鹿島詣─花野の旅─

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一、鹿島へ

 『鹿島詣(かしまもうで)』は『鹿島紀行』とも言う。真跡佐藤清一氏蔵本に『鹿島詣』とあるから、ここではそれに従う。もう一つの真跡本で鯉屋杉風(こいやさんぷう)に書き与えた本では『かしまの記』というタイトルになっている。これでもいいのだが、『鹿島詣』のほうが一般的に通りがいいので、これを用いる。森川許六(きょりく)編の『風俗文選(ふうぞくもんぜん)』には、『鹿島紀行』のタイトルで収録されている。これは末尾の発句を連ねた部分がなく、内容的にも鹿島根本寺(こんぽんじ)の仏頂和尚を尋ねて鹿島に行き、そこで明け方の月を見たところで終っている。(仏頂和尚は芭蕉が天和期の深川隠棲時代に参禅した恩師だった。)ここまでの文章には、どこにも鹿島神宮が出てこないので、『鹿島詣』というタイトルにはそぐわない。これは一つの推測として、『鹿島詣』は『笈の小文』と同様、未完の草稿だったと考えられなくもない。最初は仏頂和尚を尋ねて鹿島根本寺へ行ったところで終わにした。だが、旅の途中で詠んだ句を無駄にするのももったいない。すぐに『鹿島詣』というタイトルで構想を拡大し、使えそうな句をリストアップしたものの、結局断念して、巻末付録の発句集ををつけたような形で、とりあえず完成とした。そんな感じがしないでもない。巻末に日付が入っている以上、これはこれで完成だったのだろう。

 鹿島神宮は、伊勢神宮や出雲大社と並ぶ古い神社で、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祭神とする。武は「たけき」ということで、「みかづち」は「御(み)+雷(いかずち)」で、m'ikadutiとなる。

 武甕槌神は天孫降臨の際、大国主命と交渉し、国譲りをさせた軍神で、神武東征の際も、霊剣「ふつのみたまのつるぎ」でもって助けたという。雷はどこに落ちるかわからず、しかも落ちれば大木をも切り裂くところから、古代人にとっては畏敬すべきもので、きらきらと光り輝く剣の威力は、しばしば雷の力と結びつけて考えられたのだろう。今日のRPGゲームの主人公も、剣を使い、雷の属性を持つことが多い。

 歴史的には、東方の蝦夷との戦いの際の拠点だったことによるともいう。『万葉集』巻二十、四三七〇に、

 あられ降り鹿島の神を祈りつつ

    皇御軍(すめらみくさ)に吾は来にしを

                那賀郡上丁大舎人部千文

の歌もある。「あられ降る」は荒ぶるに通じるものか。

 もののふの矢並つくろふ籠手(こて)の上に

    霰たばしる那須の篠原

               源実朝

の歌も、こうした万葉集防人歌に基づくものだろう。

 鹿島は霊剣「ふつのみたまのつるぎ」を祭るということで、剣の神様ということで戦国武将に信仰され、神陰流(しんかげりゅう)も鹿島の神のおかげから来ている。徳川幕府もこの剣の神様を重視し、今に残る本殿も徳川二代目将軍秀忠によって作られたものだ。二〇〇四年放映のNHK大河ドラマ『新選組!』で、試衛館道場に鹿島神宮・香取神宮と大きく書かれた掛け軸が下がっていたが、これも鹿島神宮が剣の神様だということで、剣道の道場には付き物だった。このドラマの場合、近藤勇を演じる香取慎吾の後ろに「香取」の文字がかぶるようなアングルを多用し、ただでさえ近藤勇に見えない、と言われていた香取慎吾が、よけい香取慎吾に見えたりした。

 もっとも、風雅の徒で平和主義の芭蕉が、剣の神様に心惹かれたとは思えない。鹿島神宮は、他の神社がそうであったように、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説のもとに神仏習合され、神宮寺、根本寺、広徳寺の三寺が併設されていた。ただ、近世には唯一神道の影響が強く、芭蕉がまだ談林俳諧に熱狂していた延宝五(一六七七)年には境内にあった神宮寺と護国院を外に移していて、このことを『鹿島誌』は「寺院追放」としている。また、同行する曾良(そら)も吉田家の唯一神道と朱子学との融合を図ろうとする吉川惟足(きっかわこれたる)の門下生の岩波庄右衛門だった。芭蕉とは別に、曾良には独自の目的があったのかもしれない。

二、旅立ち

 「洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、『松陰(まつかげ)や月は三五(さんご)や中納言』といひけむ、狂夫のむかしもなつかしきままに、このあき、鹿島の山の月見んとおもひたつ事あり。ともなふ人ふたり、浪客(ろうかく)の士ひとり、ひとりは水雲の僧。僧はからすのごとくなる墨のころもに、三衣(さんね)の袋をえりにうちかけ、出山(しゅつざん)の尊像を厨子にあがめ入れテうしろに背負ひ、拄杖(しゅじょう)ひきならして無門の関(かん)もさはるものなく、あめつちに独歩していでぬ。いまひとりは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく、門よりふねにのりて行徳といふところにいたる。」

 洛というのは京都のことで、中国風にそう呼んでいる。 貞室というのは安原貞室(やすはらていしつ)のことで、慶長十五(一六一〇)年生れ、寛文十三(一六七三)年没。芭蕉が伊賀で俳諧に目覚め、寛文十二年に江戸に出てくるくらいまでは、まだ存命だった。

 これはこれはとばかり花の吉野山   貞室

の句は、『去来抄』でも不易の句の例として掲げられている。芭蕉にとっては若い頃の憧れの存在だったかもしれない。ただ、引用されている句は『玉海集』には、

    須磨の月見に赴きし比(ころ)、

    むかし行平卿の住みたまひし所やいづこと尋ね侍りしに、

    上野山福祥寺といふ。是いまの須磨寺なり。

    此の山の東の尾のつづき松一村侍るを、

    月見の松と名づけたまひしなど、人のをしへけるほどに

 松にすめ月も三五夜中納言    貞室

とあり、若干記憶違いがある。

 三五夜というのは十五夜のこと。六世紀の『荊楚歳時記(けいそさいじき)』には中秋の名月についての記述はなく、中秋の名月は唐の時代から広まったといわれている。十五夜のことを三五夜というのは、盛唐の詩人、白居易(白楽天)の詩に見られる。

