語の押韻訳や、アリストテレスが書いたと言われる、同じ押韻の哲学論理や、或は我が国等によく見る道徳処世の教訓歌、学生が地理歴史の諳記あんきに便する和歌等のものである。これ等の文字は、確にだれがみても異存のない、文字通りの正則な韻文であるにかかわらず、本質上から詩と呼ぶことができないのである。反対に一方には、ツルゲネフやボードレエルの書いた詩文の如く、散文の形式であるにかかわらず、本質から詩と呼ばれてる一種の文学、即ち所謂いわゆる「**散文詩」がある。

 されば詩の答解は、散文(PROSE)に対する韻文(VERSE)と言う如き、単純な断定によっては尽し得ない。すくなくともこの答解は、その「散文」「韻文」等の語に特殊な解説を附さない限りは、形式からの見方としても、合理的な普遍性を持たないだろう。もし実に合理的のものであったら、形式がそれ自ら内容の投影である故に、本質に於て詩と考え得ないような文字を、外見上から紛れ入れるようなことは無いわけである。故に形式からも内容からも、従来詩に就いて答解されたすべてのものは、一として合理的な普遍性を有していない。詩とは何ぞや? という問に対して、過去に人々が答えたすべてのものは、部分的な偏見に執した誤謬ごびゅうである、もしくは特殊の窓を通して見た、個人の独断的主張であるかであって、一般に普遍的に、どんな詩にもどの詩人にも、共通して真理である如き答解は、かつて全く無かったのである。

 そこで本書は、この普遍的な解答をするために、内容と形式との、二つの方面から考察を進めて行こうと思っている。けだし詩とは「詩の内容」が「詩の形式」を取ったものであるからだ。そこで本書の前半を内容論とし、後半を形式論とし、前のものの肖像が、後のものの鏡面に映り出してくるように、論述を組織したいと思っている。

* 詩のリズムを解して、心に起る浪なみの音波など言う人がある。これ形式を内容に移して説いたもので、この思想から自由詩の所謂「内部韻律インナアリズム」という如き観念が生ずるのである。だがこうなってくると「韻文」の語義が益々ますます不可解になる。

** 詩と韻文とが同字義ならば、散文詩という語は何の意味か。散文(詩でないもの)と詩(韻文)とが、一つの言語で結びつくのは、北と南、善と悪との反対を、同時に考えるような矛盾である。

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内容論

第一章 主観と客観

 詩という言語が指示している、内容上の意味は何だろうか? 例えば或る自然の風景や、或る種の音楽や、或る種の小説等の文学が、時に詩的と呼ばれ、詩があると言われる時、この場合の「詩」とは何を意味しているのだろうか。本書の前半に於て、吾人ごじんはこの問題を解決しようと思っている。しかしこれを釈とく前には、表現の一般的のものにわたって、原則の根拠するところを見ねばならぬ。なぜならこの意味の「詩」という言語は、特殊の形式によるものでなく、あらゆる一切なものにわたって、内容の本質する点を指すのであるから、以下吾人は、暫しばらく詩という観念から離別をして、表現の原則する公理につき、基本の考察を進めて行こう。

 さてすべての芸術は、二つの原則によって分属されてる。即ち主観的態度の芸術と、客観的態度の芸術である。実にあらゆる一切の表現は、この二つの所属の中、何いずれかの者に範疇はんちゅうしている。もちろん吾人の知ろうとする詩も、この二つの所属の中、どっちかの者でなければならない。故ゆえにこの点での認識を判然さすべく、究極まで徹底的にやって行こう。そもそも芸術上に於ける主観的態度とは何だろうか。客観的態度とは何だろうか。此処ここで始めから分明している一つのことは、主観が「自我」を意味しており、客観が「非我」を意味していることである。

