常行堂の守護神・摩多羅神 ①

http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%AC%AC65%E5%8F%B7/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%AC%AC65%E5%8F%B7%20008%E8%93%AE%E6%B1%A0,%20%E5%88%A9%E9%9A%86%E3%80%8C%E5%B8%B8%E8%A1%8C%E5%A0%82%E3%81%AE%E5%AE%88%E8%AD%B7%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%91%A9%E5%A4%9A%E7%BE%85%E7%A5%9E%E3%80%8D.pdf 【常行堂の守護神・摩多羅神】 より

はじめに

西域南道の方形仏堂において初期浄土教の儀礼が行なわ・れていたであろうことについてはすでに拙稿で論じてきた。この方形仏堂の形式が中国で展開し, 日本に伝えられたのが常行三昧堂であったと考えられる。小論では常行三昧堂の伝来とともに意義不詳のまま伝えられ,以来長く陰の部分におかれてきた摩多羅神について検討する。その起源は逼か中央アジアの方形仏堂とゾロアスター教方形拝殿(チヤルタク)にまでさかのぼることができるのである。また,毘沙門天信仰も同じ起源から展開したものと考えられる。これらは,ゾロアスター教のミトラ(イラン語ではミフル, ミスラ)信仰との習合によって(阿)弥陀仏が生まれたことともおおいに関わっている。二00八年に実施したタジキスタンのソ守口アスター教遺構発掘の報告をとおして,方形仏堂の起源と摩多羅神との密接な関連を明らかにしてみたい。また,その交渉の中に見られるインドとイラン両文化の相克についても検討する。

摩多羅神と常行堂(比叡の摩多羅神・広隆寺の牛祭)

ミトラ信仰はシルクロードの東の終着点である日本にもさまざまな形で伝来した。常行堂の守護神・摩多羅神もその一つである。近年,異神である摩多羅神についての論及は多く,日本天台の玄旨帰命壇などとの関わりにおいて多岐にわたる検討がなされている。例えば,川村湊『牛頭天王と蘇民将米伝説』では牛頭天王との共通性において,あるいは,山本ひろ子『異神』序,謎の神・摩多羅神では r摩多羅神に, (ー)芸能神, (二)常行三昧堂の道場神, (三)玄旨帰命壇の本尊という三つの属性を認めることができる」として,摩多羅神について詳説されている。しかし,日本中世以後に独自の展開を遂げた全体像を明らかにするのが小論の目的ではないので,その起源に関わる資料のみにとどめて考えをすすめたい。ただ,その資料も後代の解釈が加わったものであり,慎重に検討しなければならない。

摩多羅神とは円仁が入唐して帰朝の船中で感得した神と伝えられている。

光宗記『渓嵐拾葉集』に慈覚大師円仁が唐から五会念仏の行法を相伝しての帰途(八四七),船中において中空に声が聞こえた。その声が言うには r私は摩多羅神という名である。障りをなす神である。私を把らねば往生の願いを遂げることはできない」と。この理由で常行堂に摩多羅神が把られることになったのである。

言伝えには,摩多羅神とは摩詞迦羅天のことであり,また,ダキニ天である。夕、キニ天の誓願には,経典に,人が臨終の時にダキニ天がその人のところへ行って死屍の肝を食うことによって,その人の臨終正念が得られ,もし,ダキニ天が死屍の肝を食わなかったら,その人は往生することができないとある。この事はまったくの秘事であって,誰も知らないことである。常行堂の堂僧でさえ知らないことであり,ましてや他の人の知るところでもない。他言してはならない大事で、ある。まさに,秘めて尊崇すべきである。

また,一説には,摩多羅神とは摩詞迦羅天のことであり,経典に言う六ヶ月を延命させる秘法が根拠となっている。人聞の臨終に際して,その精気を奪うため悪鬼がやってくる。摩詞迦羅天はそれらを降伏せしめて,精気が奪われるのを防ぐのである。これによって臨終正念が得られるのである。六ヶ月の間成し遂げられる秘法を思うべきである。とある。これは,一種異様な秘事としての印象を与え,摩多羅神が長く陰の部分にとどまってきたのもそのゆえであったと考えられる。この伝承の中でまず問題としたいのは,ダキニ天が臨終正念や往生に本当に関与するのかということである。

