修験光明寺

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/kakitome/komyouji.htm

【俳諧書留修験光明寺】 より

奥の細道修験光明寺へ 殺生石へ

しら川の関やいづこと思ふにも、先、秋風の心にうごきて、苗みどりにむぎあからみて、粒々にからきめをする賎がしわざもめにちかく,すべて春秋のあはれ・月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。たゞ声をのみて、黙して筆を捨るのみなりけらし。

田や麦や中にも夏(の)時鳥

   元禄二年孟夏七日  芭蕉桃青

    黒羽光明寺行者堂

夏山や首途を拝む高あしだ   翁

    同

汗の香に衣ふるはん行者堂

 ばせをに鶴絵がけるに

鶴鳴や其声に芭蕉やれぬべし   翁

鮎の子の何を行衛にのぼり船

      高久角左衛門に授ル


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno062.htm 【奥の細道(修験光明寺 元禄2年4月9日)】より

修験光明寺と云有*。そこにまねかれて、行者堂を拝す。

夏山に足駄を拝む首途哉(なつやまに あしだをおがむ かどでかな)

浄法寺を訪れたのが4月4日、次ぎの運岩寺を訪ねたのは4月5日であったから、ここでは日付順序が違って9日になっている。9日には、昼過ぎから光明寺に招かれてよるまでそこに滞在している。4月6日より愈々梅雨のまえぶれで連日雨に降られ、この日も雨だった。

光明寺には役の行者のものと伝えられる下駄が安置されている。その下駄を拝むことで遥かな奥州への旅の無事をも祈っている。ここ那須野を過ぎればいよいよみちのくに入る。

 なお、『曾良書留』には、

   黒羽、光明寺行者堂

夏山や首途を拝む高足駄

とある。これが初案である。

修験光明寺の跡は句碑「夏山に足駄を拝む首途かな」だけが残る民家になっている。

修験光明寺と云有:<しゅげんこうみょうじというあり>と読む。役行者<えんのぎょうじゃ>をまつる。役行者の一本足の下駄が安置されてい たという。

全文翻訳

修験光明寺という寺がある。そこに招待されたので、行者堂を拝観してきた。 

夏山に足駄を拝む首途哉


https://4travel.jp/travelogue/10583147 【奥の細道を訪ねて[第4回]⑬境内の庭先に建っていた役の行者に因んだ句碑が有る修験光明寺跡】 より

”奥の細道を訪ねて[第4回]芭蕉の里より黒羽まで”の旅の最後に訪れたのが、ここも案内の先生がおられなければまったくその存在が判らないであろうと思われる、修験光明寺跡の薮の木陰に建つ芭蕉の句碑。

  夏山に 足駄を拝む首途(かどで)かな

芭蕉達が修験光明寺を訪れ、そこの行者堂を参拝した際目にした、役行者縁の一本歯の高足駄の役行者像に、これからの旅の安全を祈願し、句にしたものである。

修験光明寺は、かの諏訪与一が屋島での戦功を謝し、此処に「即成山光明寺」と云う真言宗寺院を建立したのが起源と云う。

芭蕉達が光明寺を訪れた当時、光明寺住職津田源光の妻が翠雪・翠桃兄弟の妹であり、その事が修験光明寺を参拝した動機の一つでもあった。

同じく此処で詠んだ曾良の句とみなされている句が曾良の「俳諧書留」にあるらしい。

  汗の香に 衣ふるはん行者堂

芭蕉の句碑が建つ修験光明寺跡は、ほんの2~3人の足場のスーペースしかなく、小雨の中、案内の先生の指示に従って、代わる代わる句碑の建つ薮を登った。

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