 そこで一般の常識は、ごく単純に考えて解釈している。即ち表現の対象を自我に取るかまたは自我以外の外物に取るかによって、或あるいは主観的描写と呼ばれ、或は客観的描写と言われる。しかしこの解釈が浅薄であり、真の説明になっていないことは明白である。もしそうであるならば、彼自身をモデルとする画家の所謂いわゆる自画像は、常に主観的芸術の典型と見ねばならない。しかもそんな荒唐無稽こうとうむけいがあるだろうか。ひとしく自画像である中にも、主観的態度の画風もあるし、純客観風の画風もある。画家にとってみれば、モデルが自分であると他人であるとは、あえて関するところでないのだ。文学にしてもその通りで、作者自身の私生活を描いたもの、必ずしも主観的文学と言えないだろう。或る浅薄な解釈者は、一人称の「私」で書いた小説類を、すべて主観的文学と言っているが、もしそうした小説に於て、「私」という言葉の代りに「彼」を置き、もしくは青野三吉という他人の固有名詞を入れ換えたら、単にそれだけの文字の相違で、主観小説が直ちに客観小説に変ってくるのか?

 常識のあるものは、だれもそんな馬鹿を考えない。或る小説に於て、主人公が「私」であろうと「彼」であろうと、文学の根本様式に変りはしない。或る作家が、もし科学的冷酷の態度を以て、純批判的に自己を観察し、写実主義のメスを振ふるって自己の解剖図を見せるならば、これをしも尚なお主観的描写と言い、主観主義の芸術と言うだろうか。この場合のモデルは自我であるにかかわらず、実には却かえって客観描写とされるのである。これに反して或る作品は、自己以外の第三者や、自然外界の事件を対象として描いてるのに、却ってしばしば主観主義と考えられてる。たとえばユーゴーやジューマの浪漫派小説は、専もっぱら広い人生社会を書いているのに、定評はこれを主観派のものに見ている。反対に日本の自然派小説の大部分は、作者自身をモデルとした純私小説であるにかかわらず、当時の文壇の批判に於て、客観文学の代表と思惟しいされていた。さらに尚一つの例を言えば、西行さいぎょうは自然詩人の典型であり、専ら自然の風物外景のみを歌っていたにかかわらず、今に於ても昔に於ても、彼の歌風は主観主義の高調と考えられている。

 されば主観と客観との区別が、必ずしも対象の自我と非我とに有るのでなく、もっと深いところに意味をもってる、或る根本のものに存することが解るだろう。何よりも第一に、此処で提出されねばならない問題は、そもそも「自我とは何ぞや?」という疑問である。主観が自我を意味する限り、この問題の究極点は、結局して此処に達せねばならないだろう。自我とは何だろうか。第一に解っていることは、自我の本質が肉体でないと言うことである。なぜならば画家は、自分の肉体を鏡に映して、一の客観的存在として描写している。また自我の本質は、生活上に記憶されてる経験でもないだろう。なぜなら多くの小説家等は、自己の生活経験を題材として、極きわめて客観的態度の描写をしている。

 では自我とは何だろうか? すくなくとも心理上に於て意識される、自我の本質は何であろうか? この困難な大問題に対しては、おそらく何人も、容易に答えることができないだろう。然るに幸いにも、近代の大心理学者ウイリアム・ゼームスが、これに対して判然たる解決をし、有名な答解をあたえている。曰いわく一つの同じ寝室に、太郎と次郎が一所に寝ている。朝、太郎が目を覚さました時、いかにして自分の記憶を、次郎のそれと区別するか。けだし自我の意識は「温感」であり、或る親しみのある、ぬくらみの感であるのに、非我の記憶は「冷感」であり、どこかよそよそしく、肌につかない感じがする。自我意識は即ち温熱の感であると。(ゼームス「意識の流れ」)

 このゼームスの解説から、吾人は始めて、意識に於ける、自我の本体を自覚し得る。自我とは実に温熱の感であり、非我とはそれの伴わない、冷たくよそよそしい感である。故にすべて温熱の感の伴うものは、吾人の言語に於て「主観的」と呼ばれるのである。然るに温熱の感の所在は、それ自ら感情(意志を含めて)である故に、すべて主観的態度と言われるものは、必然に感情的態度を意味している。反対に情味のとぼしく、知的要素に於て克かったものは、その冷感の故に客観的態度と言われる。例えば可憐かれんな小動物が苛いじめられているのを見て、哀憐あいれんの情を催し、感傷的な態度で見ている人は、その態度に於て主観的だと言われる。これに反して無関心の態度を取り、冷静な知的の眼でそれを見ている人は、客観的な観察をしていると考えられる。