   八月十五日夜禁中独直対月憶元九  白居易

 銀台金闕夕沈沈 独宿相思在翰林

 三五夜中新月色 二千里外故人心

 渚宮東面煙波冷 浴殿西頭鐘漏深

 猶恐清光不同見 江陵卑湿足秋陰

   八月十五日の夜、宮中に一人宿直し、月を見ながら元九を思う

 銀の楼台や金の門に夜はしんしんと更けてゆき、一人宿直しながらこの翰林院(かんりんいん)で君を思い出す。

 三五(さんご)十五夜のさなか月の色は鮮やかに、二千里彼方の古い友達の心になる。

 江陵渚宮(こうりょうしょきゅう)の東は水面の霧も冷ややかで、この宮中の浴殿の西は深々と漏刻の鐘の音を刻む。

 君のところではこの清らかな光が同じように見えないのではないかと恐れる、江陵の低地は湿潤な気候で秋の雲が朦朧としだす。

 中納言は在原行平(ありはらのゆきひら)のことで、在原業平(ありはらのなりひら)の兄でもある。『古今集』の、

 わくらばにとふ人あらば須磨の浦に

    藻塩たれつつわぶとこたへよ

                在原行平

という歌があり、そこからの連想からか、後世、弟の業平が東国に流されたように、行平も須磨に流され、そこで松風・村雨という二人の海女と恋に落ちたという伝承が生じた。 白居易の詩句に「三五夜中」とあるのに掛けて「三五夜中納言」と洒落ている。「松にすめ」も「松に棲め」と「松に澄め」とを掛けていて、このあたりは典型的な貞門俳諧の作風でもある。貞門俳諧は戦国武将の松永弾正の親類でもあり、藤原惺窩(せいか)門下の儒者でもある松永貞徳が始めた俳諧で、あくまで連歌の入門編として俳諧で、古典の本意本情の理解や、掛詞や縁語などの古典の基本的な技法を学ぶことを目的としている。そのため、俗語で落としてはいるものの、内容は古典に密着したもので、後に西山宗因という連歌師によって始められた庶民の生活をリアルに描き出す談林俳諧に席巻され、次第に時代遅れになっていった。既に一年前の貞享三(一六八六)年の春に古池の句を発表し、蕉風を確立した芭蕉にとっては、あくまで「むかしもなつかしきままに」だった。

 「鹿島の山」とあるが、山というのは別に高い山ばかりではない。江戸の上野山も山だし、大阪の天保山も山だ。鹿島神宮のある辺りも、そんな高いところではないが、一応山になっている。

 さて、そのあと旅のパーティーのメンバー紹介がある。「浪客の士」というのは曾良こと岩波庄右衛門のことで、『奥の細道』の旅の直前に髪を剃り、日光では、

 剃捨てて黒髪山に衣更   曾良

の句もある。この頃はまだ俗形で、浪士の格好をしていた。もう一人の「水雲の僧」は宗波のことで、芭蕉庵のそばに住んでいた僧だが、詳しいことはよくわからない。神道家の曾良の紹介がそっけないのに対し、宗波の紹介は『無門関』まで持ち出してかなり持ち上げている。この頃の芭蕉の神仏に対する比重がわかって面白い。

 そのあとの「いまひとりは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく」とあるのはもちろん芭蕉自身のことで、僧の格好をしてはいるがそうではなく、かといって俗でもないどっちつかずで、鳥でも鼠(哺乳類)でもないコウモリのようなものだと言っている。このあたりの自己紹介は、『野ざらし紀行』の「僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。」を踏襲している。

 さて、この三人のメンバーがそろったところで、貞享四(一六八七)年八月十四日(旧暦)深川より舟で旅立つ。深川の芭蕉庵は今の新大橋の南側にあったが、当時は新大橋はもとより、清洲橋も永代橋もなかった。

 寛永九(一六三二)年に既に小名木川、新川の水路が整備されていたので、おそらくそこを通って行徳に出たのだろう。この二つの川は中川によってつながっていて、当時は荒川に分断されることなく、旧江戸川に出ることができた。

 千葉の行徳はかつて塩田が広がり塩の産地で、江戸に塩を運ぶために海路が整備されていた。また、今日の行徳は江戸川の西側(東京側)にあるが、江戸川が今の位置になったのは大正八年のことで、それ以前の江戸川は今の旧江戸川の方へと流れ、行徳は川の東側(千葉側)にあった。そのため、行徳は成田山や鹿島参宮への入り口だった。また、芭蕉の時代はちょうど徳川幕府が六十年かけて利根川を改修し、ほぼ今日の形が出来上がった時期だった。中世までは、古利根川、渡良瀬川は別々に東京湾に注ぎ、鬼怒川はそれと交わることなく銚子のほうへと注いでいた。

三、鎌ヶ谷

 「ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまかいの原といふひろき野あり。秦甸(しんでん)の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。つくば山むかふに高く、二峰ならびたてり。かのもろこしに双剣のみねありときこえしは廬山(ろさん)の一隅也(いちぐうなり)。

 ゆきは不申(もうさず)先づむらさきのつくばかな

と詠(ながめ)しは、我門人嵐雪(らんせつ)が句也。すべてこの山はやまとたけるの尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付けたり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。」