論拠とされる『大日経疏(大毘鹿遮那成仏経疏)~第十によれば,ダキニは人間の死の六ヶ月前にそれを察知し,すぐにその心臓を抜き取って食うという。何故ならば,人の体には牛黄に似た玉があり,それを食えば超能力が得られ,一日の中に世界を周遊するなど,全てを思い

のままにできるようになるからである。また,様々に人聞を操り,嫌な者については妖術で繰り,病苦を与える。しかし,殺すことはできない,結局は自計の妖術である。人間の死の六ヶ月前にそれを察知し,妖術で心臓を抜き取る。心臓を抜くとはいっても,要は妖術を使って他の物とすり替えるのである。その人はすぐに死なず,まさに六ヶ月後に死ぬ。

概ね,ダキニは夜叉の類で非常に自在である。一般的には摩詞迦羅,いわゆる大黒天の春属である。

(その妖術の由来は,以下のようである。)

見慮遮那仏は降伏三世の法門によってダキニを退治するために大黒天に変身し,ダキニたちの数よりも多くの姿を示現し,身体に灰を塗り,全てを成就し空を飛び、水上を行くことが自在なダキニを神通力によって悉く広野に召喚した。見虚遮那仏はダキニを町責し,お前が常に人聞を食うから,私もまたお前を食おうと告げてダキニを呑みこんでしまった01 しかし毘虚遮那仏はダキニを食い殺さず,悔い改めさせ,人肉を食うことを禁じたので、ある。ダキニは,自分は今まで全て肉を食って生きてきた,これからはどうしていけばよいのかと訴えた。そこで毘慮遮那仏は死人の心臓を食うことを許可した。ダキニは,人がまさに死のうとするとき,多くの悪鬼が死人を食おうと競い来て死屍を奪われてしまうと訴えた。毘虚遮那仏はその方策として,六ヶ月前に人の死を予知し,臨終まで他の悪鬼を寄せ付けない呪文と印相を与えた。というのである。この『大日経疏』ダキニついての逸話は,本生物語(ジャータカ)の形式をとっている。本生物語(ジャータカ)とは釈迦仏が前生において功徳を積んだことを描くもので,最初に現在の事柄が紹介され,その由来を釈迦の前世の姿と関連させて説くものである。『大日経疏』第十,ダキニの縁起においても,まずダキニの能力が紹介され,次にそのような能力を与えられた経緯について見虚遮那仏とのかかわりのなかで説明がなされている。

この中,ダキニ天(摩詞迦羅天も同等と見なされている)は人聞の死の六ヶ月前にそれを察知し,心臓を抜き取って食うという。これは,屍肝を食われることで臨終正念を得て往生できるとする『渓嵐拾葉集』の主旨と矛盾する。また,ダキニ天の妖術は自計の法であって,人聞が往生を遂げるために積極的な役割をはたすものではない。

能延六月の秘事については後代の天台諸流においても種々に解釈がなされているようであるが,これも『大日経疏』が論拠と考えるべきであろう。この秘事は先述のように,ダキニ天が人聞の死の六ヶ月前にそれを察知し,奪精鬼に横取りされる前に密かに心臓をすり替える方策であり,臨終正念をもたらすものとは考えられない。しかも,見虚遮那仏から臨終まで他の悪鬼を寄せ付けない方術を伝授されたにもかかわらず,実際には死の六ヶ月前に生き胆として心臓を取るのである。後の玄旨帰命壇の展開には,ここに述べられる肉食(肉や魚を食らう)のほかに酒を飲み印を結ぴ交接を行なうというタントラ仏教で強調されたダキニの特性が大きくかかわったものと考えられる。