 そこで思いつかれるのは、こうして言語の解釈されてる、一般のありふれた様式である。一般に人々はこう考えている。主観とは自我に執する態度であり、客観とは自我を離れる態度であると。吾人はだれもこの思想を、普通に当然のことに思っている。だが考えてみれば、世の中にこれほど奇妙な思想はなかろう。なぜといって人間が分身術の魔法でも知らない限りは、自分で自分から離れるなどいう奇態な業わざが、実際にできる筈はずがないからだ。しかもこうした思想が、さも当然のように行われるのは、この場合に於ける「自我」が、常に「感情」を指してるからだ。即ち「自我を離れる」という意味は、感情的な態度を排して、理智的な冷静の態度を取ると言う意味である。反対に「自我に執する」とは、感情的な態度を取ることを意味している。

 かく「自我」と「感情」とは、心理上において同字義に解釈される。ゆえに主観的なるものは、必然に皆感情的である。たとえば前の例において、西行の歌やユーゴーの小説やが、外界の自然や、社会を題材としたものであるにかかわらず、それの批判が、いつも主観的と評するのは、表現の態度が感情的で、作家の情緒や道徳感やで、世界を情味ぶかく見ているからである。これに反して、自然派等の小説が、作家の私生活を書いていながら、一般に客観的と評されているのは、その描写の態度が冷静であり、知的な没情感の観照をしているからである。そこで芸術上の主観主義とは、感情や意志を強調する態度を言い、客観主義とは情意を排し、冷静な知的の態度によって、世界を、無関心に観照する態度を言う。

 されば常に言われる如く、客観はきまって「冷静なる客観」であり、主観は常に「熱烈なる主観」である。この逆即ち「冷静なる主観」や「熱烈なる客観」などは、宇宙のどんな言語にも存在しない。熱と主観は一語であり、冷と客観は一義である。それ故にまた、あらゆる主観芸術の特色は温感であり、あらゆる客観芸術の特色は冷感である。多くの芸術品の上に於て、いかにこの二つの著るしい対照が現われてるかを、さらに次章に於て論説しよう。

第二章 音楽と美術

――芸術の二大範疇はんちゅう――

 人間の宇宙観念を作るものは、実に「時間」と「空間」との二形式である。故ゆえに吾人ごじんのあらゆる思惟しい、及びあらゆる表現の形式も所詮しょせんこの二つの範疇にすぎないだろう。そこで思惟の様式についてみれば、すべての主観的人生観は時間の実在にかかっており、すべての客観的人生観は空間の実在にかかっている。所謂いわゆる唯心論と唯物論、観念論と経験論、目的論と機械論等の如き、人間思考の二大対立がよるところは、結局して皆此処ここに基準している。

 ところでこの対立を表現について考えれば、音楽は即ち時間に属し、美術は即ち空間に属している。実に音楽と美術とは、一切芸術の母音であって、あらゆる表現の範疇する両極である。即ち主観主義に属する一切の芸術文学は、音楽の表現に於て典型され、客観主義に属するすべてのものは、美術の表現に於て典型される。故に音楽と美術との比較鑑賞は、それ自ら文芸一般に通じての認識である。

 音楽と美術! 何という著るしい対照だろう、およそ一切の表現中で、これほど対照の著るしく、芸術の南極と北極とを、典型的に規範するものはない。先まず音楽を聴きき給え。あのベートーベンの交響楽シムホニイや、ショパンの郷愁楽ノクチューンや、シューベルトの可憐かれんな歌謡リードや、サン・サーンスの雄大な軍隊行進曲ミリタリマーチやが、いかに情熱の強い魅力で、諸君の感情を煽あおぎたてるか。音楽は人の心に酒精を投じ烈風の中に点火するようなものである。仏蘭西フランス革命当時の狂児でなくとも、あのマルセーユの歌を聴いて狂熱し、街路に突進しないものがどこにあろうか。音楽の魅力は酩酊めいていであり、陶酔であり、感傷である。それは人の心を感激の高所に導き、熱風のように狂乱させる。或あるいは涙もろくなり、情緒に溺おぼれ、哀切耐えがたくなって、嗚咽おえつする。ニイチェの比喩ひゆを借りれば、音楽こそげにデオニソスである。あの希臘ギリシャ的狂暴の、破壊好きの、熱風的の、酩酊の、陶酔の、酒好きの神のデオニソスである。