 普段は街道の馬を利用することの多い芭蕉も、整備された五街道を離れると、馬が利用できなかったり、法外に高価だったりして、歩かざるをえなくなる。はっきりと芭蕉自身が「かち(歩き)」と書くのは実は珍しい。芭蕉というと、あの『奥の細道』をすべて歩いたと信じて、その健脚を讃えたり、あるいは忍者だったのではと疑う者も多いが、実は、はっきり歩いたと書いてある箇所は、『奥の細道』の本文はもとより、曾良の随行日記を見てもそう多くない。それでも芭蕉がいつも歩いていると信じる人が多いのは、結構みんな人がいいのだろう。私なんぞ疑い深いたちだから、そういうところで受けが悪いのかもしれない。ただ、この『鹿島詣』では、はっきりと「かち」と書いてある以上、この日に九里半の道を歩いたことは疑わないことにしよう。いつも歩いたと言うわけではないにせよ、健脚であることには変わりない。

 檜笠をくれた甲斐の国の人というのは高山麋塒(びじ)のことか。 高山麋塒は高山傳右衛門繁文という甲斐秋元家の家老だった。天和二年に芭蕉庵が火事になったときにもお世話になっているし、『野ざらし紀行』の旅の帰りにも、名前は出してないが、わざわざ甲斐に立ち寄っている。あえて、ここで甲斐の人を登場させるのは、名前こそ出さないものの、高山麋塒が今回の旅のスポンサーだった可能性が大きい。笠だけでなく、旅費なども出してもらったのだろう。この『鹿島詣』の直後に、芭蕉は『笈の小文』の旅に出るが、『笈の小文』でも磐城(福島県)平(たいら)七万石の城主左京大夫義泰の次男、内藤露沾(ろせん)が、旅のスポンサーとして紹介されている。

 さて、歩いて旅をすることになった芭蕉等三人は、行徳の船着場を上がると行徳街道を通り、「やはた」を経て「かまがい」へと向かう。この道は木下(きおろし)道と呼ばれていた。「やはた」は千葉県市川市の八幡。「かまがい」は今の鎌ヶ谷市になる。今ではすっかり住宅地だが、当時は広々とした野原が広がり、筑波山が見渡せたのだろう。 「秦甸(しんでん)の一千里」というのは『和漢朗詠集』の白居易の、

 秦甸之一千余里。凛凜氷鋪。漢家之三十六宮。澄澄粉餝。

 秦甸(しんでん)の一千余里、凛々として氷鋪(し)けり、

 漢家の三十六宮、澄澄(ちようちよう)として粉(ふん)を餝(かざ)れり、

から来ている。「秦甸」は秦の王都付近で広々とした場所だったようだ。

 筑波山は二つのピークを持ち、男体山、女体山と呼ばれている。廬山は海抜一四七四メートル漢陽峰を中心として、幾つもの峰が連なる連峰で、日本では清少納言の一発芸のおかげで香炉峰ばかりが有名になっている。その、当時よく知られていた香炉峰の詩は以下の通り。

   香炉峰下新卜山居 草堂初成偶題東壁  白居易

 日高睡足猶慵起 小閣重衾不怕寒

 遺愛寺鐘欹枕聴 香炉峰雪撥簾看

 匡廬便是逃名地 司馬仍為送老官

 心泰身寧是帰処 故郷何独在長安

   香炉峰の下に新らしい山居を定め、

   初めて草堂を建て、たまたま東壁に題す

 日は高く十分眠ったのに起きるのもおっくうで、

 小さな高殿も寝巻きを重ねれば寒さも怖くない。

 遺愛寺の鐘は耳を欹(そばだて)て枕で聞き、

 香炉峰の雪は簾を撥ね上げて見る。

 仙人の匡俗(きょうぞく)が住んだという廬山はまさに名利を逃れるのにふさわしい土地。

 司馬という役職も老後を過ごすにはうってつけの役目。

 心をゆったりと身も安らかにすればここが帰るべきところ。

 故郷は何で長安に限ることがあるか。

 実際には、廬山にはたくさんの峰があり、その一隅に双剣峰という二つの峰もあるらしい。廬山は山水画の題材としても有名で、たいていは詩人の李白が瀧を見ている、「廬山観瀑図」という題で描かれる。ただ、日本では誰も本物の廬山を見ていないため、山はたいてい雲に隠れたようにしている。芭蕉とて、別に廬山の形を知っていたわけではあるまい。

 二つのピークは陰と陽、男と女の連想を誘うもので、イザナギ・イザナミの国生み神話にもつながる。それは、芭蕉の信仰する道祖神にも通じるもので、芭蕉の愛用した文台(俳諧興行のときに主筆が用いる小型のテーブル)には、伊勢の二見が浦の夫婦岩が描かれていたという。人の住む大地が男女の和合から生れたと信じ、それゆえ恋を神聖なものとするのは、古代からの日本の伝統であり、若い男女が寄り集まって、歌垣(うたがき)を行ないそこで結婚相手を決める慣わしは、日本だけでなく、中国南部の少数民族の間にも広く見られる。いわゆるかつての江南の倭人の習慣だった。こうした場では男女が掛け合いで即興の歌を歌い、歌で口説く。連歌を「筑波の道」というのは、本来連歌が筑波山の歌垣(かがい)の際に男女が即興で歌の応酬をしたことから来たものだろう。『古事記』では日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征し、相模の国から甲斐の酒折宮(さかをりのみや)で、

 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる

と歌うと、そこにいた御火焼(みひた)きの老人(おきな)が、

 かがなべて夜には九夜(ここのよ)日には十日を

と歌ったという。これが連歌の起源とされていた。

 ゆきは不申(まうさず)先づむらさきのつくばかな

 嵐雪のこの句は、いわゆる天和調の漢詩文風の字余り句で、この頃は芭蕉も、

 櫓の声波をうって腸(はらわた)氷る夜や涙

 芭蕉野分(ばしょうのわき)して盥に雨を聞く夜かな

のような句を作っていた。破調とはいっても、たいてい最初の五文字を長く余らせ、そのあと七五できちんと収めることが多い。だから、たとえば伊丹流長発句の、

 田の中に棒の一本立ちたるは鵙(もず)をおどすか千の字か  馬桜

の場合も、上五が「田の中に棒の一本立ちたるは」と十七文字に伸びて、十七・七・五になったと考えればいい。(句の意味は判じ物で、田の中に棒が一本立っているのは鵙を威すための案山子なのか、それとも田の中、つまり十に棒を一本加えた「千」の字なのか、という意味。)そして、歌うときにはこの十七文字の部分を早口に一気に歌ったのだろう。そうすると、尾崎豊「Freeze Moon」や「卒業」の最後の部分のような切羽詰ったようなリズムが生じる。決して出鱈目に字余りにしているのではない。

