https://plaza.rakuten.co.jp/articlenine/diary/?PageId=3&ctgy=16 【芭蕉の紀行文を読む】より抜粋
*道のべの 槿は馬にくはれけり はせを(芭蕉)
今週のNHKラジオ第2放送、佐藤勝明先生の古典講読の時間、おくのほそ道は「笠嶋」でした。まずは芭蕉の生涯から。
延宝8年、1680年日本橋から深川へ転居した芭蕉。その理由は定かではないが、これを機に芭蕉の俳諧が大きく変化してゆきます。
延宝9年は、天和元年になります。天和2年(1682年)の「むさしぶり」に、初めて「芭蕉」の名が出ます。
・芭蕉庵桃青 ・芭蕉翁桃青 桃青の名は使い続けます。翁には早いけど38歳の芭蕉。この年12月28日、駒込から火事が起き、深川にも飛び火、芭蕉も命からがら避難します。この体験も人生観や俳諧に影響を与えた可能性が。
芭蕉は甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山伝右衛門(俳号麋塒=びじ)に招かれ、逗留生活を送ったりします。
門人たちの力で芭蕉庵が再建されたのは、天和3年(1683年)冬のことでした。
天和3年、門人の其角が「うましぶり」刊行。
天和4年(1684年)2月21日、貞享と改元されます。 この、延宝8年から天和4年までの間に芭蕉の周囲でいろいろなことが起きました。鹿島から寺領裁判のために深川に来ていた仏頂和尚と知り合い、禅を知ります。
延宝末~天和期こそ、日本の俳諧史上大きな転換期だったといえるらしい。芭蕉はそこで完成したわけではなくて、この天和期を基点に求め続け変わり続けていったらしい。
延宝8年の句*櫓の声波をうつてはらわた凍る夜や涙
延宝9年の句*芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
どちらも上句の字余りが漢詩的であり、助詞「て」のあとに音を聞いている自分の姿が浮かび上がってくる。今までの俳諧にはなかったこと。
漢詩から学んだ二重構造は、おくのほそ道における「自分」と「予」の原型になっている。漢詩、五言句、七言句の2段構造は、2つのものが切れながら結びつく、効果的な用法・・・なんですって。(この部分、私が理解していないので読んでもわからないかも)
本文の前回、飯塚での惨憺たる夜、眠ることもままならない一夜。だからいっそうその後の覚悟が決まる。「無常の観念」「道路にしなん」この2語は、仏教、儒教の考えが入っていて、「三行一致思想?」と関連があるらしい。
では本文「笠嶋」
=鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥か右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社、かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、簔輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
*笠嶋はいづこさ月のぬかり道
岩沼に宿る。=
道行文の体裁で始まります。人物の移動にあわせて羅列。
藤中将実方は、995年 陸奥の守となって赴任。998年その地で没。逸話として、行成と宮中で口論。一条帝に「歌枕見てまいれ」と左遷させられた。赴任地没は、馬を下りるべき道祖神の前を、馬に乗ったまま通ったので神の怒りをかって殺された。というものがあるらしい。
歌まくらの地は、ほとんどの貴族が都で歌ったものだが、実方は実際に陸奥の地におもむき、歌を詠んだ人。西行も実方の墓を訪れ歌を詠んだのです。
*朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄 かたみにぞ見る
芭蕉が土地の人にそのありかを聞けば、片身の薄もまだあると、教えてくれたのです。その場に行きたいのは山々なれど、「予」は断念します。五月雨で道が悪く、体も疲れていたのでよそながら眺めて過ぎたのでした。
しかし、この地名、箕輪、笠嶋は、五月雨に似合っているなあと「予」は思ったのでした。予定通りにいかない状況でも、興じて楽しむ芭蕉の姿がここにあります♪そして、この思い通りにいかなかった笠嶋の体験を、いろいろな文章で大事に書き残しているんですって!