 これに対して美術は、何という静観的な、落着いた、智慧ちえ深い瞳めをしている芸術だろう。諸君は音楽会の演奏を聴いた後で、直ちに美術展覧会に行き、あの静かな柔らかい落着いた光線や気分の中を、あちこちと鑑賞しつつ歩いた時、いかに音楽と美術とが、芸術の根本的立場に於て、正反対にまで両極していることを知ったであろう。会場の空気そのものすらが、音楽の演奏では熱しており、聴客が狂気的に感激している。そして美術の展覧会では、静寂として物音もなく、人々は意味深げに、鑑賞の智慧聡ざとい瞳めを光らしている。かしこには「熱狂」があり、此処には「静観」があり、一方には「情熱」が燃え、一方には「智慧」が澄んでる。

 実に美術の本質は、対象の本質に突入し、物如の実相を把握しようとするところの、直覚的認識主義の極致である。それは智慧の瞳を鋭どくし、客観の観照に澄み渡って行く。故に絵画の鑑賞には、常に静かな秋空があり、澄みきった直感があり、物に動ぜぬ静観心と叡智えいちの行き渡った眼光がある。それは見る人の心に、或る冷徹した、つめたい水の美を感じさせる。即ちこの関係で、音楽は正に「火の美」であり、美術は正に「水の美」である。一方は燃えることによって美しく、一方は澄むことによって美しい。そして絵画のみでなく、またもちろん、すべての造形美術がそうである。たとえば、建築の美しさは、あの幾何学的な、数理式的な、均斉や調和の取れた、そして大地の上に静寂としてる、あのつめたく澄んだ触覚にある。それは理智的の静観美で、熱風的の感情美でない。即ちニイチェの比喩で言えば、美術はまさに智慧の女神アポロによって表徴されてる、端麗静観の芸術である。

 音楽と美術によって代表されてる、この著るしい両極的の対照は、他の一切の芸術に普遍して、主観的のものと客観的のものとを対照づけてる。即ち主観的なる一切の芸術は、それ自ら音楽の特色に類属し、客観的なるすべてのものは、本質上に於て美術の同範に属している。そこでこれを文学について考えれば、詩は音楽と同じように情熱的で、熱風的な主観を高調するに反し、小説は概して客観的で、美術と同じように知的であり、人生の実相を冷静に描写している。即ち詩は「文学としての音楽」であり、小説は「文学としての美術」である。

 しかしながら言語の意味は、常に関係上の比較にかかっているから、関係にしてちがってくれば、言語の指定するものもちがってくる。例えば函館は日本の北で、台北は日本の南である。けれども北海道の地図から言えば、函館はその南であり、台湾の地図から見れば、台北はその北方である。故に詩や小説が世界している、各々の内側に入って見れば、そこはまた主観主義と客観主義とが、それぞれの部門に対立し、音楽型と美術型とが分野している。先ず小説について見れば、浪漫派や人道派等の名で呼ばれるものは、概して皆主観主義の文学であり、自然派や写実派の名目に属するものは、多く皆客観主義の文学である。したがって前者の特色は、愛や憐憫れんびんやの情緒に溺れ、或は道義観や正義観やの、意志の主張するところを強く掲げ、すべてに於て音楽のように燃焼的である。これに反して客観派の小説は、知的に冷静な態度を以て、社会の現実している真相を描こうとする。