 嵐雪の句の意味は、やはり筑波を廬山に見立て、白居易の「香炉峰雪撥簾看(香炉峰の雪は簾をかかげてみる)」を踏まえたもので、雪の筑波山の美しさはいうまでもないが、まずは雪のない遠くに紫に見える筑波山の美しさを賞味することにしよう、というものだ。

四、花野

 秋というと、かつては野に咲き乱れる花の美しい季節だった。秋の七草は春の七草より古く、既に万葉集に見られる。

    山上臣憶良(やまのへのおみおくら)、秋の野の花を詠める歌二首

 秋の野に咲きたる花を指折りて

    かき数ふれば七種(ななくさ)の花

 萩の花尾花葛花なでしこの花

    女郎花また藤袴朝がほの花

             (『万葉集』巻八、一五三七、一五三八)

 しかし、残念ながら、今日ではフジバカマはほとんど見られなくなり、絶滅が危惧されている。萩とナデシコは、園芸種として生き残っといて、オミナエシも今では種が売られていて、園芸種として生き残りを賭けているが、今ひとつ人気は延びない。「朝がほ」は今の朝顔ではない。今の朝顔は江戸時代に日本に広まった外来園芸種で、秋の七草の朝顔は、一般的にはキキョウのこととされている。ただ、キキョウは秋の草にしては咲く時期が早く、ムクゲのことだとする説もある。どちらにしても、今では園芸種となっている。

 これにくらべると、クズとススキはまさに雑草のたくましさで、今日も外来のブタクサやセイタカアワダチソウにも負けずに繁栄を極めている。クズに至っては今やアメリカを席巻し、グリーンスネークと呼ばれ恐れられている。 クズの根からは葛粉が採れ、1キロ三千円くらいの高価なものだが、製造に手間がかかるせいか、そこいらの雑草のクズが利用されることはない。

 「萩は錦を地にしけらんやうにて、為仲(ためなか)が長櫃(ながびつ)に折入れて、みやこのつとにもたせたるも、風流にくからず。桔梗(きちかう)・女郎花・刈萱(かるかや)・尾花みだれあひて、小男鹿(さおしか)のつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。」

 芭蕉もここで鎌ヶ谷の花野を美しく描き出しているが、当時の絵画でも秋の花野は好んで描かれた。昼間もいいが、夜の月の下で咲く萩ススキの姿は幻想的で、それに露が降りてきらきら光るさまは、昼間の苦しい現実をしばし忘れ、夢の国に迷い込んだかのようでもある。いかに現実が厳しくて、つらくて、きらめく露も朝にははかなく消えてしまっても、心の中の花を失わない、それが本来の日本人の心だった。残念ながら、戦前の軍国主義と戦後の会社至上主義の中で見失ってしまったようだ。

 「為仲(ためなか)が長櫃(ながびつ)に」というのは、鴨長明の歌書、『無名抄』に出てくるエピソードで、ある人から聞いた話として、橘為仲(たちばなのためなか)が陸奥國の守(かみ)として、東北赴任し、帰るときのエピソードとして紹介している。

 「此の為仲任果てて上りける時、宮城野の萩を掘り取りて、長櫃十二合に入れて持て上りければ、人あまねく聞きて、京へ入りける日は、二條大路に是を見物にして人多く集まりて、車などもあまた立てたりける」

 長い道のりも、花野に臥す鹿や馬に昔ながらの風流を感じながら、さぞかし会話もはずんだことだろう。

五、布佐

 「日既に暮れかかるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此の川にて鮭の網代(あじろ)といふものをたくみて、武江(ぶかう)の市にひさぐもの有り。宵のほど、其の漁家に入りてやすらふ。よるのやど、なまぐさし。月くまなくはれけるままに、夜舟さしくだして、鹿島にいたる。」

 木下(きおろし)道は銚子から江戸へ鮮魚を運んだことで、鮮魚(なま)街道とも呼ばれた。もちろん、銚子の海の魚だけでなく、利根川の川の魚も運ばれた。かつては、このあたりでも鮭が登ってきたりしたのだろう。

 木下道はその名のとおり、木下が終点で、そこからは利根川を船で下ることになる。しかし、行徳から九里半の道を歩いてきた芭蕉等一行は、このあたりで一泊して、翌朝のまだ暗いうちに船に乗って鹿島へと向かったようだ。布佐は木下より2キロくらい川上にある。木下はかつては対岸の布川への渡し舟が出ていて、常陸の国に入る関所の役割を担っていた。これに対し、利根川を登ってくる鮮魚を乗せた船は布佐を経由して、手賀沼に入り、船戸から松戸へと行くコースを取っていた。しかし、延宝七(一六七九)年、六軒堤ができ、直接舟が手賀沼に入れなくなったことで、木下と布佐の両方に河岸(かし)が形成され、その後、布佐─松戸ルートと木下─行徳ルートの二つの争いが始まった。芭蕉等がどのような理由で木下でなく布佐を選んだかはわからないが(あるいは鯉屋杉風の知り合いのつてでもあったか)、木下街道で来た場合、木下の手前の大森から左に折れ、当時できたばかりの六軒新田を通り、布佐へと向かったことになる。

 「漁家」に泊ったというが、これは漁師の家というよりは、魚問屋の家だろう。魚くさいのは仕方ない。おそらく芭蕉はこの頃から魚を絶ち、ベジタリアンになっていたため、余計その匂いが気になったのかもしれない。タバコをやめると、それまで当たり前だったタバコの匂いが今更ながらに気になるようなものだ。芭蕉晩年の元禄七年の俳諧に、