一方,摩多羅神の場合は死屍を食うことに意味があり,それは往生の可否を定めるものとされている。ダキニ天は『大日経疏』に説かれた人肉を喰う特性から結びつけて解釈されたにすぎず,肝心な点においては矛盾が生ずると言わねばならない。常行三昧堂の守護神が臨終人の肝屍を食うことによって往生の成否が定まるという伝承は,仏教以外の文化・習俗にその根拠を求めるべきであろう。ゾロアスター教では死屍を鳥葬にする。神々の庇護物である土・水・火などを死屍によって汚すことを避け,鳥葬によって冥界へ生ずる。この習俗は中央アジアにおいては広く行なわれ,ダクマの遺構も多く残されている。すなわち,死屍を食われることが通過儀礼として重要な意味をもっているのである。ゾロアスター教においてミトラ神は冥界の主審であり,天界の主である。これらの点から考えてみて,摩多羅はミトラの音写から転化したものと考えるのが妥当なように思われる。

摩多羅神についての伝承は京都太秦の広隆寺にもある。『望月大仏教辞典』によれば,牛祭(うしまつり)の項目に,山城国太秦広隆寺にて行う一種の行事。摩多羅神を祭る神事にして,其の起源は恐らく常行三昧堂に発せしものの如し。広隆寺来由記に依れば「三{衆院御宇長和元年壬子源信{首都,夢中に人あり。告げて日はく極楽世界の真の弥陀仏を躍せんと欲すれば,広隆寺給堂の丈六尊像を櫨すべし。故を以て僧都当寺に来りて尊像を糖鵡せり。手親ら一万三鵡し,二尊像を刻む。像成りて後,同年九月十一日より三箇日を期して,昼夜声明念仏を修し,今に至るまで永く行う」とあり。又広隆寺大略縁起にも同様の由来を記し,「同年九月十一日より三ヶ日を期して声明念仏を修し給ふ。其時道場に仏法守護の摩多羅神,影向有て,此法会末世迄退転なくまもるべしとの給へば,此御神の祭りをば,あくる十二日の夜催し給ふ。祭文一巻恵心の自筆して,祭瞳無双の儀式也。神主牛に乗出るによって,世に牛祭と云ふ。其の祭文の意趣は,神明の威風により,年中の災禍をはらひ,天下太平にして,君は長寿を得給ひ,民も安穏ならんと」云々とあり。

これらよれば恵心僧都源信が常行三昧を広隆寺においておこなった際,摩多羅神の守護に与り,それを機縁として祭礼が始められたことがわかる。また,明川忠夫「奇祭「太秦の牛祭J~ には,江戸時代の資料として挿給付の『都名所図絵』が引用されている。毎歳九月十二日夜,戊の魁に牛祭の神事あり。当寺の僧侶五人五尊の形に表し,異形の面をかけ,風流の冠を着し,太万を侃き,一人は幣を捧て牛に乗,四人は前後を園,従者は松明をふり立,行列親々として本 堂の傍より後へ巡り,又西のかたより祖師堂の前なる檀上に登り祭文を読。此文法古代の諺を以て述る甚だ奇にして諸人耳を驚かさずといふ事

挿絵(図1)には摩多羅神を四人の従者が付き従っている様子が描かれている。これらの従者は四天王と考えられているようである。摩多羅神と四天王は鼻高面を付けている。摩多羅神は四天王によって固まれている。四天王が仏法とはかけ離れた異神を護持するのには理由がなければならないであろう。また,鼻高面をつけている点にも留意すべきように思われる。それは妓楽面酔胡王の面立ちを紡徽とさせるものである。解説では牛祭と渡来人による牛犠牲儀礼との関連を指摘する論文を紹介しながらも,その説についての疑義が述べられている。牛祭という名称がなぜ付いたのか。喜田貞吉は「それはもともと太秦地方の秦人等が牛を犠牲として漢神を祭った古い習慣に基づいていたのかも知れぬJ (r太秦牛祭の変遷J 1"民族と歴史』六一六)と述べている。たしかに,延暦十年九月,政府は伊勢・近江・若狭・紀伊などの百姓が「牛を犠牲として漢神を把ることを禁止J (1"続日本紀~)していることが記載されているが,漢神の;意味がはっきりしない。外来の異教を漢神と言ったらしく,秦氏と漢神と結びつけて考えるのは疑問である。漢神を巣りの神とすると牛祭祭文の「疫病除去」に都合がいいのだが,何より牛祭に殺牛の痕跡が見られない。山田雄司氏は「他の常行堂の場合にも牛との関連はみられない」し「摩多羅神と牛は特別な関係がない」(r摩多羅神の系譜J ~芸能史研究』一一八)と述べている。