 次に詩に於ても、やはりこの同じ二派の対照がある。例えば西洋の詩で、抒情詩じょじょうしと叙事詩の関係がそうである。一般に言われている如く、抒情詩は主観的の詩に属し、叙事詩は客観的の詩に属する。しかし叙事詩が客観的だと言う意味は、必ずしもそれが歴史や伝説を書くからでなく、他にもっと本質的な深い意味があるからである。だが、この問題は本書のずっと後に廻しておいて、当面の議事を進めて行こう。日本の詩について見れば、和歌と俳句の関係が、主観主義と客観主義を対照している。詩の内容の点からみても、音律の点からみても、和歌の特色が音楽的であるに反して、俳句は著るしく静観的で、美術の客観主義と共通している。また箇々の詩派について言えば、欧洲の浪漫派や象徴派に属する詩風は、概して情緒的の音楽感を高調し、古典派や高踏派に属するものは、美術的の静観と形式美とを重視する。

 かく主観主義と客観主義とは、凡すべての芸術の部門に於て、それぞれの著るしい対立を示している。実に美術や音楽やの、典型的な芸術に於てさえも、またそれ自身の部門に於て、この左右両党が対立しているのである。先ず美術について考えれば、一方にゴーガンや、ゴーホや、ムンヒや、それから詩人画家のブレークなどがいて、典型的な主観派を代表している。即ちこの種の画家たちは、対象について物の実相を描くのでなく、むしろ主観の幻想や気分やを、情熱的な態度で画布に塗りつけ、詩人のように詠歎えいたんしたり、絶叫したりしているのである。故に彼等の態度は、絵によって絵を描くというよりも、むしろ絵によって音楽を奏しているのだ。然るにこの一方には、ミケランゼロや、チチアンや、応挙おうきょや、北斎ほくさいや、ロダンや、セザンヌやの如く、純粋に観照的な態度によって、確実に事物の真相を掴つかもうとするところの、美術家の中の美術主義者が居る。

 音楽がまた同様であり、主観主義の標題楽と、客観主義の形式楽とが対立している。標題音楽とは、近代に於ける一般的の者のように、楽曲の標題する「夢」や「恋」やを、それの情緒気分に於て表情しようとする音楽であり、その態度は純粋に主観的である。然るに形式音楽の態度は、楽曲の構成や組織を重んじ、主として対位法によるフーゲやカノンの楽式から、造形美術の如き荘重の美を構想しようとするのであって、極きわめて理智的なる静観の態度である。即ち形式音楽は「音楽としての美術」と言うべく、これに対する内容主義の標題楽は、正に「音楽の中での音楽」というべきだろう。

第三章 浪漫主義と現実主義

 上来述べ来きたったように、あらゆる一切の芸術は、主観派と客観派との二派にわかれ、表現の決定的な区分をしている。実にこの二つの者は、芸術の曠野こうやを分界する二の範疇はんちゅうで、両者は互に対陣し、各々の旗号を立て、各々の武器をもって向き合ってる。

 人間の好戦的好奇心は、しばしばこの両軍を衝突させ、勝敗の優劣を見ようと欲する。しかしながら両軍の衝突は、始めより無意味であって、優劣のあるべき理由がない。なぜならば主観派の大将は音楽であり、客観派の本塁は美術であるのに、音楽と美術の優劣に至っては、何人も批判することができないからだ。もし或あるいは、強しいてこれを批判するものがありとすれば、それは単なる趣味の好悪こうお、個人としての好き嫌きらいにすぎないだろう。(あらゆる芸術上の主義論争は、結局して個人的な趣味の好悪にすぎないのである。)

 然るにそれにもかかわらず、古来この両派の対陣は、文学上に於て盛んに衝突し、異端顕正の銃火をまじえ、長く一勝一敗の争論を繰返してきた。この不思議なる争闘は、けれども必ずしも無意味でなかった。なぜならばそれによって、表現に於ける二大分野の特色を明らかにし、相互の旗色を判然とすることができたからだ。よって激戦の陣地について、左右両軍の主張を聞き、突撃に於ける文学上の合図を調べてみよう。

 文学上に於ける主観派と客観派との対立は、常に浪漫派と自然派、もしくは人道派と写実派等の名で呼ばれている。先まず客観派に属する文学、即ち自然主義や写実主義の言うところを聞いてみよう。

・ 感情に溺おぼれる勿なかれ。

・ 主観を排せよ。

・ 現実に根ざせ。

・ あるがままの自然を描け!

 これに対して主観派に属する文学、即ち浪漫主義や人道主義の言うところはこうである。

・ 情熱を以て書け!

