古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ。

https://ameblo.jp/nobu1331/entry-12301225190.html 【古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ。】より

今日の名言は、「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ。」松尾芭蕉(俳人)

古人とは、昔の偉人ということですかね。

偉人が残した偉大な結果を求めるのではなく、その偉人が何を求めていたのか、何を理想としていたのか。そこを知りましょう。感じましょうという言葉であると思います。

わもん時代に聞く修行をしていました。師匠やぶちゃんの聞き方を真似していました。よく聞き方が似ていると言われて、喜んだものです。

くろちゃんは、こう考えていました。「やり方を徹底的に深めるとあり方が深まる」と。

最初は見よう見まねで、やり方を真似します。

それを徹底的にやり続けると、なぜ、そうしているのか。

その行為が、相手にどんな影響を与え、心を動かすのかが、わかるようになってきます。

それがだんだん、自分なりにわかるようになっていった時、自分が知りたかったのは

これだ!とよく思ったものです。

師匠の真似をすること自体は簡単なことです。

理論的なことも、暗記して同じ話をすることも、少しの記憶力があれば出来ると思います。

しかし、本当に知り、得とくしないといけないのは、なぜ、そうしているかです。

理屈の奥底にある理屈ではいい表せないものです。

説明も出来うる限り、本質を説明しますが、本質そのものを説明することは出来ません。

本質といった瞬間にすでにそれは本質ではなくなるからです。

だから、古人の求めたるところを求めるんです。

言葉を追いかけるのではなく、言葉の奥底にある意図です。意図を求めるのです。

最初に言葉ありきではありません。最初に思いありきです。それも、まだ言葉になる前の思いです。それが、本当に求めているものです。自分も含めたすべての人がです。

言葉を追いかけるのではなく、本当に言いたいことは何なのか。ここを追い求めないと、ひとつになることは出来ません。わかりあうことは出来ないんです。そのためにも、常に意図です。表面的な言葉ではなく、その言葉の奥にある意図に常に意識をフォーカスします。

これは聞くことだけではなく、目に見えるものすべてです。

人間は、目に見えるものに囚われてしまいます。

しかし、目に見えるものは、いつも見えない世界から、見える世界にやってきています。

見えない世界ではすべてがつながっているんです。

今日は少しわかりづらい内容かもしれません。ぜひ、意図を感じてくださいね。

今日もありがとうございます。

http://fuujinraijin.blog.jp/archives/2772348.html 【古人の求めたる所をもとめよ】

稲越功一著「芭蕉の言葉」について 2

この本は、芭蕉の旅路を単にたどるというのではなく、彼の作句姿勢、人生哲学をさぐろうというものである。

なかでも、稲越さんが力を入れて書いた章は、「白河の関」の章だろうと思われる。

芭蕉さん自身は、その前に立ち寄った那須の國、芦野の遊行柳で

  田一枚植ゑて立ち去る柳かな  

を詠んでいるのだが、やっとの思いでたどり着いた白河の関では、地の文だけで自分の俳句を残していない。

にも拘わらず、稲越さんはこの章に食らいついて、自身の思いの丈を述べているように見える。

この章の表題は、

「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」(「許六離別詞」)である。

この言葉は、芭蕉さんが奥の細道の旅を終えて3年半たってから、死の1年前に門人の森川許六にあてた書簡の中にあるもの。

稲越さんが、白河の関の章からこの言葉を結びつけた理由が光っている。

その根拠は、もちろん芭蕉さんの地の文である。

〈心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて、旅ごころ定まりぬ。

『いかで都へ』と、たより求めしも、ことわりなり。  …1

なかにも、この関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。  …2

秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉のこずゑ、なほあはれなり。  …3

卯の花のしろたへに、いばらの花の咲きそひて、雪にも越ゆる心地ぞする。  …4

古人、冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。  …5 〉

上記1の文は、平兼盛の「便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は超えぬと」の歌を、

2の文は、西行の「白河の関屋を月のもるかげは人の心をとむるなりけり」の歌を、

3の文は、能因の「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」の歌と、

     源頼政の「都にはまだ青葉にてみしかども紅葉散りしく白河の関」の歌を、

4の文は、藤原季通の「見て過ぐる人しなければ卯の花のさける垣根や白河の関」の歌と、

     大江貞重の「別れにし都の秋の日数さへつもれば雪の白河の関」の歌を、

5の文は、清輔の『袋草子』(竹田大夫国行がこの関を通る時、冠をかぶり直し、衣服を着替えたという故事を伝えている。)を、

それぞれ、芭蕉さんがしみじみと思い出し、歌人たちの歌心を踏まえて筆を進めていると。

さらに、俊成女の

   「そことなく山路は雪に埋もれて名を頼み来し白河の関」

も追記して、続ける。

「いうまでもなく、現実は初夏の白河の関です。旧暦四月下旬、新暦に直すと六月上旬でした。

一面、青葉の景色だったはずですが、芭蕉の心の風景は雪の白に染め上げられ、

あるいは「紅葉散りしく白河」「月下の関屋」などが、フラッシュのように純白の空間に閃いていました。」

そして、彼の結論です。

〈 もちろん、能因、西行のようにじっさいの旅をした旅人もいましたし、最後に引用した俊成女のように、じっさいの白河の関を知らない心の旅人もいました。

それらをひっくるめて、「古人の求めたる所」を求めよう。

「白河の関」の章は、そうした芭蕉のモチーフをそのまま展開した特殊な章だったと思われます。 〉

私には、稲越さんにとっても、この本の中で「古人の跡を求めず…」の章が特別な章となったのではないかと思える。

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