しかし, ミトラ信仰では聖牛を屠り,それを共餐するという密儀を特徴としていた。 8世紀末,畿内ではイラン系の渡来人も多かったと考えられている。そのような背景から,実際に牛を犠牲とすることは廃れていたとしても,その起源としては牛犠牲儀礼を想定する方がより妥当なように思われる。また,四天王と摩多羅神との関係も次章で検討するように不可分の関係である。さらに,広隆寺摩多羅神については次のような記述もある。

「顕密威儀便覧続編』巻下には摩町羅神及ぴその祭礼について,京西太秦広隆寺護伽藍神中に摩町羅神あり。或説に其像炎魔王に肖たり,二腎あり,左手に鼓を持ち,右手に三股を安ず。是れ又蓮華光院と殊る。伝に云ふ,念仏守護の為なり。乃ち称名念仏の人を導き,之を楽邦に送り,彼をして蓮台に坐せしむ。亦其徳化なり。

「辞典』では「右手に右股を安ず。」とあるが,それでは意味が通らないので「右手に三股を安ず。」に変えて引用している。ここでは摩多羅神が念仏を称える人々を導き極楽浄土へ送り蓮台に乗せるとあり,摩多羅神が阿弥陀仏の役割をそのまま受け持っている。ここに両者の密接なつながりが示されており,ミトラ神から(阿)弥陀仏への展開と呼応するものと言える。図像的には,神像が閤魔大王に類似すること,左手に鼓を右手に三叉を持つことが記されている。これに対して,比叡山の摩多羅神は鼓のみを持ち,それを打ち鳴らす姿として描かれている。『顕密威儀便覧続編』の描写は比叡山のそれと比較して,本来の姿に近いように思われる。しかし w渓嵐拾葉集』に鼓の記述はなく,その起源については暖昧なままである。

二00七年の発掘調査で出土したタジキスタン出土のテラコッタ製ミフル(インドのミトラに相当)神像(図 6右参照)では,左手に小型拝火壇を右手に三叉の聖杖を持っていた。広隆寺に伝わる摩多羅神の姿は,その小型拝火壇が誤って鼓と解されたものではないだろうか。また,比叡山所伝の摩多羅神は土器製テラコッタ型の持火壇に手を差し伸べた仏陀像(図 6左参照)からの転化と推測できる。いずれも小型拝火壇本来の意義が理解されず,鼓として再解釈されたものであろう。中央アジアでは拝火壇として描かれていたものが,ゾロアスター教の文化に疎い人々に受け入れられたときに,自分たちの理解可能なものに置きかえられたのである。摩多羅神が日本中世において歌舞音曲の神として展開したのも鼓としての再解釈にもとづくものであろう。

ミトラ神と四天王(法隆寺の四天王・エヤ遺跡の四天王)