・ 主観を高調せよ。

・ 現実を超越すべし。

・ 汝なんじの理念を高く掲げよ!

 両派の主張を比較してみよ。いかに両方が正反対で、著るしいコントラストをしているかが解るだろう。前者の正とするところは後者の邪であり、後者の掲げる標語は一方の否定するところである。そもそも何故なにゆえに二つの主張は、かくも反対な正面衝突をするのだろうか。けだしこの異議の別れる所以ゆえんは、両者の人生に対する哲学――人生観そのもの――が、根本に於てちがっているからである。文学上に於けるすべての異論は、実にこの人生観の別から来ている。これを両方の者について調べてみよう。

 客観派の文学、即ち自然主義や写実主義について見れば、人生は一つの実在であり、正にそれが有る如く、現実に於て見る如くである。そして生活の目的は、この現実的なる世界に於て、自然人生の実相を見、真実レアールを観照し、存在の本質を把握することに外ならない。故に芸術家としての彼等の態度は、この実に「あるがままの世界」に対して、あるがままの観照をすることにある。この生活態度は知的であり、認識至上主義であり、一切「真実への観照」にかかってる。即ちそれは「観照のための芸術」である。

 然るに一方に於ては、浪漫主義等の主観派文学が、これとちがった人生観を抱いだいている。この派の人々に取ってみれば、人生は現に「あるもの」でなく、正に「あるべきもの」でなければならない。この現実するところの世界は、彼等にとって不満であり、欠点であり、悪と虚偽とに充たされている。実に有るべきところの人生は、決してこんな態ざまであってはならない。真に実在さるべきものは、かかる醜悪不快の現実でなく、すべからくそれを超越したところの、他の「観念の世界」になければならぬ。故にこの派の人々にとってみれば、芸術はそれの理念に向って、呼び求めるところの祈祷きとうであり、或はこの不満なる現実苦から脱れるための、悲痛な情熱の絶叫である。それは何等「認識のため」の表現でなく、情意の燃焼する「意欲のため」の芸術である。

 かく二つの芸術は、初めから人生観の根柢こんていを異にしている。一方の者にとっては、凡すべて現実する世界(あるところのもの)が真であり、美と完全と調和との一切が、それの観照に於て実在される。即ち彼等の主張によれば、実在レアールは「現実以外」にあるのでなく、「現実の中に」存在する。(したがって「現実を凝視せよ」という標語が言われる。)ところが一方の人生観では実在レアールが「現実の中に」あるのでなく、彼自身の理想の中に、観念の中に存するのである。言い換えれば、この現実世界は不満足のもの――肯定できないもの――であって、真に考えらるべき世界は、主観の構成する「観念の中に」実在する。(したがって「現実を超越せよ」という標語が言われる。)

 この二つの異った思想に於て、読者は直ただちに希臘ギリシャ哲学の二つの範疇、即ちプラトンとアリストテレスを聯想れんそうするであろう。実にプラトンの哲学は、それ自ら芸術上の主観主義を代表し、アリストテレスは客観主義を代表している。即ちプラトンの思想によれば、実在は現実の世界になくして、形而上けいじじょうの観念界イデヤに存するのである。故に哲学の思慕は、このイデヤに向ってあこがれ、羽ばたき、情熱を駆り立て、郷愁の横笛を吹き鳴らすにある。これに反してアリストテレスは、実在を現実の世界に認識した。彼はプラトンの説を駁ばくして真理を「天上」から「下界」におろし、「観念」から「実体」に現実させた。彼は実にレアリズムの創始者で、プラトンの詩的ロマンチシズムと相対の極を代表している。そしてこの二者の思想は、古来から今日に至るまで、尚なお一貫した哲学上の両分派で、おそらくはずっと未来にまで、哲学の歴史を貫通する論争の対陣だと言われている。そしてこの二者の議論が尽きない限り、芸術上における二派の論争も止やまないのである。