1まずは、芭蕉の言葉。土芳の編んだ「三冊子」より。
=詩歌連俳はともに風雅なり。上三のものはそのあますところなり。俳は至らづと言ふことなし=
言語での表現活動としての、漢詩、和歌、連歌、俳諧はすべて風雅である。
(当時、俳諧は和歌より一段も二段も下のものとされていた)しかし、求める風雅は同じであり、それだけではない、他の3つの扱わないものを扱うのが俳諧だ。
春雨の柳を歌うのが連歌で田螺を捕るカラスを詠むのが俳諧だ。連歌と俳諧は異なるが、それは俳諧のランクが下、というわけではないのだ。
和歌では鴬といえば花に啼く声を称美する。俳諧では現実のあり方にも視点を合わせることができる。
*鴬や餅に糞する縁の先 ・・・みたいにね♪
こうしてみると、どんなことにも対象を見つけられるので、俳諧の可能性は広がる。
見るもの,聞くもの、作者が感じること、それが俳諧の真・誠=俳諧の価値、俳諧自体が真を証明するものなのだ!という章らしい。
では、嵯峨日記
本文
=廿六日
*芽出しより二葉に茂るの柿の實 史邦
*畠の塵にかゝる卯の花 芭蕉
*蝸牛頼母しげなき角振て 去来
*人の汲間を釣瓶待也 丈草
*有明に三度飛脚の行哉らん 乙訓
廿七日
人不来、終日得閑。
<解釈>
26日は、一切の文がなく、句のみ。去来は24日の夕暮れ、京からやってきた。丈草、乙訓、史邦は25日にやってきた。集まったメンバーで1句づつ句を読む=一巡。人が集まり少しでも時間があると連句を巻いた。
発句*芽出しより・・・芽が出て双葉になってよく繁っている
脇*畠の風景・・・白い卯の花が畠の塵となって咲き散っている
*かたつむりが頼りなげな様子で角をふっている。上の2句が植物なので「かたつむり」を出した。3句目は「て」で止めるのが良いとされた。
雑*季節が変わるときには「雑」の句を。誰かがつるべを使って水を汲み終えるのを待つ。前句のかたつむりが水を好むので。
*前句が皆が水を使う「朝」の様子なので有明の月を。有明の月=秋。まだ月が残っている有明どき、道を駆けていくのは三度飛脚=江戸と上方を付きに3回往復する=であろうか。
27日
誰も人が来ない。だから1日中静かな時間を持つことができた。(去来たちは昨日のうちに帰ったらしい)。
=本文=
廿八日
夢に杜國か事をいひ出して、涕泣して覚ム。
心神相交時は夢をなす。陰尽テ火を夢見、陽衰テ水を夢ミル。飛鳥髮をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。睡 枕記・槐安國・荘周夢蝶、皆其理有テ妙をつくさず。我夢は聖人君子の夢にあら ず。終日忘想散乱の気、夜陰夢又しかり。誠に此のものを夢見ること、謂所念夢也。我に志深く、伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労をと もにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。
<解釈>
28日、杜国の夢を見て泣いて目が覚めた。(杜国は不遇のうちに元禄3年1690年3月20日に没)。
陰陽思想ではこの世の全ては陰と陽があり、陰が満ちると陽になり、陽が満ちると陰になるという。陰が尽きると火の夢を見、陽が尽きると水の夢を見るとい う。飛ぶ鳥が髪をくわえるときは飛ぶ夢を見、帯を敷いて寝ると蛇の夢を見るという。睡枕記では夢に自分の一生を見たという邯鄲の夢が出てくるし荘子の夢で 胡蝶になったのか、胡蝶が自分なのかという話もある。皆、道理ではあるものの、予の夢は聖人君子のものではない。
杜国の夢を見たのは、予 の思いが夢になったもので、私のことを深く慕ってくれ、伊賀の故郷まで来てくれて、夜はともに起き伏しし、旅の苦労をともにして、百日ほども共に過ごし た。心を共にした彼の志が予の心に深く染みて、忘れることができないからだ。目覚めて、また涙に袂をしぼるのだった。
=本文=
廿九日
一人一首、奧州高舘ノ詩ヲ見ル。
晦日
高舘聳天星似胄、衣川通海月如弓。其地風景聊以不叶。古人とイへ共、不至其地時は不叶其景。
<解釈>
29日。「本朝一日一首」=1665年刊行の漢詩集のなかの「奥州高館」の詩を読んだ。
晦日。その詩、高館は天にそびえ、星は兜の飾りに見える。衣川は海に通じて流れ、月は弓のようである・・・とあるが、その地の風景は、この詩と少し異なっている。昔の人といえども、その地に行ってみないことには、その景色のままによむことはできない。
ほそ道の旅の経験から、その地に行ってみることの重要さを書き記した芭蕉さん。
今週はここまででした♪ 杜国の夢を見たこと、泣かせます!あんなに楽しい吉野の旅だったのに!