最近,法隆寺の四天王が公開され,その特徴的な造形が話題となった。一般的な四天王が威嚇するような憤怒の相であるのに対し,法隆寺の四天王は,穏やかな表情の中に秘められた威厳を感じさせる。北方を守護する多間天は右手に宝塔,左手に三叉戟を持ち,西方を守護する広目天は右手に筆,左手に巻子を持つ。東方を守護する持国天と南方を守護する増上天は右手に宝剣,左手に三叉戟を持つ。しかし,それぞれの顔と姿はほとんど同じである。それぞれの働きに相応した持ち物を手にしながら,ほとんど同じ姿である点に四天王の本質が示されているように思われる。また,多聞天が掲げる宝塔からは五本の相輪が立ち,その上に炎を表現した装飾がほどこされている。この宝塔の形は仏塔を模ったものとは考えがたい。一般的毘沙門天が掲げる宝塔は屋根があったり,伏鉢の形状をとり,仏塔を表わしていると容易に判断できる。しかし,法隆寺の多聞天の宝塔は特殊な形をしている。タジキスタン出土のミフル神像や持火壇に手をかざす仏陀像で描かれた拝火壇,さらにはクシャーン朝コインの歴代王が手をかざしている拝火壇とよく似た形をしているのである。後に詳しく検討する宮崎市定『毘沙門天信仰の東漸について』では,この特殊な形をした宝塔を「光塔」と解釈し,また四体の神が実はミトラ神の功徳を具現化したものと指摘している。法隆寺四天王の制作年代や伝来の経緯については不明な点が多いようであるが,持国天と広目天の光背銘文によって七世紀頃のものと見られている。一方,左右の手の違いはあるものの,三叉杖と拝火壇を持つタジキスタン・アイニーン出土のミフル(ミトラ)木造は 5-6世紀頃のものである。ミフル神像や拝火壇に手をかざす仏像はトハーラ期(7-8世紀)のものである。図像上の共通点や時代の一致,さらにはそれぞれの属性から見て,四天王がミトラ神から展開したものであるとする説は妥当なように思われる。この四天王起源とかかわるであろう問題とて,四天王がそれぞれに邪鬼を踏みしめているという点が残される。この邪鬼について岩田茂樹「法隆寺金堂四天王像の諸問題』では,中国の鬼神との比較検討の上で,四天王が須弥山下の四方四州を守る尊格であることをに思いをめぐらせば,これらの邪鬼は意識下に須弥山世界を支える役割をも想定されていることになる。と指摘している。しかし,すべての邪鬼が脆く姿勢で描かれていないことも事実である。ダンダンニウイリクの天王像は仰向けに横たわる邪鬼を踏みつけている。この問題については,小論中での検討を重ねた上で,まとめにおいて再度取り上げることにしたい。

以上,七世紀前後の法隆寺四天王とほぽ同時代のタジキスタン(トハーラ)ミフル神像との関連を述べたが,さらに検討するために西城南道の四天王について検討してみたい。西城南道のニヤ遺跡、は20世紀の初頭, A.スタインによって調査され,カローシュティ一文字による文献資料が発見されたことは有名である。これはガンダーラ地域で用いられていた言語と文字に由来するもので, トハーラとの関係を示すものである。スタインの調査によって方形仏堂も発見されていた。その後,一九九0年代に日中共同尼雅遺跡調査が実施され,スタイン発見の仏堂についての本格的な発掘調査がおこなわれた。この発掘調査によって仏堂とその周辺の遺構の関連も明らかとなった。

仏堂を含む住居祉の敷地内,仏堂から中庭をはさんで、40m程離れた遺構からは表裏に神像を刻んだ、幅18cm,高さ 64cm,厚さ9cmの 4枚の板が出土している。この遺構は側壁の一面が格子状で開放式の構造で,斗棋などの様々な建築部材が大量に出土していることから判断して,倉庫として使用された可能性が高い。 4枚の板もそれら建築部材とともに出土しており,他の遺構から撤去し保管されていたものであろう。これらの板は, もともと方形仏堂に設置されていた見るのが最も妥当で‘ある。なぜなら,神像は 4枚の板の表裏に同じ姿で刻まれ,おそらくは 8人の神々ではなく同ーの神を描いたもので,その構造から判断して,回廊の何れの場所からも同じ姿の神像が見えるように,方形基壇の四隅に放射状に設置されたものと考えられるからである。修行者は仏堂内を右回りに巡る修行中,常にこの神像によって見守られていたのである。

神像(図 2)は墨線で顔や輪郭および‘衣服が描かれている。頭部に蛍を結び,顔はややうつむき,目は見聞いている。右手は腰に,左手は上に挙げ,親指と人差し指を立てている。上半身は丸襟の衣で,下半身には丈の長い袴を着けている。

筆者はこの神が多聞天,すなわち見沙門天であり, しかもその起源をも示唆するような独特な姿で表現されたものと考えている。一般に多聞天は四天王の一人であり,甲宵姿で知られるが,多聞天のみが単独で、礼拝されることもあり,その場合は毘沙門天と呼ばれる。 4枚の板に描かれた神像は毘沙門天が四天王へと分化・展開する移行段階を示すものであろう。それは須弥壇の四方に配置される護法の神々としてではなく,修行者の守護神としての姿である。また 3世紀後半と推定されるニヤ出土の神像が甲骨を着けていないのも,西域から中国に伝わる過程で甲骨姿が確定していったことを示す証拠だと考えられる。ニヤよりも時代的に新しい夕、ンダン=ウイリクの見沙門天は甲宵姿の塑像であり,典型的姿をとっているのである o これに対し,甲胃姿でないニヤ出土の毘沙門天(多聞天)は本来の姿により近いものと考えられるのである。