 ともあれ吾人ごじんは、此処ここに至って「主観主義」と「客観主義」との、芸術上における二派のイズムを分明し得た。要するに二派の相違は、その認定する宇宙の所在が、自我の観念イデヤに於てであるか、もしくは現象界の実体に存するかという、内外両面の区別にすぎない。(これを音楽と絵画について考えてみよ。)然るに観念界に存するものは、常に自我(主観)と考えられ、現象界に存するものは、常に非我(客観)と思惟しいされるから、此処に主観派と客観派の名目が生ずるのである。前に他の別の章に於て、自分は心理学上の見解から、所謂いわゆる「主観」の何物たるかを述べておいたが、此処に至って実在論的の見地からも、主観の本性を知ることができるのだ。即ち主観とは「観念イデヤ」であって、自我の情意が欲求する最高のもの、それのみが真実であり実体であるところの、真の規範されたる自我エゴである。故に「主観を高調する」とは、自己の理想や主義やを掲げて、観念イデヤを強く主張することであり、逆に「主観を捨てよ」とは、そうした理想や先入見やの、すべてのイデオロギイとドグマを捨て、非我無関心の態度を以て、この「あるがままの世界」「あるがままの現実」を視みよということである。

 ところでこの「主観を捨てよ」は、自然派その他の客観主義の文学が、常に第一のモットオとして掲げるところであるけれども、一方主観主義の文学に取ってみれば、主観がそれ自ら実在レアールであって、生活の目標たる観念である故に、主観を捨てることは自殺であり、全宇宙の破滅である。彼等の側から言ってみれば、この「あるがままの現実世界」は、邪悪と欠陥とに充ちた煉獄れんごくであり、存在としての誤謬ごびゅうであって、認識上に肯定されない虚妄きょもうである。何となれば、彼等にとって、実に「有りレアール」と言われるものはイデヤのみ。他は虚妄の虚妄、影の影にすぎないからだ。

 然るに、客観主義の方では、この影の影たる虚妄の世界が真に「有るレアール」ところのもの――この非実在とされる虚妄の世界が、レアールの名で「現実」と呼ばれてる。即ちこの方の見地からは、現実する世界だけが真実であり、実に「有りレアール」と言われるものであって、主観のイデヤに存する世界は、実なき観念の構想物――空想の幻影・虚妄の虚妄――と考えられる。故に両方の思想は反対であり、同じレアールという言語が、逆に食いちがって使用されてる。

 この両方の思想の相違を、最もよく説明するものは、プラトンとアリストテレスの美術論である。プラトンによれば、自然はイデヤの模写であるのに、美術はその模写を模写する故に、虚妄の表現であり、賤いやしく劣等な技術であるというのである。(彼が音楽を以て最高の芸術とし、美術を以て劣等の芸術と考えたのは、いかにもプラトンらしく自然である。)これに反してアリストテレスは、同じく美術を自然の模写であると認めながら、それ故に真実であり、智慧ちえの深い芸術であると考えた。

 要するに客観主義は、この現実する世界に於て、すべての「現存ザインするもの」を認め、そこに生活の意義と満足とを見出みいだそうとするところの、レアリスチックな現実的人生観に立脚している。客観主義の哲学は、それ自ら現実主義レアリズムに外ならない。これに反して主観主義は、現実する世界に不満し、すべての「現存ザインしないもの」を欲情する。彼等は現実の彼岸ひがんに於て、絶えず生活の掲げる夢を求め、夢を追いかけることに熱情している。故に主観主義の人生観は、それ自ら浪漫主義ロマンチシズムに外ならない。

 かく芸術上に於ける主観主義と客観主義の対立は、人生観としての立場における、浪漫主義と現実主義の対立に帰結する。彼がもしロマンチストであったならば、必然に表現上の主観主義者になるであろうし、彼がもしレアリストであったならば、必然に表現上の客観主義者になるであろう。しかし言語は概念上の指定であって、具体的な事物について言うのでないから、単に概称してロマンチストと言い、レアリストと言う中には、特色を異にする多くの別種が混同している。例えば普通にレアリストと称されてる作家の中に、却かえって本質上のロマンチストがいたりする。またロマンチストの中にも、理念を異にし気質を別にするところの人々が居る。以上次第に章を追って、これ等の区別を判然とするであろう。