     抱き込んで松山広き有明に

 あふ人ごとの魚くさきなり   芭蕉

の句もある。海辺の月の景色に、そこにいかにもいそうな漁師や魚河岸の人たちの姿を「位(くらい)」で付けた名吟といえよう。あるいは、布佐で見たこの十四夜の月のイメージがあったのかもしれない。

六、鹿島の月

 「ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此の処におはしけるといふを聞きて、尋ね入りてふしぬ。すこぶる人をして深省(しんせい)を発せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるに似たり。

 あかつきのそら、いささかはれけるを、和尚起こし驚シ侍れば、人々起出でぬ。月のひかり、雨の音、ただあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月みにきたるかひなきこそ、ほゐなきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公(ほととぎす)の歌えよまでかへりわづらひしも、我がためにはよき荷担(かたん)の人ならんかし。

 おりおりにかはらぬ空の月かげも

    ちぢのながめは雲のまにまにまに

                        和尚」

 鹿島根本寺は聖徳太子の開基とも伝えられ、少なくとも鎌倉時代には存在していた古い寺で、鹿島神宮の本地の役割を果たす大寺院だった。しかし、鹿島神宮は吉田神道(唯一神道)の影響から、神仏分離を主張しだし、延宝五(一六七七)年には境内にあった神宮寺と護国院を外に移す、いわゆる「寺院追放」を行なった。おそらく、そうした動きの一環だったのだろう。徳川家康によって寄進された根本寺の寺領五十石を鹿島神宮が不当に占拠してきた。延宝二(一六七四)年、住職就任以来、そのことを寺社奉行に訴え、七年にわたる裁判の末取り戻したのが、ほかならぬ仏頂和尚だった。単に高僧だというだけでなく、政治的な手腕にも長けていたのだろう。 仏頂和尚はこの訴訟を終えたとき、頑極和尚に住職の座を譲り、隠居の身となった。

 仏頂和尚は寛永十九(一六四二)年常陸国の生まれで、八歳の時に鹿島根本寺に入り、明暦元(一六五五)年、十四歳の時に諸国を修行の旅に出た。その途中には栃木県黒羽の雲厳寺に山居し、芭蕉も『奥の細道』の旅の途中、そこに立ち寄り、

 木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立   芭蕉

の句を詠んでいる。

 芭蕉は延宝八(一六八〇)年にそれまで住んでいた日本橋を離れ、深川に隠居したとき、ちょうど近所の臨川庵(りんせんあん)で、訴訟中で江戸に出てきている仏頂和尚と出会い、参禅したと言われている。今度の鹿島詣も、鹿島神宮に参拝に来たというよりは、鹿島根本寺に参拝に来たと見たほうがいい。当時は神仏習合が当たり前だから、どちらを参拝してもいいわけだが、鹿島神宮が武道の神様ということもあり、鹿島神宮の方にあまり比重を掛けたくはなかったのだろう。

 お月見の方は、あいにく昼からの雨で、その夜は月を見れなかったが、明け方には晴れて、無事にお月見ができた。つきは既に西に傾くが、広々とした関東平野の中で懸かる山もなく、雲がさーっと切れてゆく中を地平線に月が沈んでゆく。当時の絵画であれば、草の中に銀を使って鏡のような月が沈んでいる様を描き、そこを白く幾何学的な雲の帯が流れるところだ。草や木にはまだ雨粒が残り、雫が水晶のようにきらきらと光り出す。そんな幻想的な光景には、言葉を失ったとしても不思議はない。

 「かの何がしの女すら、郭公(ほととぎす)の歌えよまで」というのは『枕草子』の九十九段「五月の御精進(さうじ)のほど」のことをいう。仏教では陰暦四月十六日から七月十五日までの間を夏行または安居といい、外出を断ち、教を読んだり、写経をしたりして過ごすのだが、それが退屈だったのか、清少納言ら四人は賀茂神社の奥のほうに郭公が鳴いているらしいという、いや、それはヒグラシだなどという曖昧な情報のもとに郭公の声を聞きに行く。途中、賀茂神社祭りに心奪われつつ明順(あきのぶ)の朝臣の家へ行く。そこでうるさいと思うくらいに郭公の声を聞くことになる。郭公というと、夜通し待って明け方にようやく一声を聞くくらい稀に聞く声なら有り難味もあるが、あまり普通に鳴いているとかえって興ざめだったのだろう。郭公の歌を詠めと言われても、どうにもうまく詠めず、主人自らが摘んだ下蕨(したわらび)を食べているうちに雨が降り出し、あわてて牛車に乗り込んで帰ろうとすると、なおも郭公の歌を催促するので、「さはれ、道にても」といってごまかして帰ってしまった。その後も会う人毎に郭公の歌はどうしたと言われるのだが、ついに詠めず、宰相の君に、

 下蕨こそこひしかりける

下句を出されたときに、

    下蕨こそこひしかりける

 ほととぎすたづねて聞きし声よりも

と返したりもした。この頃はまだ連歌の形式が確立されていた時代ではなかったが、こうした単発的な付け句の遊びは行われていたのだろう。

 おそらく、芭蕉は当初、この文章を仏頂和尚の歌で終らせて、自分はとうとう発句を読めなかったということにしたかったのだろう。森川許六編の『風俗文選』に収められている『鹿島紀行』はここで終っている。タイトルが『鹿島詣』ではないのも、ここまでだと鹿島神宮に行ったという記述が全くないからで、当然と言えよう。

 おりおりにかはらぬ空の月かげも

    ちぢのながめは雲のまにまにまに

                        和尚

この歌については、特に説明の必要もあるまい。

七、月見の句

 ここから先は句のみが連ねられていて、本文はない。「いふべきことの葉もなし」と言い、清少納言の郭公の歌ができなかったエピソードまで持ち出しながら、ここで芭蕉の発句を出すのは、収まりが悪いので、発句部分は後で追加したのだろう。