毘沙門天は『大唐西域記』縛喝国(パルフ)の護法伝説や星薩旦那国(子岡田・ホータン)の建国伝説にも登場する。

『大唐西域記」巻第一,縛喝国には,城外の西南に納縛僧伽藍がある。この国の先の王の建てたものである。

…中略…この伽藍にはもとから毘沙門天の像があり,その御利益はあらたかで,冥々のうちに守護が加えられている。近ごろ,突厭の葉護可汗の子の倖葉護可汗がその部落の力を傾け,その軍隊を率い伽藍を急襲し珍宝を奪おうとして,ここを去ること遠からざる所で軍を駐め野営した。

その夜,毘沙門天が r汝にはどのような力があり,伽藍を破壊しようとするのか」と言って,長い戟で胸から背へ突き通す夢を見た。可汗は驚いて目がさめ,甚だ心を痛めた。そこで家来たちに夢に見た瞥の徴をはなし使を馳らせ僧徒たちに頼み,惜悔し謝罪を申し述べさせようとしたが,その返礼もまだ届かぬうちにはや命を碩し死没してしまった。この縛喝国護法伝説では,見沙門天が軍神であることや仏法護持の働きをなすことが示されている。また IF大唐西域記』巻第十二,畢薩旦那国には王は甚だ勇武で,篤く仏法を信じ,自ら見沙門天の後商であると言っている。…中略…(その国の創設者である)その王は都をここへ遅し町を作り,国を創め人々を安堵させ,功績すでに完成し年齢も老いたが,まだ後継者を得ず家系が絶えるのではないかと心配した。そこで見沙門天神の所へ行き後嗣を得られるように祈願したところ,神像の額の上が割れて赤子が出てきた。抱きかかえて帰って来ると圏中の人々は慶賀を表した。しかし,乳を飲まないので長生きしないので、はないかと心配し,再び見沙門天の神嗣に詣り重ねて育つように請願すると,神前の大地が突然に隆起した。その様子はちょうど乳房のようで,神童はこれを飲み,やがて成人するまでになった。智勇は前人に比なく,徳風教化は遠方にまで及んだ。そこで神調を営造し,祖先を把った。これより以後代々継承し,国を受け伝え君臨し,その系統を中絶させることはなかった。それで今でもこの神廟は諸の珍宝も多く,その祭把も一度として廃止されることはなかった。大地の乳房で育てられたので[地手L(聖薩旦那)を]国号としたのである。

この堕薩旦那国の建国伝説の中で,昆沙門は護国神であり嗣子の成長を見守る神として描かれている。これら毘沙門天の特性は当時の人々の聞に広〈流布していたものと考えられよう。この縛喝国や子関国はまさにトハーラの圏内であり,イラン文化の影響が認められる地域である。宮崎市定「見沙門天信何の東漸に就て」には「更に四天王の毘沙門以外の三天王も,それがミトラの分身であるとすれば,漢語の訳名は極めて無雑作に其の意義が判明する。即ちミトラは万の眼を有する神であり,国家を護持する神であり,生長を司る神である。広目,持国,増長はその各々の徳を謂うに外ならない。四天王像が多く光背に火焔を有し,殊に見沙門が光塔を有するのも拝火教の遺物ではなかろうか。凡そ斯く迄ぴったりと当候まるのは決して偶然の結果ではない」としている。しかし,その後に示された昆沙門の原語ヴァイシュラヴァナのヴァイシュがミトラからの転靴だとする説は妥当ではない。それよりも,ヴァイシュラヴァナの語義「広く聞く,あまねく聞く」がミトラの属性と一致する点に注目すべきであろう。