*吉野にて桜見せふぞ檜の木笠 芭蕉
*吉野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸(杜国)♪
NHKラジオ古典講読の時間、佐藤勝明先生の「芭蕉の紀行文を読む」最終回でした。芭蕉さんの俳句って立派なものばかり有名で、詩情に欠けるような印象があり、今まで蕪村の ほうが好きだったのですが、たくさんの句を知って、俳句の道を求め続けた人生を知ることができて良かったです!これですっかり芭蕉つう♪感謝感謝です!
まずは、芭蕉さんに関する言葉
=桃青は全身俳諧なるものなり= 其角
元和2年、1682年 西山宗因没
その門下で俳諧を学んだ西鶴と芭蕉。元和2年ごろ、西鶴は「好色一代男」を出し、桃青芭蕉は「むさしぶり」を発表、俳諧の革新を進めていた。
この其角の言葉は、*唐崎の松は花よりおぼろにて
という芭蕉の句に対して、西鶴が「俳諧の言葉を使っていない。これは連歌ではないか」と疑問を呈したことについて、其角が反撃したことば、だそうです。師の桃青芭蕉は、その存在こそが俳諧なんだ!という言い切り!
そんな芭蕉の言葉として、支考の「続五論」のなかに、こういうものがある。
=先師曰く、俳諧は無くてもありぬべし。ただ、世情に和せず、人情に達せざる人は、是を無風雅第一の人というべし。=
俳諧はなくても良いのだ。もっと大切なことがある。それは人の生き方だ。世の中に和し、人情に達することこそ、風雅以前の大事なことなのだ・・・と。俳諧ひとすじの芭蕉が、もっと大事なものがある、と諭した重み!
いよいよ芭蕉の人生の旅も終盤を迎えます。閉関の説ののち、各方面への書簡には「軽み」の俳諧を目指して実践する芭蕉の姿が浮かび上がります。
元禄6年、1693年から翌元禄7年にかけておくのほそ道の推敲を重ねます。
元禄7年、1694年4月、おくのほそ道完成!
同年5月11日、芭蕉は寿貞尼の子の次郎兵衛を伴い、上方をめざします。
伊勢を通り伊賀上野には5月28日着
宇治~伏見を抜け大津へ。
閏5月22日嵯峨野の落柿舎に入り、
6月、京を去り大津、膳所(ぜぜ)に滞在、寿貞尼の死を知ります。
芭蕉最後の俳文は、骸骨絵讃
〈本 間主馬が宅に、骸骨どもの笛鼓を構えて能する処を画がきて、舞台の壁にかけたり。まことに生前の戯れ、などかこの遊びに異ならんや。かの髑髏を枕として終 に夢うつつを分たざるも、ただこの生前を示さるるものなり〉と前書 「薄の穂」は小野小町の髑髏の目から薄が生えたという故事に則っている。
*稲妻や顔のところが薄の穂 芭蕉
<解釈>
本間主馬の家に招かれたところ、 骸骨たちが笛や鼓を構えて能を行っているところを描いた絵が舞台の壁にかかっていた。人間が生きている間の戯れというべき行いは、この骸骨たちと違うことがあろうか。
荘子が髑髏をみつけて質問をし、髑髏を枕に眠ったところ、髑髏が夢の中に出てきて、もう一度生の世界に戻らないか、との答えは、生の世界になど戻りたくない、というものだったという故事。ただこの逸話に対し、生きている人間の行いは、結局はかないもの、ということだ。
*稲妻が光り、髑髏の目のところから薄の穂が・・・小野小町の伝説もふまえて
9月9日 重陽の節句は奈良で
9月29日 床に伏し、容態は悪化。
10月10日 遺言3通 1通は兄半左衛門宛自筆
10月12日 大坂御堂前花屋仁左衛門宅にて客死
芭蕉の遺体は近江の義仲寺に運ばれ、埋葬される。51歳。
芭 蕉は、発句や連句をそれまでのものと変え、現在の俳句につながる変革をした。その一方で、俳文も追求した。漢詩、和歌、連歌と同じように風雅のひとつであ る俳句にも俳文があってこそ、と考え、風雅のひとつとして俳句も同等であり、さらに他の3つの及ばないところもカバーできる存在として高めたのでした。
芭蕉の果てしない実践のあとが俳句や俳文や夥しい書簡に残されて、私たちにその足跡を教えてくれているのですね♪ひとすじの道をつらぬいた爽やかな芭蕉さんの人生!
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