 月はやし梢は雨を持ちながら   桃青

 寺に寝てまこと顔なる月見哉   同

 雨にねて竹起きかへるつきみかな   ソラ

 月さびし堂の軒端の雨しづく   宗波

 名前は「芭蕉」でも「はせを」でも「翁」でもなく、本来の俳号である「桃青(とうせい)」の名が用いられている。今では松尾芭蕉というのが一般的だが、正確には芭蕉庵桃青が正しい。

 「月はやし」の句は、『鹿島詣』の本文を読んで状況がわかってないと、わかりにくい句ではある。普通に読もうとすると、「月はやし」はもだ宵のうちで、まだ月が昇るのには早いという風に読まれかねないし、また、月があっという間に西に傾いてしまったという意味にも取れなくもない。そうなると、下七五とのつながりがわからなくなって、謎句となる。状況がわかっていても、「月はやし」はそうわかりやすい言い回しではない。仏頂和尚の歌の「くものまにまに」あたりから、雲がさっと流れてゆく中に見える月が、あたかも月がすばやく動いているかのように見えるというのだろう。そこに、もうこんな夜更けで月もあっという間に傾いてしまったのかという意味を重ねてもいい。「梢は雨を持ちながら」は、木の枝に残った雨粒が、風が吹くたびに散って、あたかも雨が降る中に月を見ているかのようで、雫が月に光り、幻想的な風景を生み出す。言葉足らずで、やや言いおおせぬ感じが残念な句だ。この句が完全に仕上がっていたなら、この『鹿島詣』の後半の文章も書かれていたことだろう。

 「寺に寝て」の句は、榎本其角編の『続虚栗(ぞくみなしぐり)』に、「鹿島に詣でける比、宿根本寺」という前書きが付けられ、収録されている。これは、鹿島根本寺まできて、本当に月を見たんだ、という句。「まこと顔なる」が俳言になっている。

 曾良の句は、「雨に寝て」を自分が雨が降って寝たのと、竹が雨に打たれてしな垂れているのとの両方の意味を掛けたもので、明け方になって月が出て飛び起きたように、竹もすっと身を起こしている情景を描いた句だ。なかなか技ありの句である。

 宗波の句は、お寺の堂の軒端から雨粒が滴り落ちているのを見ながらの月は淋しいという句で、「さびし」は、

 月さびよ明智が妻の咄(はなし)せん   芭蕉

のように、光を落とすという意味もある。この場合も、月が淋しげだというだけでなく、明け方の朝の光で、月の光がかすれてゆくというニュアンスが込められている。曾良や宗波の句にくらべても、芭蕉の句が低調な感じがする。芭蕉が後半部分を書けず、句を連ねるだけで終らせたのは、結局そういう事情だったのだろう。

八、鹿島神宮

 今回の鹿島詣はあくまで根本寺の仏頂和尚の訪問がメインだが、ここまで来て鹿島神宮に参拝せずに帰るのもばちが当るというものだろう。神道家の曾良も黙っちゃいない。そういうわけで、一応鹿島神宮の三人の吟が記されている。文章はない。

   「神前

 此の松の実ばえせし代や神の秋   桃青

 ぬぐはばや石のおましの苔の露   宗波

 膝折ルやかしこまり鳴く鹿の声   ソラ」

 芭蕉の句は、神前の松の古木なのを見て、この木が芽を出した頃は神代だったのではないかという句。最後の「秋」はそれほど必然性はないが、付け句などではよくこういう放り込みの季を付ける。芭蕉にしてはやや理に走った句で、季がうまく入らないのを何とかまとめたという感じがしないではない。鹿島神宮の方は、芭蕉としてはどうでもよかったのだろう。

 宗波の句は鹿島神宮の要石(かなめいし)を詠んだもので、「石のおまし」は正確には「石の御座(みまし)」で、『夫木抄』に、

 尋ねかね今日見つるかなちはやぶる

    み山も奥の石のみましを

                    光俊朝臣

の歌もある。明神が天より下って、この石の上で座禅したという伝説がある。この石は鹿島神宮の奥宮の裏にあり、これが奥宮の本当の御神体ともいえる。折から秋で露が降りていて、苔むしているのを見て、これをきれいに洗ってやりたいと詠む。宗波は仏者ながら、単なる武神としての鹿島ではない本来の鹿島神宮の姿をよくわかっている。

 曾良の句は、境内の鹿の伏す姿が、いかにもかしこまって神の前に跪(ひざまず)いているように見えたのだろう。鹿島は語源的には「香島(かぐしま)」で、天の香具山と同様、山の神を祭るところからきていた。御神体の要石も、そうした天から降りてきた山の神を祭るところからきている。それが、大和朝廷によって、天皇を中心とした神話を編纂する際、天孫降臨に結び付けられ、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を祭るようになったのだろう。鹿を神の使いとする信仰も、おそらくアイヌのイヨマンテで熊を祭るようなもので、狩猟の対象だった鹿の繁殖を願い、母鹿を射た時はその小鹿を拾ってきて育て、そして、最後はそれを生贄に捧げ、祈ったのだろう。仏教と習合したことで、生贄の習慣も廃れ、ただ境内に長閑に鹿を遊ばせておくようになったのだろう。奈良の春日大社の鹿、(奈良公園にいる、修学旅行生から鹿せんべいを強奪しようとするあれ)も春日大社が鹿島神宮の武甕槌大神を祭ったことによるもので、鹿島神宮の神鹿が春日にやってきたという伝承もある。神鹿は白い鹿で、ジブリのアニメのシシガミ様を思わせる。

九、田家

 以降の句は、『鹿島詣』の配列を旅の順序通りものだとすると、帰り道で詠んだことになるが、必ずしも順序通りと考える必要はない。

   「田家

 かりかけし田面(たづら)の鶴や里の秋   桃青

 夜田(よた)かりに我やとはれん里の月   宗波

 賤(しづ)の子やいねすりかけて月をみる   桃青

 いもの葉や月待つ里の焼(やけ)ばたけ  同」

 「かりかけし」の句は昼の景色の句で、月の句ではない。この句はおそらくは利根川沿いの田家で、鹿島周辺の風景だろう。鶴の飛来は晩秋から初冬のことなので、この場合はコウノトリのことか。当時、鶴とコウノトリはかなり混同されていたし、芭蕉の句でも混同が見られる。ただ、