ここで指摘されているミトラの属性は『アヴェスター』の中に明確に記述されている。ただし,インドのミトラに対応するミフル(ミスラ)の名で記されている。関連する部分を引用すれば, ミフル=ヤシュト第十節 (45)彼の八人の従者は,すべての高台に,全ての望楼に,ミスラの監視者として座す, ミスラを欺く者を見張りながら,最初にミスラを偽りなす者どもに目を付け,よく覚えこみながら, ミスラを欺く者,そして真実に義なる者を害する,邪なる奴らが狙いし者たちの路を守護しながら。この頓によれば, ミスラを助ける八人の従者があり,監視者・守護者として働くことが示されている。註には,この従者を八方位と関連付ける解釈があることが付記されている。四天王の四方位は,この八方位が集約され,固定されたと見ることができるように思われる。また,第十五節 (61)ミスラ,広き牧地の主を我らは祭る,正しき言葉を語り,雄弁なる者,千の耳を有し,見事なる姿の者,万の眼を持つ,丈高き者,逼け〈見晴らす,強き者,眠らざる者にして,(常に)目覚めたる者,確と立って,油断なき者,監視者にして,強く,雄弁なる者,水を満たし,呼び声を聞く者,水を流し,植物を成長させる者,国に法を宣布する,雄弁なる者,技に優れ,欺かれざる者,多くの技持てる者にして,創造者(=アフラ=マズダー)により創られし

(彼=ミスラ)を。には,宮崎市定「見沙門天信仰の東漸に就て」に指摘されたミトラの功徳が記されている。「万の眼を持つJ r逼け〈見晴らす」という表現が広目天に,「干の耳を有しJ r呼ぴ声を聞く者」という表現が多聞天に r植物を成長させる者」という表現が増長天に r国に法を宣布する,雄弁な者」という表現が持国天にそれぞれ対応する。

第十八節 (71)

彼は,猛烈きと共に雄々しき勇気を持し,敵に向かつて突進し,戦いにて敵を打ち破る。彼は, (敵の)背骨一生命の柱にして活力の源たる背骨を打駿つまでは(敵を)打ち破ったとは思わず,攻撃したとも考えず。には軍神としてのミトラ神の属性が示されており,甲宵で武装した四天王の姿に対応させることができる。

ニ00八年タジキスタン調査より(チヤルタクと拝火教神殿遺構の発見)先に,日本の常行堂と西域南道の方形仏堂の関連を検討してきた。次の問題として,西域南道の方形仏堂がどこから伝来し,また仏堂と四天王の関係はどのようにして成立したのかを明らかにする必要があるだろう。そのような諜題に応える発見が中央アジアであった。中央アジアは西域南道からパミールを越えたところに位置する。当然,両地域の文化交流も盛んで・あったと考えなければならない。筆者がタジキスタン調査に出かけるようになったのも,都城祉の城郭内に方形仏堂をもっ遺跡があるとの情報を得たからであった。都城祉は世俗の人々が生活する場所であり,出家者たちが生活する僧院とは異なっている。そのような世俗の空間に作られた仏堂には習俗の影響が強く働いていたと考えられる。西域南道の仏堂もまたオアシス都市という世俗的空間の中に建立されたものであった。ここに両地域に存在する方形仏堂の共通点を見出すことができる。先の拙稿「観貨謹僧弥陀山と百万塔」の中でこれらの方形仏堂については既に述べているが,新たな発見の意義を明らかにするために若干を繰り返したい。

タジキスタンの考古学発掘調査は一九七0年代に旧ソビエト連邦の研究者を中心として実施された。その発掘調査の報告書の中にクフィール=カラ遺跡とカレ=コファルニホン遺跡、の仏堂についての記述がある。仏堂は,中央に壇を設置した回廊形式のものである。前者の内壁には菩薩像や蓮華が,後者の外壁には在家者による仏供養図が描かれていた。これらの方形仏堂について,報告書にはイランのチヤルタク(方形拝殿)との関連が示唆されていた。すなわち,リトヴインスキーは,発掘の結果,本堂の建築が 3期に分けられ,第l期,第 2期が 5世紀末 7世紀,最後の第 3期が 7世紀から 8世紀中頃であるとしている。そして最後の時期が仏教寺院であったことは疑う余地がない。



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