第四章 抽象観念と具象観念

 前章に述べた如く、主観主義の芸術は「観照」でなく、現実の充たされない世界に於て自我の欲情する観念イデヤ(理念)を掲げ、それへの止やみがたい思慕からして、訴え、歎なげき、哀かなしみ、怒り、叫ぶところの芸術である。故ゆえに世界は彼等にとって、現にあるところのものでなくしてあるべきところのものでなければならないのだ。

 ではその「あるべきところの世界」は何だろうか。これすなわち主観の掲げる観念イデヤであって、各々の人の気質により、個性により、境遇により、思想により、それぞれ内容を別にしている。そして各々の主観的文学者は、各々の特殊な観念イデヤから、各自の「夢」と「ユートピア」とを構想し、それぞれの善き世界を造ろうと考えている。しかしながらこのイデヤの中には、概念の定義的に明白している、極きわめて抽象的な観念イデヤもあるし、反対に概念の殆ほとんど言明されないような、或る縹渺ひょうびょうたる象徴的、具象的な観念イデヤもある。

 先まず第一に、概念の最も判然としているものをあげれば、すべての所謂いわゆる「主義」がそうである。主義と称するものは――どんな主義であっても――観念イデヤが抽象の思想によって、主張を定義的に概念づけたものであるから、あらゆるイデヤの中では、これが最もはっきりしている。しかしながら芸術の本質は、元来具象的なものであって、抽象的、概念的のものではない。故に後に述べる如く、概おおむねの芸術の掲げるイデヤは、「主義」と称する類のものでなくして、より概念上には漠然としているところの、したがってより具象上には実質的であるところの、他のやや異った類の観念である。しかしそれは後に廻して、尚なお「主義」についての解説を進めて行こう。

 さて人の知る通り、主義には色々な主義がある。たとえば個人主義、社会主義、無政府主義、国粋主義、享楽主義、本能主義、自然主義、ダダイズム、ニヒリズムなど、いくらでも数えきれないほど無数にあるが、すべて「主義」と名称のつく一切のものは、各々の人が掲げるイデヤであって、その主観に取っての「あるべき世界」を思想している。各々の主義者等は、これによって世界を指導し、改造しようと意思している。故に一切の主義は――どんな主義であっても――本来「理想的なもの」でなければならない。然るに世には「理想的なもの」に反対するところの、反理想主義の主義がある。即ち例えば、「現実主義」とか「無理想主義」とか「虚無主義」とか言う類の主義である。

 これはどうした矛盾であろうか? いやしくも人が主観を掲げ、或る理想への観念を持たない中は、主義と言う如きものはありはしない。然るに彼自身が主義であって、しかも理想を拒絶する主義とはどういうわけか? だがこの不思議は不思議でない。何となれば「理想を否定する主義」は、それを否定することに於て彼自身の理想(観念界イデヤ)を見出みいだすからだ。例えば仏陀ぶつだの幽玄な哲学は、一切の価値を否定することに於て、逆に価値の最高のもの(涅槃ねはん)を主張している。そして所謂ニヒリズムは、存在のあらゆる権威を否定しながら、逆にその虚無に権威を感じ、そこに彼自身のイデヤを見ている。ダダイズムの如きも「一切の主義を奉じない」と言いながら、その「主義を奉じない主義」を奉じてる。故に絶対の意味で言えば、世にイデアリズムでないところの、どんな主義も有り得ない。一切主義であるすべてのものは、それ自ら理想的であり、観念的であるのだ。

 しかし前に述べた通り、芸術は抽象的なものでなくして具象的なものであるから、純粋の意味の芸術品は、かかる「主義」と称する如き概念上のイデヤを持たない。芸術家の持てるイデヤは、もっと漠然としており、概念上には殆ど反省されないところの、或る「感じられる意味」である。芸術家は――純粋の芸術家である限り――決してどんな主義者でもない。なぜなら芸術は、主義を有することによって、真の「表現」を失ってしまうからである。以下このことを説明するため、観念に於ける「抽象的のもの」と「具象的のもの」と、即ち観念イデヤとしての抽象物と具象物とが、どこで如何いかに違ってるかを話してみよう。

(以下略)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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