 梅白しきのふは鶴をぬすまれし   芭蕉

 松島や鶴に身をかれほととぎす   曾良

といった句もあり、前者は春になると鶴が帰ってゆくことを、後者でも夏の鶴が季節外れなことを知っていなければ、その面白さが伝わらないところから、混同していたのではなく、コウノトリを鶴に見立てて詠んでいたと見た方がいいのかもしれない。

 「夜田かりに」の句。普通稲刈りは夜にはしない。穂がこぼれても暗くてよく見えないし、刈り方も雑になりやすい。独り者で人手が不足していたり、病気だったり、何かやむにやまれぬ事情で稲刈りが遅れたときに限られる。そういう事情であれば、たまたま訪れた客が手伝わされても不思議ではない。まして名月を見ながらとなれば、喜んで引き受けたいという句だ。実際に夜田刈りをやったのかどうかはわからない。あるいは後に出てくる自準亭での挨拶句か。

 「賤の子や」の句は、農家の子が稲の籾摺(もみす)りをやりかけたが、その手を止めて見入っているという情景の句。絵が浮かんでくるようで、

 鞍坪(くらつぼ)に小坊主のるや大根引   芭蕉

の句にも匹敵する佳句といってもいいだろう。風流の心を起こし、ふと仕事の手を休めるというパターンは、後に、

 鴬に手もと休めむながしもと   智月(『続猿蓑』)

の句も生んでいるし、新選組副長土方歳三の、NHK大河ドラマにも登場した、

 うぐいすやはたきの音もつひやめる   豊玉

の句もこの系統のものか。

 当時の籾摺りは土摺臼(どずりうす)という、竹で編んだ円筒形の容器に粘土を詰め、それを回転させるやりかたが主流だった。棒が両側に飛び出していて、それを二人がかりで回していた。一人では回せないので、子供が手伝わされたりしたのだろう。これも自準亭に宿泊した時の句か。

 「いもの葉や」の句は、焼畑の芋畑を見たときの印象の句で、ここでいう芋は里芋のこと。月見の時に、昔は団子ではなく里芋を供える風習があり、「芋名月」という言葉もある。この芋の葉の下には、名月の夜の供えられる里芋もまた月を待っているのだろうという句。焼畑は山や台地などに作られるもので、おそらく木下街道で見た風景だろう。「月まつ里」とあるように、十五夜の前、つまり行く時に詠んだものと思われる。

 この四句は昼の句もあれば夜の句もあり、田んぼの句もあれば焼畑の句もあるところから、一度に詠まれたものではなく、旅の間に詠まれたものを「田家」というタイトルのもとに並べたと見たほうがいいだろう。

十、野

   「野

 もゝひきや一花摺(ひとはなずり)の萩ごろも   ソラ

 はなの秋草に喰ひあく野馬哉   同

 萩原や一よはやどせ山のいぬ   桃青」

 「ももひきや」の句は、萩咲く野を歩いていたら、花の汁が股引に付いたのを、昔の摺衣(すりごろも)に見立てたものだろう。単なる染みも、萩の摺衣だと思えば、何とも風流なアイテムに早変わりする。

 摺衣というのは布に染料を擦り付けただけの原始的な染物で、奈良時代には既に廃れていたが、東北の蝦夷の間ではまだ作られていて、みちのくのしのぶもぢ摺りは、在原業平も狩衣に用いたりして、一時期流行したようだ。今でいえばエスニックファッションともいえよう。

 「はなの萩」の句は、花より団子ではないが、馬は花に目もくれず、一心不乱に草を食んでいるのを見て、あらためて花の心がわかるのは人間だからだと逆説的に述べた句だろう。芭蕉の『笈の小文』には「心花にあらざる時は鳥獣に類ス」とある。また、

 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり   芭蕉

の句もある。

 「天高く馬肥ゆる秋」という言葉もあるように、秋は冬に向けて草を食いだめする季節。乱世であれば戦(いくさ)に備えるということだが、平和な江戸時代ではただ喰い飽きるだけ喰って、長閑なものだ。「花の春」という言葉はよく使うが、「花の秋」とは、まさに草を腹いっぱい食べた馬のためにある言葉なのかもしれない。

 春の花は桜のことだが、秋の花は七草をはじめとして多種多様な花の咲き乱れる美しさをいう。それは同種のものの一方的な勝利と繁栄ではなく、多様なものの共存の美しさでもある。春の命の勝利は一時のもので、生きとし生けるもの、死を避けることはできない。すべて等しく死すべき存在であることを悟った時、そこに争うことをやめ、ともに風雅の世界に遊ぶ道が生れる。「遊び」とは生存競争の軍縮であり、決してサボったり怠けたりいるのではない。放置しておけば生存競争は終わりのない軍拡競争に陥り、人生はぎすぎすとした息の詰まるものになってしまう。それを避けるために、たとえ未開の民族といえども祭りがあり、歌があり、踊りがあり、遊びがある。

 この世に生れたすべての生き物は、子孫を残すことで命をつなぎ、死んでゆく。ただ、どんな生き物も、親と同じ数だけの子しか作らないなら、途中で何らかの理由で子孫を残せぬものがいれば、次第に先細って絶滅してしまう。そのため、生き物は子孫を絶やさないために、常に多めに子孫を殘そうとする。そうしたものだけが生き残る。しかし、有限な地球で常に過剰な数の子孫を残そうとすれば、生存競争は避けられないものとなる。有限な地球で、無限の生命は不可能だ。すべてはあまりに単純な理窟で成り立っている。

 確実に生きながらえ、子孫を残すには、一番いいのは平和である。戦わなければ命を落とす心配もない。しかし、絶えず有限な地球で子孫が等比数列的(鼠算式)に増え続ければ、争いは避けられない。そして、戦いに明け暮れ、無駄に命を落とし、大地は悲しみに満ち溢れる。

 人生で本当に大切なことは、結局一つしかない。それは生存競争に対する目覚めた意識だ。生存競争がいかに避けられないものであっても、戦いに浮き身を費やすことを悲しいと思い、そこから遁れたいと思う。平和で、誰もが皆等しく生きられるような、そんな世界を夢見る。

 それは月夜の下の花野に降りる白露の、朝にはかなく消えてゆくような夢かもしれない。朝が来ればいつもの生活が待っていて、そこで人は日々の生きるための戦いに勝たねばならないのかもしれない。それでも人は夢見続ける。人生はその遥かな夢を求めては彷徨い傷つく、そんなあてどもない旅の繰り返しかもしれない。そして、歴史もまた、遥かなユートピアを求めてはさ迷い歩く、その繰り返しかもしれない。それでも、傷つくことを恐れてはいけない。それが人間である証しなのだから。

 「萩原や」の句は、山の犬であっても、萩原に一夜は宿をとらせてくれ、という意味で、『泊船集』には、

 狼も一夜はやどせ萩がもと   芭蕉

の別バージョンもある。ただ、「山の犬」は狼のこととしてもいいが、当時は既に生類憐みの令も始まっていて、犬を躾けているつもりでも、虐待していると誤解されてつかまってもしょうがないからというので、飼っていた犬を野に放つ人が後を絶たず、野犬が社会問題になっていた。そんな世間から捨て去られた身の上を、俳諧師として低い身分のもとに生きる自分の姿に重ね合わせていたのかもしれない。狼のことだとすれば、花の心のわからぬ禽獣であっても、一夜はここに泊めてやってくれという意味になる。飢えた狼のように修羅の道に生きる人も、この萩原に寝れば、花の心に目覚めてくれるかもしれない。まあ、そう簡単ではないが。

十一、自準(じじゅん)亭にて

   「帰路自準に宿(しゅく)ス

 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すずめ   主人

 秋をこめたるくねの指杉(さしすぎ)   客

 月見んと汐引(しほひき)のぼる船とめて   ソラ」

 この三つ物(発句、脇、第三の三句からなるもの)の主人である自準については、大垣藩士で潮来に隠棲していた本間自準という説と、行徳在住の小西似春(じしゅん)だという説とがある。しかし、本間家には『鹿島詣』の真跡が伝わっていて、それが秋瓜本(宝暦二年刊)となっている。これは佐藤清一氏蔵本と同系統のものとされている。もしかりに、これらの句が旅の順序通り連ねられているとしたら、鹿島神宮を参拝し,帰り道にふたたび鎌ヶ谷の花野を通って、行徳まで戻ってきたところでの三つ物と考えられなくもない。しかし、これらの句はどうも必ずしも順番どおりではないようなので、最後に潮来の本間亭での句が来たとしても、何らおかしくはない。おそらく、根本寺で一夜を明かした後、鹿島神宮を参拝し、その夜潮来に立ち寄ったものと思われる。

 発句は自準のもので、宿の主人の挨拶にふさわしく、藁を干してあるこんな田舎の家に泊まっていきなさい、というもの。芭蕉ら一行を雀に例えている。 雀の子は春だが、単に雀だけなら無季。「藁を干す」は稲刈りの後の情景で、秋の季題となる。俳諧興行などの時は、客が挨拶して、主人が脇を務めることが多いが、ここでは特に興行というわけでもないので、ごく普通に会話を交わすような感じでこの三つ物が出来たのだろう。

    塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すずめ

 秋をこめたるくねの指杉(さしすぎ)    芭蕉

 脇は芭蕉の句。「くね」というのはくね垣のことで、低い生垣のこと。そこに杉が植えてあって、いい香りがする。そこには主人の優しい心遣いが感じられますという意味も含まれる。

    秋をこめたるくねの指杉(さしすぎ)

 月見んと汐引(しほひき)のぼる船とめて    曾良

 第三は曾良で、秋の発句の場合は定座を繰り下げて、第三で月を出すことが多い。秋は五句まで続けることができるのだが、百韻などの長い形式を別にすれば、五句目いっぱい連ねることは稀で、五句目の定座に月を出そうとすると、名月ではない別の季節の月にしなくてはならなくなる。もちろん、脇に月を出してはいけないということはない。発句が秋で夜分(夜の句)の場合、夜分を三句続けることができないので、脇に月を出してもいい。

 第三は末尾を「て」か「らん」で止めることが多い。もっともこれは規則ではなく、あくまで習慣的なものにすぎない。脇の体言止もそうだが、これは俳諧興行の時に最初から句が滞ってしまうのを防ぐため、ある程度はマニュアル的にささっと進める必要があったからだろう。「らん」の場合は疑問・反語という全く逆の意味に取り成せるため、次の句が付けやすいし、「て」の場合も、前句(脇)が原因で何々してという句に、それ(第三)が原因で次の句に続くようにつければ、容易に展開できる。曾良のこの句も、杉を植えた生垣に誘われて舟を止めてと付く。これを和歌の形に直すと、

 月見んと汐引(しほひき)のぼる船とめて

    秋をこめたるくねの指杉(さしすぎ)

となる。上句と下句が倒置の関係になり、「月見んと汐ひきのぼる舟とめて、秋をこめたるくねのさし杉(に)」となる。次の句(四句目)は、舟を止めてどうしたというようなことを付ければいい。本来なら、これに四句目が付き、興行が始まるのだが、ここでは三句で終わり。これを三つ物という。

 こうして、『鹿島詣』の旅は、自準という風雅の友とも出会い、目出度く終了ということになる。花野の月の心よ、永遠に。

参考文献

 『鹿島神宮』東(とう)実、1968、学生社

 『歴史の中の鹿島と香取』宮井義雄、1989、春秋社

 『利根川木下河岸と鮮魚街道』山本忠良、1982、崙書房

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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